吉川 藤田 クラミ坂 Slope where defeated soldiers had eyes blurred as with hunger

向山古墳    藤田集落の北東部 吉川坂2572番地の西の山道を進み 吉川2572番地の北の墓地の北 北緯34度48分54秒・東経133度44分18秒に 石組みに石柱を立てた 遺構が有り、古墳で あるとされます。かつてこ こ等辺りに 点々と宝篋印塔と 多くの五輪塔が有ったそうです。道の拡幅工事等の理由で ここ等より 藤田上橋の西の変則四差路の一番南の分岐を 南に行き 直ぐ道なりに西に 曲がった所の右手の墓場の東隣地 北緯34度48分56秒・東経133度44分9秒に 集められました「藤田の村人より口伝」。 この藤田の地で 天正2年(1574年)備中兵乱の折り、伊賀軍毛利方と 三村軍備中松山城が 激しく戦い 敗走し、目が眩む程に 空腹に苦しんで 坂を登った 三村軍に多くの戦死者を 出したとされるので それらの兵の供養塔なのでしょう。この藤田から 西山に登る坂が くらみ坂で 藤田の住民は クラミ坂と呼びます。付近に 戦いに 関りそうな地名が 有ります。

鋒の乢の供養碑    藤田集落の藤田上橋で 東に加茂川を渡り、吉川阪2572番地の北に回る道を東に進むと三叉路となり、そこから 北に向かうと 左手奥に墓場が 見えます。この道は そのあたり で舗装が途切れ 山道になります。右手を見ながら登ると 峠になる手前 北緯34度49分0秒・東経133度44分22秒と 想像するあたりに 首塚石碑が 見つかります。南無妙法蓮華経二人🔵首塚 七月十三日 🔵永と 読み取れますが、他の刻字は 読み取れませんでした。安永の頃 池田光政は 徳川幕府政策と 自らの小神社小寺合祀廃寺政策に基づき 日蓮宗不受不施派を 弾圧しました。藤田村の者は 不受不施派でしたので 村の宗教指導者3名が 捕縛されました。椎木村の沼田庄屋が 岡山藩に対し〔3人がいないと 藤田村の営農が 成り立たないので 赦免して欲しい〕と  願い出ましたが、処刑された」と 藤田の村人は語りました。この時の犠牲者の供養碑が 鋒の乢の供養碑でしょうか。

坂:吉川2457・2569-2572番地    クラミ坂:吉川2493・2680番地等 倉見等の地名は陽の照り具合に関わる地名とされます。黒見の転訛であれば 砂鉄が取れたのでしょう。    鐙坂:吉川2267・2269・2308・2309番地 吉川八幡宮の黒山から遷宮の折り 神馬の鐙が 落ちたと伝説されます。    釼持・剣持堅・物・ケンモツ・堅モツ:吉川1914・2052番地等 八幡宮の大祭の時、その 地の鋒を 迎えに行く途中の峠を 鋒の乢と呼んだと 伝説されます。この時の 太刀持ちを 剣持神と呼び、その役の者が 住んでいた地を 神屋Kamiya(紙屋・屋敷:吉川1885番地 北緯34度48分36秒東経133度44分38秒 紙屋池:北緯34度48分35秒東経133度44分35秒・カミヤの多くは金屋の転訛でしょう)と 呼ぶと伝説されます。    鋒ノ乢:吉川3062(北緯34度49分8秒東経133度44分21秒)・3065番地 剣持橋:北緯34度48分31秒東経133度44分20秒 藤田集落の南端    勝負乢:吉川2373・2563番地等 備中兵乱と 関る可能性は 否定できませんが、殆んどの勝負 菖蒲地名は ソブの転訛で 水の豊富な処 あるいは 砂鉄の多い処です。藤田集落から 東苅尾に向かう 上り坂(北緯34度48分45秒東経133度44分22秒)が 伯耆坂(伯耆は有名な砂鉄産地) で峠が勝負乢(北緯34度48分42秒東経133度44分25秒)で、峠から下る坂(北緯34度48分41秒東経133度44分28秒)が勝負坂です 本陣山:吉川2387-2389番地 本陣:豊野高下 調査中  平成29年(2017年)3月19日