竹部 鳴滝の雨乞い Pray for rain at Naru-taki water fall


江戸から昭和初期に鳴滝に祀られていた山上大権現神変大菩薩 役行者)に2回雨乞いがなされ、霊験あらたかでした。江戸時代のいつごろか解りませんが 多分嘉永7年(1854年)の旱魃の後の雨乞い祈祷と思われますが、竹部に大雨が降り 川下の田内に向けて 雨水が流れ下りました。すると 天神社の末社の杉神社から 赤い牛に跨った神が 濁流を食い止め、水を干上がった田に引いてくれました。「鳴滝で出会った村人より口伝」 竹部では 旱魃になると天神社に集まり 雨乞いをしました。天神社には 神輿が二つあり 一つは雨乞い用で飾りが殆どありません。天神社で雨乞いしてもご 利益が無い時は 雨乞い用の神輿を担いで 大小戸井堰に行き、神輿に水を掛けたり井堰に憑けて 雨乞い祈祷をしました。それでも ご利益が無い と鳴滝に神輿を担いで行き 滝に打たせ 雨乞い祈祷したそうです。昭和初期を過ぎると 雨乞い祈祷をしなくなったそうで、現在 神輿は朽ち果てかけています「竹部田内で農作業をしていた人より口伝」 

大小戸:竹部418-419番地 田内:竹部1601-1684番地 

      

鳴滝の山上大権現物語 story of Sanjyou-Daigongen in Naru-taki

 嘉永7年(1854年)の竹部は 大変な旱魃で 鳴滝の落水も チョロチョロ 落ちるだけとなり 渓谷の大岩も干からび 枯れた水蘚で 白く変色しました。

竹部周辺の者は 困り果て、伯耆大山Houki-Dai-sen雨の種を頂き、重友山法福寺の住職と 天神社の宮司に 頼み 鳴滝の神変大菩薩(山上大権現)に 祈願し 雨乞いをしました。2週間程 続けられた祈祷で 村人も 住職も 神主も 思考できない程に 疲弊しました。すると 大きな地震が起こり、投打川も 加茂川も 液状化し 田は赤土で盛り上がり 川の流れが 遮断されました。夜になっても 寝るに 寝られない村人は この異変 に困惑しましたが、山上大権現が その夜に 村人達の朦朧(とする脳裏に 現れ「これも 天神社のご利益じゃ まもなく 天神社の菅公Kan-kou(雷神)罔象女神Mizuha-no-me-no-kami(水神) 龍神(水神) 天穗日命(稲の神 日の神)  須佐之男命(暴風雨の神 災難除けの神と 協力して雨を降らして やろう 心安く眠られぇ」と 告げたのです。すると 多くの水や 日の神仏が 協力したので 大変な豪雨と なりました。今度は 村人は 川の氾濫を 心配しました。すると 赤土の上には 天神社と 杉神社の神々が 乗り 濁流を受け止め 村人達の田に振り分けていました。中でも 菅公の姿は 真に赤い牛にまたがり 鬼神の振舞いの様だったそうです。大雨が 止み 水流が戻る頃には、赤土や 大風で 散った大量の木の葉は 田畑に真配られMakubarare(均等に配られる)よい土壌と なりました。「鳴滝で出会った村人より口伝」を 基にした物語

 菅公:菅原道真公菅原道真命(Sugawara-no-Dpusin-kou Sugawara-no-Mitizane-no-mikoto)学問の神 雷神等 宝福寺:もと竹部本堂(北緯34度49分8秒東経133度46分22秒)に本堂が有ったようです 天正の頃 上加茂合戦の作戦上 寂れ朽ち果てかけていた本堂を 焼いて、伊賀軍の陣か 本堂にあるかのようにみせかけ 攻め来る毛利軍を 欺いた とされます 再築された寺は 北緯34度50分50秒東経133度46分55秒 上野ueno重友sigetomo 423番地に 建ちます  乗木山妙福寺の管理下に 有ります 天神社:北緯34度50分41秒東経133度47分24秒 竹部下ノ谷761番地に位置し、祭神は 天穗日命 須佐之男命 菅原道眞 菅原后媛大神Kisaki-hime-no-ookamiです。    杉神社:北緯34度49分57秒・東経133度47分31秒に有ります。天神社の摂社です ご祭神は 杉大明神(天御中主神Ame-no-Minakanusi-no-kami 岡家女神罔象女神 五帝龍神)です  鳴滝の山上大権現:鳴滝森林公園内 北緯34度49分22秒東経 133度46分33秒  平成23年(2011年)9月8日