地名の由来 地名の伝説


粟井谷:地名の由来は 解りません。杉谷(高地)と 尾原(低地)Awaiです。には もみ  外皮に包まれた状態の米 穀物 ふち 扶持米 あわ 等の意味があり。には 井戸 いげた まち 人の集まる所の意味があるそうです。新井谷は人口の少ない地ですし、田圃も 発達していません。米が 豊作になり、米作に必要な 「豊富な水を願った 地名」の様な 気がします。

案田:地名の由来は解りません。案は 物をのせる台や机の意味を持ち、案山とは低くて平な山を意味します。

井原:地名の由来は解りません。清水 二五三十田 金子谷 勘所免 等 たたら製鉄地を 連想させる小字名があります。金穴流しには 水流が必要です。岡山縣井原市地名の由来には 良い井戸水が湧くからとか、(イバラ)が多い地域だった等の説が あるそうです。

上田西:上田とは高台を耕作地にされた所の意味で、上田が2ヶ所に分離され、西側の地域を上田西とよんだ。

上田東:上田とは高台を耕作地にされた所の意味で、上田が2ヶ所に分離され、東側の地域を上田東と呼んだ。

上田東 山ノ神峠

本宮山 山神宮Yama-no*kami-guu shrineはかつて、上田西丸山2394-22番の畜産センター有限会社岡山県ブロイラー加茂川農場 )辺りの 県道高梁建部線沿いにありました。それで この地を 山の神峠と 呼ぶのです。道路拡張工事の時に 障害となったのですが、村人達も 化気神社も 円城寺も 山の神が 気難しい性格である事を 知っていたので どこかに 遷宮する仕事を 引き受けようとはしませんでした。しかたなく、山の神峠の隣地の地主であった 小倉豊市は 昭和20年~30年頃に 自分の持ち山に 遷宮する決心をし 山の神宮に 詣でて お祓いをし遷宮を果たしました。  山の神峠:下加茂から484号線を北上し 吉備高原北部広域農道奥吉備道との交叉点 下加茂と上田西と上田東の境 北緯34度52分55秒東経133度50分30秒のストックファーム(岡山県ブロイラー加茂川農場第1農場)の北方  奥吉備街道には 山の神橋が 架かっています 本宮山:本宮山頂上 北緯34度54分13秒東経133度50分43秒 海神社 山の神宮 龍王宮が 祀られています 火打:上田西2391番地 御所ヶ畝:上田西2393番地 丸山:上田西2394

  平成25年(2013年)4月24日

上野:知名の由来は 解りません。東隣地は平岡で、西隣地は吉川で、南隣地は竹部で、北隣地は高谷です。周囲の地より 高い標高に なっています。

円城:円城寺の門前町であったことが 地名の由来です。水田に恵まれない地です。

大木:知名の由来は 解りません。大木には神の宿る巨木は、仰ぎ見る程の大樹の意味があるそうです。大木から三谷に駈けて 塚ヶ塔という古墳群があります。

尾原:地名の由来は 解りません。3筋の尾根を利用した 扇形の新山城が ありました。

尾原 塚原

俚人軍塚様と呼ぶ塚が 尾原塚原1146番地 北緯34度55分16.秒東経133度45分16秒重岡神社の北、塚原橋の南)の庭にあります。その横に立つ小祠は 塚様と呼ばれ 家運隆昌 子孫繁栄が 願われています。道沿いにあったものを 道路整備の折 ここに 移動しました。塚様の北に 完全に破壊された 俚人人軍塚と 呼ばれる古墳があります。この塚が 有るので この辺りの小字名を 塚原と 呼びます。弥生時代の中期から 後期の墳墓と 推測されます。 塚曽祢:上田東1166番地等 塚本:上田東1518番地等 塚ヶ塔:大木922番地等 塚原:豊野61番地等 塚ノ本:湯山1027番地等も 古墳に由来する地名です・ 令和5年(2023年)3月8日

上加茂:かつては加茂郷と呼ばれていたが、加茂川の地名は 清く途切れる事のない川の字を添えて、栄華を願ったとさせます。かって加茂郷は 京都の寺の荘園でしたので 京都から来た人達は、故郷の加茂川を偲んで、近くを流れる川に 加茂川の名を 付けたとも 言われます。加茂郷は 2ヶ所に分離され、加茂川の上流部を 上加茂と呼んびました。

加茂市場:加茂総社門前市があった事に由来します。

神瀬:地名の由来は 解りません。本宮山(上田東)旭川ダム(岡山市北区との境界)に 挟まれた地域の地名です。本宮山には 龍王宮が 祀られ、旭川は 岡山城に向かう 水上交通の要所です。

小森:地名の由来は解りません。弘法大師が 去って来て 千谷寺を建てようと 大師山に 登って 小森の谷を 数え、千谷に 一谷足りないと 言って、帰って行ったと 言う伝説が あります。小森大師2246・2606番地等に 大師集落が ありましたが、現在住民は おりません。

笹目:知名の由来は 解りません。「ささ」「め」には 狭い地の意味があるそうです。福沢 尾原 有漢に 挟ませた狭い地です。「サ」の付く地名は「砂鉄」に 係る地名の場合が ありますが、楽楽森彦命Sasarsa-morihiko-mikoto(桃太郎物語の猿のモチーフ 吉川の住人)は 吉備国の製鉄技術者で、吉備津彦命(大和朝廷の四道将軍 桃太郎物語の桃太郎のモチーフ)の軍師になりました。しかし笹目には 製鉄に 係りそうな小字は ありません。

下加茂:前述の 上加茂を参照ください。

下土井:船山城の土井に 由来するとされます。

杉谷:地名の由来は 解りません。

高富:標高353mの耕地に位置しており、貧しいがゆえに、富栄る事を 期待して 高富となずけられた。

高谷:宇甘川の谷合に当たる村落で、近くに高い東山(十力城山 長丸)と谷(宇甘川)があるために 高谷と呼ばれた。

竹部:日本建尊御名代’(建部Takerube) に 由来します。

富永:永く豊かである事を願って 富永と名付けられました。・

豐岡上:かつては 薄の原であった地であったので、豊かな里になる事を 望んで 豐岡と名付けられ、豊岡地区の豊岡川の上流部を豐岡上と呼んだ。榎並茂兵衛代官によって 豊かな田園地帯となりました。

豊岡下:かつては薄の原であった地であったので、豊かな里になる事を 望んで 豐岡と名付けられ、豊岡地区の豊岡川の下流部を 豐岡下と呼んだ。

平岡:地名の由来は解りません。平岡の中心部の標高線は 疎です。

広面:吉備津彦命鼓彦命によって 開かれた 広い耕作地に 由来する地名です。

広面 岩目

広面の岩目に 魚見岩と言う巨岩がありました。現在では 岩目岩と言います。魚見岩が 訛て岩目岩になり、それで この地を 岩目と言うようになったのだそうです。「広面岩目の村人のより口伝」「手作り広面物語」 納坊河内:広面1211・1227・1234-1247・1262・1263・1265-1267番地 岩目:広面1612-1615・2321-2357・2359-2477・2491・2499・2853番地 ミコイワ:広面1661-1663番地  平成29年(2017年)4月1日

縄文時代の紀元前5000年の頃の総社 高松 倉敷 岡山 西大寺は 穴の海とか 吉備の穴海と 呼ばれ  瀬戸内海の入り江でした。現在でも 鳴門海峡 玄界灘を 代表されるように 瀬戸内海の潮流は激しく 当時の穴の海の潮位の日内変化 は 著しいものでした。漁業を 行なうためにも 物流手段としての海運にしても 目視による 地乗り航法を 安全なものにするには 気象や 時間に 影響される潮流の変化を 予想する必要があったでしょう。広面岩目は 穴の海に面した高台であったので 総社当たりの潮の変化を 観察するのに 最適であったかもしれません。www.geo-fujita.jp/okayama/anaumi.html」    高梁川では 秦Hada 宍粟Sisawa付近 旭川では 玉柏付近 吉井川では 万富付近は 扇状地と変わり 寒冷期を迎えると 水位も上がり 古代に タタラ製鉄が 盛んになると 廃砂が堆積し 江戸時代に 盛んに 干拓された事によって 穴の海は 消失し 大平野になりました。www.geo-fujita.jp/okayama/anaumi.html」    縄文時代の日本の 沿海部の遺跡から 釣針や 銛Mori漁網の錘Omoriや 丸木舟等 が 見つかっています。https://ja.wikipedia.org/wiki/漁業」 漁火を 焚いて 魚を集める集魚漁が  始まったのは 日本が世界で 最初とされます。夜間に 沖で漁火を焚いて 魚や 岩礁性の貝を集め 銛や 釣り具を用い 捕りました。すけ漁とか 垣漁とか 石干見Isihibi)とか 魚垣Nagakiと言う 浅瀬に石等で囲いを作り 満潮時に囲いに入った魚を 引き潮の時に 捕まえる漁法は 縄文時代には 瀬戸内海で行われていたようです。又 Uke/Ueにより 川や 湖沼 浅海で 魚類や エビ、カニの類を 捕っていました。www.maibun.net/image/38-p7.pdf 上述したように 縄文時代には 現在行われている漁法の多くが 確立したようですが 蛸壺漁は これより遅く 弥生時代中期からです。現在は 弘法大師が 岩目に祀られています。岩目の村人は 大師が祀られるに当たり「何かの理由があったのだろう」と 言いますが それが 何であるかを知っていそうな古老は 皆亡くなってしまったと言います。

かつて 崇神天皇の時代から 江戸時代迄に 瀬戸内海に穴の海 が有ったとされます。岩目の魚見岩から 穴の海の魚群を監視し 漁業に役立てたのでしょう。広面岩目i2469番地の西の 丘の岩の荒神社と 反対に向った処 北緯34度49分40秒東経133度48分50秒の丘の頂上付近の 道脇に 大岩が有ります。村人の一人は「ここにかつて もっと大きい大岩があったたが 圃場整備のおり 処分された。  現在 その位置に小さい岩が 残っている。」と 言います。「現在でも 樹を切り払えば 瀬戸内海が 見える。」そうです。 平成29年(2017年)4月1日

 

広面 吉備津彦命

雨坪 Amatubo

 北緯34度48分34秒東経133度48分48秒の雨坪岩に 盃状穴が銅山の試掘鉱風穴に向け彫られています。  鉱山の安全と生産性を祈ったのでしょう。 吉備津彦命が 攻めて来て 荒野 開拓のため 鼓彦命に 風の神を祀らせました。その所を 雨坪と 名付け ここでは 何度か 雨乞いをしたとされます。 

鼓田 Tudumi-da

吉備津彦命Kibitu-hiko-no-mikotoが 吉備の鬼の城の温羅Onra/Ura と戦う様子を 大高山に 陣を張り見ていた留霊臣命(桃太郎伝説のキジ)は 温羅の強さに恐怖し 戦線離脱をしようと 逃げ出すと、鼓の音が  逃げども逃げども 追い付いて来て 困り果て心が憔悴した処を 通報を受けた楽楽森彦命Sasamori-hiko-no-mikoto(桃太郎伝説のサル)に 逮捕され、鬼ノ城戦の最前線に 送り込まれました。温羅と留霊臣命は 互いに変化の術を以て 互角に戦い 相打ちになりました。鼓神社に 祀られます。この時 鼓彦命が 小高山(大高山の添山)に 置き忘れた鼓が 大岩となり 鼓岩Tudumi-iwa (北緯34度49分9秒東経133度48分46秒)に なったとされます。それで大高山は 鼓山Tudumi-yama mountainと呼ばれます。吉備津彦命が 妻を失い 戦況も悪化し 気落ちした時 鼓彦命は 鼓岩に 吉備津彦命を招き、心を鎮めさせた とされます。鼓彦命が 開拓したとされる処が 鼓田です。 広面 Hiromo吉備津彦命が 開拓した広大な面積を開拓したために この地域を広面と 呼びます。 ドンドン山 Don-don-yama mountain北緯34度49分7秒東経133度48分47秒 風穴があり その上で飛び跳ねると ドンドンと音がしたと 言われます。それで 小高山の西麓 を ドンドン山と 呼びます。 ドンド1277・1278番地 ドンドグチ1467・1468・1471・1472番地の地名が残されています。  大高山鼓山 Oo-taka-yama mountain/Tudumi-yama mountain北緯34度49分21秒東経133度49分53秒 鼓彦命が 置き忘れた鼓が 鼓岩と呼ばれる大岩になったので その山 即ち 大高山を 鼓山と呼ぶようになりました。 小高山O-daka-yama mountain広面岩曽根381番地の東方 約1Km 北緯34度49分13秒東経133度48分5秒 大高山の西側の添山なので 大高山に対し  小高山と呼ばれます。   昇龍山Syouryuu-zan mountain北緯34度48分57秒東経133度48分32秒  昔 広面の旱魃を救いにやって来た龍神(水神)が 役目を終えた後 この山から飛び立ち  天に戻ったとされます。平成29年(2017年)4月1日

福沢:地名の由来は 解りません。豊岡川が 福沢口で 分岐し 猪木川と言う支流が 福沢集落を 貫きます。猪木川は 福沢蟻の久保尻358番地の南と 福沢屋敷上ミ920番地の西で 支流を作ります。兵庫県福沢の地名の由来は、山に囲まれた広い原野に川が流れ湿地が点在し、泉もわく土地の意味だそうです。

船津:かつては高瀬舟の港が  あった事に 由来します。

細田:地名の由来は解りませんが、細長い棚田が 多い地域です。岩目の棚田跡は 小さく三日月形をしýています。反収が低い土地なので、「ほそ」は「乾す」に 由来するかもしれません。

溝部:知名の由来は解りません。溝部集落には 豊岡川が 流れ 恩木ダムの北東で 恩木川と名を 変えます。即ち 備前 備中  美作の国境に近い備前の北端の集落で、国境付近から流れる豊岡川の川沿いの谷間にあります。

三谷:細田に 三谷の小字名があります。砂鉄や 雲母が 露天掘りされていたようです。三谷には 大きな谷は ありませんし、周囲に比較し 谷数数は 左程多くはありません・美谷 或いは 魅谷の転訛でしょう。細田三谷の三谷川の下流域を 三谷原と呼び、その下流域が大字三谷です。(梨は穴師の転訛か) 野呂(処分麽) 畑 トキヤ(研屋の転訛か) 鍛冶屋 (油は溶けた鉄の事か)  戸石(砥石の転訛か) (中黒の転訛か  黒は黒金か)  寿(福は吹くの転訛か)(日は火の転訛か) 等の地名があり、鉄製品や砂鉄に係りそうな地の予感がします。砂鉄を採取する為に 直線的に 切り取られた山も 三谷原に あります。住人に 多くの(種地の転訛か は砂鉄)名字の人が多くいます。

三谷 塚が乢のおめこ坂

塚ヶ搭Tuka-ga-ytouの地名は 塚ヶ乢(Tuka-ga-tawa 北緯34度54分28秒東経133度47分18秒)の訛った地名であるとされ 塚が 沢山あると言う意味で 塚十Tuka-ga-touの字を 当てて 住民は 生活用語として 使っていたとされます。またその逆で 塚十に 塚ヶ塔の字を当てたともされます。卵が 先か 鶏が先かに 似た論争ですが 塚ヶ塔は 重みのあ る字なので 好んで使われ 正式な 地名に成りました。塚が塔の弥生時代後期の古墳は 完全に 破壊された物もあり また しっかりとした 調査が無いので 塚の数は 知れませんが 10基以上の弥生時代後期の古墳が 有りました。「三谷日名の村人口伝」 塚が乢は 三谷と 大木の境近くにあり 三谷側は 急峻な坂道で 神子坂と呼ばれていました。昭和29年(1954年)毎年 正月に 鰤 等 正月用品を 行商する 安藤と呼ばれる人がいました。異常に舌が大きく「みこさか」と 発音できず「めこさか」と 発音していました。青年団が 酒盛りした時 ある若者が 冗談交じりに 丁寧にも「御」の字を 付け加えました。満場の盛り上がり 青年団の者達は この坂を「おめこ坂」と 呼ぶようになり いつの間にか その形状も似ていたので 日名集落の人達は 臆面もなく それに準じました。現在 この坂を登る者は 無くなり この少しばかり 顔を 火照らせそうな名は 死語になっています。塚ノ前:大木918-919・936番地 塚ヶ搭:大木922-925・930番地       平成25年(2013年)5月10日

三納谷:古くは険しい地形だったので、岑谷と 呼ばれていました。Minetaniが三納谷へと 転訛したとされます。

美原:古くは野原と 呼ばれていましたが、名遺児時代に 田舎臭い地名を嫌い 美原と改名されました。美原の一部は現在でも 野原と 呼ばれています。

和田::地名の由来は解りません。わだ」は 川の曲流部や 広い円みのある平地に付けられる地名です。和田集落を 和田川が突き抜けて 流れますが、大きな屈曲は ありません。富永との境で、支流の和谷川は 北に張り出すように 分かれます。古和田の南を流れる 槇谷川は、古和田325-2の番地の南で 大きく曲がっています。稲の豊穣を 願った地名 かも知れません。

上竹:後述の竹荘を参照ください。

上竹 袈裟掛かけ

上竹の地名。平安時代初期の頃、高僧 玄賓が 着ていた袈裟を 大岩にかけたとされます。玄賓は 田中の小林にも 留まったと されますが 定かでありません。高梁の言賓谷に 住んでいました。玄賓は 朝廷の信頼を得ていて、宮中に 良く出向いていました。花山天皇の行幸があったと 言われます。大八幡神社の軒札に、大願主川上郡安部深山花山法皇殿の文字が 書かれています。

上竹 鳥見

上竹キクモリ281-2番地の隣地の 上竹簡易水源月原調整池を 右に見て 登ると  沖池の東に 納地に向かう分岐点 に出ます。分岐の直ぐ南側に コンクリートで舗装された 南西向 きの鳥見山に 向かう参道が あるので登ると、沖池の南辺りから 無舗装の山道になり 山頂に向かいます。大きな石の 門を 抜けると 北緯34 度50分47秒 東経 133度41分8秒に 白 塗りの竹荘八十八ヶ所霊 場巡礼55番鳥見山立江寺(徳島県小松島市立江町若松13番地 北緯33度58分4秒東経134度36分2秒 橋池山立江寺 本尊延命地蔵菩薩 を参照ください)が 建ちます。上竹矢倉2366番地の北の山です。鳥見岩の名前の由来は 入口に鳥居状の大岩の門があり、それで鳥居見山とか 鳥居目山と 名付けられ、後世に 訛ってトリ目山 トリ見山 さらに鳥見山となったのだと 言われます  信仰の中心は 高さ2.4m 幅2.7m 奥行き2.4mの巨岩です。 平成29年(2017年)10月20日

北:現在の吉備中央町(旧賀陽町)では、町域の南に位置しますが、かつてこの辺りが  加夜郡日羽郷と 名付けられていた頃には、日羽郷北部地域でした。

黒土:豪族、呉氏の所領。呉が 黒と訛ったとされます。

黒山:豪族、呉氏の所領。呉が 黒と 訛ったとされます。

黒山 松原・黒山

黒山464番地の東黒山高下364-5の東 北緯34度49分49秒東経133度46分7秒に 松原八幡宮が 建ちます。伝説によると 応神天皇が この地に 行幸され「この地は4神が 鎮座するのに 相応の地です。  私は 身を隠し 幸魂を 移して ここに留める。」と言って、鋒を地に突き立て 松を記念として 植えました。松は 繁殖し  辺りが 松原になり、松原の茂りは凄まじく その木陰は 日が射し込まず 薄暗くなる程 或いは 松原の深緑が 黒く見える程 深かったので この地を 黒山と呼びました。それで この地の八幡宮は 松原八幡とか 黒山八幡と呼ばれます。刈尾へ 奉還され 再び 松原八幡神社後に 祀られました。後に  平安時代清和天皇の頃貞観3年(861年)に 藤原堅物Hujiwara-no-Kenmotuが 社殿を奉斎しました。永長元年(1096年)に  現在の吉川八幡宮に 奉還されたとされています。 前項目 黒山を 参照ください。平成24年(2012年)8月20日

黒山 番

黒山高下479番地と黒山前498番地の間 北緯34度47分45秒・東経133度46分3秒に かつて火の見櫓Hinomi-yaguraが 有りました。常夜灯が 現在も 立っています。吉川八幡宮の祭日には ここに 8本の旗を立て 燈明するそうです。吉川八幡宮が 正行Masayukiに 遷宮される時に この近くで 輿を休め、ここに八本の旗を立てたとされます。そのため  この地を幡と 呼びます。番木:2-7・23・25-32・34-・35・38-55・57・58・60-63・68・129-132・140-145・147-149・160-164番地 幡木:8番地 バンノ木:9・10・152・153・157番地 幡ノ木:黒山11・12-22・24・37番地 平成24年(2012年)8月20日

岨谷:岨の意味には 「「岨」の部首・画数・読み方・意味 - goo漢字辞典」に依れば ①いしやま。土をかぶった石山。 [類]砠(ショ) ②そばだつ。けわしい。「嶮岨(ケンソ)」 ③山のけわしい所。そば。そわ。の意味があるそうです。岨谷は 周囲の地(南谷 豪渓等)より 標高が 高くなっています。

竹荘:平安時代後期 男山八幡宮の荘園であった多気の荘(竹の里 タ気郷)が地名の由来とされます。多気には①が生える地。古語の「多木」(たき、食物の多くできる土地の意)。③動詞「たぎる」(勢いよく流れる、水が湧き出す)の意味があるそうです。竹荘は 田畑の多い地です。地域の惣社である 岩牟良神社があり、この辺りの文化、経済の中心部です。

竹荘 平ノ前

弘治2年(1556年)の秋頃、美濃国から 土岐大炊亮頼武Tok-ooino-suke-Noritake(彦太郎)が 竹庄肥田村に落ち延びて来て、肥田の名を 名乗り 住み付きました。 城の辺りを 平ノ前と言いますが、肥田ノ前が 訛って付いた地名と 言われています。常山城に 肥田五兵衛と 藤沢城肥田淡路守宗房(毛利方)の城主名が 残っています「賀陽町史 p187」。竹荘山田切石の大きな瓢箪型(南東約90m 北東 瓢箪の首部30m 胴部 約60m)の台状地です。高梁御津線(31号線)沿いの木戸医院上竹584-3番地)の道向かいから 北西に約90m進んだ所の右側で、周囲は 切り取られ 高い壁状に なっています。竹荘平ノ前1738番地 竹荘切石1743番地 竹荘切石1707-1番地 竹荘竹ノ下1894番地 竹荘切石1729番地 辻堂馬頭観音菩薩 75番札所に 囲まれています。 平成25年(2013年)2月13日

田土:地名の由来は解りません。田には 「「田」の部首・画数・読み方・意味 - goo漢字辞典」によると ①た。たはた。耕作地。「田園」「田畑」「水田」 ②特定の物を産出する地域。「塩田」「炭田」「油田」 ③いなか。「田舎」「田紳」「田夫」 ④か(狩)る。かり。「田猟」 [類]畋(デン)の意味があるそうです。

豊野:地名の由来は解りません。豊の地になってほしいと願って、名付けたのでしょう。豊には「「豊」の部首・画数・読み方・意味 - goo漢字辞典」によると ①ゆたか。多い。満ちている。「豊富」「豊満」 ②農作物の実りがよい。「豊作」「豊年」 ③とよ。語の上につけてほめる意を表す。「豊葦原(とよあしはら)」等が あるそうです。 

西:北の項目を 参照ください.・

←大和山龍王の和泉

納地 納地 舞地 冠 矢方原 寶谷

北緯34度49分22秒東経133度42分31秒 納地南ノ風呂130番地に 大和山神社Oowasan-injyaが 建ちます。出雲国の浪人の頼盛が 大和山に住み 龍王を 祀りました。後に 大和山城が建ち 城主の土井頼母備中守は この地を大和村Yamato-muraと 呼びました。長禄2年寅年(1458年)に  伊予国の大三島大明神の分霊を 勘請しました。その時 城主は 遣いを出して 大明神を 出迎え 村境の矢方原で 邪鬼の悪霊を 祓うため 廃除矢を放ちました。大和山の冠で 衣冠装束を 改め ここから5町余 乾に登り 宝谷に 神霊と宝剣を 一時祀り 同年9月18日 大和山の峯に 勘請し 大和山大明神と 呼び崇めました。大和山は 険し過ぎるため 人々は参詣を 嫌がるので「龍王山から 夜な夜な 怪光が放たれ 瀬戸内海を 行き来する船が 難儀する」と 言う理由を 付けて 大永元年(1521年)9月18日 大和山城主の土井頼秀は 里に社を建て 巫女に 舞わせ 宮本勤吉に 遷霊しました。すると 大和山大明神は 讃岐国の塩飽Suwakuの両見渡沿岸で 船の遭難を 救護し 感謝され 社の建立のための材木を 多く寄進されました。大和山大明神の御供田として 土肥頼秀は ひしや田 しゅり田を 永禄5年(1562年)戌6月に 寄付しています。

←大和山神社と巫女の供養塔

巫女の留まった所を巫女岩(供養塔の地・納地冠高下684番地の南 北緯34度49分22秒東経133度42分23秒)と 呼び、巫女が舞をした その地を 舞地と呼び 御供田のある地を 神を納めると言う意味で 納地と呼びました。「賀陽町史追補版・村人口伝」参考     矢形原:北1713-1716(北緯34度48分50秒東経133度42分21秒)-1728番地 ・Ken/Inui北西の方角    舞地:北緯34度49分57秒東経133度42分20秒    ひしや田:納地ヒシャデン637・638番地    しゅり田:シュリ田・上竹1229・1672・2650・2652・2653番地    冠:納地606・707・887番地等    寶谷:納地808・1188(北緯34度49分41秒東経133度42分6秒)番地等        平成24年(2012年)8月19日

宮地:大和神社が 建つ地が 由来と考えられます。

宮地 わらおう

宮地の中の谷に 水田に挟まれた大地があります。上 中 下の3段に なっているそうす。上の段位は 槙の木が生えていたので 槙の鼻と言い 下の段位は 樫の木が生えていたので 樫尾と言い、中の段は中尾と 書いて Nakouと 読ませました。なこうは 泣こうに 聞こえ、縁起が悪いので 泣くの反対の笑うにして、Waraouと 名付けたそうな。しかし。宮地に槇の鼻 樫尾  わらおうの小字名は ありません。

宮地 新見

宮地大畑に 南谷上 南谷下に囲まれた 小山があります。古城らしく  Kojirouと 呼ばれており 土塁の跡があり、 屋敷跡もあります。この城の城主は 新見と言う姓らしく、一家の墓と思われる墓が 下の台地にあります。ある時 城を捨てて逃げたのですが、その際に 墓を守る者に 新見と 名乗る事を 許しました。それで この地を 新見と言うのです。

湯山:地名の由来は解りません。は 恐らく 溶けた鉄を 表しているのでしょう。砂鉄を 採取されたと 思われるように 山が 削り取られた地形が あり、通称 神原Koubara(金原の転訛らしい)の地名 藤沢 町裏三十 金久曽  勝負坂 等の製鉄を 思わせる小字名があり、御北神原家Okita-Koubsara-ke(庄屋)の稲荷神社には 金山彦命 が 祀られています。  

湯山 大岩

「大岩集落には 藤の岩 平岩 八畳岩 幸路木岩 香路木岩 岩の鼻岩 岩滝 向岩等 七つの大岩が 有るので 大岩と 呼ばれる」と 千木の年老いたご婦人から 口伝されました。 そこで 大岩で名のある岩を 訪ねて見ました。これ等の岩を 探索していると 名前はついていませんが それ等 以外にも それ等より 遥かに大きい岩が 大岩山中には ゴロゴロと 沢山あります。中には 石で仕切られる 巨石信仰の祭場と 思わせるものもあるので この地が 大岩と名付けられたのではないかと 著者は推測します。

岩の鼻岩

484号線の大岩公会堂から 川を渡り 湯山平ヶ市2032番地より 西に向け 大岩集落に 登って行き、湯山平ヶ市2033番地 北緯34度50分33秒東経133度44分37秒の最高位置の民家の東上の墓場の奥に 岩の鼻の大岩が あります。大岩の岸上の大きな穴に かつては あった物が 転げ落ちたそうです。

岩滝

岩の鼻の岩の南に コウロギ池に 向かう分岐が あるので 南西に 約150m進むと 棚田が 終了します。そこから 最上段の棚田に沿って 南に 有るか無いか解らないような山道を 登ると 直ぐに 北緯34度50分30秒東経133度44分31秒と 想像する付近に 岩群が2組あります。南東に 山道が曲がり登ると 北緯34度50分27秒東経133度44分34秒と 想像する辺り等 に 数組の岩群が 有ります。南西に 山道が曲がる辺りから 山肌の勾配は 急に なります。山の8合目 北緯34度50分25秒東経 133度44分33秒 と 想像する辺りに 大岩が 組み重なった 岩滝が 聳えたちます。この山の頂上を 超えると 向うは 吉川と なります。かつて吉川千木集落の人達の採石場に なっていたそうです。水がある筈がない場所なのに 岩滝と 呼ばれるのは 不思議です。焚き岩(火葬場)の訛りでしょう。則ち 江戸時代中期以前の 火葬場でしょう。

藤の岩

484号線から 吉川川を 渡り 西に向け 大岩集落に 登って行き 北緯34度50分秒経133度44分37秒の 最高位置の民家の上の墓場を 左に 見て 北に 曲がり、竹之荘簡易水道大岩第二排水池を 左に見て、山道を登ると 北緯34度50分33秒東経133度44分28秒に 組石のように 自然石が 集積して 一部は石碑状に立っており 右手に墓場が有ります。かつて 藤の巨木の藤の弦が 絡んでいたとされます。現在も 藤の弦が絡んでいます。

八畳岩

現時点での大岩集落の最奥のお宅 湯山平ヶ市2033番地迄戻りその北に 向かう山道を登ると2個の上面が 方形の平らな2個の大岩群八畳岩が 見つかり周囲に岩群があります。その上方にも 大岩があり 周囲に 岩が点在します。この辺りにも屋敷があったようです。大岩集落では 大岩の近くに 屋敷を構える習慣があったのでしょうか。

更に 北緯34度50分34秒東経133度44分31秒で  鋭く右に回り 、少し登るとY字路の分岐が ありその手前の右手 北緯34度50分35秒東経133度44分31秒に 屏風状に立った 大岩の付近くに 岩群が見えます。大岩に沿って 掘削されたような穴がありますが、庭石等に 用いるために 岩が持ち去られたのでしょう。村人は「一世代前の人達が 良く岩を割って 利用していた。」と 語りました。前述の配水池が 眼下に見えます。この辺りは かつて民家が有ったようで 金神を 祀ったと思われる 小さい 石グロが あり 陶器製の社と 丸い鏡が 納められています。前述のY字路の山道を 北に少し向かうと 北緯34度50分35秒東経133度44分30秒と 推定する辺りに 石碑状に 立った岩があり 付近に岩群が 有ります。右奥に 墓仕舞いした跡が見えます。付近を探索すると 石碑状に立った岩が 2個あり、そのうちの一つは 隣接して穴が 開いています。この山道を 進んでも 大岩は もう見つかりません。

向岩

北緯34度50分34秒東経133度44分31秒で 鋭く右に回り、少し登ると Y字路の分岐が あります。そこを過ぎて 鋭く曲がった所より 90mばかりの所を 南東に 山を降ると 半分切り取られた岩向岩が あります。楔を 打つための 穴が 開いています。向岩の足元に 穴がありますが、元は 穴の大きさの大岩だったそうです。かつての 原の民家の向うにあるので 向岩と 呼びばれるそうです。

元のY字路に戻り 北東に進む と 変則的な 五叉路に 成り、道なりの道は やや細くなり 墓場に 至ります。左 に向かう道の急坂を下ると 道は直ぐに 水平となり 等高線に 従い 右手に 湿地を見ながら 大きく右に回りながら 進むと 左上 北緯34度50分42秒東経133度44分26秒と 想像する所に 民家の跡が見えます。ここにも 大きな岩が 点在しその内の一つには 金神社を 祀ったとていたと思われます。

大岩荒神社の巨石群

前述の 変則的な五叉路から 前述の民家の跡の下の道を 少し 西に進むと 判り難いのですが 山道が 交差し その北東 北緯34度50分43秒東経133度44分29秒と 推定する所に 急坂の参道を持つ 岩をふんだんに 使った 荒神社が 建っており 周囲に大岩群が有ります。荒神社の裏山の頂上には 岩がありません。

更に 北東に進むと 山道はY字に分岐するので 北に進むと 道脇に 門状に構える 2個の岩が 有ります。更に 道を登ると 東側が絶壁で 視界が開けた 北緯34度50分46秒東経133度44分31秒の頂上に出ます。ここにも 大岩が 点在します。山頂の中央部には 石垣で囲まれた 小狭い平坦地がありその中央部は 3段の階段があり 石の列で 仕切られた 岩群に 続きます。巨石信仰の祭場と 思われます。

北東に 進んだ山道のY字路に 戻り 更に 東に登る分岐を 進むと 途中に 34度50分45秒東経133度44分3150分45秒東経133度44分31秒に達します。頂上と 東斜面には大岩が 多数あります。いずれも 人の手が入った物のように 見えません。

天照大神宮の巨石群

前述の 変則五叉路に戻って、墓場に至る やや細い道と 荒神に向かう道の間の道を 選ぶと 墓場を 迂回するように回った後に 東に向かいます。右手を 見ながら進むと 北緯\34度50分38秒東経133度44分32秒と 推定する辺りに 石碑状に立つ 大岩があり、周囲に34度50分38秒・東経133度44分3350分38秒東経133度44分33秒と 推測される処に 天照大神摩利支天宮が建っており、その左手には 大岩の前に燈明用の石組があり、その右手には 燈明用の 石グロが ずらりと 並んでいます。

平岩

変則五叉路から 天照大神摩利支天宮に 向かうと 山道に 分岐があり 南東東に折れると 北緯34度50分36秒東経133度44分32秒と推定する所に 平らな巨岩平岩が有ります。平岩から 等高線を 横切るように 山肌を上ると 変則五叉路の南東150m辺りの 山道に 戻れます

摩利支天社の大岩

変則五叉路を 大岩荒神に向かうと 右下に 沼地があります。その地点から 北西に 有るか無いか 解らないような 山道に入り 何組かの岩群や 民家の堆肥作りようの「コの字」状の石垣組を 見ながら 北に緩やかに上ると 谷を越えた北側山の頂上付近 北緯34度50分38秒東経133度44分27秒と 想像する所に 摩利支天社跡の背に 大岩があります。谷側に 壊れた社が転がっています。付近にも 岩群が有ります。東側の山腹に大 岩荒神社が 建ちます。

コウロギ岩

湯山平ヶ市2033番地の西に 南に向きのコウロギ池に続く 分岐があります。分岐は 現在耕作されている 棚田の最上段に 沿って南から 南西に延びるので、林となっている 休耕田の棚田に 沿って 西に曲ると 北緯34度50分29秒東経133度44分23秒の峠で  山道は四叉路となります。峠を越えると 直ぐに蓄水が殆どないv棚田跡の最上段に 突き当りたます。その手前に 岩群が有りますが、伝説として 言い伝えられる程の 大きさではありません。下の写真は 岩群と 最上段の棚田跡です。棚田跡は 谷に沿って下って行き 北緯34度50分28秒東経133度44分14秒の コウロギ池に 出ます。コウロギ池の周囲は 岩に乏しく 大きな岩は見つかりませんが、峠と コウロギ池の中間辺りに 何故か ここだけに 左程大きくありませんが 多数の岩が 集積しています。何れも 長い間 水の浸食を 受けていて 角が立ちません。この岩群が コウロギ岩なのでしょう。

四叉路の峠のから 西北に湯山平ヶ市2033番地の約150m西の急カーブに向かう山道にも数群の 石が有ります。先の間道の中間点 北緯34度50分32秒東経133度44分19秒付近の

岩は目を引きます。前後の岩群は迫力が少しばかり 欠けます。 原:湯山2241・2300番地等 小ウロキ:湯山2087・2101番地等・香路木:2102・2132番地等・幸路木:湯山2126・2286番地等 平ヶ市:湯山2003・2077番地等 グロノ間:湯山2002番地 ヒラ:湯山2004・2020番地等  平成29年(2017年)12月4日

吉川:地名の由来は 解りません。埼玉県吉川市の地名の由来は 芦川(Asikawa/Yosikawa)です。

吉川 藤田

吉川に 藤田集落(藤田:吉川2628-2630・2733・2917・2971-2974番地)が有ります。村人は  声を揃えて 藤の木が 沢山生えていた事が「藤田」の地名の由来であると 言います。砂鉄採取の鉄穴流しをする時には  の蔓で編んだ筵を 水路に敷き その上に水を流すと 比重の重い砂鉄は 筵の目から 下に落ちるので 小石などと 選別できたと 言われています真弓常忠「古代の鉄と神々」)。実際に(葛・オドロ)の付く地名は 産鉄地に多く見られます。 オドロは 藤等の蔓性の植物の岡山県北の方言と 言われています岡山県大百科事典」。 芝下(吉川2422・2423・2780・2880・2883番地)  炭釜畝炭釜ノ畝(吉川2424・2425・2450・2469-2471・2473・2474・2497・2498・2501番地) クラミ坂(吉川2493・2496・2499・2500・2502-2504・2519・2680番地) 炭釜乢(吉川2494番地) 流田(吉川2580・2581番地) 藤田仁五(吉川2582番地 ) 伯耆坂伯キ坂ホウキ坂(吉川2752-2760・2773・2781・2782・2783・2825・2826・2828-2830・2886) 仁五仁子仁悟二五二後(吉川2976・3129-3135・3139-3143・3146-3152番地)の地名があります。高下と名付けられる地は 草刈り場である事が多く 薪の材料採取場である場合も有ります。薪は たたら製鉄の砂鉄を溶かすための燃料です。の付く地名は 鉄Kuroganeと 関連付けられている場合が しばしばあります。伯耆HoukiHoukiHoukiは 砂鉄の産地である 伯耆国(各地に楽々福神社Sasahuku-iinnjya ササ笹は砂砂の転訛で 砂鉄を表します)に ちなんで 付けられます。藤田の伯耆坂には 勝負谷と言う谷が 有ります。勝負菖蒲は ソブの転訛である事が多いとされます。ニゴは 水の濁りを意味する事が多く 金洗場で 砂鉄を選別した後の 廃砂の意と思いますhttp://miwa1929.mond.jp/index.php?岡山県内の製鉄(たたら)地名 このように 製鉄に関ると思われる小字地名が有るので 藤田の地名は 砂鉄採取のための藤筵の材料の供給地に 由来するのかもしれません。クラミ坂には「天正2年(1574年)備中兵乱の折り、虎倉城の伊賀軍毛利方)と 備中松山城の三村軍が 激しく戦い敗走し、目が眩む程に空腹に苦しんで坂を登った三村軍に 多くの戦死者を出した。」との伝説が残されます。 平成24年(2012年)9月8日

 

吉川 吉川八幡宮の遷宮

黒山八幡宮の紳田であった地を 新田(黒山グイビ谷1034番地の東 北緯34度47分25秒東経133度45分35秒)と 呼びます。八幡宮を 黒山から苅尾に 遷宮した時に 苅尾側の者に渡した峠を讓乢Yuzuri-tawa(吉川才ノ元12番地の東 北緯34度48分14秒東経133度46分2秒)と呼び この時8つの旗を立てた地を (黒山前456番地 北緯34度47分49秒東経133度45分59秒)と 呼び、その途中の衣装を 整えた地を 装束乢(現在はショウジャク乢:黒山小倉屋敷682番地の東 黒山正尺221番地の西 北緯34度47分53秒東経133度46分17秒)と 呼び ます。八幡宮の遷座式の前に 神官 等が 禊をした川が 後に 田として利用されましたので 河内田(北緯34度48分50秒東経133度45分42秒付近の地名)と呼 び、黒山八幡宮の奉遷式を行うため 薦を奉った田を 薦田 後に小茂田Komoda 北緯34度49分48秒東経133度44分54秒付近の地名:異説有)と 呼び、八幡宮奉遷の時 大矢田宿禰の後胤kouin(子孫)で 守護矢を 納めた人を 祀った地を 守屋(現在は森屋)と呼び、奉遷の時 羽車Ha-guruma(神輿の一種)の台を 奉った所を 台後(現在は大後 西庄田 北緯34度49分32秒東経133度45分2秒)と 呼び、この時 仮に旗を奉った地を 権幡(後に権田と変化し  現在は権畑 西庄田 北緯34度49分22秒東経133度45分42秒)と 呼び、その入り口 北緯34度49分21秒東経133度44分4秒を 権野手と 呼び、奉遷の時 神衣を祀った所を 布郡(異説有 古郡神社:北緯34度49分59秒東経133度44分12秒)と 呼び、神鏡を 鋳造した 千木Sengiの中の地を 上鏡Jyoukyu(千木 北緯34度50分5秒東経133度44分38秒)と 呼び、千木Tigiを奉った地を 千木Sengi(北緯34度50分2秒東経133度45分1秒付近)と 呼び、千木を引き下ろした坂を 小坂(吉川千木6869番地 北緯34度50分0秒東経133度44分53秒)と 呼びます。かつて 八幡宮が 未だ建てられていなかった頃 斎場Ituki-no-ba 仮屋を作り 木の枝を刈ってその上部を 覆いました。枝を刈った山を 苅覆山Karibuki-yamaと呼び、その地を 苅覆(後に苅尾 東苅尾:北緯34度49分58秒東経133度45分15秒 西東苅尾:北緯34度48分40秒東経133度44分48秒)と 呼び、村人が 平伏し 神輿を迎えた地を 土井原(吉川崗1837番地辺りから吉川細田1481-1番地辺りの加茂川の北の原 土居原中心部 北緯34度48分34秒東経133度44分59秒)と 呼び、8羽の 白い巻物を咥えた烏が 松の枝に 止まり白巻布を放し 白い旗を八方に 棚引かせた地を 烏泊Karasu-domatri(烏泊山:北緯34度47分25秒東経133度44分53秒 烏泊トンネル:北緯34度47分55秒東経133度44分46秒)と 言います。およそ500年前 藤田八幡宮は 吉川八幡宮に 合祀されました。藤田八幡宮は 元 吉川2607番地の東側にありました。合祀後も 江戸時代には 御神体は 藤田教会堂に 祀られていて10月12日に 祭りをしていたとされます。合祀時には 神輿が 鋒の乢(吉川鋒ノ乢3062番地 北緯34度49分9秒東経133度44分24秒に 差し掛かると 神様は 休憩したくなったのか 急に重くなりました。動かそうとしても ビクとも動かないので そこを8つの鋒を立てて 輿休めし  祝詞を上げてると 神様の疲れが取れ 神輿は 軽くなりました。この所を 鋒の神社Hoko-no-kami-yasiroと 呼び、西庄田に向かいました。行寄(吉川行寄 3084・33206番地北緯34度49分10秒東経133度44分51秒・3269番地等)迄来て 昼食をとる事になって 神様にお供物とお神酒を捧げ 歌や踊りを奉納しました。神様は大変御機嫌良くなり 嬉々として苅山の吉川八幡宮にお入りになりました。    平成24年(2012年)8月19日

宇甘川Ukkai-gawa鵜飼部Ukaibeから生まれた川名。とは 大和朝廷の民の支配単位。地域集団と職業集団が ありました。

ココロ コゴロ ゴコロ ゴゴロ

ココロに当てられる漢字を 見たことが ありません。山城近くや 危険な場所に 名付けられているので 虎口路あるいは 虎口櫓と 書くのであろうと 思います。山城の城門を 小口KokouKogutiと 呼び  狭い道を意味しますが 城にふさわしくするために 威勢のいい 虎口と 書き替えられたと 言われます。そこが 危険な場所であれば  虎口は「ここう」と 読みます。ココロやコゴロの地名は 吉備中央町では 山城付近に 多く分布します。 崩れやすい処にも まれに名付けられています。 I have never seen kanji that can be used in ココロ “Kokoro” Because it is named near Mountain castle and a dangerous place  I think it is written with 虎口路 ”kokou-ro,  the road to the gate of the castle "小口, Koguti" or 虎口櫓 “Kokoro, the place where there was a watchtower to protect the castle gate”  The mountain castle gate is called 小口“ Koguti/Kokou, small entrance, means a narrow road” or 大手"oote, the main gate" , It is said that 小口 "fell weak" was rewritten as a powerful and dangerous tiger mouth ”虎口, Koguti“ in order to be worthy of the castle    If the place is a dangerous place, 虎口 is called "Kokou" The land name of of Kokoro and kogoro is widely distributed in the vicinity of the mountain castles in Kibituuou-tyou/town コゴロ・ゴゴロ・ココロ・ゴコロ:小森1054-1144番地(百坂城) ココロ道上ミ・ゴコロ道上ミ:小森1198番地(百坂城) コゴロ上ミ:小森1206・1207番地(百坂城) コゴロ渡リ:小森1209-1211番地  ココロ:黒土1029-1065蛮地(鳥羽城 ココロ後:黒土1062-1086蛮地(鳥羽城) ココロ:黒土1464番地(的場) コゴロ田:黒土1463蛮地(的場) ココロ:竹荘2602-2606-番地(的場) 小々路・ココ路・古々路・コ々ロ:田土2446-2884蛮地(大原城 土生山城  ココロ:田土2877番地(藤沢城 大畑城)   ココロ家ノ上:田土2895-2899番地(藤沢城 大畑城) ココロ道ノ上:田土2908番地(藤沢城 大畑城)    コ々ロ・ココ路:田土3104-3461番地(大原城)  古々路:田土3374番地(土生山城)ココロ南:田土3375番地(土生山城) コ々:田土3376番地(土生山城)    古ごろ・ココロ・コ々ロ:豊野2448-2882番地(近くに城跡はありません 田土2554番地の荒神山は 吉備津彦命が陣を張った処かも知れません)   コゴロ・ココロ・コ々ロ・古々路:豊野3692-5372番地(近くに城跡はありませんが 近くに千城の地名が有ります) ココロ十七コ々ロ十七:豊野3696番地 ココロ:豊野6163-6169番地(近くに城跡はさりませんが 兵輪山:6210番地の地名があります)  ココロ・ココセ:豊野6468-7102番地(一目見て 危険そうな場所のため 行く勇気がありませんでした) 中ココロ:豊野6794-6857番地(危険そう) ココロ:豊野7220番地(近くに流田の地名が有ります)  ココロ:湯山1896-1899番地(小谷城

鍛冶屋地名

カンジャ:上田東246番地 鍛冶屋:大木15番地 鍛冶屋谷:高谷465~483番地 鍛冶屋:竹部2377.・2390番地等 鍛冶屋:豊岡上252・267番地等 鍛冶屋:三谷119・114番地 鍛冶屋:三谷422・444番地等 鍛冶屋:黒土:1258・1266番地等 鍛冶屋:岨谷1669番地 鍛冶屋:豊野:1844・1888番地等 カシヤ前:湯山390・402番地等 鍛冶屋前:湯山2186・2263番地等 鍛冶屋:吉川1043・1668番地等 鍛冶屋:1732・4738番地 鍛冶屋:吉川6134・6488番地等 

鍛冶屋の可能性がある地名

神邪:粟井谷197番地 冠者河内:上田西362・378番地等 冠者:上田西638・652番地 カンジャ:富永1100・1143番地等 カナヤ:上竹657・713番地等 カシヤ:上竹922番地 カジャ:上竹2693番地 カジヤ:上竹4114・4151番地 カジャ:岨谷194・193番地 カジ屋:岨谷999・1016番地 カシヤ:吉川1456・1496番地等  

役人等の住居や所領と思われる地名

 土公田:粟井谷473・474番地 京役田:三谷685・1102番地等 地頭給:竹荘1083・1091番地等 地頭給:豊野4174~4177番地 国僧:166~192番地 猩々:吉川5079・5294番地等

役人等の住居や所領の可能性がある地名

カンジャ:富永1100:1109番地等 官者:富永1103・1143番地等 保頭田:豊岡上1364番地 京納:豊岡下171・206番地 京納貮枚:豊岡下137番地 京納四枚:豊岡下196番地 地頭:福沢703・908番地等 地頭:福沢1515・1516番地 正田:上竹1・17番地等 殿マヘ:田土561・669番地等 天田:田土3886・3987番地等 正田:豊野2841・2916番地等 正田:豊野4037・4867番地等 正田:豊野6379番地 國司谷:6558・7151番地等 日庄田:吉川3686・3702番地