福沢 宝剣宮 Houken-guu "treasured sword shrine"

福沢地頭に宝剣神社が建ちその前に寳剱寳剱宮由緒碑が立っています。石碑の文を要約すると「坪田村の入澤勝姫が宮中に呼ばれ、後奈良天皇在位:大永6年4月29日(1526年6月9日)~ 弘治3年9月5日(1557年9月27日)」に可愛がれて子供を身籠った。お腹が大きいまま備中松山城主の三村家親の妻になった。天皇は別れの形見に宝剣を呉れた。姫は松山城で子供を産み、入澤勝法師丸と名付けた。天正3年(1575年)、松山城が陥落した時、忠臣の山縣新介に守られ、母と共に美作国の篠吹城に逃れた。10年後に篠吹城も落城したので、天正15年(1587年) 宸翰Sinkan( 天皇直筆の書)と宝剣を持って、山縣新介に守られてこの地に来て、住み付いた」とあります。勝法師丸に関して しかしこの碑とは異なる説があります。


勝法師丸 Housimaru Katu

昔々 勝法師丸と言う 賢く顔立ちの整った 男の子が おりました。義理のお父さんは 松山城と言うお城の殿様だったのですが 毛利元就輝元の間違いでしょう)と 天正2年(1574年)から戦争して 翌年 に完敗し 城を捨てて 逃げる途中に 捕まり殺されました。    勝法師丸は 松山城が 落城すると家来に 連れられ逃げたのですが 伊賀久隆と言う侍の部下に 捕まってしまいました。勝法師丸は、この時 8歳の子供でしたが「夢の世に 幻の身の生れ来て 露に宿かる宵の雷Ikaduti」と 辞世の句をスラスラと 書き記したのです。さしもの 能力高い久隆をしても 舌を巻き 驚かされました。伊賀久隆は 井山宝福寺に 勝法師丸を連れて行き、上司の小早川隆景の裁断を 仰ぎました。久隆は「賢い子です  私が 有能な武将に 育て味方にします」と 勝法師丸の命を 乞いました。隆景は これから先の事ですが 豊臣方の5大老になる程に 賢い人だったので「ずる賢い宇喜多直家よりは 余程頼りになる 久隆の意見を 無視できない  その久隆 が 自分より 能力が 有ると 評価する勝法師丸は 成人し武力を持てば 必ずや 親の仇である 毛利家に 挑むであろう」と 考えました。隆景の前に引き出された 勝法師丸に「何故に お前の親は 毛利に 逆らったのか」と 聞くと、勝法師丸は 少しも怯えず「毛利様が 憎くて父は 毛利様と 戦ったのでは有りません  お爺様を 騙し討ちした 宇喜多直家が 憎く 仇を取りたくて 戦う事になっただけです」と 答えたのです。すると隆景は「見事な口上じゃ」と 言って、勝法師丸を 牢に繋ぎました。隆景が 様子を見に来て「臭い飯はどうじゃ  しわい屑野菜は うまいか」と 尋ねました。すると勝法師丸は「隆景様 有難うございます  少しのの御飯も 大切だと 教えて頂ました  しわい野菜は 辛抱強く咬まないと 食べられません  何事も 良く噛み)砕いて 見極め 良い考えを 導けと 励まして頂いているのだと 感謝しています」と 答えました。それを 聞いて隆景が「では 筋だらけの硬い肉は どうじゃ」と 尋ねると「筋を仰山Gyousan食べて 筋のある男に 成れと 諭しくださったと 感謝して 頂いております」と 答えました。隆景は「頭だけの魚を 食わされるのを どう思うか」と 尋ねると「焼いた魚の頭は 魔除に成ります  頭を 骨ごと 食べて民百姓の禍を防げと 期待して 頂き 嬉しく 頂いております」と 答えました。小早川隆景は この子供の受け答えに「わしを 越える能力を 感じる    最後の答えだ   毛利家を意識して大将を 丸ごと食って 民の支配者に なろうとしている 恐ろしい鬼子じゃ  直ぐにも 殺さないと 何時かは わし 等が 殺される」と 確認したのです。そこで 伊賀久隆に 勝法師丸を 殺すよう命じました。伊賀久隆が その経緯を勝法師丸に伝えると「夢の世に 幻の身の 生まれ来て 露に宿かる 宵の稲妻」と 再び辞世の句を 詠いました。この句を聞いて久隆も「勝法師丸は 自分の能力の高さを意識していて それを隠し 露に潜むようにして生き延び いずれかの時に 雷Ikadutiになり 毛利家に 鉄鎚を 下そうとしている」と 悟り、躊躇うtamerau事もなく 勝法師丸の首を 刎ね()ました。勝法師丸の墓は 宝福寺に有りましたが、現在は 高梁市の頼久寺の父の元親公のお墓の隣に 移されています。「備中兵乱」を基にした物語

後奈良天皇:明応5年12月23日(1497年)に誕生し 弘治3年(1557年)崩御した第105代天皇ですhttps://ja.wikipedia.org/wiki/後奈良天皇」 勝法師丸:天正3年(1575年)の頃8歳とされますので誕生は1567年です  後奈良天皇の子であるとすれば 70才の頃の子と言う事になりますし、その頃は 後奈良天皇は 既に亡くなっています  また頼久寺に墓があります。

gos.but.jp/matubr.htm」「yururi.aikotoba.jp/samurai/explore/raikyuji.html」 宸翰:天皇直筆の書 宝剣神社:鉄工場福沢殿屋敷898番の北と福沢地頭903番地の間 北緯34度55分50秒東経133度43分52秒    備中松山城:高梁市内山下 北緯34度48分33秒東経133度37分20秒    篠吹城:真庭市三崎 北緯35度3分51秒東経133度46分27秒    井山宝福寺:総社市井尻野 北緯34度41分29秒東経133度44分2秒 雪舟が涙でネズミ描いたとされます。    天柱山頼久寺:高梁市頼久寺町 北緯34度47分51秒東経133度37分8秒 上野頼久Ueno-Yorihisa 三村家親Mimura-Ietika 三村元親Mimursa-Mototikaとその子勝法師丸の墓が あります。    伊賀十三流:虎倉城伊賀久隆を 支えた者達の子孫である 葛原氏 片山氏 菱川氏 河本氏 入沢氏 土井氏 河原氏 小林氏 鶴旨氏 津島氏 瀬尾氏 能勢氏 楢崎氏を 加茂十三流と 総称します。池田光政が 鳥取から岡山に 赴任してきた折り、備前藩の光政に 不満を持っていた 伊賀十三流を 中心に 豪族達 に家系の由緒書きや家宝 等を 万治2年(1659年)と 寛文8年(1668年)に 提出させ 処分しました  由緒書きを 失った豪族達の一部は 記憶をたどって 加筆した 由緒書きを 創作したとされます  入沢氏の由緒書も 書き換えられたものであると 推測されます

 平成24年(2012年)1月17日