腹切り八幡 Hatiman's harakiri "cutting open the abdomen"


小森二川の川の中に 腹切り岩があると 言われます。小森城山に 城があった頃、伊賀修理が 敵に 囲まれた折り、八幡太郎が 山に 畳を敷いて 滑り降り、小森川の川中にある腹切り岩の上で  切腹したと 伝えられています。切腹した辺りを 八幡淵と 言います。「加茂川町史」 茂川町史に 記載のある腹切り岩は あるにはありますが、小さい岩で 洪水でもあれば 流されそうな大きさで、実際に 昨年の嵐で 少し位置を 変えました。腹切り岩は 小森城山の頂上付近の小森川側にあり、山肌に 突き刺さるような 上方面が 平らな巨岩です。この石の上で  船型に加工した畳を 敷き 八幡が 切腹し、その後 誤って 山肌を 麓迄 滑り落ちましたました。滑り落ちた所に 仮の墓を立て 後に 切腹岩の近くに 祠を建てました。この戦いで 名はわからないのですが、馬上の武士が 岩に 躓き落馬し 討ち取られたと 言い伝えられています。此れとは 別の話ですが、かつて 八幡淵の辺りで、諍いIsakai事が あり 数人の死人が 出たと言われます。元伊賀十三流の子孫の小森双六の村人より口伝」

 森清山に登ってみると 古老の言う形の大岩と 八幡の墓があり、その真下の畑跡に 古老の言う形の八幡の仮の墓が 見つかり、小森温泉前の駐車場に 馬が躓いたという岩も 桜の木を添えて 半分ほど 埋もれていました。天正8年(1580年)上加茂合戦では 小森城は 戦わずに毛利軍明け渡し 焼き払われたと 伝えられます。それ故 その時全ての古文書等の歴史的資料は 悉く失われたそうです。「小森二川の村人のより口伝」 川の中で 腹を切ったのであるなら、城主の命乞い等を 敵の大将にお願いしようとしたのでしょう。お城で 腹を切ったのであるなら、何か 大失敗して 責任を取ったか、城主の無血開城の命令に 抗議するために切腹したのでしょう。

 昔 小森城は 織田信長と 同盟した岡山城宇喜多直家の家老の 虎倉城の伊賀久隆の支配下にありました。城主は 伊賀修理でした。その配下に忠節で心高い部下に八幡太郎Hatiman-tarouと言う侍が いました。天正8年の春に 宇喜多直家に 裏切られ 怒った毛利輝元は 凡そ30000の兵で 虎倉城に 向かって進軍をしていました。八幡は 敵兵の斥候が現れると 察知し、城山の麓を 警備していました。すると案の定 敵の斥候が 八幡渕に 潜んでいるのを発見し八幡の率いる兵が 襲うと敵は 逃げました。すかさず 斥候を警護していた敵の騎兵軍が 攻めかかると 八幡配下の者は 蹴散らされました。八幡は 部下を守るために 敵兵群に切り込み八幡大菩薩を 彷彿させるように 鬼神の如く敵兵を 次々に 追い払うと、敵将の騎兵は 部下を守るために 大岩 を飛び越え 八幡に 挑もうとしました。

しかし 焦りのあった敵将は 馬術の心得を過信し 大岩に 馬の脚を取られ 馬が転倒しました。その勢いは凄まじかったので 勇猛名で 鍛え抜かれた その武士の首の筋肉であっても 重い兜を 支え切れず 不幸にも兜ごと 頭を地面に 叩き付けられました。一瞬 眼が晦んだ隙に 八幡は 敵将を 組み伏せ、必死に 抵抗する敵将の首を 搔き切りました。敵将の首を持って修理に戦況を報告し、籠城し 徹底抗戦し 毛利軍が虎倉に向かうのを阻止すべきと 進言しましたが、修理は 意外にも無血開城し 虎倉城に 篭もると 言ったのです。八幡は現実に 成功した戦術を 示し 再び抗議しますが、修理は 虎倉城の城主 伊賀久隆の命令には 逆らえないと 言うのです。八幡は この作戦に 納得できず、櫓の前の大岩に 船型に 加工した畳を敷いて 切腹し 城主の意向に抗議しました。切を切って 目が眩む と重心を失って 畳の船は 大岩から 山肌に落ち、敵軍の襲来に 備え 樹木を切り 見晴らしを 良くしてあった急峻な山肌を 辷りSuberi落ちて行きました。それでも 八幡の願いは 叶わず、修理軍は 城の者 里の者を 引き連れ、武器や 食料となりえる物 全てを携え 虎倉に向かいました。久隆の作戦は 図星を得て、農兵中心のおよそ15000の虎倉勢の兵は 毛利の大軍に 大勝利しました。そして  戦いが終わると 村人達は、優しく 面倒見の良い八幡の無念を思い 八幡を悼み、俄造の墓を立て、後に 焼け落ちた城山を 整地し 腹切り岩の近くに 墓を移し 葬りました。それからは 村人は 燈明を 絶やす事なく、また毎年正月には打ち揃って参りするようになり、その習慣は 現在も 続いています。「加茂川町史」元伊賀十三流の子孫の小森双六の村人より口伝」「小森二川の村人のより口伝」「上加茂合戦」を 基にした物語です。

小森城山頂上:北緯34度54分5秒・東経133度47分57秒    腹切り岩:北緯34度54分59秒・東経133度48分0秒    八幡の墓:北緯34度54分59秒・東経133度47分59秒    八幡の仮の墓:北緯34度54分59秒・東経133度48分3秒近く    馬の躓き岩:北緯34度55分2秒・東経133度48分1秒近く    八幡淵:北緯34度55分6秒・東経133度47分56秒付近    加茂川町史で言う腹切り岩:北緯34度55分6秒・東経133度47分54秒    八幡大菩薩:武神 神道の応神天皇 八幡神社の主祭神の本地仏 平成23年(2011年)7月19日