下土井 お福さま Mrs Ohukusama


 三浦貞勝の妻のお福(⓵549―1643年?)が 高田城落城後 下土井に疎開して、院政を敷いていた。「下土井定の坊の村人のより口伝」 お福は お鮮Osenとか 太万Oomanと  呼ばれました。太万は 大万の書き間違いから始まった名前ですが、思い違いが そのまま後世に 伝えられました。大万は 高貴な女性とか 天下万民と言う意味です。お福の出生 没年などは 不明ですが、一説によると 天文18年(1549年)三浦氏(鷹取氏とか船津氏とも言われます)一族の娘として生まれ、1559年 美作 高田城主 三浦貞勝に 嫁ぎ、桃寿丸Toujyu-maruを 生みました。三村家地親との戦いで 三浦貞勝が 自決し果てると、20歳の頃 縁者の牧藤左衛門 江川小四郎らに 導かれ 桃寿丸と 共 に お福は 加茂村下土居(現在の下土井)の母方の縁古Enko土井家に 落ち延びました。美人の誉れ高いお福の噂は 備前沼城主の宇喜多直家の知るところとなり、沼城に 招かれ 永禄10年(1567年)乞われて 宇喜多直家と再婚し、天正元年(1572年)宇喜多八郎(秀家)を 出産しました。羽柴秀吉(豊臣秀吉)が  高松城を攻撃していた頃、宇喜多直家は「しりはす」という、悪性腫瘍で 天正9年(1581年)に 死亡しました。直家は 死の数ヶ月前、沼城で  羽柴秀吉に 八郎を引き合わせていました。天正10年(1582年)羽柴秀吉が 備中松山城を 攻める折 岡山城に度々訪れ お福の美しさに 女好きの本性を出し、宇喜多八郎が 元服した祝いに 猶子Yuusi(軽い繋がりの養子)とし、秀家と 名乗らせ お福を 秀吉の側室にしました。お福は 高田城の復興の約束を 秀吉にさせましたが、桃寿丸は 震災で 無き者になりました。悲しみを癒すため 美作湯原温泉に 籠もりました。秀家は 秀吉に 庇護され、天正14年(1586年)秀吉の養女の前田利家の娘 豪姫を 正室に迎え、四国攻め 九州攻め 小田原攻め 朝鮮攻めで 大活躍して 5大老の一人に加えられました。

秀吉の養子で、秀家が殺されず 重用されたのには お福の影響が 大きかったのでしょう。お福は 秀吉の死後は、備中の地で 尼僧になり 円融院Enyuu-inと 名乗りました。秀家が 関ヶ原の戦いで 副大将として敗戦し、その責任を 問われ 八丈島に 流された事を知らず、天正20年(1592年)に 他界したと言われます。岡山城下 三勲小学校東の高台の「塔の山」に 「おふく」の墓とされる 五輪塔が あります。宇喜多直家が 岡山城拡張の障害となった 蓮昌寺を 内山下から 森下町に移しましたが、移転先の跡地だと  言われます。「お鮮さまの墓」とも言い、墓の主は「法鮮」で、この墓は 岡山市の重要文化財に 指定されています。この墓の主とお福が 同一人物であるかは 定かで有りません。

ofukusama.exblog.jp/11457009」「rss.exblog.jp/rss/exblog/ofukusama/index.xmlhttps://ja.wikipedia.org/wiki/円融院」「https://ja.wikipedia.org/wiki/宇喜多秀家https://ja.wikipedia.org/wiki/豪姫

横山様の駐車場に おふくの方さま顕彰碑が 平成25年9月に 建てられました。お福が下土井に 住んでいたとされる事は 俄には信じられませんが、完全に 不定する事もできません。   高田城勝山城大総山城大都夫良山城夥山城勝山陣屋:真庭市勝山 北緯35度5分23秒東経133度41分35秒    おふくの方さま顕彰碑:北緯35度52分36秒東経133度45分48秒 横山斎場隣地の駐車場    下土井勝山城:山端 北緯35度52分406秒東経133度45分40秒  平成23年(2011年)11月9