吉川 光林山神護寺 Korinzan-Jingoji temple


光琳山神護寺は 北緯34度49分6秒東経133度45分2秒  吉川刈尾1188番地に建つ 天台宗の寺で 本尊は阿 弥陀如来です。智澄大師(Tisyou-daisが この地に来た時 美しい森があり 木の葉が陽に照らされ 光輝いているのを見て 仏を祀るに良い地と感じ 開基しました。小松天皇の頃(1382年~1412年) 和泉国(大阪)Oyama-Hatiman-guu(男山八幡宮を尊敬していた悰行と道光の仏道修行の兄弟が この地にやって来ました。二人の夢に白髪の翁が現れ、翁は「我は雄山八幡宮に暮らす翁なり これより北に若干道程を進んだ所に 雲が棚引いている山がある 宮を建立し八幡菩薩を祀るべし」と お告げなされました。二人は、翁のお告げに従い、神護寺を建て朝夕、欠かさず社に国家安全を祈念)し続けました。「賀陽町史」

The principal image is Amida-nyorai/Amitabha    Tisyou-daisi/Tisyou great teacher founded Jingo-ji/temple in the time of Komatu-tennou/Emperer Komatu     The brothers “Sougyou and Doukou” in Buddhist training who were worshipping Oyama-Hatiman-guu/shrine,  came from Izumi-no-kuni/Oosaka at present to this place    The aged man with white hair appeared in their dream and told that I was a venerable sage in Oyama-Hatiman-guu,  the mountain with cloud hanging is situated in some distance away place north of here ,  build the shrine and worship Hatiman-bosatu    The brothers built Jingo-ji/temple in accordance with the words and continued praying for national peace on morning and evening diligently

悰行は弥勒尊を、道光は地蔵尊を鋳造し 神前に安置し、変災の告知を 願いました。正月15日 神前に供える粥Kayuを以ってその年の豊凶Houkyou晴雨Seiuを占えば粥管祭)、その予測を告げ、国家安寧(国家擁護)に神力を発する仏となりました。両尊は 代官が変わる度に 腰より上に汗を流し、民間に災いある時には 腰より下に汗をかくと言われます。元文年中(1736~1376年)に一度吉宗貨幣の改鋳し経済再建しています) 宝暦年中(1751~1764年)に3度(この頃、毎年のように洪水が起こっています 3年の籾摺騒動4-9年の郡上一揆11年の上田騒動 明和年中(1764~1772年)に3度(この頃も洪水、飢饉が続きましたが、明和6年の洪水と津波の同時発生と明和5年の洪水明和8年の地震と津波明和9年の洪水の被害は著明でした)江戸末期安政4年(1857年 翌年に安政の大獄が起こります)に汗をかいたと 言い伝えられます。西吉川の神護寺の住職である 庄屋の沼本広右衛門が 幕府江原代官所へ、安政4年正月21日(備前国岡山藩の被差別部落住民53団による強訴が起こる渋染一揆に 両尊が汗をかいた と報告しています。日露戦争(1904年・明治34年~1905年・明治38年) 大東亜戦争(太平洋戦争:1937年・昭和12年~1945年・昭和20年)の時も 汗をかいたと言われます。「賀陽町史」  Sougyou casted a statue of  Miroku-bosatu/ Maitreya and Doukou casted a statue of Jizou-bosatu /Khitigarbha-bodhisattva, the brothers enclosed those in the temple hall and prayed to those for announcement of changes and disasters    Hereupon the Buddhas informed rich or poor harvest and rain or shine through the divination of Kayukan fesutival "Porridge festival" , and showed off mysterious power for peace and order of the nation    Both Buddhas sweated on the upper part of the body in every time when take turns of local magistrate and sweated on the lower part of the body in every time when bring calamity upon civilians    It is handed down by word of mouth that Both Buddhas sweated 1 time during Genbun era, 3 times during Houreki era, 3 times during Meiwa era, in 1875 of the late Edo period, Russo‐Japanese War of 1904‐1905 and the Pacific War of 1941-1945

宗光 道光と言う2法師は宇佐八幡宮のご宣托(宣託の間違いであろう:神仏が人に乗り移ったり夢の中に現れたりして意志を告げる事)により、この地に来ました。中興(いったん寂れたり消滅したものを再興する)開山し、弥勒 地蔵の大像を鋳造、本尊の両脇に安置し 神護寺を代々 八幡宮の別当としました。明治2年 神仏混淆Sinbutu-konkou(こんこう・分かつべきものを1つにする)が廃止された時、この寺の境内に堂を建てて 社外に有った本尊を移して来ました。本尊は 霊験厳Aratakaなの 開帳を禁じ 拝む事ができません。亦、両尊とも天下に異変があると その兆候を知らせるために流汗し、現在も それは続いています。 The bonzes ”Sougyou and Doukou” came to here in accordance with the divine revelation by Usa-Hatiman-guu/shrine    They recovered the temple and install the large statues of Miroku-bosatu and Zizou-bosatu which were casted by the bonzes,  on the left and right of the principal image, and set Jingo-ji/temple as the Bettou-ji tof Yosikawa-Hatiman-guu from generation to generation    When Sinbutu-bunri-rei "The Ordinance Distinguishing Shinto and Buddhism" came into force in Meiji 2(1869), a temple hall was built in the precincts of this temple, and the principal image ”both Buddhas" that had been outside the temple was transferred into the hall   It is impossible to see the both Buddhas for prohibition of exhibiting the image because the principal image was so miraculous    The both Budd sweat to give the peoples notices about omens of extraordinary happening previously, and that have been  continued until today     Sinbutu-bunri: separation of Buddhism and Shintoism (government policy during the beginning of the Meiji period)    Betto-ji: a Buddhist temple that was attached to a Shinto shrine when the syncretism of Shinto and Buddhism was permitted prior to the Edo period

 

神護寺は その昔 寺領360石を 足利将軍より寄付を受けました。その後 中国兵乱(備中兵乱)のため領地を失い、後に 足守公の祈願所となったと 上房郡誌に書かれています。古くは 吉川八幡宮神宮寺として金福寺Konpuky-ji (千木に有りましたが、文政年間に全焼し 再建されました)福仙坊 長福坊 井上坊 千蔵坊が 有りました。八幡宮の応永2年(1395年)の修復時には 既にこれらの寺坊は無くなっていました。それで、八幡宮の西に宝蔵坊を 立てました。宝蔵坊が 神護寺の前身です。天正3年(1575年)5月火災に会い 全焼しました。その後、天和2年(1682年)、現在地に 現在も続いている寺を建立しました。明治2年(1869年)神仏分離に伴い、八幡宮境内にあった本地堂 鐘楼 弥勒 地蔵 什器Jyuki 什宝を 神護寺に移しました。客殿 本地堂 山門 庫裡Kuriの建物 権大僧都Gon-no-dai-soudu円賢法印の碑 釈迦三尊画像 供養塔があります。「賀陽町史追補版」      Long ago the temple was contributed 360 koku " 100Kl rice" by Asikaga general    It is written in Jyoubou-Gun-Si that, after that, Jingo-ji/temple lost the territory during Bittyuu-heiran/wars in bittyuu province , and after Jingo-ji became the place where Asimori familiar prayed, Konpuku-ji, Hukusen-bou/temple kitchen, bed space and training space, tyouhuku-bou, Inoue-bou  and Senzou-bou were built as Jingo-ji's Bettou-ji of the Yosikawa-Hatiman-guu/shrine   There temples had been disappearing when the temple was renovated at 1395 , so Houzou-bou  which was predecessor of Jingo-ji, was built on west of the Hatiman-guu    The temple was destroyed by fire in 1575, and after the temple which have been built until the present time was built on the present place in 1682    Honti-dou ”the hall worships true form of a buddha”, the bell tower, the statue of Miroku-bosatu, the statue of Dizou-bosatu, Jyuukis/fixtures and Jyuuhous/common cemelias were transported to Jingo-ji due to separation of Buddhism and Shintoism in 1869    A Kyaku-den/ reception hall, a Honti-dou, a main gate, Kuri "the buildings for monastery kitchen or building for Residence of bonze", the monument of Gon-no-daisouzu-Enken-houin, a picture of Shaka-muni triad and a memorial tower are in the temple

 

「現在存在する梵鐘は 現董僧都宗成Gentou-soudu-Munesigeげの依頼で、佐倉の鋳造の名手香取秀真Katori-Hotumaが 作りました。本尊は 霊験あらたか故に 多くの信者で賑わっていました。神仏分離政策に伴い 八幡宮の神仏 堂宇等を神護寺に移すと、仏が怒り梵鐘を壊しました。叩いてみると音はするのですが 響きは 極めて悪くなりました。これを聴いてアメリカに住む信者達が  新しい鐘の鋳造の嘆願書を送って来て  鐘楼は再建され 鳳凰Hououがそこにいるかのように 威厳を取り戻しました。梵鐘も 鋳造され 響く音は鯨の口から 鳳凰が飛び立つような 荘厳さでした。庶民は お参りし真の仏の言葉が得られるよう祈り、国家は安らぎ 仏の発光は 輝きを増しました。以上は伝説で 真実は 昭和4年 中秋の名月を祝っていた時、鐘楼の中に蓄えていた 乾燥萱Kanssou-Kayaに 祭りの花火が飛び火し  梵鐘が壊れたのです。戦争中 梵鐘の供出要求に 焼けた梵鐘を差し出したので、新しい梵鐘は 現在も存在するのです。この寺には 他に11体の木彫神像 瓦の狛犬2躯等があります」と 住職は話してくれました。  神護寺では、粥管祭りを行います。高谷森神社と同じ方法です。釈迦3尊画像は 昭和49年(1974年)6月に 町重要文化財に指定されました。 吉川史 神護寺:僧宗光 道光は南北朝の終わり頃の僧侶で 男山八幡宮を崇拝していました。嘉慶2年(1388年)諸国行脚をしていて 備中国に来て宿で休んでいると、夢に白髪の老人が現れ「我は男山に住む者なり ここより北方の近くに瑞雲が棚引く山が有る そこに荒れ果てた宮がある これを復興させるべき」と 告げ終わると 夢から覚めました。2僧は「疑うべきでない」として 直ち北に向かいました。進むにつれ道は狭く険しくなり  風の音と 猿Masiraの音だけの 人跡無い嶺谷を超えると、瑞雲が 棚引き 奇しき光が輝く霊地に 辿り着きました。辺りを探索すると  神のお告げ通りの 荒れ果てた宮が ありました。土地の者を集め 事情を説明し  寄進を募り  難行7年を経 て八幡宮を中興しました。その後 2僧は 日夜 国家安寧 庶民幸福を願い 務めを果たし, 宗光は弥勒尊を 道光は地蔵尊を鋳造し八幡宮神前の両脇に安置し 国家擁護の神力を得ようと 祈り続けました。その ご両尊は  官に異変ある時は 腰より上に汗をかき、民間に災いある時は 腰より下に汗をかきました。元文年中に1度 宝暦年中に3度 明和年中に3度汗を流したので、その度に転禍為福の祈祷をしたと言われます。それで 両尊を「汗のみ仏」」と 呼び伝えられています。2僧は 更に神護寺を神宮寺として建て、八幡宮の別当寺とし 社僧として奉祀しました。弥勒地蔵両尊は 現在神護寺境内の弥勒堂に安置されています。

  The chief priest told me that「The present bell was casted by Hotuma Katori who was an expert in casting in Sakura in compliance with the request of Munesige Gentou-soud     Since the principal images were wonder-working,  the many believers visited this temple     Since the Buddhas and hall etc. of the Hatiman-guu/shrine was transported to Jingo-ji/temple due to Shinbutsu-bunri edict to separate Shinto and Buddhism,  the Buddhas destroy the bell in great anger     The sounds were made by hitting the bell,  but the booms were inferior     Since believers in USA who heard about this news and sent a petition,  the bell was reconstructed and took back the dignity as a phoenix is there, and the boom was dignified as a phoenix fly away from the mouth of a whale     The peoples visited to pray for getting true phrase of the Buddhas,  and the nation became peace and the grace of Buddhas was increased with brilliance  The stories mentioned above is the traditions ,  but not really,  the flames for the festival leapt to the bundles of straw preserved in the bell tower during celebration of the harvest moon in Syouwa 4(1929), and the bell broke by the fire     The burned bell was delivered to the government in accordance with the requisition of delivery of the bell,  so the new bell is present     Other than those above there are 11 wooden idols and 2 ceramic guardian dogs」

吉川公民館から  南に15m程進と 分岐があり その角に「奉納 水間三郎 平成二年五月吉日森和義」と 記される灯篭と「天台宗〇〇神護寺参道」と 記される石柱が 立っています。30m程 進と 駐車場に向う「取り合い道引き込み道」があり、神護寺の建物が見えます。右手の茂みの中(取り合い道は神護寺側にあります)観音菩薩像と 刻字のない舟形石塔仏像が 祀られています。そのまま 南南西に向うと 境内に入ります。

駐車場の取り合い道から 南に向うと 直ぐに 灯篭と「南無阿弥陀佛 法界(台座) 嘉永元申〇〇建之也(左側面) 長福寺文蔵 為代菩⓵:⓵は褆に似る(右側面)」と 記される石碑が立ちます。その先に 坂になった分岐(参道)があり「照一隅此則国宝(一隅を照らす 此れ則ち国宝なり 伝教大師:最澄)」「径寸十枚非是國寶(径寸keisun十枚これ国宝に非ず)」の門柱が(直径が一寸もある宝石であっても国宝とは言えない  世の中の片隅にいても、国や職場や家庭等に貢献し明るくし勇気を与える人こそ国宝と言える)が  立っています。参道に沿っての左手 一段低い 犬走りに  灯篭2基と小さい石柱等があります。

山門を潜ると 左手に自然石製の灯篭があり、正面に釜様の器があり、境内の中央にも 粥管祭に 使用されると 思われる釜が 置かれています。本道の南に「法界(台座正面)文化九壬申〇三月吉日:〇は年に似る(右側側面) 願主 沼本⓵輔:⓵は清の月が口(左側側面)」と 「法界 文化申壬七月吉日 施主 伊賀厘太郎」と 記された 地蔵菩薩像が 2尊祀られています。それらの左側に 大きな宝篋印塔が立ち、その左手に 舟形石塔仏像が2尊祀られています。右の仏像には「西庄田 伊賀千太〇」「河内の前⓵て・➁し③:⓵は生に似る ➁は夲に似る ③は四や因に似る(右)〇〇をん⓵➁〇ノ〇〇:⓵は吉に似る➁はよ又は間に似る(左)」と記され、左の仏像には「田村智〇弥兵衛(台座) 大和のつ〇さ〇て・⓵し➁:⓵は夲に似る ➁は四に似る(右) 〇〇⓵つ(左):⓵はなに似る」と記されています。

それらの南東側に 鐘楼が建っており、その前に「TO OUR HOME TOWN  WE PRAY FOR PEACE AND HAPPIINESS OCT.17.1931」と 記される石碑が立っています。その北は 墓場です。それらの西に 裏門があり、階段を下りると 鳥居と灯篭があります。裏参道を南に進むと「寄進 田中学 根本富匡 建立 平成3年3年八月」の石碑を 脇にして 灯篭が立ちます。更に南に下と 参道を案内する石柱が 立ちます。   智澄大師・円珍・智証大師:弘仁5年(814年)~ 寛平3年(891年)の天台宗の僧で、天台寺門宗の宗祖です。入唐八家最澄 空海 常暁 円行 円仁 恵運 円珍 宗叡)の一人に数えられます  空海(弘法大師)の甥とされます。仁寿3年(853年)に唐に渡り、天安2年(858年)に一切経の2組を携え帰国し、四国八十八箇所第76番金倉寺に住み、その後比叡山山王院に移り、貞観10年(868年)に延暦寺第5代座主となり、またその後 園城寺(三井寺)に移りました  著作物は法華論記 授決集等90を越えますhttps://ja.wikipedia.org/wiki/円珍

    小松天皇:賀陽町史追補版では人皇第百一代小松院となっています  称光天皇Syoukou-tennouの愛称で1382年~1412年に在位しました     雄山八幡宮:雄山神社前立社壇Maedate-Syadan富山県中新川郡立山町岩岩峅寺Iwakura-ji 北緯36度36分27秒東経137度18分52秒) 中宮祈願殿 峰本社の三社からなります 八幡宮は 前立社殿の末社応神天皇 神功皇后を 祀ります。良く似た名前 の男山八幡宮(石清水八幡宮京都府八幡市八幡高坊 北緯34度52分47秒・東経135度42分0秒)があります    徳川吉宗:江戸幕府の第8代将軍で、将軍となる前は 越前国葛野藩藩 紀州藩第5代藩主でした 徳川家康は吉宗の曾祖父です    権大僧都円賢法印:権大僧都は僧侶の階級で 法印大和尚位大僧正Houin-Dai-Kasyou-Dai-Soujyou・僧正・権僧正Gon-no-Soujyiu、法眼和上位大僧都Hougen-Kajyoui-Daisoudu・権大僧都・少僧都Syou-soudu・権少僧都、法橋上人位大律(Hokkyou-Syounin-i-Dai-Rissi・律師・権律師の順に高い位で、法印は法印大和尚位の省略名です   

 現董僧都宗成:現董は 日蓮宗に伝わる役職名であるようです 34世現董は平成10年4月に五所川原市の隆光山法永寺(北緯40度48分58秒東経140度26分25秒)落慶法要を奉行し、第41世現董は平成14年に鎌倉市の龍口山本龍寺(北緯35度18分34秒・東経139度29分41秒)の本堂建て替えている等との記事を見ます。   香取秀真・香取秀治郎:香取秀真は 1874年1月1日~1954年1月31日の人で鋳金作家 金工学者 歌人です  旧東京美術学校(東京藝術大学)の教授 芸術院会員 旧帝室博物館(東京国立博物館)技芸員 国宝保存会常務委員 文化財審議会専門委員等を務め 工芸家として初の文化勲章を受章しました  金工の人間国宝の香取正彦の父です 高谷の森神社:北緯34度51分36秒東経133度47分12秒 吉川八幡宮:北緯34度49分11秒東経133度45分07秒 備中兵乱: 備中国(現在の高梁市周辺)で 天正2年(1574年)に 起こった 三村元親毛利氏 宇喜多氏を中心とした戦いです 足守公:織田信長の家臣の姫路城主2万5千石の杉原家定の妹の「ねね」は 木下籐吉郎(後の羽柴秀吉:豊臣秀吉)に嫁ぎ「北の政所Kita-no-mandokoro」となりました  天下を掌握した秀吉は 武勲の有った者に 木下の姓を与え、忠誠心を誓わせました。杉原家定は 関が原合戦に参加せず、北の政所を 堅守した功績により 慶長6年(1601年)備中国足守に 所領替され 木下姓を名乗る事が許され、2万5千石高で 立藩し 豊臣の称号を得ました  慶弔13年(1608年)に 家定が死ぬと お家騒動を理由に 慶長14年(1609年)に 改易され、慶長15年(1610年)に 親戚関係の浅野長晟が 2万4千石の藩主となりますが、紀州藩37万6千石を 相続したため 足守は一時的に 公儀御料となりました  元和元年(1615年)に 木下利房が 大坂の陣で功をなし、2万5千石の足守藩主に 返り咲き、これ以後256年間12代に渡り 木下家が 足守藩に封じられました  所領は 備中国の旧上房郡旧賀陽郡です  この間 寛政11年(1799年) 9代利徽Tosiyosiの頃、所領の殆んどを 陸奥国伊達郡信夫郡に 移されますが、天保2年(1831年) 11代利愛Tositikaの頃、移転地のおよそ半分が 賀陽郡内に戻され、明治3年(1870年) 旧領の全てを回復しましたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/足守藩」  

金福寺:吉川千木Sengi 北緯34度50分2秒東経133度44分56秒    福仙坊跡:布郡 福仙(服泉)は 古郡神社の神主が 衣装を洗った泉が有ったとされます 北緯34度49分59秒東経133度44分18秒を足立と言います    福仙ノ木:吉川6091番地    福仙:吉川6504-6506番地    長福時跡:北緯34度48分53秒東経133度45分6秒付近ですが、平坦地以外の遺構は有りません    長福寺:吉川1220・1360番地等    井上後:吉川1368番地    井上坊跡:北緯34度48分53秒東経133度45分5秒ですが、仏像や宝篋印塔等は現在、開山塚Kaizan-duka)北緯34度49分2秒東経133度45分10秒に 移されました 千蔵坊跡:正行と刈尾の境 吉川千蔵坊4155番地の東 北緯34度49分26秒東経133度45分24秒で近くに仙蔵坊下池 仙蔵坊上池が近くに有ります    千蔵坊:吉川4115・4385番地等    宝蔵坊跡:未調査 瓦免:吉川1115番地 馬場:吉川1155番地 地蔵山:吉川1469番地 土井原:吉川1485・1502番地等 寺尾:吉川1503・1547番地等  平成25年(2013年)2月19日

 


開山の井上坊跡 The site of a demolished Inouebou

開山塚Kaizan-dukaとも呼びます。吉川八幡宮吉川郵便局の前を通り過ぎると 吉川小学校の手前 吉川郷土館の学校よりに隣接します。宝篋印塔は 町指定重要文化財に指定されています。吉川八幡宮修理成功に感謝し立てられた大願成就の碑が あります。吉川郷土館は 元賀陽町役場吉川支所です。    The ruins of Inoue-bou are between Yosikawa elementary school and Yosikawa Kyoudo-kan/Yosikawa local hall    The houkyoin-pagoda is a town important cultural property.    There are the monument of Taigan-jyoujyu/ realization of a great ambition which the master carpenter made as a token of gratitude for the achievement of Hatiman-guu-renovation

吉川八幡宮は 吉川の分水嶺にあり、古代より神の住む聖地とされていました。 吉川の最重要地として斎場Ituki-no-baを造り 地主神を祀っていました。その名残が 現在の吉川八幡宮當番祭の仮屋です。神籬を 祀る古式の神でしたが、嵯峨天皇頃に 神像を祀る社殿を 創建されました。その後 天安元年(859年)に 黒山地区に松原八幡宮が 創建されましたが、永長元年(1096年)に 現在の地に遷宮され、吉川八幡宮と 名を変えました。吉川八幡宮は 平安時代後期 備中唯一の京都の 石清水八幡宮の別宮でした。Yosikawa-Hatiman-guu/shrine was built on the watershed of Ya-gami ”God who protects the area” at Ituki-no-ba " holy holy site formed"  as most important point in Yosikawa    It was god in old style worshiped Himorogi/ primitive shrine (originally a swath of sacred land surrounded by evergreens) which still retains the traces of the former Himorogi in present Kariya "temporary residence " of Touban-sai,  but the Syaden ”main building of a Shinto shrine”  enshrined the idols was built during emperor Saga time    After that,  Matubara-Hatiman-guu was built on Kuroyama area in 869,  and was removed on present place in 1096 and was changed the name to Yosikawa-Hatiman-guu   Yosikawa-Hatiman-guu was the only associated shrine of Iwasimizu-Hatiman-guu in  Kyouto, in Bittyuu province during late Heian period

八幡宮の西南300mに神護寺があり、金福坊 福仙坊 長福坊 井上坊 千蔵坊等の諸坊を供えていました。いずれも 鎌倉時代衰退しましたが、応永2年(1395年)に僧 宗光(悰行・そうぎょう)、道光(どうこう)により再建され、神宮寺としての神護寺を併設しました。

隣地に道標が有ります。地蔵型の道標には右こうばら 左ふじた?村と読めます。村は木へんでなく扌編です。

開山塚には 大願成就の石碑が有ります。 神籬:祭りを 神社や神棚以外で行う時の 臨時の神の依り代 吉川八幡宮の場合 八脚台に枠を組み、その中央に榊sakakiの枝を立て紙垂side木綿yuuを付けたもの等です 当番祭のハクケも神籬です    神宮寺・別当寺・神護寺・神願寺・神供寺・神宮院・宮寺:神仏習合思想に基づき 神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂の事で、別当寺とは 神社の管理権を持つ場合の呼称です 井上坊跡:北緯34度49分2秒東経133度45分10秒 吉川八幡宮:北緯34度49分10秒東経133度45分8秒 神護寺:北緯34度49分5秒東経133度45分2秒 松原八幡宮:黒山高下464-5番地の東北(北緯34度47分49秒東経133度46分6秒) 開山:吉川839番地 宮ノ崎:吉川84番地  

平成25年(2013年)4月20日