北 妙本寺に係る伝説 Legends related to  Myouhon-ji Temple

妙顕寺の火事 Fire at Myoken-ji Temple

京都の妙顕寺の6代目住職日具上人が 吉備中央北の妙本寺に 隠居して、入山しました。その後 京都吉田家の卜部兼倶Urabe-Kanetomoの質問に対し 独特の番神説で 納得させ、現在の 妙本寺の番神堂を 卜部兼倶に 寄付させました。ある時 京都の妙顕寺が、火災に会いました。妙顕寺は「桶に水を汲んで持って来い」と 言うので、その訳は 解らないまま 寺僧は 経を唱えながら 水を汲んで届けました。京都妙顕寺は 喜び、謝礼をしたと 言います。「賀陽町史」   

泣く赤ん坊 Crying Baby

日具上人は 赤ん坊が泣く声を聞いても 何を訴えるのか判らず、自分では 何もしてやれないので 居た堪れない程の 気持ちになりました。そこで 日具上人は 赤ん坊の泣き声が 聞こえない所に 葬るよう 遺言しました。村人は 遺言を守り、死後  妙本字東方の人里離れた所に 葬り、日倶堂を建立した.。「賀陽町史」 

大草履 Big straw sandals

妙本寺の仁王門には 対の大草鞋(が掛かっています。村人が 納めたと言います。住職の奥様は「具足たぁ 胴や手足ぅ守る道具で 履物だけjじゃぁねぇ  具足戒たぁ お坊さんが守るべき戒めの事じゃ  具足山たぁ それが由来じゃ  ありゃぁ 自然発生的に 足の病に ご利益があるんじゃと 評判が立って、仁王門に 履物ぅ 奉納する風習が生まれたんじゃ  お寺に足繁く通って貰うにゃぁ 足が丈夫でなけりゃぁおえん  履物ぅ納める人が いるんで 履物ぅ受け入れる施設ばぁ 作ったんじゃ 山号と健脚信仰たぁ 関係ありゃぁせん」と おっしゃいました。

 妙顕寺と妙本寺の名前の交換 Exchange of names between Myoken-ji temple and Myohon-ji temple

 嘉慶元年(1387年)日蓮宗の興隆に 不満を持っていた 比叡山の僧兵は 妙顕寺の伽藍を 壊したので 寺は 若狭小浜に 避難しました。明徳4年(1393年)足利義満が 斡旋し 三条坊門堀川(現堀川御池)に 伽藍を再建し、比叡山の僧兵の鉾先を 逃れるために 名を 妙本寺と 改めました。この時 妙本寺は 妙顕寺と名を 変えました。応永18年(1411年)足利義持は 自らの祈願寺としました。応永20年(1413年)寺は またもや 比叡山の僧兵により 壊されました。永正18年(1521年)足利義稙により 二条西洞院(現中京区)に 再建されました。その前後に 寺号を妙顕寺に 戻されました。https://ja.wikipedia.org/wiki/妙顕寺

 

北  妙本寺 泣く赤ん坊 Why is the baby crying


昔 とても慈悲深い 偉い日具上人と言う お坊さんが 具足山妙本寺におりました。赤ん坊は 自分で 何かしたくても 何もでないので、泣いて意志を 大人達に知らせるより 仕方ありません。泣いている理由が 解るのはお母さん位で、お坊さんには 全く解りません。お坊さんは 泣く赤ん坊に 何かしてあげたくても 何もできないので、赤ん坊が 泣くのを見るのが 辛かったのです。赤ん坊が 泣く事が 度重なると、赤ん坊の泣き声を 聞くのもいたたまれなくなりました。しかし お母さん達は 赤ん坊が 生まれると直ぐに「元気に育つよう」拝んでもらうために、お坊さんを 訪ねて来ます。赤ん坊が 泣き始めると お母さん達は その訳を直ぐに理解し、お乳を飲ませたり 御湿Osimeを 取り換えたり あやしたり 寝かせ付けたりして 上手に泣き止ませます。お坊さんが お 母さん達の能力に 感心するしかありませんでした。天明8年(1788年)のある日 参詣していた赤ん坊が 突然に激しく泣き出し、お母さんが 何をしても 泣き止みませんでした。お坊さんは 不思議に思い、仏の力を借りて 心を鎮め赤ん坊の泣き声を聞き分けようとしました。お坊さんには 不思議な事に「親寺が火事だ 小桶に水を入れて持って来てくれ」と 聞こえました。親寺である 具足山妙顕寺が 火事と言われても たった一桶の水では 火を消すのに 役に立つ筈も 有りません。お坊さんと 赤ちゃんの目を 合わすと 今まで一度も 赤ん坊を泣き止ます事が できなかったのですが 不思議にも この時は 赤ん坊は 泣き止みました。お坊さんが 赤ちゃんを信じて 桶に水を汲んで 大急ぎで 京都に向かいました。周りの者は「お坊さんの気が 触れた」と 馬鹿に しました。お坊さんは 徳が高い人でしたの で神憑りしKamigakarisi アッと言う間に 京都に着きました。親寺は 火に包まれていました。親寺のお坊さんは 喜び、桶の水を 本尊に供えて 火事が治まるよう 祈祷しました。すると 不思議に 火事は治まりました。親寺は 焼けた寺を 建て直そうとしたのですが「火を出した  縁起が悪い寺の名前のままでは、建て換えさせない」と 周りの仲の悪い お寺 が反対しました。お坊さんは 自分のお寺の名前である 妙本寺を 親寺と 交換し、自分の寺の名前を 妙顕寺に しました。親寺は 喜び お坊さんのお寺を 大きくしてくれました。お母さん達は お坊さんが 赤ん坊の泣く訳が 解った事に驚き、足が 丈夫で 火事に間に合った お坊さんを ますます尊敬し、遠くからも お母さんが 赤ん坊を 連れて来るようになりました。遠くから来るお母さんの草鞋は ボロボロになっています。歩くのも 痛いのですが、偉いお坊さんに 会いたくて 我慢しました。すると又  赤ん坊が お母さんに 解らない泣き方をして お母さんを 困らせました。お坊さんは又、心を鎮め 赤ん坊の泣く意味を 聞き取りました。赤ん坊は「お母さんの足が痛い」と 泣いているように聞こえましたので、新しい草鞋を 作って お母さんに 履かせてあげました。

お母さん達は 大喜びで、健脚の坊さんが お母さん達の足の弱みを たちどころに 見抜く眼力に 驚き、ますます尊敬するようになりました。有り難がる お母さん達は、お礼に 草鞋を お寺に奉納するようになりました。そしてお寺の山門は草鞋で 埋まりました。それを見た何も知らない者達は、このお寺は 健脚の仏様が 祀られていると思い 大草履を 奉納するようになりました。お坊さんは「足が 丈夫になって、何度でもお寺を訪ねて来て欲しい」と 思い、草履を納められるよう 山門に棚を 造りました。これ以降は 以前のようにお坊さんには 何で赤ん坊が何で泣いているか解りませんでした。

お坊さんは 赤ん坊の泣く声を聞くのが 再び 堪えがたくなったので「死んだなら 赤ん坊の声が聞こえない所に 葬って欲しい」と 言い残し亡くなりました。村人は 日具上人の遺言を 守り 人里離れた地に 葬りました。それで、日具上人のお墓は 山深く の隠れに 立てられているのです。2つ伝説「賀陽町史」「妙本寺奥様の説明」「妙顕寺と 妙本寺の名前の交換」を 基にした物語     妙本寺:北緯34度48分30秒東経133度42分15秒 隠:北2569-25712577・2578番地 墓を立る事が禁じられていた頃の集落用の共同墓地と考えていますが、それとするには更なる調査が必要です 日具堂:妙本寺駐車場の右手の道を 右に曲がりながら上ると 十字路となりますが、そのまま進むと 上る道と下る道の二股の道が分かれるので、道なりに右の上る道を進むと 峠を思わせる場所の左手 北緯34度48分26秒東経133度42分31秒に 日具堂が 建ちます  いくつかの墓石があり、土手の高みに 孤立する墓石 が立っています。これが、日具上人の墓石です  平成23年(2011年)8月5日