正月をお雑煮で祝わない訳  Reason for celebrating the new year without soup containing rice cakes


正月を祝わない(1)Don't celebrate New Year's Day

何時の頃か解りませんが、正月3日に お雑煮を食べ、新年を祝っていると、突然 何者かに 襲撃され家長を始め 多くの男子が 切り殺されました。それで その子孫の人達は、お正月を お餅で 祝わないとされます。「上田東と目無の村人より口伝」「備前虎倉城奇怪事件」が 虎倉城に有ります。この怪奇事件と 混同しているのかも知れません。

 

正月を祝わない(2)DON'T CELEBRATE NEW YEAR'S DAY

ある年の正月三日に 東本宮山の近くに 池田光政Ikeda-Mitumasaが 攻めて来て その地の豪族を 切り殺しました。血刀を 東本宮山の麓に有った池 で洗うと 池は 鉄錆色に 真っ赤に 染まりました。その池は 現在も残っています。「細田目無の村人口伝」  この目無しの村人に出合う2週間前に この伝説が 書かれていた襖が 古く汚らしくなったので 燃やされました。円城寺にあった古文書を 先祖の者が 書き写したそうで また 円城寺に 納められていた原本は 焼失したそうです。

 

鱗の無い魚 fish without scales

上田西や 案田の池や 菅谷池に 目が無く 鱗の無い魚が 住むと言われます。この辺りの どこかで 戦った武士の血が 池に流れ込み 信仰深い武士一族の怨みが 籠っていたので 目が潰れ 鱗が溶けたとされます。「案田口の村人のより口伝」

 

備前虎倉城奇怪事件 Strange event Of Bizen-Kokura-jyou castle

加茂崩れで 備前に侵攻した毛利輝元を 退けた伊賀久隆が 毛利の内通者の疑いを受け 天正9年(1851年)に 宇喜多直家に 毒殺されると 久隆の子の伊賀家久が 虎倉城を 継ぎました。直家が 好条件を申し出ましたが 小早川隆景の誘いで 家久は 毛利方に 付きました。天正10年 備中高松城の水攻め戦で 羽柴秀吉が勝利し  輝元と秀吉が 天正11年に 和議を結ぶと 家久領は 宇喜多領の一部と 決定しました。これに 不満な家久は 徹底抗戦を望みましたが 岳父 明石行雄の説得を受け 天正12年(1584年)秋頃に 虎倉城を退去し 毛利氏の小早川隆景を頼り 備中国吉川千木虎倉山に 移り住みました。虎倉城が 小寺勘兵衛黒田官兵衛が 預かり 長船越中守貞親が 城主になりました。貞親は 老住職として 御用繁多でしたので 岡山城に居て  妹婿の石原新太郎を 城代に定め 虎倉城の治政を 任せていた。ところが 新太郎は 貞親と不仲になって 行きました。そして 天正16年の正月に「新年の賀儀にお出で下さい。」と  親し気に 貞親を誘うと 貞親は「改心した。」と 思い 喜んで弟 の長船源五郎や 家臣の寺田喜右衛門等を 従え  饗応の前日より 虎倉城に入りました。5日 午前10時頃  新太郎は 櫓に登り 矢狭間より 寛いでいた貞親の眉間を 鉄砲で狙い 討ち 果たしました。これを 合図に 新太郎の息子の石川新介が 居間に 雪崩込み 源五郎を切り殺すと 新介は 貞親の家臣によって 討ち取られました。同時に 新太郎の妻(貞親の妹は)は 薙刀を持って 討ち入り 貞親に 止めを刺し  幼い貞親の息子や 源五郎の息子 等 子供達を 悉く 殺しました。新太郎とその妻は 櫓に登ると 火を放ち焼身自殺しました。火は 飛んで 虎倉城は 全焼しました。この知らせが 岡山城にもたらせられると 不吉を感じ 仮病を 使い 新太郎の誘いを避けていた 貞親の嫡子の長船紀伊守綱尚が 駆けつけ事件の真相を  探索しましたが 新太郎一家の不可解な行動の動機は 判明しませんでした。https://ameblo.jp/rekisi-shiro/entry-12262787194.html

 

畑ヶ鳴の伊賀家 Iga family in Hatagonaru

畑ヶ鳴の地を 居住の場所とした伊賀三郎五郎は 山中深くに 只一家を 構え 祖先の遺芳と 鎮守の神 並びに 祖霊の加護を受け 世俗を絶って 大自然の中に 自主独立の小圏城を 確立し 自給自足の生活をしました。kibi2011.blog81.fc2.com/blog-category-5.html

 

名君 池田光政 Excellent Monarch-Ikeda-mitumasa

 鳥取から  岡山に赴任して来た池田光政は 岡山藩の財政改革に 取り組みましたが 神社や 寺の領土からは 年貢が取る事が出来ず 困りました。備前の人達は 信仰深く 物凄い数の小神社 小寺院が 林立していて 地神祭 荒神祭 庚申祭を 始めとして 各神社毎に 祭りをしていたからです。そこで 氏子の少ない神社を 氏子の多い神社に 合祀し 檀家の少ない寺や 徳川幕府の嫌いな宗派の寺を取り潰し 整理した寺社の田畑(旧神領、旧寺領)からも 年貢を 集めようとしました。そこで お百姓の指導者の子供や 優秀な農家の子供を その任に付けようとし 藩経営の手習い所を たくさん作り 政治や 戦闘の教育をしました。この政策は 見事に成功し 神社や寺の数を 減らす事ができました。なんと  寛文6(1666年)に 神社仏閣を淘汰し 神社の10527神社を 廃止し601神社に 合祀しまし、寛文7年(1667年)の時点での寺院の統廃合の実施状況は598寺(461寺とか634寺とも)を廃止、437寺(583寺とも)としたのです。幕府の了解の元 幕府と共に日蓮宗不受不施派(日蓮宗以外の者から施しを受けず、日蓮宗以外の僧侶に施しをしない、国家を認めないとの主義の宗派)を弾圧しまし、日蓮宗の寺に至っては348寺を廃し49寺を残し、廃止率は87.7%で、他の宗派での廃寺率は 真言宗:183寺/401寺=45.6%、天台宗:48寺/148寺=32.4%、その他:19寺/89寺=21.3%で、圧倒的に 日蓮宗の寺院の廃寺が多かったのです。しかし こんな事をされたのでは 従来のこの地の加茂十三荘官(天正の時代の虎倉城 伊賀久隆の部下の子孫)等の指導者達は 農民からの尊敬を失うので 光政に背を向け 協力を拒否しました。怒った光政は 武士にしてやる等と欺いて 指導者達の権威の象徴である家系図や 由緒書きを 提出させ  焼き払ってしまいました。さすがに 豪族や 神社や 寺の中には 光政に激しく抵抗したのですが 光政は 頑として政策に抵抗する 巫女十三人を 火炙りにする事件や  数名の日蓮宗不受不施派指導者を処刑した藤田法難等 武力で 押さえ 敵対勢力を粛清したのです。吉備中央町加茂川地区の豪族達 加茂十三流(上荘官)も失った各自の由緒書を 記憶に頼り 書き改め 威信を取り戻そうと 激しく抵抗したので 光政は 最も急進的な豪族を 見せしめに 正月3日お雑煮を食べ 3ヶ日のお務めをしている所に 攻めかかりました。不意を突かれた 一族の頭首を初め  逃げ惑う男達を 襲撃兵は 追いかけ廻し 切り殺しました。その帰り道に 池があったので 血で塗られた刀を洗うと 池は 血で赤く染まりました。信仰深い一族の怨みの籠った血を浴びた 魚達は  目を失い  鱗が溶けましたが 種が絶える事なく 魚は 繁殖を続け 菅谷から上田西や 案田の池にも 住むようになりました。襲われた一族は 正月を祝っていた隙を襲われた事を反省し  正月に お餅の雑煮を食べないようになり 現在もこの習慣を続けているそうです。「上田東と目無の村人より口伝」「細田目無の村人口伝」「案田口の村人のより口伝」池田光政」を基にした物語

池田光政 Ikeda-Mitumasa

播磨姫路藩第3代藩主 因幡鳥取藩であり 備前岡山藩初代藩主です。 寛永9年(1632年)4月3日に 光政の叔父の岡山藩主の池田忠雄の嫡男の池田光仲が 3歳頃に 池田忠雄が 死亡しました。 「光仲が幼少のため 戦略上の要所の山陽道を 治め難し。」とし 6月に 光政が 岡山藩31万5000石へ 光仲が 鳥取藩32万5000石へ 国替えと 成りました。 以後 池田輝政の嫡孫 光政の家系が 明治まで 岡山藩を 治めました。徳川家康の娘婿であった 池田輝政は 西国将軍と 讃えられました。光政が 岡山に赴任して来て見ると 領主を気取る豪族が 割拠しており、かつ 小神社 小寺が乱立しこれ等が 土地の信仰と絡み合い  どこが 寺領で どこが神領だか解らず 年貢の取り立てに 苦慮しました。徳川幕府から求められる岡山藩の役割は 四国 九州の西国の外様大名を 牽制する事でした。そのためには 藩内の力を一つに纏め 疲弊した財政を立て直し 武力を蓄える必要が有りました。そのためには 領内豪族の力を削ぎ 農民等 領民を教育し 領民に 軍事訓練する必要が 迫られました。そこで 頻りに百姓農耕民を狩りに 招集し 鉄砲を扱わせ、多くの手習い所を開き 将来の指導者を教育しました。農民と城の武士とを 強く結び付けようとしたのです。徳川幕府内は この動きを「討幕の準備謀反ではないか。」と 心配する者が居ましたが、将軍は 光政を 忠臣と信頼し 西国将軍と成る事を阻みませんでした。そして 寛文6年(1666年)に藩内の神社仏閣を淘汰し、神社の10527神社を廃止し、601神社に合祀しました。寛文7年(1667年)時点での寺院の統廃合の実施状況は598寺(461寺とか634寺とも)を廃止、437寺(583寺とも)としました。この政策は 幕府の承認を取り付けています。「この政策の初動や 先の政策は 領内領主を気取る豪族にとって 収益を失い  豪族としての立ち位置を失いかねない。」と 考えたでしょう。特に天正の時代の伊賀久隆を 支えていた者の子孫達は 強い独立心を持っていたので 光政にとっては 彼らを弾圧する必要があり 伊賀十三流(加茂十三荘官)と言われる家系等に 由緒書等を提出させ 全てを 取り上げました。由緒書を失った者の多く は先祖の残した功績を誇れず 自負を失い 嫌々ながらも光政に服従しました。中には 独立心が 特別に強い者達は 反抗し 反抗した者に 光政が武力を行使したようです。https://ja.wikipedia.org/wiki/池田光政」 御津虎倉城:北緯34度50分13秒東経133度50分2秒 畑ヶ鳴小圏城:上田東 北緯34度53分25秒東経133度50分58秒    本宮山山頂:上田東 北緯34度54分13秒東経133度50分44秒    建部町東本宮山頂上:北緯34度53分25秒東経133度51分18秒    血の池:上田東 北緯34度53分16秒東経133度51分4秒 他の説もあるようです。    岡山城:北緯34度39分55秒東経133度56分10秒    谷池:上田東菅谷 北緯34度53分8秒東経133度50分44秒 スナヤツメ(砂八目)メクラウナギ(盲目鰻):東京都等いくつかの県で絶滅危惧に 指定されていますが 岡山県では 指定されていません。鰻に似ていますが 魚類でない可能性があります。  泥の中に住むので 見つけ難い動物です。 幼生アンモシーテスは ミミズに似ていて 目は 皮膚に下にあります。 藻や 動植物の死体等を 食べます。4年位で 15cm程の成体になり 目が現れますが 普段は 閉じています。消化器を失うので 食べず 翌春に目を開け 産卵し死にます。 盲目が 差別用語とされるようになったので 最近は メクラウナギの名は 消えようとしていますhttps://ja.wikipedia.org/wiki/スナヤツメ」        平成24年(2012年)11月15日

 

平成29年(2017年)3月31日に【岡山「へその町」の民話-岡山県吉備中央町の採訪記録 立石憲利 吉備中央町図書館 吉備人出版】が発行されました。P125~P126に「鱗の無い魚」が2項目載っています。