吉備津彦命 KIBITU-HIKO-NO-MIKOTO


御所 Gosyo" Imperial palace"

ある天皇が、牛窓で病に成り、本宮山から差す霊光の御利益で 完治しました。お礼に 本宮山に 参詣するために、恐らく 有甘渓Ukan-keiから 険しい山を登り やって来ると、急に 開けた土地に出 本宮山を 北に見る事ができました。そのあまりにも 美しい眺めに 感心し、疲れを 癒すために、その地に 御座所Gozasyoを 設けました。それ以来、その地を 御所と 呼ぶようになりました。御座所から 本宮山を眺めると 頂上の龍王宮に 灯明してありました。それを 目指して 本宮山に登る途中で 道に迷った時に 白鹿が現れ、道案内され 龍王宮を参詣する事ができたので、お礼に 鹿の角を 奉納しました。当時牛窓の海は 広く、海は 本宮山より左程 遠くなかったのでしよう。「加茂山の村人より口伝」 「吉備中央町の昔話伝説 御所」 平成25年(2013年)9月6日 

 

嵯峨の皇子 SAGA-NO-OUJI IMPERIAL PRINCE

嵯峨皇子Saga-no-miko/Saga-no-oujiが 西国平定に来た折り、牛窓で 病に罹りました。祈祷しても、薬師に見てもらっても 治りませんでした。本宮山から 霊光が 牛窓の海に射して来て、霊光を浴びると 皇子の病は 癒え、九州平定に 成功しました。お礼に 本宮山に登る途中に 道に迷うと 白鹿が現れ、白鹿の案内で 山頂に 辿り着き 本宮山参詣の目的を 達成しました。そこで、春日大社を 化気神社に 合祀しました。「御津郡史」「吉備中央町の昔話伝説 御所嵯峨皇子は五十狭芹彦命であると言う人が居りますが、嵯峨皇子は嵯峨天皇の皇子の一人であろうと推測します。「いさざ王 嵯峨皇子」 平成25年(2013年)9月6日 

 

吉備津神社の温羅退治伝説 The Legend of busting Onra- in Kibitsu-jinjya Shrine

昔 朝鮮百済の皇子の温羅Onra/Ura(百田大兄命Momotarou-no-mikotoが 吉備国に 飛んで(速く走る)来ました。髪は 赤く 目は 狼のように青く 身の丈 一丈四尺程の姿で、強力で 粗暴な性格でした。温羅は 新山に 鬼の城Ki-no-jyouを 構え 城下を 通行中の婦女子を 玩びMoteasobi 荷物を 強奪していました。都の朝廷は 遺憾に思い 武将を 送り 討伐しようと 試みましたが、変幻自在の温羅に 悉く敗れ 都に逃げ帰る始末でした。そこで 四道将軍の武勇の誉れ高い 五十狭芹彦命を 派遣しました。大軍の朝廷軍を 率いて 五十狭芹彦命は 吉備の中山に陣を 敷き、片岡山に石盾を 築きました。戦いが 始まると 不思議にも 五十狭芹彦命が 矢をいると 温羅が投げた石と 空中で 当たり 悉く 海に落ちました。そこで 千鈞の強弓を取り出し 一度に 二つの大矢を 放ちました。すると 一筋の矢が 温羅の左目を 射抜きました。温羅は 驚いて雉に変化し 山に逃げると、五十狭芹彦命は 鷹に変化し 追いました。鷹が 雉に迫ると 温羅は 鯉に変化し、左目から迸ったHotobasitta 温羅の血で 生じた 血吸川に 潜りました。五十狭芹彦命は 鵜に変化して 逃げる温羅に 噛み付き鯉喰神社捕まえました。捕えられた 温羅は 降伏し 吉備冠者の位を五十狭芹彦命に 譲りました。命は 捕らえた温羅の首を 刎ねて 串刺しにして 晒すと 温羅は 大声で 唸り続けました。薄気味悪い轟音に 悩み苦しめられた 五十狭芹彦命は 犬飼建命の犬に 肉を食い取らせ 髑髏dokurroにしましたが 唸りは続き、ついに釜殿の釜の下に 埋めました。それでも 唸りは 近郊に 鳴り響いたので 堪えきれず 五十狭芹彦命が 脳の病になりました。五十狭芹彦命が 病にが病に苦しんでいる時、温羅の霊が 夢枕に現れて「吾が妻 阿曽媛に 釜殿の御饌Mike/Mihiを 炊がめKasigame(煮炊きする)めよ。もし 世の中に 異変がある時、竃で 炊げば その変異が 幸なものであれば 裕に(豊かに)鳴り、禍で 有れば 荒らかに 鳴るであろう。命は 世捨て人となって、その後は 霊神として 現れ給え。我は 命の第一の使者 艮御崎Usitora-no-Onzakiiとなりて 民に賞罰を 与えん」と お告げました。五十狭芹彦命が それに従うと、13年間も続いた 唸り声が 治まり 平和となり、命の神経衰弱(ノイローゼ)も 回復しました。www.kibitujinja.com/about/shinwa.html」  平成25年(2013年)9月6日

 

留霊臣の温羅退治 BUSTING ONRABy Tometamaomi

鬼の城合戦が 始まると これを 鼓山Tudumi-yama(吉備中央町広奥 北緯34度48分36秒東経133度49分8秒)の山頂に 陣取り 遠見ていた 留霊臣命は、戦況を 有利に運ぶ 温羅の奮闘ぶりに 怖気Osoge/Osoreをなし 逃げ出そうとした。この裏切り(敵前逃亡)が 起こると 鼓五十狭彦命Isaseri-hiko-no-mikotoの心を慰める重臣に鼓彦命が居ります)の音が 始まり、その音に 恐怖の余り 逃げ出しましたが 逃げども逃げども 鼓の音は しつこく 止むことなく 追いかけてきました。そこで 留霊臣命は 内部告発する可能性のある者を 全て排除しましたが 甲斐なく、ついに 隠れ場所は 知られ 楽々森彦命に 逮捕されました。楽々森彦命は 留霊彦命が 敵前逃亡できないよう 鬼ノ城攻めの 最前線に 配置し、夜目主命(暗闇でも目が利きます)を その後陣に据え 昼夜 見張らせました。稚武彦命Wakatake-hiko-no-mikoto(初代吉備津彦命)の放った 千鈞の強弓の矢が 城の蛇高石に 当った時には、砕けた矢が 遥か遠く矢掛Yakakeまで 飛んで行きました。再び 稚武彦命が 大矢が放つと、止むなく温羅 等が 大岩を投げて 反撃しました。千鈞の強弓の大矢一筋は 岩に刺さり 麓の矢喰神社Yagui-jinjya付近に 落下し、もう一筋は 温羅の左目を 射抜きました。目から出血し、夥しい血液は 低きに 向い 流れて 血吸川と なりました。たまらず 温羅は 雉となって飛び立つと 五十狭芹命(第2代吉備津彦命)は 鷹となって 追い掛けました。温羅が 五十狭芹彦命に 捕まりそうになると 鯰(鮎の事)と なって自ら流した 血の川に 逃げ込むと、汚名挽回を図る 留霊臣命は 鵜となって 地吸川に入り 巧みな水練の技を 繰り出し 水中戦を 挑みました。両者の力量が 互角であったため 相打ちと なりました。「総社市鬼ノ城の村人より口伝」  平成25年(2013年)9月6日

 

加茂川町史の毛気神社の妖怪退治 DEFEATING THE MONSTER IN KEGI-JINJYA SHRINE WRITTEN IN THE HISTORY OF KAMOGAWA-TOU/TOWN

 皇紀300年(推定で西暦130年頃)吉備津彦命が  加茂の地に 御食津大神Miketu-no-ookami(気比神宮Kehu-jinguu・案田の場合化気神社Kegi-jinjya)を お祀りになった頃、妖怪変化が 出て 住民を恐れさせました。化気宮の西の方に 火柱が現れたので、吉備津彦命は 弓を 取って これを 松の大樹を 盾にして 覗いました。この松を「覘いの松」と 言います。矢を 放たれましたが、矢は 松の枝に 掛かりました。その矢の掛かった松を 「矢懸かりの松」と言います。馬上から 岩を 足係りにして 乗り上げ、二の矢を 放たちました。その足掛かりにした 約6畳位の大きさの岩を 駒石Komaisiと 言います。矢は 怪物に命中し、一大音響を 発し 石となり 飛び散りました。上体であった部分の落ちた所を「立 石」(上田西)と言い、その場に残った部分の石を「的石Matoisi(松尾神社近く)」と言います。 矢が高く、破片と なって ヒラヒラと 飛んだ所を 高片Takahira(細田)といい、細田の辺りで その様子を 見られなかった所を 目無Menasiと言い、矢の落ちた所を矢柄Yagara(細田)と言い、遠くても音の聞こえた所を大鳴Oonaru(上田東)と呼ぶようになりました。これらの地名は 現在 小字名として 残っています。「加茂川町史」

覘いの松も 矢懸かりの松も 現在は 枯れてなくなっています。駒石には 蹄型の模様が4 から5個ありましたが、現在は 目立ちません。化気神社の妖怪退治平成28年(2016年)4月1日

 

湯場の冷泉伝説 LEGEND OF The COLD SPRING IN YUBA 

吉備津彦命が  竹荘の 荒神山に  陣を 張り  鬼共を  攻めてきました。鬼は 強く、昼に 傷付いても  翌日には  回復するので  調べると  鷺の巣温泉の湯場で 湯治していました。刀を 岩で  砥ぎ 澄ましますが  鬼に  効果がありません。吉備津彦命は 神力で  温泉を 冷泉にかえました。「賀陽町史」 

砥石岩伝説 LEGEND OF WHETSTONE ROCK

 吉備津彦命が  竹荘に来ると  鬼達は  傷付いても 刀が刃こぼれしても  翌日には 傷が癒え 刀は 鋭利になっていました。調査すると 鷺の巣温泉で 傷を癒し、川の石を 砥石代わりにして  刀を 研いでいました。吉備津彦命は  腹を立てて  温泉を  霊力で  冷泉に変え、鬼退治に  成功しました。「サキノスの村人より口伝」 

鼓岩伝説 LEGEND OF TUDUMI-IWA”HAND DRUM-ROCK

鼓山の 添山の 小高山の麓近く 北緯34度49分9秒東経133度48分46秒に 鼓岩があります。 鬼の城戦の折り 留霊臣命Tometamaomi-no-mikoto(桃太郎物語の雉)は 鼓山(広面広奥の大高山)に 陣を 張り 温羅の鬼神じみた戦いを 見て 怖気付き 敵前逃亡を 試みました、それを見つけた 鼓彦命は 影を見せずに 追 いかけました。逃げても 逃げても 鼓の音は 追いかけて来て、ついに留霊臣命は 楽々森彦命(桃太郎物語の猿)に 逮捕され、鬼の城戦の最前線に 引き出されて 温羅と直接対決させられました。凄まじい戦いの末 温羅と相打ちになりました。この時 鼓彦命は 留霊臣命を 追い詰めた妖鼓を 大高山Ootakayama(鼓山) の麓(小高山Odakayamaの中腹)に 置き忘れると、鼓は 大岩となり  鼓岩と呼ばれました。「鯉喰神社の案内人口伝」

風穴伝説 LEGENG OF WIND HOLE

風穴は 広面の風神社の南東 砂防ダム東岸(小高山の麓)北緯34度49分9秒東経133度48分42秒にあります。遠い遠い昔 崇神天皇Sujin-tennnouの時代に、四道将軍Sidou-syougunn/Yotu-no-miti-no-Ikusa-no-kimiとして 五十狭芹彦命(後の吉備津彦命が 面影道Omokagemitiの鬼の平定に やって来ました。(後の)加夜国の鬼達は 激しい 風を 起こす不思議な 妖術を使い抵抗しました。将軍の部下である 鼓彦命Tudumihiko*-no-mikotoが 鼓をポンポンと打つと  風の神の志那津比古命Sinatu-hiko-no-mikotoを 祀れば 妖術を破る事が できると 占なえました。そこで 雨坪の山麓に 大和国生駒郡の龍田神社の御霊を 分霊し 雨坪神社の小祠(雨坪神社)を 建てて、級長津比古命 級長津比女命Sinstu-hime-no-mikotoを 祀ると 大風は 鎮まり 鬼達は 退治されました。雨坪から 開拓し始 め広野を 耕地としたので この地を 広面と 名付けました。それからは 広面は 風災を鎮め、害虫を駆除して 年穀豊穣の霊験に 恵まれていました。「手づくり ひろも今昔物語」また 鼓彦命が あるいは 吉備津彦命が 開拓した処を 鼓田と呼ぶそうです。雨坪神社は 雨坪岩の脇 に祀られていました。雨坪岩には 拳大の開口部を持つ 深い穴が 風穴に 向って 掘られています。

 高田姫伝説 LEGEND OF TAKADA-HIME

楽々森彦命の娘の高田姫は 見目麗しく 賢明で 人の心を癒す霊力を 供えていました。吉備津彦命五十狭芹彦Isaseri-hiko-no-mikoyto)が サギノスサギノス戦争で 温羅の残党に 不利となり 悩んでいると、追い打ちをかけるように 愛する妻の百田弓矢比売命Momoda-yumiya-hime-no-mikoto  が 亡くなりました。心落ちして 戦争どころではありません。それを見かねた 軍師の鼓彦命は、吉備津彦命を 鼓山の鼓岩に 案内し、心を鎮めるように 勧めました。吉備津彦命が 鼓岩の上に立ち、瞑想すると 高田姫が 瞼に浮かびまし た、すると 心が静まり、冷静を取り戻すと 次々と斬新な 戦略が 思い浮かびました。鼓彦命の勧めで 高田姫を 後妻に迎えると、サキノス戦争は 一気に 有利に傾きました。「加茂川町史」「村人口伝」  百田弓矢比売命:百田大兄命(温羅)の娘 大吉備津彦命の妃  平成23年(2011年)8月17日 

 

竹荘 砥石岩 吉備津彦命の鬼退治 Exterminating ogres at Toisiiwa

竹荘 大野に 食べ物や 女を奪う鬼が いました。それを聞いて 吉備津彦命(桃太郎物語の桃太郎)が 荒神山に 陣を張り 鬼退治にやって 来ました。鬼は 激しく抵抗し 怪我をしても 翌日には 参戦し、 武器が 刃こぼれしても 翌日には 切れ味を 回復していました。不思議に思い 探索すると 鬼の湯治場があり、また 鬼達は 宇甘川の石で 刀を研いでいました。吉備津彦命は 神力で冷泉にし、鬼と戦うために 月野原温泉で 湯治しました。「賀陽町史」        吉備津彦命は 作戦に行き詰まりを生じると 鼓山の鼓岩に立ち 瞑想しました。「加茂川町史」        吉備津彦命は (後の)加夜国戦の最中に 百田弓矢比売命Momota-yumiya-hime-no-mikotoが 亡くなると 部下の楽々森彦命Sasaramori-hiko-no-mikoto(桃太郎物語の猿)の娘の高田姫命Takada-hime-no-mikotoを 妃にしました。

サギノス温泉合戦 Battle at Sagi-no-su-onsen

吉備津彦命(五十狭芹彦Isaseri-hiko・岡山の桃太郎)は 鬼の城戦Ki-no-jou-senに 勝利し、竹荘 大野に 鬼が出没して 村の物を盗み 若い娘を奪い 村人を苦しめていると 言う噂を聞いので 賀陽国Kaya-no-kuni(加夜国)に 進軍して来て、荒神山に 陣を張り 竹荘の鬼軍と 闘いました。強力な弓を供えた 吉備津彦命の率いる大和朝廷軍は 装備の上で 有利でしたが、連戦に 連戦をしていたので 刃こぼれしていて 武器の切れ味が 悪く、体力的にも 疲労が重なっていました。

しかも 鬼軍は怪我をしても 翌日には 戦場に姿を現し、刃こぼれしても 翌日には 良く切れる刀や 槍を振るって 勇敢に戦って来ます。これには さすがの吉備津彦命も 作戦に行き詰りました。一端退いて 敵の様子を調べると、鬼達が 鷺の巣温泉で 湯治し 宇甘川の石を 砥石代わりに 刃こぼれした剣を 研いでいたのです。鬼ヶ獄温泉の戦いを 省みて これでは 勝機が無いと 察した命は、楽々森彦命Sasaramori-hiko-no-mikoto(百太郎物語のサル)に命令し、新しい湯治場を 探させ、宇甘川から 砥石を盗って来るよう 命令しました。多くの犠牲者 を出しましたが、朝廷軍は 豊富な弓矢で 援護射撃を得て 砥石岩を手に入れ 鷺の巣温泉から さほど遠くない 月の原に 熱い湯の出る湯治場を  見つけました。

これで互角の戦いになる筈ですが、妻の百田弓矢比売命が 亡くなり気落ちし 戦に身が入らず、鷺の巣温泉の泉質の方が 優れいる事もあって 戦果は 程々に 止まりました。すると 占い師であり軍師である 鼓彦命が 進み出て「以前に鼓山に 置き忘れた鼓が 現在は大岩になっています  私の霊力の籠る この岩に 立って 瞑想なされ」と 言し、鼓山に導きました。ポンポンと 澄んだ快い音に 耳を澄ませると 天御柱神が 脳裏に現れ「高田媛を娶り 乱れた心を鎮めよ そなたの神通力を以て かの温泉を風穴 より出ずる冷風にて破壊せよ」と 告げたので、吉備津彦命は 桃の破邪霊力を使い 鷺の巣温泉を 冷泉に変えました。すると形勢は 逆転し 朝廷軍は 一挙に攻めかかり、鬼軍を 平定しました。「賀陽町史」「加茂川町史」「吉備津彦命の妃」「留霊臣の鼓山」を基にした物語  鬼:ここでいう鬼とは、泥棒や人攫いをする悪人ではありません  朝廷に 従わない者を、大和朝廷は 全て鬼と呼び、泥棒をし 人攫いすると 勝手に決め付けたのです 荒神山:豊野1535・1552番地等 鷺の巣温泉湯本旅館竹荘 北緯34度51分42秒東経133度41分29秒 弱アルカリ性の硫黄温泉であり、効能は外傷 胃腸病 打身 リュウマ 捻挫 腰痛 疲労回復等です   月の原温泉:上竹 北緯34度51分25秒・東経133度41分6秒 鷺の巣温泉と 源泉は同じです。現在は旅館業を 営んでいません  電話:0866-54-1381  日帰り入浴・立ち寄り入浴 料金:大人 500円 https://www.intellect.co.jp/okem/spa/c_okayama/0137.html」   砥石岩:砥石場 北緯34度51分2秒東経133度41分38秒  圃場整備の時 邪魔とされ覆られました 濡れると艶の出る表面が平らな石だったそうです  砥石岩:竹荘329・538番地 トイシ岩:333・533番地 トイシ谷:竹荘333番地 鬼ヶ嶽谷温泉:美星町矢掛町 北緯34度41分46秒東経133度35分35秒 現在旅館業は閉鎖されています 風穴:広面のドンドン山の山麓 北緯34度49分8秒東経133度48分42秒辺りで、開口部の広さ約1m、深さは堆積物で詰まっていて測れませんでした 鼓山:広面広奥の大高山 北緯34度49分11秒東経133度49分6秒 鼓岩:鼓山の添山の小高山の麓近く 北緯34度49分9秒東経133度48分46秒  雨坪岩:雨坪の田の北緯34度48分34秒東経133度48分48秒辺りに巨岩があり北側に丸い穴(雨坪岩は風穴での鉱山生産、鉱山安全を祈願する御神体であったのでしょう)があります この岩の前に 雨坪神社の祠があったと言われますが、現在は 風神社に 合祀されています 風神社:元は 雨坪神社で、崇神天皇Sujin-tennouの時代に 四道将軍 五十狭芹彦命(吉備津彦命)が 面影道( 山陽道と山陰道)平定の際に、その部下である鼓彦命が 雨坪の山麓に小祠を建てて、志那津比古命Sinatu-hiko--no-mikotoを 祀りました  鼓彦命は 吉備津彦命と共に 雨坪の地から開拓し始め 広野を耕地とし、この地を広面と名付けたと言われます 風神社明細書によると 大和国生駒郡の宮幣大社の龍田神社の御霊を 分霊し祀ったそうです  祭紳は 級長津比古命と 級長津比女命です。 天御柱神:竜田大社の祭神の風神 志那都比古神と志那都比売神     平成24年(2012年)10月14日

 

吉備津彦命の吉備国平定物語 Story of suppression of Kibi-no-kuni by Kibitu-hiko-no-mikoto

 昔  崇神天皇の頃は 諸国が 興隆し 大和朝廷を 脅かす程になりました。そこで 四道将軍を諸国平定に 遣わせました。西国平定には 五十狭芹彦命Isaseri-hiko-no-mikotoが 任命されました。吉備国は 朝鮮の亡命皇子 温羅が 阿曽国の姫である阿曽神社の巫女の阿曽姫の夫に納まり、阿曽国の王冠者と なっていました。朝廷軍は、陸路から攻めると 地理不案内で 大敗しました。海路から攻め掛かりましたが 穴の海には 児島 玉島等 多数の島が 浮かんでおり、潮流は速く 流れの方向も 複雑で有ったので、朝廷方の大型船は 犬島の海賊の巧みに操る小舟に 散々な目に合わされました。これ等を 反省した五十狭芹彦命は 地元の武将を募集すると、いの一番に 吉川の楽々森彦Sasamori-hiko-no-mikotoが 手を揚げ(別説あり)夜目主命(日差住民)栗坂の住民 等、次々に 吉備の国を 裏切る者が 現れました。楽々森彦(桃太郎童話の猿のモチーフ)は 海賊の犬飼健Inugai-Takeru(犬のモチーフ) 鳥猟師の留霊臣Tometsma-omi(雉のモチーフ)を 誘いました。楽々森彦命は 阿曽国の大臣で 足守製鉄県主の製鉄技術者でしたが、温羅も 製鉄技術者で 朝鮮式の製法を普及させたので、旧式の製法の責任者である 楽々森彦命は 面目を失っていたからです。嵐を 突いて 稚武彦命Wakatake-hiko-no-mikotoが上陸に 成功し 海岸線を占領すると、腹違いの兄  五十狭芹彦命は 陸路から進軍 し 中山に陣を 引きました。弟は 果敢に 温羅の守る鬼ノ城を 攻めると 危機に落ちた温羅は、五十狭芹彦命に 冠者の地位を譲りました。しかし、戦いは 続けられ、終に 温羅を 留霊臣が仕留めました。五十狭芹彦命は 温羅を犬に食わせ地中に埋めました。しかし温羅の怨霊は 五十狭芹彦命に祟り、悩ませ続け ついに 脳の病(ノイローゼ)を 起こさせました。祈祷しても 薬師の治療も効果が有りません。地元の豪族達(鬼達)は 温羅の怨霊の力に 勇気をもらい、抵抗は13年間も 続いていました。 ノイローゼの治療を進めていた 牛窓の海に ある日 突然 本宮山から 霊光が射したのです。7色に輝く霊光を 浴びると 神々しく 清々しい心に成り、心の蟠りWadakamariを 払拭されました。そこで 好敵手であった温羅の霊を 吉備津彦神社に祀ると、不思議に 豪族の抵抗は収まりました。余裕のできた 五十狭芹彦命は 各地に転戦し、(さぎ)の巣温泉の鬼を 平定し、化気神社の鬼を平定し、遂に旭川流域を平定し、我が領土となった本宮山に病平癒の謝礼の参詣をする事にしました。穴の海は この地近く迄 迫っていましたので、旭川を 船で登り、建部の岸から上陸し、急峻な山を 登って来ました。突然に開けた地に出たので、北方を望むと 本宮山が聳え、南を望むと御津の山塊を 見渡せました。

この眺望)の良さに、血腥い戦争の心の痛みや 急峻な山路登山の疲れを癒すために、暫くこの地に留まりたくなりましたので、この地に御座所を作りました。心の澱みが 晴れ、本宮山の頂を見ると明かりが点されていました。正法寺の僧侶が 龍王宮にお燈明を 欠かさず 点していたからです。その火は 御座所から 真北に位置し、直ぐにでも 辿り着けそうでしたので、道無き茂みを 掻き分けて登り 一気に 頂上を目指そうと 試みましたが、思いの他 山道は 険しく 茨や蔓に 道を阻まれるので、少しでも 登り易いよう進路を 選んで進んでいる内に、いつの間にか 谷筋を離れ 目指していた進路の方向を 見失いました。目指していた進路に 戻ろうとしている内に 日も傾き、野宿を覚悟して 腰を下ろし、途方に 暮れていた時、突然に 目の前に 白鹿が現れました。白鹿は 神の遣いであるとされていましたので 勇気を 取り戻し、鹿の招きに 従い 鹿の進む獣道を 進むと、村人が  龍王宮に参詣する登山道に出る事が できました。鹿に 導かれ頂上に立つと、4方は 絶好の眺望でした。本宮山の参詣を 終えた 五十狭芹彦命は 鹿で 有名な神社である春日神社を 詣で、鹿の角を 頂き いさざ王と名付けて 化気神社に 奉納し、春日大社の神々を 勧請し、かつ 牛窓の海に 感謝し、海神社と 命名しました。海神社は  後に分霊され、案田の山に 勧請させ、現在の化気神社と なりました。「吉備津彦命の吉備国攻め伝説」「鷺の巣温泉の戦い伝説」「化気神社の戦い伝説」「いさざ王伝説」「御所伝説」を基にした物語  瀬戸内海の一部はかつて穴の海と言われ、吉備津彦命の時代、玉島や児島半島は海に浮かぶ小島でした。総社市の平野は海で、鬼ノ城は半島に建っていたと想像されます。吉備中央町の広面の岩目は 魚見Uomiが訛って生まれた地名とされます。広面は吉備津彦命が広大なげにゃを楽々地とされ、鼓田は鼓彦命(吉備津彦命の軍師)が開いた地とされます、楽々森彦命は吉川城(比定地不明)に根拠を以ていたとされます。高塚古墳が墳墓とされます。

五十狭芹彦命:崇神天皇の命令で、四道将軍として西国平定に向かい、阿曽国の温羅を討ち、阿曽国の冠者となりました  阿曽国の鬼ノ城を攻め落とした功績が評価され 異母弟の稚武彦命が吉備津彦命が任命されましたが、直ぐに兄にその座を継り、兄を尊敬して大吉備津彦命と呼びました  その後、五十狭芹彦命は旭川流域を平定しました。岡山の桃太郎伝説の桃太郎のモチーフ 稚武彦命:五十狭芹彦命の異母弟 初代吉備津彦命  四国の桃太郎伝説の桃太郎のモチーフ    牛窓:現在の牛窓は 本宮山からは 多くの山々に遮られ見通す事はできません  穴の海が大きかった吉備津彦命の時代でも 牛窓は海岸線でしたので 本宮山からも見えたのでしょう   牛窓神社:北緯34度37分23秒東経134度10分22秒  本宮山山頂:北緯34度54分13秒東経133度50分44秒    温羅:穏やかな人あるいは 朝鮮の人の意味を持ちます  吉備津彦命は 大和朝廷に敵対する勢力を全て鬼と呼んでいましたので、大和朝廷にとって温羅も鬼とされました 総社市西阿曽の阿宗神社:北緯34度42分49秒東経133度46分44秒 吉備の中山山頂:吉備津神社の南西の隣地の山 北緯34度40分28秒東経133度51分30秒    北区吉備津の吉備津神社:北緯34度40分14秒東経133度51分2秒    北区一ノ宮の吉備津彦神社北緯34度40分36秒東経133度51分50秒    総社市奥坂の鬼ノ城北緯34度43分36秒東経133度45分47秒 中大兄皇子aka-no-Ooe-no-Oujiが白村江の戦いakusuki-e-no-tatakaiで頭に敗れ、唐の逆襲を防ぐために建てた朝鮮式の山城です  温羅の居城とは異なりますが、同じ場所だった可能性はあります 竹荘の鷺の巣温泉・湯本温泉北緯34度51分43秒東経133度41分29秒 上田西御所の加茂川農場:ストックファーッム付近 北緯34度52分55秒東経133度50分41秒 案田の化気神社:北緯34度54分19秒東経133度49分22秒 円城寺:北緯34度53分31秒東経133度48分22秒 上田東畑ヶ鳴:北緯34度53分23秒東経133度50分54秒 上田西の山の神峠:北緯34度52分54秒東経133度50分30秒 奈良市春日野町の春日大社:北緯34度40分53秒東経135度50分54秒   平成25年(2013年)9月6日