高祖山    八岐大蛇退治 extermination of eight-headed & eight-tailed serpent in Takazou-yama


昔、須佐能Susa-no-oは、神殺しをたり、高天原Takamaga-haraの社にウンコをする等する心の荒んだ悪たれでした。そのために お姉さんの天照大神Amsaterasu-oomikamiに叱られ、高天原を 追い払われ、葦原中国Asihara-no-nakatukuniに、お腹を空かしてやって来ました。後の加夜国備前に来て見ると、洪水が 度々起っていました。その荒れた 川に箸Hasiが流れて来ました。箸が流れ来るからには 上流に 人が住んでいるに違いありません。やっと 食べ物にあり付けると 思って、川上に 登ると お爺さ んとお婆さんが 泣いていました。泣く訳を聞くと「私達は脚無津蛇(Asi-na-tuti手無津蛇Te-na-tutiと言う この川に住む 蛇神の和魂(Nigimitamaで 稲を護る正義の戦士です。八岐大蛇Yamata-no-oroyiと言う 私共の荒魂Aramitamaと 戦いましたが、荒魂は 8つも頭を持ち 大山や 大谷をも 跨ぐ程の巨体で 砂鉄を含む赤土を 川に流し込み 大雨を降らせ 洪水を 起こさせるのです  余りに強いので 残念ながら 手も足も出せません 私共が稲の女神を産み育て 美田に住まわ せ 水を制御しようとしてもと 八岐大蛇は 川を氾濫させ 稲田ごと 女神を 飲み込むのです 既に稲田の神の7柱の娘が もう呑まれました  今度 育てているこの奇稲田姫櫛名田姫)Kusinada-himeも 今夜、奴が 呑み込みに来るのです」と 答えました。見ると、櫛名田姫の美しい事 須佐能は本当は悪たれでしたが 良い男ぶって「娘と娘の護る田をわしにくれ それなら大蛇を退治してやる」と お爺さん お婆さんの弱い立場に付け込んで 邪(な心を起こしました。お爺さん達は 須佐能が 天照大神の弟と知ると「見るからに 荒つか者なので 嫌だ」と 思いました「娘を むざむざ大蛇に 飲まれるよりは、娘が 少しばかり 嫌な目に合う方が 余程どましだ」と考えて 嫌々承知しました。すると、須佐能は 神様ですから 神通力を使って 櫛名田姫を 櫛に変え 頭に刺して 逃げ出せなくしました。櫛名田姫は お爺さん達に「櫛名田で採れた米を 7回絞った 八塩折之酒を 醸して作り、8つの門を 設け それぞれに 酒を満たした桶を 置くように」と 頼みました。大蛇は 櫛名田姫を 呑み込めると思って ウキウキ気分で やって来ると、良い臭いのする 上等の酒が 置いてあるではありませんか。

根からの呑兵衛Nonbeiの大蛇は 喜んで 強い酒を ガブガブ飲みました。美味しい事 美味しい事 すっかり飲み干して、グデングデンの酔いたん坊に なりました。櫛名田姫は「今です  酔いが 醒めない内に 掛かりなさい」と 好機である事を 知らせると、須佐能が「卑怯者)」と叫ぶ 大蛇に 切り掛かりました。泥酔しているとは 言え、百戦錬磨の大蛇の戦いの技は 凄まじく、何度も何度も 死の淵に 立たされましたが、その都度に 櫛名田姫の的確な助言で 切り抜け やっとの思いで 退治できました。須佐能は 櫛名田姫が自 分の持ち合わせていない優しさと 英知を備えている事を 知りました。「あわ良ければ 弄んで 美田である 櫛名田を 横取りしてをやろう」と 思った事を恥じ、命を 救ってくれた 櫛名田姫を 尊敬し「生涯の伴侶にしよう」と 心を 改めました。荒魂の姿の神が 心温かいに和魂の姿の神に 変身した瞬間です。高祖山に 手に手を取って 登ってみると、目の前に美しい雲海が 広がっていました。「ここに住もう」と 目と目で 思いを伝え合うと、須佐能は「綺麗(きれい)な雲だ  雲が八重に重なている この雲が 山を囲んで 別嬪Beppinさんの櫛名田姫を よく護ってくれてるようだ」と言って、館を 建てる事に 大乗り気になりました。その後は 櫛名田姫に 惚れ抜いて デレデレの須佐能は しっかり者の櫛名田姫の言う事は 何でも聞いてやり、優しく強い正義の味方の神様であり続けました。「加茂川町に 同じような伝説が 載っていると語る 加茂市場の村人より口伝」それで、櫛名田姫(櫛稲田姫神)と 須佐能(建須佐能神)を祀る和田の素盞嗚神社Susa-no-o-jinjyaは 女性を大事にする神社だと 言われるのです。「著者の祖父の弟の富永に住む女性より口伝」    平成24年(2012年)2月25日

高祖山組岩:北緯34度51分19秒東経133度44分27秒    高祖山旧総社跡:北緯34度51分19秒東経133度44分27秒付近    古墳の崩れた跡:北緯34度51分15秒東経133度45分47秒の近く    神原:北緯34度51分19.秒東経133度44分27秒付近/金原(製鉄産業の地あるいは砂鉄のとれる地)からの転訛でしょう。御北神原家の稲荷神社には鉱山の神である金山毘古命金山毘女命が祀られています。  カミヤ:湯山320・418番地等 神谷の多くは金谷の転訛です。小屋谷:湯山798-801 作業小屋があった谷    シブリ谷:湯山1058・1250番地等 シブリは鉱物が剥き(むき)出しになった地     勝負廻リ:湯山1240番地 祖母 祖父と同じく勝負 菖蒲ソブ鉄気のある土や水の訛Namariであることがしばしば あります 高祖:湯山1291・1301番地  歌垣:湯山1929・1947番地等 特定の日に場所を定め老若男女が集会し、共同飲食しながら歌を掛け合う呪的信仰行事で、実質的には今風の合コン(男女の合同宴会)や成人式のようなものです。 垣ノ本:湯山2039・2040番地 垣は人夫等を囲う宿舎    三十代:湯山2088・2100番地等 Yoとは製鉄過程を言い、一代毎に溶鉱炉(カグツチ)は作り直されます。30回目のたたら製鉄を行なった地 久曽:湯山2439-2443番地 金糞製鉄残渣すなわち糟カス     日名:陽の当たる所、あるいは火のある所に付けられる地名です  前者の場合、多くは陰地と対になっています  後者の場合砂鉄採取と強くかかわります    日南:加茂市場718・1031番地等    藤澤:加茂市場988・989番地 藤地名の多くは 砂鉄採取に関ります  土砂の粒子の大きさを分別する筵状の構造物は 藤等のオドロで作るからです    いささ久保:加茂市場1769・1774番地等

金屋:加茂市場1096・1467番地等 直線に切り取られた崖地が続きます   金谷:通称であって正当な地名ではありません 金屋の訛りでしょう 北緯34度51分44秒東経133度45分20秒    金屋橋:加茂市場北緯34度51分28秒東経133度45分16秒 貫抜橋:閂とは一種の錠 貫抜とは閂 鉄砲水あるいは溶鉱炉の溶けた鉄の取り出し口の栓の事 北緯34度52分0秒東経 133度45分26秒    藤澤山:加茂市場金比羅神社の建つ丘 北緯34度51分49秒東経133度45分9秒 藤澤城山:加茂市場と田土の境34度51分4151分41秒東経133度44分57秒

八雲立つ山の姿 須佐能命が住んだので、この山を高貴な日本人の先祖の住んでいた山と言う意味で高祖山と言うようになり、須佐能命の部下の神様が住んでいた所を 神様が住んでいた原と言う意味で、神原Koubaraと 呼ぶようになりました。「下竹荘村史」「仁熊の村人より口伝」 この近くに 製鉄をしていた名残の地名や 赤土の掘削地跡があります。八岐大蛇の悪行とは、砂鉄を採るために荒らされた川の氾濫の事でしょう。加茂市場は 金屋の市が立つ地だったのかも知れません。吉備中央町の農閑期には、砂鉄を採取する副業が 盛んに行われたようですが、江戸時代の金穴流しの時期制限鉄穴場新設禁止や、政府による 昭和46年(1971年)「水質汚濁防止法」に禁止で基づいた禁止で、この習慣は無くなりました。鉄穴流しによって川は荒れ、波止Hato(船付き場として利用できる構造でなく、波消しに適した構造です)が 多く加茂総社付近にあるので、しばしば 宇甘川は 氾濫したろうと想像します。今でも 藤沢山に金比羅神社が建ち 夏祭りには 藤沢山と金屋とを 提灯で繋ぎ 加茂総社宇の水難除けや 宇甘川の安全を祈ります。

この物語が 語られた 文献と 思われるものがあります。 伝説1:素戔嗚尊が 高祖山Takazuyamaにいた時、素戔嗚尊の重臣達が 多く住んでいた高祖山の麓の地を 神原 Koubaraと言われます。「下竹荘村史」 伝説2:寛保元年(1741年)の頃、高祖山の麓ふもとに 神の磐と言う 7間×30間ぐらいの塚が  有りました。8月12日、台風の後、この塚が 崩れました。土の中から、2振りの剣 1面の鏡 1個の破壊している銅器、その他瓦の器 鈴等 多く出て来ました。剣の長さは 4尺2寸の物と3尺4寸で、酷ひどくく風化していて 仔細は 解らない程でした。鏡の径は 9寸1分、銅器も酷く壊れていましたが 8寸2分×Ⅰ尺927匁でした。なお何だか 判別できない物が 沢山 出てきました。この埋蔵物は 素戔嗚尊が 居住していた頃の物であろうと 下竹荘史の著者は 想像しています。鏡と銅器は 冨澤村成就寺が 保管しましたが、この寺の住職が 3世紀か4世紀の頃に 他の寺に 携帯して 寺替えしました。鏡と銅器のその後の事は 不明となりました。剣は 中村の市十郎という百姓が 保管していましたが、家が絶えたので 所在が不明となりました。「下竹荘村史」     伝説3:天照大神が 支配者であった頃、素戔嗚尊(須佐能命)葦原中国に 追放され 王位を失った時、須佐能命が住んだので、この山を高貴な日本人の先祖の住んでいた山と 言う意味で 高祖山と言うようになり、須佐能命の部下の神様が 住んでいた所を 神様が住んでいた原と言う意味で、神原Koubaraと呼ぶようになりました。「下竹荘村史」「仁熊の村人より口伝」    この近く に製鉄をしていた名残の地名や 赤土の掘削地跡があります  八岐大蛇の悪行とは、砂鉄を採るために荒らされた川の氾濫の事でしょう  加茂市場は 金屋の市が立つ地だったのかも知れません     伝説4:素戔嗚尊は 霖Nagaame(梅雨時の事)の頃 青草を 笠や蓑にして 宿を探しましたが、悉 断られました。ようやくにして 備前国石上簸川Hikawaに 辿りたどり着きました。脚摩乳Asi-nsa-duyti 手摩乳Te-na-dutiの家に 泊まった折り、あの八岐大蛇に 酒を飲ませ 酔い潰れさせ、持っていた 十握釼Totuka-no-tutrugi(韴靈釼Hutu-mitsama-no-turugi 布都御魂で 切り殺します。草薙釼Kusanagi-no-turugiを 大蛇の体内より 取り出し 天照大神に 奉ました。熱田神宮(龍靈神社)に 納められています。青草の笠蓑をここで初めて脱いで、奇稲田姫Kusinada-himeを妻にし、備前国に暫しばらくく住みました。この事は 日本記第3の1の忌部正直の口伝に 乗っています。この地は備前国津高郡上市場の高祖山の麓の神原であると 言います。「下竹荘村史」