豊野 刎田 太平記の中の田中藤九郎 Toukurou Tanaka in Taiheiki "record of the great peace"


 南北朝時代元弘の乱に関する太平記の一場面に吉備中央町の刎田城田中氏の奮戦ぶりが記載されていますので現代語に翻訳してみました。赤松軍が 元弘3年(1333年)3月12日の合戦に 勝てそうもないと悟ると 引き退いたので、鎌倉幕府軍は 勝の勢いに乗じて 数千人の敵を 討ち取りました。しかし、幕府は「辺り は騒然としており、更に剰Amatusae山門(寺)も また 幕府に敵対して 大岳に篝火Kagaribiを焼き、坂本(坂のたもと)に勢力を集めて、尚も六波羅へ詰め寄っている」と 言う報告を聞いて、衆徒の者達の心を得ようとして、大庄十三箇所を 山門へ寄進し、その他に 祈祷の為と称して 宗徒の衆徒に 便宜の良い地の12箇所を 恩賞として与えました。それ で山門の衆徒は議心(身分の高い者に対する罪を減ずる)の気持になって、幕府に 心を寄せ 心変わりした衆徒 も多く出て来た事と 八幡 山崎の官軍は 先程の京都の合戦で 討ち死した者、或は疵Kizuを負う者多かったので その勢力は 太半(大半・約半分)に 減っていて、現在は 僅に 一万騎に足りませんでした。然しながら 幕府軍の軍立Gundati(戦いぶり)や 京都の形勢は 恐れるに足りないと 見通して、七千余騎を 二手に分けて、4月3日(元弘3年/正慶2年 1333年)の卯刻に 再び 京都へ押寄せました。その一隊は 殿法印良忠中院定平を両大将として 伊東 松田 頓宮 富田判官の一党 並真木 葛葉の溢れ者共を加へて その勢力は 都合、三千余騎で、伏見と木幡に火を懸けて、鳥羽 竹田より推し進みました。もう一隊は 赤松入道円心を始めとして、宇野 柏原 佐用 真嶋 得平 衣笠 菅家 田中の一党 都合 その勢力 三千五百余騎は 河嶋 桂の里に火を懸けて、西の七条より進軍し 敵陣に迫りました。南北両六波羅軍は 度々の合戦に 打ち勝っていたので 兵は皆 意気を上げていた上に その勢力は3万騎余を数える程の大軍でしたので「敵が迫って来た」と 報告されても 驚きの表情も見せず、六条河原に 勢汰Seizoroe(集合)して 落ち着いて 手の者を分けました。「山門は 今は 幕府軍に心を許し味方すると言うけれども、何かの野心を 隠し持っているか解らないので 油断ならない」と 疑って 河原へ兵を向かわせました。「去月12日の合戦も、官軍より 勝っていたので、これが 吉例である」と いって、河野陶山に 五千騎を相 副えAi-soroeて 法性寺大路へ差向かわせました。富樫 林の一族 島津 小早河の両勢に 国々の兵の六千余騎 を相 副えて 八条東寺辺りへ差し向かわせました。厚東加賀守 加治源太左衛門尉 隅田 高橋 糟谷 土屋 小笠原に 七千余騎を相 副えて 西七条口へ向かわせました。自余(その他)の兵千余騎は 悪手(首尾が悪かった時)の為に残して、そのまま 六波羅に並び居りました。その日の巳刻より、三方ながら 同時に闘い始めて、入れ替り入れ替わり、責Semeたて戦いました。官軍は 騎馬の兵は少なく、足で立って 弓を射る者が多かったの で小路 小路を塞ぎ、鏃Yjiriを調べてSirabete(調子に乗って)散々に射かけました。六波羅勢は 歩兵は少なく 騎馬の兵が多かったので、懸違えKaeritigae(掛かっては  交代し)して、敵を自軍の中に 篭めkomeようとしました。孫子千反の謀Hakarigoto呉子八陣の法は 互に知りつくしていて これらを 互いが駆使し戦い合ったので、共に破れず、囲い込む事も出来ず、只 命も縮まる思いの戦になって 更に 勝負も尽きませんでした。終日戦って、已sudeに夕陽となる時、河野と陶山とは 一手に成って 三百余騎が 轡(Kutuwaを双naraべて打ち懸ると、木幡の寄手は 足をもためず(走る速さを落とし余力を残す余裕もなく)攻め立てられ、宇治路を 目指して引き退きました。陶山 河野は 逃げる敵を追わず 打捨てて、竹田河原を 直違Sujikaiに 鳥羽殿の北の門を打ち廻り、作道へ駆け出て 東寺の前の寄手を 取り篭めようとしました。作道十八町に充ち満ちていた 寄手達は これを見て、とても叶わないと思い 羅城門の西を横切って 寺戸に向けて引返しました。小早河は 島津安芸前司と 東寺の敵に向って、追つ返しつ 戦いましたが、河野と陶山が来ると、自分の陣に 篭もらせていた(囲んでいた)敵軍を 河野 陶山に預け「身方が負けた事を 無念だ」と 思いながら「西の七条へ寄てくる敵と 花やかなる対戦でもして ひと暴れしたい」と 言って、西八条を上り 西朱雀へと出ました。此に対 し赤松入道には 屈強の兵が多くいて、三千余騎となって布陣すると、左右無くSaunaku(あれこれ考える必要もなく)破れそうに有りませんでした。しかし 幕府軍の嶋津と小早河が 横合に現れると、戦い疲れていた六波羅勢も 勇気を取り戻し、三方より 赤松軍に襲い掛かりました。この時には さすがの赤松勢も支えきれず、陣形は崩れ 忽tatimatiniに開き靡いてHiraki-nabiite(散り散りになって押し流され)て 三ヶ所に退却しました。爰kokoに 赤松の勢の中より 兵四人が進み出て、敵の数千騎の中へ無是非(ぜひもなく・仕方なく)打懸りました。彼等の決然とした姿は、恰もAtakamo 樊噌Hankai項羽Kouuが 忿ってIkatteいる形相よりも 勝っていました。その内の一人は、近づいて見れば 背丈が七尺許りBakariの男で、髭Higeは 両方へ分けていて 眥Manajiri(目尻)は 逆に裂sakeており、鎖の上に 鎧Yoroiを重ね着し 大立挙Oodatesage(鉄製で 膝頭から 大腿部の外側を覆った)の臑当Suneateに 膝鎧Hiza-yoroi(大腿部に装着する防具)を付けて、竜頭の冑Ryuuzu-no-Kabutoを 猪頚I-no-kubiに吊るして、五尺余りの太刀を持ち、手本から二尺の許Tokoroを円くしてある八尺余の八角の鉄尖棒Kanazai-bouを軽々と持っていました。hikaeへていた数千の六波羅勢は、彼等四人の有様を見て 戦意を失って、三方へ分れて 退きました。敵を招いmaneiて、彼等四人は 大音声を揚げageて名乗のりました。「われらこそは、備中国の住人 頓宮又次郎入道Hayami-Matajirou-nyuudou 我が子息孫三郎並びに田中藤九郎盛兼Tanaka-Toukurou-Morikane 同 舎弟 弥九郎盛泰Yakurou-Moriyasuと言う者なり。我等父子兄弟 少年の昔より勅勘武敵Tyoukan-buteki(天皇から咎め〔とがめ〕られた軍事的な敵)の身と成っていた  その間は 山賊を業Nariwaiとして 人生を楽しめり 然sikaruniに 今ここに 幸にもこの乱が起こり、忝くkatajikenaku(恐れ多くも)も 万乗(天皇)の君に 味方しようと 馳せ参りたり 然sikaruniに 先程の合戦で、指したるsasitaru戦いもしない内に 味方が敗れた事は 我等の恥である 今日の所は 縦Tatoe、御方が負けたのだから 一端引けと言おうとも 引ける筈Hazuもない 敵が いかに強くとも 敵の中を突き破って通り、六波羅殿と 直に対面し 討ち取りたいと存ずる」と 広言(Kougen(偉そうな言い分)を吐いて 仁王立ちに立ちました。島津安芸前司は是を聞いて、子息二人の手の者と共に四人に向って「日比(Higoro聞いておる通り、我等は 西国一の強者Tuwamonoなり  彼等四人を 討つため 大勢で掛かるのは 不本意だ  近くの兵を且くSibarakuここから離し置き(離れて)各自の敵と戦わせよ  我等父子三人、意見が合って(意見にズレがあって)進み出るか 尻込みするか 暫くは悩んだのだが どうして四人を討たずまま 済ます訳にはゆき申さん  例えどんなに強くても 身に矢の刺さらぬ事はない  例え どんなに速くとも 馬より勝るまい  多年の稽古の犬笠懸Inu-kasagake(犬を使った騎乗して矢を射る競技)、今の用に立たぬなら 一体いつ役に立つ  出ideよ 出deよ 出よ 不思議な程の戦いを、我等 皆に見せつけん」と 名乗り上げました。侭にmamani(成り行きに任せ)に 唯Tada(他の者を伴わず)三人は 見方の中から 抜け出して、四人の敵に 相(敢然と)立ち向かいました。田中藤九郎は 是を見て「其名はいまだ 聞き知らないが、勇気有る者と 見た わしが 御辺Sonataを生虜Ikedoriて、御方Sonataを味方に成して 敵と戦わそうと存ずる」と あざ笑って、例の金棒を打ち振って 悠々Yuuyuuと歩み近付きました。島津も 馬を静々と歩ませ寄せて、矢を放つのに 丁度良い距離に 移って、先の島津安芸前司は 三人でないと引けない程の強弓に 十二束三伏(12拳と3本指の長さ)の矢を 番えtugae、且Sibarakuし 矢を引き絞り丁と放ちました

其矢は過たず、田中の右の頬前を冑の菱縫Hisinui(組紐によるX形の綴じ飾りの板へ懸けて、篦No(矢の竹の部分)は 中まで 急所を貫き通しました。痛手を 負って弱り、さしもの大力ではありましたが 目が眩み(くらみ進む事も出来ませんでした。舎弟の弥九郎が走寄り、其)矢を抜いて打捨て「君後醍醐天皇の御敵は 六波羅である  兄の敵は あの偉そうぶっている奴である  生かしてはなるものか」と 言うと その直後、兄の金棒を拾い上げて 振り回すと、頓宮父子も 各五尺二寸の太刀を手元に 携え、小躍Ko-odoriしながら 後に続きました。嶋津は 前々から 馬上から矢継ぎ早に矢を射る事に慣れていたので 少しも騒がず、田中が 前に進んで掛かって来ると、あいの鞭Ai-no-Muti(丁度良い間合いの鞭)を打って 馬を走らせ押掛けて振り向きざまに、はたと(急に)射かけました。田中は 妻手(左手)へ廻り 逃げようとすると、弓手(右手)を越しに 丁と矢を放ちました。西国に  この者に勝る者等いないと名の轟くtodoroku打物(刀、薙刀、槍等)の上手と、北国の並ぶ者なき乗馬の達人との 追いし返しつの 熱戦を 邪魔する者はなく、前代未聞の戦いを 見極めたいと 固唾Katazuを飲んで 見守るばかりです。そうこうしている内に嶋津の矢種が 尽き果てて、打物同士の闘いに成る他無くなると、角(尖った物・金突棒)相手では  嶋津の勝利は 無理だと思えられました。朱雀の地蔵堂より 北に引き退いていた小早河は「嶋津 危うし」と みて、二百騎程の軍を ドーと敵軍深くに攻め込み懸らせると、田中の後に 続いていた赤松の兵達は バツと引退いたので、田中兄弟 頓宮父子の四人は 孤立し 恰好の標的になり、鎧の透間Sukimaや 冑の中に おのおの矢の二三十筋を 射立てたれました。目が暗むと 太刀を逆に付きて、皆 立ったまま死にました。見る人  聞く人 後世までも 惜ま(Osimaない者は 有りませんでした。五月雨の降りし昔を音立てて、なくか矢倉の山ほととぎす

太平記:日本の歴史文学・全40巻 後醍醐天皇の即位から鎌倉幕府の滅亡 南北朝分裂 観応の擾乱 2代将軍足利義詮の死と細川頼之管領就任迄の文保2年(1318年)から貞治6年(1368年)頃迄の約50年間を描いた軍記物語    田中籐九郎盛兼:羽田城 矢倉城 等の城主 下市一里塚の側に 供養碑が立ちます。    中弥九郎盛泰:田中弥九郎盛兼の弟で、元弘の乱に 従軍した 佐用範家 妻鹿孫三郎長宗 粟生右馬守師時 田中藤九郎盛兼 田中弥九郎盛泰 頓宮又次郎入道 頓宮弥三郎員利等は 赤松八大力と 総称された剛の者です。4月 久我畷合戦で 騎乗の名射手 佐用範家が 鎌倉軍の大将 名越高家を射つと、鎌倉軍壊滅が 始まりました。田中兄弟頓宮親子は この戦いで討ち死にしました。   頓宮又次郎入道:南朝方赤松則村配下で、京都で討死しました。頓官父子 並び に田中兄弟は 上房郡豊野(賀陽地区)の者で、田中氏は枡形山城(矢倉山畦城主)です。 頓宮hayami氏は 地元を離れ 町境の龍王山城(浅口市鴨方町六条院西 北緯34度30分3秒東経133度35分11秒)にいたと言われます。又次郎の供養塔(あるいは墓)は浅口市六条院向月の城殿山(北緯34度30分27秒東経133度34分32秒)の寶篋院塔です。ハヤミ様と尊崇されます。ハヤミを 歯病みに通じるので 歯痛に 霊験があると 信じられています。    頓宮孫三郎・頓宮弥三郎員利:頓宮又次郎入道の子で、京都で 父と共に討死しました。 下市一里塚:豊野下市からげ65番地に有りました。現在は豊野保育園の北 北緯34度51分59秒東経133度41分44秒 田中藤九郎の供養碑が 立ちます。   甘ろげる:厳しさや正確さを欠かせる。 子が千反の謀:孫氏の全ての兵法の総称です。 呉氏が八陣の法:鶴翼の陣 魚鱗の陣 方円の陣 衡軛Kouyakuの陣 鋒矢Housiの陣 偃月Engetuの陣 雁行の陣 長蛇の陣の総称です。     矢倉:納地1594(北緯34度50分31秒東経133度41分38秒)番地等  平成24年(2012年)4月2日