広面    姫屋敷 Hiding place for ladies


伊賀久隆は 羽柴秀吉が 福原城戦や 上月城戦後で見せた 凄まじい残虐さ徳川幕府の作話かもしれません)から 一族の女性子供を 守るため羽柴秀吉軍との敗戦に備え 姫屋敷に 隠れ住まわせました。虎倉城に 事ある時は ここに 砦を築く手配だった。「広面広前の村人のより口伝」

天正5年(1577年)10月 羽柴秀吉は 織田信長の命令で 播磨国を 攻めに 姫路城に入城し、備前国 美作国 播磨国の境の上月城Kouduki-jyouを 攻めました。この時 上月城は 毛利氏方の宇喜多直家の支配下に有り、虎倉城伊賀久隆は 毛利氏と 宇喜多氏と 同盟関係にありました。同盟と言っても 勢力は毛利氏 宇喜多氏 伊賀氏の順でしたので、宇喜多氏の家老位に 扱われていたので、宇喜多氏に 従い伊賀久隆は 上月城の赤松氏の 援護をしました。宇喜多伊賀連合勢の激しい妨害攻撃を 受けながらも、羽柴勢は 上月城を攻め落としたので 城を守っていた赤松政範は12月3日に 切腹しました。城兵達は 政範の首を差し出し 秀吉に 降伏し 命乞いをしましたが、秀吉は 許さず 城の内 城の外の残党も 悉くKotogotoku追っ手を 掛け 捕えました。男は 斬殺 婦女子は 備前美作の国境に 数珠繋ぎに 縛って引出し、女は磔刑Takkei 子供は串刺しに しました。一連の福原城の戦いでも 秀吉は250人以上 を斬首しました。http://www7a.biglobe.ne.jp/~fujimoto/harima2/koutuki22.html」    この残忍さを見た、伊賀久隆は 羽柴秀吉が 虎倉城に攻めて来る事を想定し、人里離れた地に 城内の女と 幼い子供を 匿いKakumaiました。

広面中寄1916番地と 広面薮ノ内1857番地の間の山道を 登り、T字路を 右に曲がると、Y字路に なります。道なりに 上の道を 東に進むと、耕作放棄地の平坦地が重なります。次の3叉路を 上(北)に  向かうと、石垣を 伴なう 5枚程度の平坦地耕作放棄地

と思われる平坦地が 重なっており  破壊された墓場跡のようにも見える石積の塚状構造 小さい石製の祠等が 有ります。その平坦地が 姫屋敷です。この道を 北に進むと 広面岩目に出ます。姫屋敷に 築城するのでは 山城としての防備上 条件は良くありませんが、鼓山であれば 難攻な構えが 築けそうです。実際に 広面には 伊賀方の城があったと言う人がいますが、その場所を示す人に 出合いませんでした。  姫屋敷:広面 北緯34度49分27秒東経133度48分36秒    上月城:北緯34度58分31秒・東経134度19分24秒 福原城・佐用城・作用城:北緯34度59分47秒・東経134度21分5秒 大高山・鼓山:広面広奥 北緯34度49分13秒・東経133度48分53秒 第2代吉備津彦命五十芹彦命 桃太郎物語桃太郎のモデルが 温羅(桃太郎物語のの大将のモデル)鬼ノ城戦の折り 留霊臣命(桃太郎物語ののモデル)が 陣を張ったと されます。  平成24年(2012年)12月16日