田土 神原惣右衛門 Souuemon Koubara


天正12年(2010年) 豊臣秀吉の天下取りが 成就すると、高梁川を 京都と 芸州の国境と 決められ、伊賀家久は 先祖からの領土を 失い、幼い弟の伊賀太郎次郎伊賀久隆の子とも)を 神原惣右衛門久重に 託し、芸州に 落ちました。僅かWazuka三百石故に、家臣を 養う能力はなく、家臣は 帰農したり、かつて 虎倉伊賀久隆の主君であった 宇喜多氏に与しkumisiました。

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天正13年(2011年)の頃 神原惣右衛門は 小谷城森大蔵に 城を譲らせ、太郎次郎を 城主に立てようとしましたが、森大蔵が 頑として 拒否しました。神原惣右衛門は 主君に対する恩知らずに 怒り、小谷城を 攻め、森一族を 滅ぼしました。神原惣右衛門の子孫によって、山裾に 社を建て 森大蔵一族の霊を「大蔵大明神」として 祀りました。小谷城を 落としたのは安藤伊賀守であるとも 言われます。「上房郡史」「kibi2011.blog81.fc2.com/blog-category-6.html

太郎次郎は 宇喜多氏に 敵視されるのを畏れosore、地名を 姓にし、神原太郎右衛門久良と 名乗りました。久良を 神原太郎左衛門久好とし 湯山庄屋であったとする人が 居ります。「湯山yuyama町matiの村人より口伝」                                                               

神原家の3代目 神原吉益の頃 洪水が起こり 隠居所の円福庵 冶左衛門等の墓も 流され疫病が 流行ったので 大蔵の祟りと信じ、吉益は 祈祷を受け 円福庵を再築し、供養塔を立て 大蔵大明神として 祀ったとされます。「湯山yuyama町 matiの村人より口伝」

神原家2代目の神原冶左衛門久益は、川合山の石の宝殿を 現在の川合神社の地に 移したとされます。隠居後 安藤姓を 名乗りました。3代目 神原弥衛門吉益(神原治左衛門宅益)は 足守藩の知行百石の士分で、大筒二挺と 長柄槍二十本を 木下家 へ献上(木下様の雨乞いの筒)したとされ、安藤家は 江戸時代中期頃から 代々、湯山庄屋を務め 酒造業を営んだと 伝えられます。川合山の石の宝殿を、現在の川合神社の地に移したのが 伊賀守とする意見も有ります。 「湯山yuyama町matiの村人より口伝」

神原家には 横部神原家(安藤神原家)と、御北Oki ta神原家とがあります。安藤神原家は 伊賀太郎次郎(神原太郎右衛門久良)の子の冶左衛門久益を初代とし、神原弥右衛門吉益 神原弥右衛門久吉と 家系を継ぎました。城の北に 家来が住むと 城が栄えるとの信仰から、神原惣右衛門は 小谷城の北 に屋敷を構え 御北神原家を興しましたが、その子供の次に 家系を継ぐ者が 無く神原弥右衛門吉益を養子に迎え、神原宗衛門と名乗らせました。しかし、家系の空白を 埋める必要が生じ、神原太郎右衛門久良を 神原太郎左衛門久好とし、神原冶左衛門久益を 神原冶左衛門宅益とし 家系に組み込み、宅益を初代としました。両家は 家系が絶えると 養子を出し合い、時に対立し、また団結を繰り返したそうです。

「湯山町の村人より口伝」

太郎次郎(神原太郎右衛門久良)は 14歳で元服し、子を儲けると 直ぐに仁熊に移り住み、後に隠居すると古々呂Kokoroに移り、子を儲けたとされます。隠居所を 建築する際、古々呂の石垣は 造ってもすぐ壊れたので、御北神原家の者を 人柱にしたと されます。「湯山町村人より口伝」

田土古々呂2905番地(北緯34度51分33秒東経133度44分22秒)のお宅の南側の石垣に 人柱の碑があったと 伝えられますが、石垣が補修された折り に取り払い、2905番地の東の山際に祠を建て、金神を 祀ったとされます。「田土ココロの村人より口伝」

 

 田土 御北神原家の野望  Ambition of Okita-Koubara family

虎倉城主の伊賀久隆は 備前国の宇喜多領の約3割を 統治めていて、戦国大名 岡山城宇喜多直家の屋台骨を 支える 忠実な第一の家臣であり、宇喜多氏には 無くてはならない存在でした。宇喜多直家が 尻蓮Sirihasuに罹り 病状が悪化し続けると、後継者の次男である久家は 自分より少しばかり 頼りない所がると思っていたので、宇喜多家の先行き に不安を抱きました。いよいよ 寿命が尽きると悟ると、美しい妻お福に 好色の眼を向けていた 上司の羽柴秀吉に「わしが 死んだならばら、妻と 息子 を取り立てて欲しい」と 懇願し承諾を取り付けました。それでも心配なのは、天正8年(1580年)4月14日に 上加茂合戦で、約2倍の勢力の毛利三軍を 迎え討ち 加茂崩れさせた 伊賀久隆の存在です。「松田氏 浦上氏 三村氏を 卑怯な手段で 滅ぼした 下剋上Gekokujyouの手練手管の裏表を教授していたので、もし 自分がしたように あの有能過ぎる久隆に 下剋上を 仕向けられたら、ましてや 毛利氏と 手を結ばれたら 必ずや 宇喜多家は 伊賀家に乗っ取られる  現に上加茂合戦の戦後処理で 自分より伊賀氏は 良い待遇を 毛利氏から 受けた  ならば目の黒い内に殺し、伊賀氏の領土を 取り上げよう」と 考え「忠実に感謝する  喜び事がある」と 妹 即ち久隆の妻に 口添えさせ、久隆を 岡山城に 呼び出しました。まさか 妻が 直家の悪計に 加担しているとは知らず、酒宴の席で 毒を盛られ暗殺されました。久隆の子の家久は「宇喜多直家は あの上加茂合戦に も援軍を送らなかった  我が陣営の第一の有力な部下で、上加茂合戦に於いて一番の功を挙げた 新山氏Sinzan-ujiに 癖(を付け 新山Niuamaから追放した  伊賀家を潰そうとしている」と 思い、岳父 明石行雄の勧めと 小早川隆景の誘いに応 じ虎倉城を捨てて 親戚筋の吉川氏を頼り 千木へ移り住み、後 吉川に移り 小早川隆景配下となりました。備中高松城が 陥落し、毛利氏と 織田氏の国境が 定まると 家久の殆どの領土は 織田氏の領土となり 部下を失い、更に 不運が続き 小早川氏に従がって 安芸国へ旅立つ事になりました。まだ幼い久隆の弟の伊賀太郎次郎を 大原城を護る神原惣右衛門に預け、寂しく 吉川の地を離れました。

神原惣右衛門は 伊賀家頭首となった太郎次郎に 城を持たせようと、天正13年(2011年)の頃 小谷城の森大蔵Mori-Ookuraに 城を譲るよう 迫りました。森大蔵は「落ち目になった伊賀氏に 忠義を尽くすのは 馬鹿馬鹿しい  第一この地は 鉄の生産で潤っているのに、それに見合う代わりの領土も 与えられないのでは 城は明け渡せない」と 頑として拒否しました。神原惣右衛門は 主君に対する恩知らず に怒り、小谷城の北の山に 伏して機を見て 大蔵の館である 横部屋敷を襲い、大蔵を殺した後 直ちに小谷城に攻め上がり 大蔵一族の男を 一人残らず殺し、女子供Onna-Kodomoを捕え 他国に追放し、太郎次郎を 横部屋敷(安藤屋敷)に 住まわせ 小谷城城主としました。惣右衛門は 製鉄の地を得た 太郎次郎が 富と兵力を蓄え 伊賀家中興を 目指すと 期待していたのです。太郎次郎の名前のままでは 宇喜多氏に 伊賀家復興を試みるとみなされ、敵視されるのを畏れ )地名を姓にし 神原太郎右衛門久良と 名乗らせました。久良は 農業を営み 百姓として 暮らしを立てようとするので、惣右衛門は 久良を伊賀家頭首として 伊賀家復興をさせる事を諦め 大原城を子に任せ「北に家来が住めば 主家が栄える」との理由を付け 小谷城の北に館を構え、御北神原家を 興しました。

そして 鉄の生産 武器の生産を 願い 金山毘古神Kanayama-hiko-no-kami 金山毘女神Kanayama-hime-no-kami と 国津神でありながら天津神である天稚彦命Ameno-wakahiko-no-mikotoの喪屋を蹴散らした味耜高彦根大神Ajisuki-Takahikone-no-ookami)を祀る 稲荷神社を建て、主君 久良に 伊賀家復興の覚悟を見せました。しかし  惣右衛門の志に反し 一向に 伊賀家復興に興味を示さない久良を14歳で 元服させ、子を儲けると 直ぐに仁熊に 移り住まわせ、後に 久良を隠居させると 古々呂に移し、子を儲けると子に 安藤と名乗らせ、安藤伊賀家(横部伊賀家)を 興させ、久良の隠居所を 建築し始めました。しかし 古々呂の石垣は 造ってもすぐ 壊れたので「伊賀家復興を望まないために神が怒っている  神の怒りを鎮めるため、殿を支える我が 家より出す生贄Ikenie)が必要だ」と して 御北神原家の者を 人柱にしました。久良は 惣右衛門の忠義に折れ、渋々 古々呂の傍らに戦いの神 摩利支天を 祀ると 神の怒りが解けたのか 石垣は崩れず 隠居所は完成しました。惣右衛門は 久良の子 久益に 川合山の足仲彦尊Tarasi-nakahiko-no-mikoto 氣長足姫尊Okinaga-tarasi-hime-no-mikoto) 譽田別尊Hondawake-no-mikotoを祀る 石の宝殿を 現在の川合神社の地に移させ 戦の神 八幡神を 久良の嫡子 安藤神原家初代の神原藤冶左衛門久益 に信仰させましたが、久良も 久益も 挙兵する姿勢を 見せませんでした。惣右衛門は 主家になり変わり、自分が 伊賀家頭主となり 伊賀家復興を 目指す覚悟を決め、造酒屋Tukuri-zakayaを営み 村長Muraosa庄屋)になり 財を蓄え、砂鉄を 用い武器を整え事に 備え始めました。しかし 財を成す事に 成功しましたが、その惣右衛門の子供の次に 家系を継ぐ者が無くなる と両神原家の最長老の身分と、潤沢Jyuntakunaな資金によって 御北神原家は安藤神原家の2代目(久良から3代目・久良の孫)神原弥右衛門吉益を 養子に迎え、御北神原家を 伊賀一門の準宗家と成し、吉益を 神原宗衛門と 名乗らせました。結果として 御北神原家が 横部神原家を 乗っ取った格好になったのです。更 に付け加えると 家久亡き後 家久の子の才法師の行方がわからなくなると、伊賀家頭首となったも 同然でした。

御北神原家の家系に 空白が生じる結果となったため 空白を埋める必要が生じ、神原太郎右衛門久良を 神原太郎左衛門久好とし、神原冶左衛門久益を 神原冶左衛門宅益とし 家系に組み込み 宅益を御北神原家の初代としました。処が3代目神原吉益の頃 鉄穴流しKannna-nagasiで荒れた川は 時の大雨で氾濫し 洪水が起こり、代々 横部神原家隠居所とした 円福庵と 円福庵周囲に有った 冶左衛門宅益の墓を始め 一族の墓、家来達の墓が 諸共流され、その上 疫病が流行りhayariました。祈祷すると 大蔵の祟りと神託されたので、吉益は 円福庵を 川合山の麓Humotoに再築し、横部屋敷の北の鼻(大蔵鼻)に 森大蔵の供養塔を立て大 蔵大明神として祀り、大蔵の祟りを 鎮めようとしました。

すると 流行病は 終息し 豊作となり、平安が戻りました。この時点で 事実上御北神原家は 横部神原家の家系を引き継ぐ事に成功し 伊賀家復興を実践できる体制になりましたが、時は 既に遅く 戦国時代は終わっており、惣右衛門の野望は 絵に描いた餅Motiに 終わりました。その後 両家は 家系が絶えると、養子を出し合い 時に対立し、また 団結を 繰り返したそうです。 「湯山町の村人より口伝」「田土ココロの村人より口伝」「伊賀久隆」「伊賀家久」「横部神原家家系図」」「御北神原家家系図」「安藤神原家の方の話し」を 基にした物語です。   

岡山城:岡山市北丸の内2-3-1番地 北緯34度39分56秒東経133度56分10秒    虎倉城:山市北区御津虎倉 北緯34度50分13秒東経133度50分2秒    備中高松城:岡山市北区高松 北緯34度41分35秒東経133度49分19秒   

大原城:下竹荘黒土土生 北緯34度51分24秒東経133度43分47秒    小谷城:湯山下ヶ原 北緯34度51分7秒東経133度44分19秒    北に家来が住めば主家が栄える:仏教の北の守護神 毘沙門天(びしゃもんてん)を意識しているのでしょう。    宝殿:宝物を収納する建物や神を祀る建物や施設を言います。    金山毘古神・金山彦神:鉱山の神 荒金の神で、鉱業 鍛冶等金属に関わる技工や繁盛のご利益が有ります。 金山毘女神・神大市姫神・神直毘神kaminaobinokami:金山毘古神と対で祀られる鉱山神、荒金の女神です。    味耜高彦根大神:大国主命宗像三女神田霧姫命の間の子で、農業の神 雷の神 不動産業の神で、ご利益は所願成就 商売繁盛 五穀豊穣 豊漁祈願 等です。妹の夫で天神である天稚彦(あめのわかひこ)の喪屋を切り倒しました地祇です。  

  北の鼻・大蔵鼻の供養塔・大蔵大明神:森大蔵の供養塔とされ、北緯34度51分6秒東経133度44分18秒にあります。森大蔵の供養塔(宝篋印塔)には 天正7年(1579年)の年号が 刻まれていますが 伊賀家久が 毛利輝元から 周防国長門国に 新たに 300石が 与えられたのは   天正13年(1584年)2月です。 尻蓮肛門から下痢便がでる様に 潰瘍化した病巣から 出血を伴う膿が出る 蓮華状の悪性の腫物の事です。尻にできるできものの一種とも(尻蓮根Siribasune)されます。   御北神原家稲荷神社:神道系稲荷神社には 稲荷神を一般的には 祀ります。金山毘古神 金山毘女神 味耜高彦根大神を 祀る 稲荷神社は 極めて 稀でしょう。    古々呂:田土2905番地の辺りの地名 虎口に 向かう路 神原太郎右衛門久良の隠居の地と される 古々呂です 田土2905番地(北緯34度51分33秒東経133度44分22秒)のお宅の南側の石垣に 人柱の碑があったと 伝えられますが、石垣が 補修された折りに 取り払い、2905番地の東の山際 に祠を建て、金神を 祀ったとされます。西の山の中に 横部神原摩利支天宮が 建ちます。原摩利支天社:本来は 日天子の守護神です。切れ味の良い剣の神の経津主命Hurunusi-no-mikoto 雷神であり剣の神の建御雷命Tsake-mikaduti-no-mikotoを配神として 戦いの神 勝負の神として 信仰されました。古々呂摩利支天社は 立派ですが、御北摩利支天社は とても貧弱です。   川合神社:川合山の東の麓 田土川合3113番地 及び 湯山川合山2番地 北緯34度51分28秒東経133度44分17秒   

旧円福庵跡:川合神社から南に進み Y字路を分岐側に入り橋を渡り、次の交叉点の近く 北緯34度51分19秒東経133度44分20秒に 建ちます。地蔵堂 何やら墓石らしい石碑 淡島宮 恵美須宮が 祀られています。墓石様の石碑は 安藤神原家の墓跡に有った物を移し 円福庵跡地の標しとした物と されます。    川合山の麓の円福庵:延宝元年(1673年)の洪水で 円福庵諸共 神原冶左衛門久益等の墓が 流されたので、その後に 松を植え 石碑を立て、川合山の麓 神原冶左衛門 が隠居宅を構えていた所 北緯34度51分19秒東経133度44分15秒に 移築しました。この円福庵は代々、安藤家の隠居場となり、神原冶左衛門木像が 祀られていまそうです。南西部分にあった建物 は昭和中期に消失したと 言われ、その後は 墓場群の南西に 広い平坦地として 残ります。周囲に 安藤神原家の墓地が 築かれており、休心僧侶が 守っていたとされます。    久良の仁熊の屋敷跡:田土3085番地の隣の道を 北に登ると、右手に墓場があり、その墓場の最奥(東奥)北緯34度51分33秒東経133度44分32秒に2基の墓が立ちます。自然石の墓が 久良の墓と されます。この辺りが 屋敷跡と 言われます。遠景に 田土藤沢城山が 見渡せます。    平成26年(2014年)8月18日