岡崎嘉平太は 明治30年(1897年)岡山県吉備郡大和村Yamato-son(現在の加賀郡吉備中央町)に 父 鶴太郎 母 ぶの長男として 生まれました。明治37年(1904年)日露戦争が 始まった年に 大和尋常小学校(現在の大和小学校)に 入学しましたが 小学一年の時に 家を 火災により消失したので 明治38年(1905年)吉備郡総社町(現在の総社市)に 転居し 申義尋常小学校Singi-Jinjyou-Syougakkou(現在の総社小学校)に 転校しました。父 鶴太郎が アメリカ合衆国に 仕事に出かけ 帰国することなく亡くなったので 母のぶに 女手で 育てられました。母は 嘉平太に「自分が 譲って 事が丸く収まるなら、我を 張ら ず譲りなさい」と 言い悟らされていたと 言われます。明儒44年(1911年)日本の第一次世界大戦の参戦 3年前 岡山県立岡山中学校(現在の岡山朝日高等学校)に 入学し 寄宿舎生活を 始め ,中国からの留学生 陳範九Tin-Hankyuuさんと 親しくなったそうです。大正5年(1916年)旧制第一高等学校(現在の東京大学教育学部 千葉大学医学部等)に 入学し、中国からの留学生 龔徳柏Kyou-Tokuhakuさんと 親しくなり 日本が 中国を 苦しめている事を知り、両国の友好に 努力する事を 心に誓ったと 言われます。日本が 国際連盟参加の前年 大正8年(1919年)東京帝国大学(現在の東京大学)法学部に 入学しました。この頃から 毎日 日記を 付け始めたそうです。
大正 11年(1922年)日本銀行の本店に 就職しました。満州事変の2年前 昭和4年(1929年)に ドイツの支店へ 転勤しました。日本が 国際連盟を脱退した年昭和8年(1933年)に 日本銀行本店に 転勤し、日中戦争(昭和12年 1937年)を 経験しました。昭和13年(1938年)陸軍省の要請によって 上海に 移りました。第二次世界大戦の始まった 昭和14年(1939年)日本銀行を 退職し 上海の華興商業銀行の理事になり、太平洋戦争(昭和15年 1940年)を 経験しました。‘昭和17年(1942年)大東亜省参事官を 務めるため 帰国します。在中華大使館に 勤務するために 上海に転勤し、第二次世界大戦終戦を 経験し(広島・長崎原爆投下昭和20年1945年)、昭和21年(1946年)終戦処理を済ませ 帰国しました。昭和24年(1949年)池貝鉄工(株)の経営の立て直しに 成功しました。フランシスコ対日平和条約、日米安保条約締結の年 昭和26年(1951年)に 丸善石油(株)の社長に 就任しました。昭和27年(1952年)日本ヘリコプター輸送(株)(現在の全日本空輸(株))の設立に 努力し 副社長に 就任し、日本の国際連合加入を(昭和31年 1956年) 経験をしました。昭和32年(1957年)貯蓄増強中央委員会の会長に 就任し(昭和46年(1971年)に退任)ました。東京大坂間新幹線開通・東京オリンピック開催(昭和39年 1964年)の2年前 昭和37年 (1962年) 日中の友好関係を 取り戻すには、まず 貿易を通じて 両国人の交流から始めるのが 良いと 考えていた嘉平太は 先頭に立ち 日中貿易交渉のため 中国を 訪れました。昭和38年(1963年)日中貿易交渉の団長となり 周恩来総理と しばしば 会見し 兄(嘉平太) 弟(周恩来)と 呼び合う 親友と なりました 。
後に 日中国交回復した折 周恩来総理は 中国のことわざ「飲水思源:水を吞む時には 井戸を掘った人の事を 忘れるな」を 引用し、嘉平太をして 井戸を掘った人と 感謝したと されます。日中国交回復を 田中角栄総理は 調印した年 昭和47年(1972年)賀陽町名誉町民の称号を 贈られました。日本と中国が 平和友好条約締結の年 昭和53年(1978年)勲一等瑞宝賞の叙勲を 受けました。昭和60年(1985年)総社市名誉市民 岡山県名誉県民の称号が 贈られました。平成元年(1989年)戦後100回目の中国訪問を 果たした後に 92歳で 他界されました。
岡崎嘉平太記念館
岡山県加賀郡吉備中央町吉川ひのへ4860-6番地 きびプラザ1Fに 岡崎嘉平太記念館が あります(‘電話0866-56-9033 Fax0866-56-9066 Hp http://www.okazaki-kaheita.jp/ MA okmh@okazaki-kaheita.jp)が あります。記念館には 展示室と 研究室が 備わっています。展示室には 嘉平太の好んだ 言葉「信はたて糸 愛は横糸 織り成せ 人の世を美しく」の色紙、嘉平太が中国訪問のおみやげや 中国の人達からの贈り物 秋山清水Akiyama-Seisui画伯が 描いた 嘉平太の肖像画 貯金増強中央委員会の会長辞任の時の記念大皿 講演の訪問地の地図 日記帳 飛行機の模型 ビデオ等が 展示してあります。
研究室
研究室には嘉平太に係る書物が 保管されています。
岡崎嘉平太ゆかりの地
岡崎嘉平太の墓
484号線が 黒土北線(305号線)と 接する所と ふるさとのうどう吉備高原中央線と 接する所の ほほ中間点 北小和田353番地と 北小和田325-2番地の間の484号線の北隣地に「岡崎嘉平太墓所」の案内碑が 立っています。北325-2番地の道向かいの 西南西に向く 分岐を 60m程 進むと 古和田橋があるので 渡ると 左手に「岡崎嘉平太墓所」の木製案内標が 立ちます。案内に沿って山を登ると30m程で 墓所 北緯34度48分50秒・東経133度42分4秒に 着きます。写真が 掲げられた 立派な廟です。
旧大和小学校跡地
明治5年(1872年)に回春小学校 北小学校 岨谷簡易小学校が 開校しました。その後、明治25年(1892年)に 回春小学校 北小学校 岨谷簡易小学校が 統合して 大和小学校が尋常小学校が 宮地の丘に 開校しました。昭和22年(1947年)大和小学校と改名し その後現在の大和小学校の地に 移転しましたが、跡地に残る 「蛍雪」の記念碑には 1963年(昭和38年)移転と刻まれてます。大和小学校のホームページには、1964年(昭和39年)10月移転と記されています。嘉平太の歌碑「大わさに 抱かれて学びし学び舎の 後にたたずみ仰ぐ大和山」が あります。 令和4年8月15日