八幡神社 Hatiman-jinjya

八幡神は「神道ではYahata-no-kami」「仏教ではHatiman-sin」と呼ばれ、武運の神武神で清和源氏 桓武平氏等 日本全国の武家から「弓矢八幡」として崇敬を集めました。誉田別命Honda-wake-no-mikoyo( 応神天皇の事です。また神仏習合により、八幡大菩薩Hatiman-daibosatuと呼ばれ、神社内に 神宮寺が 作られました。八幡神社の総本社は 大分県宇佐市の宇佐神宮宇佐八幡宮で 誉田別命と 比売神Hime-no-kami 即ち宗像三女神多岐津姫命Tagitu-hime-no-mikoto 市杵嶋姫命Itikisima-hime-no-mikoto 多紀理姫命Tagiri-hime-no-mikotoの三柱)と神功皇后Jinguu-kougou(息長帯比売命Okinaga-Taras-hime-no-mikoto)を祀ります。八幡神は 震旦国Sintan-koku(中国)あるいは 新羅Siragiの神霊で 応神天皇とは関係なかったのですが、恐らく応神天皇の頃に 中国や 新羅から難民として日本に帰化した人達によって 伝えられ 地主神 則ち  日域Jitiiki(日本国)等の鎮守の大神となり  奈良時代から 平安時代に  応神天皇と 習合し 皇祖神Kouso-sin国家鎮護の神となったのでしょう。仏教普及のため 東大寺大仏建立が 計画され 聖武天皇等は 八幡神を 仏教の守護神としました。聖武天皇の血筋が 絶えると 天災が 頻発したため、聖武天皇等の祟りと恐れ、朝廷は宝亀8年(777年 聖武天皇の葬儀から29周年)に 八幡神が「出家」し 天応元年(781年)に「八幡大菩薩」の号が 贈られました。八幡とは 多くの旗の意味と 捕らえ 軍旗を 連想させるので 武家の守護神となりました。明治元年(1868年) 神仏分離令により 神宮寺は 廃され本地仏僧形八幡神の像は 撤去された。また 仏教的神号の八幡大菩薩は 明治政府によって 禁止されましたが、八幡大菩薩の神号は 現在でも用いられます。https://ja.wikipedia.org/wiki/八幡神八幡神は 農耕神海の神・鍛冶の 神ともされます。  ㊟神社の前に付された地名は他の神社と区別する為に付けられていて、神社の正式名称でない場合があります


井原 天神堂の八幡神社 Hatiman-jinjya of Ten-jinjya in Ihara

井原出シ上943番地より  西に 墓場を幾つか越え 登ると 頂上付近・倉木池の東 北緯34度53分50秒東経133度45分26秒に 地神搭と共に 井原天神堂が建ちます。五宮社の両脇に 一宮社が祀られます。五宮社の左より2番目の厨子が 八百万神社で、その厨子の中に 八幡宮八幡宮大神が 祀られていますです。 北堂鼻:井原911番地 馬引免:井原921・922番地 地蔵前:井原924番地 天地ノ山:井原939-940番地 出シ上:井原943-945番地 丸山:井原994番地 倉木:井原1008・1052番地等 天神山:井原1024-1032番地  平成25年(2013年)10月4日

 

井原 木鍋八幡宮 Kinabe-Hatiman-guu

井原出シ上943番地より 西に墓場を 幾つか越え登ると 頂上付近倉木池の東 北緯34度53分50秒東経133度45分26秒に 地神搭と共に 井原天神堂が 建ちます。五宮社の両脇に一宮社が 祀られます。五宮社の左より 右端の厨子が 木鍋八幡宮です。応神天皇と 思われる像が 祀られています。    木鍋八幡宮:本社は 瀬戸内市長船町土師2191番地に 建ち、木閇宿禰命Kie-no-Sukune-no-mikoto 大山咋命Oo-Yamakui-no-mikoto 品陀和気天皇Honda-wake-no-mikoto(応神天皇)  息長足比売命Okinaga-Tarasihime-no-mikoto(神功皇后)  比売大神Hime-no-ookami(宗像三女神を祀ります  岡山県神社庁によれば「木鍋とは木閇Kibeの訛伝Jadenで 木閇は気陪であり 豊受の受と同意で、五穀を守護し給う 縁由である  木閇宿禰命は 大和国広瀬郡木瓶村に 御住居になっていたものを 土師村Haji-muraに 奉祀し、木閇神社と称した  人皇Ninnou第49代 光仁天皇の宝亀3年(772年)正月、備前守藤原朝臣雄依Hujiwara-no-Asomi-oyoriが 神託を蒙て 大和国奈良郡から 八幡宮を勧請し、木鍋八幡宮とした  本神社は 癇疾Kansitu(ひきつけ等の病を 起こす病気)の者に 霊応著しき神徳がある 明治40年10月に 神饌幣帛料供進神社Sinsen-Heihaku-Kyousin-jinjyaに 指定された」を 由緒として示しています木鍋八幡宮|岡山県神社検索|岡山県神社庁 (okayama-jinjacho.or.jp)」    訛伝:誤った言い伝えの意味です    木閇宿禰命:五穀の守護を司る神 探湯kugatati:熱湯に手を浸し火傷しないかどうかで、真実・虚実や吉凶を占う誓約Ukei    天地山下:井原941番地 出シ上:井原943-945番地 出シ:井原946・947番地 天光:井原1103・1104番地等 天神免:井原1132-1134番地 若宮段:井原1165番地 祇園山西:井原1170番地  平成25年(2013年)10月4日

 

井原 寄峰の八幡神社 Hatiman-jinjya-in Mineyori

井原新屋敷135番地の北側の林に お堂が建っています。そのお堂から 北に山道が続いているので進むと 北緯34度53分40秒東経133度45分51秒に陶器製の一宮社八幡神社が 建っています。 牛王西:井原110番地 六万坊上:井原112番 才ノ前:井原113番地等 新屋敷:井原135番地 城山上切:井原146・147番地 堂ノ上:井原137番地  平成29年(2017年)6月3日

 

上田西 家回りの八幡乃大神宮 Hatiman-no-ookami-guu

円城下土井線(372号線)沿いの 冠者河内池の南から 百姓王国の門の西上田西ノットメ395番地に 個人の祀る一宮社の金神社が有ります。百姓王国の門を潜り 南に進み 次の三叉路を右に曲がり、上田西野呂集会場の手前上田西家回り536番地 北緯34度53分15秒東経133度47分46秒に 三宮社が有ります。左の社には 金神大神が 祀られ、中の社に 八幡乃大神八幡紳)と金神大神が 祀られ、右の社に 摩利支天大神が  祀られています。    家廻リ:上田西533-536(北緯34度53分15秒東経133度47分46秒)・544番地等    の津ト免:上田西380・395(北緯34度53分8秒東経133度47分51秒)515番地等    上田西野呂集会場:北緯34度53分16秒東経133度47分44秒     平成25年(2013年)5月26日

 

上田西 光則の八幡大神宮 Hatiman-taisin-guu in Mitunori

上田西公民館の西 上田西1331番地の西の畑に面した北緯34度52分56秒東経133度47分42秒の光則荒神堂内の左端に 小さい一宮社と 五宮社が 祀られます。一宮社は 木山神社で  山王様が祀られています。五宮社の左端の社は 八幡大神宮と 天神宮菅原道真の像が 祀られます。2番目の社は 木山宮で 八幡大神 木山神社大神 天神社大神を 祀ります。3番目の社は 三寶荒神社で、5番目、即ち右端の社は 祇園天王宮です。 光乗:上田西798・1570番地等 圓若・円若:上田西779・818番地等 信坂後:上田西797番地 宇津波:上田西819番地 宇津和:上田西822・841番地等

穴住:上田西824・829番地等  平成25年(2013年)6月6日

 

上田東 松尾神社の八幡神社 Hatiman-jinjya of Mayuo-jinjya

上田東御﨑506番地 北緯34度53分33秒東経133度47分44秒に 松尾神社が建ちます。松尾神社の境内の西に 末摂社が並んでいます。その中央の小さい四宮社の左端の厨子が 山神社で、隣の厨子が 大山神社です。その右隣りの厨子が 八幡神社です。    宮前:上田東484番地 宮本:上田東496番地    御崎・御嵜:上田東501・506番地等 荒神後口:上田東536・538番地    宮林東:上田東549・550番地     平成28年(2016年)4月8日

 

上田東 柏尾の八坂神社の御薦社 Mikomo-sya of Yasaka-jinjya in Kasio備高原北部広域農道(奥吉備街道)の三谷方面や 貢Mitugi方面に向かう十字路を 貢方向に進むと 変則5叉路を道なります。南に進み 次の丁字路を 道なり 東に進み 塚神様の横を通ると 上田東柏尾下モ前1155番地に出ます。上田東1155番地の庭先を通り 山道を北に向かうと 北緯34度53分59秒東経133度48分1秒に 八坂神社が建ちます。本殿には 素戔嗚尊が祀られているのでしょう。御蔦社Mikomo-jinjya 由加社 大宮社 若宮 紳明社 愛宕神社 大山罪神社 建布都社等が合祀されていると言われます。 御蔦社:薦神社は 大貞八幡宮とも呼び、大分県中津市大字大貞209番地 北緯33度34分02秒東経131度13分5秒に 御薦社が建ちます 祭神は応神天皇 比売大神Hime-no-ookami 息長帯比売命Okinaga-tarasi-hime-no-mikotoです 大宮社:処々に祀られそうな名前の神社です  京都市西京区川島北裏町126番地 北緯34度58分32秒東経東経135度42分5秒阪急桂駅の西口の南)大宮社の祭神は大山咋神Ooyama-kui-no-kamiです    建布都社:徳島県阿波市市場町香美字郷社本18番地北緯34度5分0秒・東経134度17分56秒に建つ 建布都神社の祭神は建布都神Take-Hutu-n-kami(建御雷之男神Take-Mikaduti-no-o-no-kami) 経津主神Hutu-nusi-no-kami 大山祇神Ooyamsa-tumi-no-kあmi 事代主神Kotosiro-nusi-no-kamiです。家門岩:上田東1150番地 塚曽祢:上田東1166・1174番地等 柏尾下モ前:上田東1155番地(北緯34度53分56秒 東経133度48分1秒) 齋ノ免:上田東1035番地 柏尾:上田東1057・1282番地等 貝尾墓前:上田東1063番地 墓東大段:上田東1065番地 荒神免:上田東1110番地  平成25年(2013年)5月20日 

 

尾原 芋畝の八幡神社 Hatiman-jinjy in Imoune

尾原賀陽線(369号線)から 竹石橋で 細枝川を渡り 直ぐに北に折れ 西の分岐を進むと 尾原芋畝1633番地で 右に大きく 道が曲がります。そこより 西を見ると 小高くなった所 北緯34度54分57秒東経133度44分39秒に 八幡神社が建っています。堂内には 囲炉裏があり 八幡神社の本殿が有ります。 荒神前:尾原1588・1589番地 城ノタワ・城ノ乢:尾原1623・1850番地等 芋畝:尾原1630・1898番地等  平成29年(2017年)6月28日

 

上加茂 八幡山の八幡神社 Hatiman-jinjya on Hatiman-yama in Kamogamo

上加茂の八幡山 北緯34度51分15秒東経133度48分28秒に八幡神社が建ちます。429号線上加茂のコメリハード&グリーン加茂川店北緯34度51分15秒東経133度48分34秒)より西に進むと 野仏が立ち その奥が 墓場になっています。その西 上加茂未木前113番地から 東に延びる山道があるので 道なりに山を登ると 作平地が有り 八幡神社が建っています。天正8年(1580年)上加茂合戦の折り、虎倉方の新山兵庫等が 布陣し 開戦直後 手薄となった清経城を襲い 奪取したとされます。    清経城:北ィ34度51分1秒東経133度47分56秒付近 八幡谷:34度51分16秒東経133度48分29秒 上加茂60・107番地等 八幡:上加茂108-113(北緯34度51分12秒東経133度48分27秒)・119番地等 未木前:上加茂104-11番地  薬師:上加茂185・279番地等  平成28年(2016年)3月25日

 

加茂市場 加茂総社宮の元兼八幡神社 Hatiman-jinjya of Kamo-soujya-guu

加茂市場Mati1527番地隣地の北緯34度51分54秒東経133度45分30秒に 加茂総社宮が建ちます。恵比須神社の北側に 地神碑と供に2つの社が並べられて建ちます。右の三社宮には元兼集落の荒神社が祀られています。隣の一社宮は八幡社で 品陀別天皇Honda-wake-no-sumer-amikoto 奥長足姫命Okinaga-Tarasi-hime-no-mikotoが 祀られています。    丸山大手:加茂市場1485番地 札場:加茂市場1495・1496番地    町:加茂市場1500・2308番地等 町寺川:加茂市場1503番地    祝祠免:加茂市場1509・1513番地等 町禰宜屋敷:加茂市場1524番地    宮ノ前:加茂市場1560・1577番地等 惣社:加茂市場1567番地  平成25年(2013年)8月14

 

小森 湯所稲荷神社の摂社秋葉神社の八幡二社 Two Hatiman-jinjyas of Akiba-jinjya in Yudokoro-Inari-jinjya

北緯34度54分58秒東経133度48分20秒の小森湯所の稲荷神社の境内摂社として 中央の大きい社の稲荷神社の左に 小さい社の秋葉社が 建ち、月読大神Tukuyomi-no-ookami 御井三柱大神Mii-Mihasira-no-ookami 八幡宮二社 朝日夕日神 竃所三柱大神が 祀られます。右の社は 荒神社です。   御井神社: 奈良県宇陀市榛原檜牧字高鳥964番地 北緯34度31分20秒/東経135度58分30秒の御井神社の祭神は 御井大神 天照皇大神 春日大神 水分大神、島根県出雲市斐川町直江2518番地 北緯35度22分48秒東経・東経132度49分41秒の御井神社の祭神は 木俣神(御井神)です 木俣神:八上比売は 大穴牟遅神の最初の妻でしたが、須勢理毘売が 正妻にになると、嫉妬深い正妻を恐れ、子を木の俣に挟んで 実家に帰りました  そのためその子は 木俣神と呼ばれます またの名は 御井神Mii-no-kami    八幡宮二社:正八幡宮神宮鹿児島神宮若宮八幡宮を言います  正八幡宮は 岩清水八幡宮を 若宮八幡宮 は鶴岡八幡宮を 勧請します    朝日夕日神:伊勢神宮の内宮皇大神宮:天照大神 三重県伊勢市宇治館町1番地 北緯34度27分18秒東経東経136度43分30.63秒)外宮豊受大神宮 三重県伊勢市豊川町279番地 北緯34度29分14秒東経136度42分11秒の祭神でしょう  ちなみに 大分県豊後高田市 北緯33度30'分29秒東経131度30分40秒に朝日観音 夕日観音が祀られます   氷見市にある朝日神社富山県氷見市小境1番地 天照大御神)と夕日神社富山県氷見市小境1440番地 豊受大神に祀られている神々は伊勢神宮の内宮と外宮の祭神ですwww.genbu.net/data/ecyu/asayuu_title.htm」    湯所:16・247番地等 城山上:小森418・43番地等    湯所後:83番地 堂溺:86番地 日山谷:小森96・112番地等 日南田:小森147・150番地    夕日畝:215・373番地等  平成24年(2012年)1月10日

 

笹目 八幡宮 Hatiman-guu in Sasame

高梁旭線(49号線)の笹目集落の中心部に 笹目乢間181番地に 笹目公会堂が建っています。公会堂の西に2本の分岐があるので北側の分岐を東に進むと 笹目宮川552番地に出ます。八幡宮の神輿置き場があり、常夜灯が 立っています。そこより 細い山道を北に登ると 北西に折れます。よく探すと 1m程で 北に向かう分岐があるので 登ると 北緯34度55分16秒東経133度43分9秒に 八幡宮が建っています。八幡宮本殿の右側に一宮社の荒神社(右の大きい社)杵築神社の2社建っています。 タワマ:笹目159・609番地等 乢間:笹目604番地 才六郎田:笹目183番地 宮の跡:笹目185番地 宮ノ前:笹目194番地 堂坂:笹目233・259番地等 坊河内:笹目242・292番地等 荒神前:笹目243・258番地等  平成29年(2017年)6月22日

 

豊岡上 亀山八幡宮 Kameyama-Hatiman-guu

 亀山八幡宮は 豊岡上亀山184番地 北緯34度53分59秒東経133度45分35秒の亀山に鎮座します。河内八幡宮豊岡八幡神社とも言われます。氏子域は 井原 大木 豊岡上です。延喜2年(902年)疫病退散の霊験があったと言われる 山城の国 石清水八幡宮Iwasimizu-Hatiman-guuを 勧請しました。勧請の折に 樫の木の古株に 7つの神火が 降り立っ たと言い伝えられます。品陀別命Honda-wake-no-mikoto 吉備津彦命五十狭芹彦命Isazeri-hiko-no-mikoto  息長足媛命Okinaga tarasi-hime-no-mikoyo 日本武尊Ysamato-Takeru-no-mikoto 宗像3女神Munakata-san-jyosin等が 祀られています。宝鏡が 男山八幡宮(京都の裏鬼門:南西にある石清水八幡宮)より送られ、天文10年8月に 清光作の備前長船の副刀が 奉納されました。「加茂川町史」

亀山八幡宮は落合加茂川線(66号線)と 豊岡上小森線(371号)の交差点にある山です。交差点付近に 階段があり 登ると、本殿が 正面に待ち構えます。66号からも371号からも 登る道があります。旧371号を 西にやや行くと 右手に鳥居が保存されていて、そこから臨むと 神社のオフロ(杜)は亀の甲羅状に見え 農村公園が亀の頭に見えます。この二つの茂みは 連接していないのですが、昔からの言い伝えで 二つの茂みを 亀山と総称します。鶴山も近くにあり、両山を合わせ鶴亀山と言います。神社の建つ裏山即ち亀の甲羅に当たる山を蓬莱山とか神通山と呼び、大鶴山常光寺が建っていたそうです。本殿の右側に 大きな一宮社と 小さい一宮社と 三宮社が建っています。大きい社は竈神社へっつい様です。多くの竈神社には 竃の荒神である軻遇突智命 奥津彦命 奥津姫命が祀られています。大年神の子で五穀を司る神、家庭の竃の守護神です。www.agajinja.jp/kamado-jinjya/」「竈神社(長野県大町市) | okasurferのブログ (ameblo.jp) 小さい一宮社は 斎宮で、狐の置物が 奉納されています。斎宮には 皇大神Koutai-jin天照大神や その使いの巫女伊勢神宮の神)が 祀られます。狐の置物が 奉納されているので 稲荷の神としての豊受大神が 祀られているのでしょう。三宮社の左の厨子は 若宮社で 中の厨子は祇園神社です。右の厨子は 護王神社天児屋根命が祀られるのでしょう。 落合加茂川線(66号線)から 豊岡上小森線(371号線)が 分岐する辺り 豐岡上正面136番地と 豐岡上正面138-2番地の間の北側に 急な階段が あります。くの字に 15段程 登ると 手水鉢「奉寄進片山長次郎 昭和二年五月吉日」、対の石碑「奉寄進」「奉寄進」、対の石柱「奉献 明治三十〇年五月 氏子中建設」「日露戰後記念 多数の寄附者名」があり、更に79段程 登ると 随身門が あります。更に42段程 登ると 境内に達し、寄附者碑「奉寄進 金壹万円也 岡田為 石段改築」、手水舎「水道栓 」、対の狛犬「献奉 〇〇五〇年子十月」「献奉 氏子」、対の燈篭「𤡎燈 明治二拾壹子年十月吉祥日」「獻燈 願主行山茂利治 慶應三丁卯歳季秋吉祥日」、枯れ木があります。左脇に 焼却炉が あります。正面には 拝殿が立ち、右高所に「八幡宮火燈祭御寄附御芳名」の書が 掲げられ、左には「神は人の刑によって威を増し 人は神の徳によって運を〇う」の書が 掲げられています。拝殿の左に 社務所らしき建物があり、拝殿は 本殿と繋がっています。本殿脇には対 の燈篭「八幡宮 文政拾壹年五月吉日施主」「八幡宮 施主 惣氏子 文政十二年巳七月吉日」があります。本殿の後には 砲弾、小社群が あります。 古い鳥居:北緯34度53分51秒東経133度45分36秒 豊岡地区農村公園:北緯34度53分58秒東経133度45分51秒 鶴山の頭部:北緯34度53分56秒東経133度46分3秒 鎮ヶ乢:北緯34度53分59秒東経133度45分50秒 大鶴山常光寺跡:北緯34度54分2秒東経133度45分48秒 御供田:豊岡上70・71・101-105・1293・1294番地 山口宮下:豊岡上90番地 正面:豊岡上138・181番地等 宮地:豊岡上166・179番地等 宮脇:豊岡上169番地 亀山:豊岡上181・184番地等 宮根:185・186番地 鎮ヶ乢:豊岡上219・302番地等 鳥井場:井原10番地 森屋:井原59番地 登亀:井原246番地 亀山(大鶴山・蓬莱山)と鶴山:上の左の写真 旧鳥居の向に見える丘が 農村公園で、亀山の亀の頭です。右の写真が 鶴山で、翼を 広げ 元気無く 伏せて 卵を 抱いているのですが、卵は 首の脇に はみ出しています。その上、嘴(嘴)は 川下に向いています。それ故「豊岡八幡宮の氏子の者達は 出世しないのだ」と 村の古老は 嘯きました。  平成23年(2011年)1月6日

 

豊岡上 前相模の八幡宮 Hatiman-guu in Mae-Sagami

北緯34度54分34秒東経133度45分60秒 豊岡上ソバ872番地と豊岡上幸槌1318番地の間のほぼ中央の北の土手上に お堂が建ちます。堂内には 八幡宮と三寶荒神社が 祀られます。11月から12月のいずれかの日に三所神社の宮司が司り、荒神祭りを行います。御祓いを済ませ、お料理と酒の席を設け最後は 餅投げMotinageで終わります。 ソバ:豊岡上872番地 幸槌:豊岡上1317-1319番地 箒坂:豊岡上840-844番地 前相模堂ノ前:豊岡上889-89 3番地 堂東行免:豊岡上894番地 石堂上:豊岡上990番地 天神山:豊岡上1117-1120番地 御供田:豊岡上1293・1294番地 御崎免:豊岡上1300-1302番地 荒神後:豊岡上1340 丸師天山:豊岡上1344-1346番地     平成25年(2013年)1月25日

 

平岡 正八幡宮 Syou-Hatiman-guu

上野長尾佐631-2番地から東北東に480m程 進むと 平岡と上野の境界線上に 変則的な四差路があり 2本の分岐があります。南に延びる分岐は上野八十原73番地に向い、南南東に延びる分岐は 平岡の千人塚に 向かいます。四叉路より 北東に曲がり 130m程進 むと 東に向う山道があります。山道を45m程進むと2本に 道が分岐するので 道なりに北側の山道を 東に240m程進むと北緯34度51分4秒東経133度47分19秒に 正八幡宮が 建ちます。 

祭神は 解りませんが、ちなみに 石清水八幡宮の祭神は 応神天皇 ヒメオオカミ 神功皇后で、鹿児島神社 正八幡宮の祭神は 天津日高彦穂穂出見尊Amatu-hidaka-hiko-Hohodemi-no-mikoto (火遠理命 Hoori-no-mikoto 山幸彦) 豊玉比売命Toyotama-hime-no-mikoto 帯中比子尊Tarasi-Nakahiko-no-mikoto(仲哀天皇) 息長帯比売命Okinzg-tarasi-hime-no-mikoto(神功皇后 品陀和気尊Hondsa-wake-no-mikoto(応神天皇八幡大菩薩 中比売命Nakatu-hime-no-mikotoです。

参道の反対側に 鳥居(正八幡宮 亥六月吉日 奉寄進 氏子中 天保十巳)があり、その前に 対の石燈篭(奉納 奉納)が左右にあります。左の灯籠の左に 手水鉢があります。対の燈篭の前に 壊れているので解りませんが 8個の丸い突起があったと 思われる 笠を持つ 奉納石塔(昭和六十三年十月吉日 畠山善志朗建之 同文)があります。広場を(右側にブランコと滑り台)おいて 拝殿と 本殿があります。拝殿の右手山側に 壊れた簡易トイレが あります。本殿奥の左手には 壊れた小社 地神碑と 六宮社があり、右手には 木野山神社 愛宕神社 及び地神碑が あります。千日:平岡654・865番地等 大仙山:平岡659・660番地 八幡乢:平岡921・922番地 毛宗化:465・652番地等  令和5年(2023年)5月17日

 

広面 広上の八幡宮 Hatiman-guu in Hiroue

429号線沿いの広面宮の上ミ613番地の北の参道の取り合い道を上ると 左に石碑、右に小さい2個の力石ようの石に挟まれた 入り口の奥の石組みの上 北緯34度49分19秒東経133度48分25秒に 八幡宮が建ちます。 宮ノ前:582・619番地等 上ミ:広面584-585番地 奥坂・オクサカ:598・685番地等 宮ノ上ミ・宮ノ上:広面599・613番地等 カウバタ・香畑:686・718番地等  平成29年(2017年)4月1日

 

上竹 大八幡神社 Oo-Yahata-jinjya in Kamitake 

大八幡神社の旧社格は 郷社で大す。北緯34度50分33秒東経133度40分3秒の上竹八幡Yahata3268番地に大八幡神社が 建ちます。連絡先の電話番号は 0866-54-1363番です。摂末社に 竹内神社 若宮神社 男山八幡宮 天照皇大神宮 美保神社 出雲大社Izumo-ooyasiroが有ります。

本殿には 応神天皇 仲哀天皇 神功皇后Jinguu-kougou 田心姫命Takiri-hime-no-mikoto 端津姫命Tagitu-hime-no-mikoto 壱杵嶋姫命Itukisima-hime-no-mikoto 正勝山祇命Masakatu-Yamatumi-no-mikoto 大国主命 素戔嗚尊Susa-no-o-no-mikoto 五十猛Iso-Takeru-no-mikoto 倉稲魂命Uka-no-Mitama-no-mikoto 経津主命Hutu-nusi-no-mikoto 豊玉姫命Toyotama-hime-no-mikoto 稚産霊命Waku-Musubi-no-mikoto 天児屋根命Ame-no-Koyane-no-mikoto 大物主命 火産靈命Ho-Musubi-no-mikoto 矢刷紳等 31神が祀られています。平城天皇の頃大同元年(806年)8月15日に 宇佐八幡神社を 勧請されました。延暦Enryaku24年(805年)8月頃から 岡住山に8つの旗雲が 棚引き、郷の男女 が不思議を 感じ、同年10月に 奏聞Soubun/Soumon(天皇に申し上げる)し奉りました。その頃、天皇の夢に 神が立ち「我は八幡大伸なり これより西の吉備中津国多気之里の岡の狭山に 長く止まりたい  はや 天皇が言葉を発する)せよ」と 告げました。奏聞も 霊夢も不思議な事ですから 占いをすると 吉と出たので、この山に 八幡宮を祀りました。天皇は 喜び 社地一反を築き 大社と決めたましたので、八幡宮の上に 大の字を添え 大八幡宮の名が生まれました。お祭りとして 1月15日 2月15日 6月15日 8月15日 11月15日に、大祭礼として8月15日に行い、建武の頃後醍醐天皇の時代まで神札を献上していました。現在の祭典は 1月1~7日の正月行事 4月8日の春季例大祭 勧学祭 8月15日の献燈祭祖霊祭 10月7日の秋季例大祭 11月23日の新穀感謝祭 11月24日の式年宮荒神大神楽宮後Miyasiro) 12月1日の式年宮荒神大神楽(正力 金次 猿目)です。8月15日の祖霊祭は 氏子の中から当番を定めて ハクケ神事 お神酒造り 七十五膳の神饌Sinsen(神の食べ物)を供えて 古式に従い行われます。盆踊り大会が 開催され、踊り子には 景品があります。現在の本殿は 元禄14年(1701年) 松山城安藤長内重興が 再建した物です。いわゆる 三間社です。入母屋造りの銅板葺きの平入りで 大軒に千木Tigi(屋根に飾られるⅩ状に交差した部材)が 3か所 勝男木Katuo-gi(鰹木屋根の上に平行に並べられた部材)五穀豊穣 学業受験合格成就 勝負成就 籤運Kujiun 満願成就 厄災消除 等です。更なる詳細を知りたい人は賀陽町史追補版をご覧ください。

この神社に関する伝説が 有ります。上竹の郷社大八幡神社は 何時の事だか解らないのですが 大分宇佐から宇佐八幡神社を勧請kanjyou(神様の暖簾分けや分家(を出すようなもの)したものです。この時 ウラギンツルグミ(裏銀蔓茱萸)が、本殿の裏手の山に 移植されました。岡山南部に 極 少数の株があるのですが 吉備中央町には ここにしか生えていません。今でも 神饌の一つとされています。

大八幡神社の表参道は 上竹ハナタ4105-5番地 や上竹カジヤ4114-1番地の北から北西に向いて始まります。参道入口には 対の備前焼の狛犬「奉」「獻」 対の駒繋ぎらしき石柱 対の石柱「報体友始 昭和十年十月十五日」「敬神崇祖 大八幡神社 昭和二年三月吉日 板倉〇信書 當村屋₍䧸に似た字)(劥に似た字 )寄附者 西山(九に似た字)太郎七十六」が 立ち その奥に 石柱「奉献菅野倉蔵〇」が 立ちます。表参道の途中に、駒繋ぐと思われる対の石柱が立ち 左手に 寄附標識「奉献 菅野茂實 山林二四三平方メートル 令和二年九月十五日」「奉献 菅野麻寿美 」山林七〇八平方メートル令和四年二月十六日  奉献菅野芳枝 令和四年五月九日」が 立ちます。

駐車場の左手前に 手水鉢と 鳥居「奉寄進 〇起者 日〇男内女青年  昭和三年十月吉日」と 神社「大山祇神社 淡島神社広 峰神社」がセットになっています。堂内には 厨子 木製男根型の奉納物 大願成就の上り等が 納められています。駐車場の左奥にが桜の里の碑「さくらの里 さくら植樹二百本菅野〇仁 令和三年八月吉日」右手には記念樹碑「記念樹 桜(ソメイヨシノ)20本 八幡カラオケ同好会〉平成三年三月吉日 台石寄贈 吉備高原運輸 菅野史佳」があり その奥に畑寄附碑「奉献畑壱反畝九歩を神社駐車場として寄進 平成三年三月吉日」が立ちます。側に お堂と石碑「町指定重要文化財 大八幡神社 阿彌陀如来 増長天 多聞天 三体」があります。駐車場の北端に 宝篋印塔魂碑 日名生活センターがあります。生活センターの参道脇に小さい仏像が祀ってあります。大八幡神社の案内板には『大八幡神社 旧郷社 祭神は応神天皇他諸神。社伝によれば延暦二四(ハ〇五)年此地の空に八本の旗雲が現れたのを見て不思議に思い平城天皇に奉聞した処、天皇の夢にも現れ「吾は八幡神なり この地より多化の里に止まらん」と奏したので ここに神社を創築された。花山院が高梁の阿部に駐留された時 再興されたという。又寛永の頃松山藩主池田長幸は厚く尊敬した。当社は古代より伝えられた「ハッケ」の神事が行われている。藤原時代末期の阿弥陀如来 鎌倉時代初期の脇侍、鎌倉時代の狛犬等文化財を保有している 賀陽町」と 記されています。表参道を 日名生活センターの前を通り進むと 右手に小屋があり 次に対の駒繋ぎと思われる石柱 対の石柱「自求多福」「聿修〇徳」と 対の狛犬「奉獻 惣氏子中」「明治廿四年十月吉日」があり その奥に 石碑「 御社八幡神社」と 手水鉢「天保十一子〇月吉日」と地神碑「社日祭大〇〇( 組内安全 守護」が あります。その奥に 鳥居「大八幡神社 平成二十六年七月吉日 大八幡神社氏子中」があり その奥の右手に 参道の分岐「境内の東側を境内を避けるように迂回して裏参道に続きます」があります。分岐の入り口には 対の石碑「刻字無」「大八幡神社自動車道舗装工事完成 延長百六十米 幅員二米五十 平成二十四年九月吉日の標」と 檜皮の森の案内板が あります。その奥に 八幡苺 ・ニイタカグミのの案内板「八幡苺 ニイタカグミ ウラギンツルグミ グミ科 宇佐八幡宮よりの神饌品として〇〇し実を植えたと伝えられています」が 立ちます。 主な蔓は 枯れていますが 脇芽が 成長し始めています。階段を登ると 対の燈篭「嘉永七年丑八月日 祢宜 石井石見頭」「奉燈 社日 石井〇〇〇」と 随身門があり 手洗い舎「心洗」と 手水鉢と 対の燈篭「惣社町石井」「祢宜石井岩見頭」があります。隋身門には「あ」形像、「ん」形像の門守神Kadomori-no--kamiが 祀られています。階段を登ると 対の燈篭(當と燈)「氏子の繁栄 當山氏〇遊金建之」「安政五戌午四月吉日」と 寄附碑があり 境内に入ります。正面に 拝殿その奥に本殿が 繋がります。拝殿前には 対の燈篭「奉献 中日名之住 福本家三代石井昭和五十四年三月期ý遅日」「刻字無」と 対の駒繋ぎと思われる石柱と 石碑「町指定重要文化財 大八幡神社 神碑一対  町指定需要文化財 大八幡神社 狛犬一対」が立ちます。拝殿の右には 寄附碑や 郷土館 便所があります。拝殿の左には 神輿置き舎と思われる建物があり その奥に「大八幡神社改築事業寄附者碑」「大八幡神社本殿玉垣建築事業寄附芳名碑」があり、その裏には 壊れた鳥居「大八幡神社」が 保管されています。本殿の裏には 石垣があり 石垣の上には  寄附者を記す石柱が 多数並んでおり ほぼ中央に 賽銭舎があります。賽銭舎の西側に 石碑 竹内神社 燈篭「〇中国道〇〇〇〇村住人 早川五左衛門 前垣〇〇子年上房郡村庄〇〇〇七兵衛 〇〇六戌二月吉日 以下省略 」 神木「樹齢一二〇〇年の大杉」があり 賽銭舎の東側には「 寄附碑 小さい陶器製の狛犬に護られる男山八幡宮 奉燈 手洗い舎 若宮と思われる社が 祀られています。社の裏に創庫があり 裏門に続く参道があります。裏門は 上竹加藤道ノ2846-2番地や 宮後公会堂の南にあります。裏門には 対の狛犬 「法」「献(山石小に犬)」手水鉢 対の燈篭「奉燈寄進」「奉寄進」があり 階段を登ると対の大きな石柱「恵䄩無福」「茲祉福 」があり 裏参道が始まります。裏参道は凡そ300mあり おかげ坂「おかげ坂 この坂は願いを心に念じ一歩一歩登ると諸願はかなえられるといわれています また厄除開運の坂ともいわれます」と 呼ばれています。裏参道の途中に 鳥居「明治四葱十四年十二月〇〇〇〇〇〇〇合祀〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇記念  禰宜石井石見頭 」や 対の石柱「明治丗五年建之」「?」が立ちます。大八幡神社神像3体は 昭和30年6月(1955年)に 阿弥陀如来坐像と多聞天立像 増長天立像は 昭和31年(1956年)4月に、狛犬1対は 昭和49年(1974年)6月にそれぞれ町重要文化財に指定されました。

大八幡神社狛犬:昭和49年(1974年)6月、旧賀陽町(吉備中央町)重要文化財に指定されました 詳細は賀陽町追補版をご覧ください 矢刷紳:読み方も いかなる神かもわかりません ヤスリノカミ  あるいはシスリノカミとでも 読むのでしょうか  何となくシスリにた発音を持つ神は 須勢理毘売命Suseri-bime-no-mikoto 火須勢理命Ho-no-suseri-no-mikotoです  弓矢神は 軍神の事ですが、狭義には 応神天皇八幡大菩薩)である事があります    坊ノシリ・坊ノ尻:上竹3355・3382番地等    八幡・ヤハタ:上竹3258・3371番地等    上竹八幡3268番地:北緯34度50分33秒・東経133度40分4秒    宮ノマヘ:上竹3319番地    宮ノタワ:上竹3320番地宮    峠:上竹3322番地    平成24年(2012年)8月16日 

 

上竹 男山八幡宮 Otokoyama-Hatiman-guu in Yahata

北緯34度50分33秒東経133度40分3秒の上竹八幡3268番地に 大八幡神社Oo-Yahata-jinjya 建ちます。その摂末社として 境内に竹内神社 若宮神社 男山八幡宮 天照皇大神宮 美保神社 出雲大社が 祀られます。左の社が若宮で、右の社が男山八幡天照皇大神宮です。男山八幡宮は 石清水八幡宮の旧名です。誉田別命Homuta-wake-no-mikoto)(第15代 応神天皇 八幡幡大菩薩)比咩大神Hime-no-ookami(宗像三女神則ち多紀理毘売命Tagiri-bime-no-mikoto 市寸島姫命Itikisima-hime-no-mikoto 多岐津比売命Tagitu-hime-no-mikoto) 息長帯姫命Okinaga-Tarasi-hime-no-mikoto(神功皇后)を祀ります。    墓のマヘ:上竹3169番地 堂ノ上:上竹3191-3194番地    坊ノシリ・坊ノ尻:上竹3255・3282番地等 宮ノマヘ:上竹3319番地    八幡・ヤハタ:上竹3258・3371番地等    才道・サイドウ:上竹3324-3330番地     平成24年(2012年)8月16日

  

上竹 大宅八幡大菩薩社(仮称)Ooya-Hatiman-daibosatu-sya 山神野呂八幡社(仮称)Yamagami-Noro-Hatiman-sha 上竹山神Yamagamiオクノハラ2286番地と上竹八幡Yahata3292番地の中間地点の北 北緯34度50分46秒東経133度41分6秒に 大宅八幡大菩薩社が建ちます。堂内には 二宮社が有り 左の厨子には 大宅荒神素戔嗚大神 大宅八幡大菩薩が 祀られ、右の厨子には 山神野呂八幡神社のお札が 納められおり 山神八幡神社と山神荒神社が 祀られていると聞きました。この社より 少し下った所の左手の大きなコンクリート桝の脇には  石で組まれた祠水神社が有り、御幣が 祀られています。右手に入る道には 道標が立っており「へんろみち 天正5年」と 刻まれています。この東の農道の東 北緯34度50分30秒東経133度41分24秒に 聖徳岩があるとされ その奥に 岩に囲まれた 鳥見山岩間寺があります。地名の山神の名の起りは 素戔嗚荒神社が、裏山(鳥見山の事でしょうか)の頂上に祀られていたからだそうです。 聖徳岩:上竹陰地に聖徳岩があるとされます。昔 聖徳太子が 座って 休憩したと言われま す 卵形の岩で周囲は20尺と 15尺の物があるらしい「日本伝説体系十巻」 しかし この他に も聖徳岩は幾つも有るそうなので 恐らく大村寺の正徳階段を造る時に 掘り出された石を 聖徳岩と言って、一部が 手水鉢や 庭石に加工されたのでしょう 鳥見山岩間寺:鳥見岩の名前の由来は入口に鳥居状の大岩の門があり、それで鳥居見山とか鳥居目山と名付けられ、後世に訛ってトリ目山 トリ見山 さらに鳥見山となったのだと言われます 信仰の中心は高さ2.4m 幅2.7m 奥行き2.4mの巨岩です 手水鉢の台座も聖徳岩と言うそうです 的場・マトバ:上竹1521-1529番地 山神:上竹1539・1551番地等 ドウメン:2297番地 矢倉:上竹2349・2380番地等    藤堂:上竹2351・2362番地等 オク・ヲク:上竹2291・2333番地等  平成25年(2014年)5月9日

 

上竹 公家八幡神社(仮称) Kuge-Hatiman-jinjya in Yamagami

高梁御津線(31号線)バス停天神橋下上竹川バタ1264番地から 南東に折れ 道なりに進むと 上竹岡ノタワ1615-2番地と上竹岡ノ峠1311-1番地の十字路が有るので、南に折れ進むと 左上が上竹ヲヤケ1614番です。その西 やや南の高台 北緯34度50分56秒東経133度40分54秒に 山神阿弥陀堂が建ちます。山神阿弥陀堂の北に隣接して、荒神社が 建ちます。堂内には2厨子が有り 左の厨子には 八幡大神が 右の厨子には 公家荒神が 祀られています。   トフノマエ:上竹1250・1251番地    岡ノタワ:上竹1615・1616番地 川バタ・川ハタ:上竹1262-1264番地 ヲヤケ:上竹1601・1619番地等    岡ノタワ:上竹1615・1616番地 油屋・油ヤ:上竹1632-1637番地     岡ノ峠・オカノタワ:上竹1306・1313番地等     平成25年(2014年)5月9日

 

上竹 村社天神社の八幡神社 Hatiman-jinjya of  Murayasiro-Tenjinjya in Kamitake

上竹惣堂761番地 北緯34度51分13秒東経133度40分42秒に 村社天神社が 建ちます。摂社は 八幡神社 龍神社 明地神社で、末社は猿田彦神社 荒神社 若宮神社です。八幡神社には 譽田別命Homuda-wake-no-mikoto  仲哀天皇Tyuuai-tennou 神功皇后Jinguu-kougouが 祀られます。 宮ノ前ワキ:上竹746・776番地等 コゴロ:上竹748・767番地    宮ノマヘ:上竹753(北緯34度51分14秒東経133度40分45秒)・758番地等 惣堂:上竹761番地(天神神社・北緯34度51分12秒東経133度40分42秒)番地等 鳥居ノ内:上竹1204番地  平成25年(2013年)3月7日

 

黒土 黒土の八幡神社 Hatiman-jinjya in Kurotuti

愛称は 今宮八幡神社と呼びます。 社格は 旧村社で 神饌幣帛料供進神社です。黒土の今宮八幡神社の鎮座地は 賀陽町舎から南東へ1km 高梁御津線(31号線)の天田口バス停と 小桜バス停の中間点辺りの 黒土前の南の階段を 登った頂上付近 北緯34度51分41秒東経133度42分15秒 黒土前783番地です。祭神は 応神天皇 仲哀天皇 神功皇后で、神徳は 家内安全 五穀豊穣 延命 勝利 スポ-ツ力の向上です。祭典は 8月21日献灯祭 9月15日神幸祭 10月体育の日例大祭です。今宮八幡神社は 天応元年(781年)に 字中尾に創建されました。明暦元年(1655年)備中国松山領主 水谷公の祈願所となりました。安永9年(1780年)石川日向守が 本願主となり、現在の本殿に 改築しました。明治43年(1910年)摂社を 本殿に 合祀しました。明治39年(1906年)4月に 発せられた勅令第96号第11条第2項により 大正6年(1917年)11月12日に神饌幣帛料供進神社に 指定されました。昭和27年(1952年)宗教法人となり 神社本庁に包括されました。連絡先:電話番号 0866-54-0814 「賀陽町史追補版」 右手奥に 伯楽神社と 不明の宮が、左手奥に 稲荷神社が祀られています。境内末社として 他に 王子宮 山神宮 恵美須宮Ebisu-guu 龍王宮が あるそうです。黒土宮地ノ前1275番地の東約270mの 高梁御津線(31号線)沿いの「農協危険物野外貯蔵」の東に 南に登る階段が あります。階段の始まりの右側に 手水鉢があり 山から清水が流れ出しています。名水として有名で  村人達が 汲みにやってきます。階段を登ると 対の石柱「右福興仁合 願主 土居善太郎 兄 五島タカヨ 妹 左:徳〇公明昭和七年八月」が立ち 更に20段程登ると 参道は 長い山道になり 登り切ると 左手に 便所があり 境内に着きます。もう一つの上り方は黒土中尾1357番地の西の黒土北線(305号線)を 南に黒土野々ウチ776-1番地と黒土宮ノ東784番地に 挟まれた分岐を 北に向かうものです。分岐を北に向うと 参道の左右に石柱「右:村社 八幡神社奉寄進文化丁亥五月施主宮井◉蔵〈◉:糸偏に〉 左:刻字見当たらず」が 立ち 次に対の燈篭「左:奉献願主羽波宗治 右:文化四戌艮九月吉日」が立ち その奥に の対の黒土郷蔵が 建ちます。暫く進むと 階段があり 途中の左側に 境内に登る分岐が有ります。階段の途中の参道の左右に プラスチック製の対の燈篭「左:奉献酉年宮井満好 亥年山本涼爾 右:奉献平成拾年退任総代一同」が立ちます。14段の階段を 登ると 石燈籠があり 参道の左右に 対の狛犬「右奉氏子中平成一五年四月吉日 左:氏子中平成十五年四月吉日」があります。右の狛犬の隣に 石燈籠が立ちます。階段の途中の参道の左右に 対のプラスチック製の灯籠「右:奉献文谷孝史 大谷福男 土居英成 土居茂俊 土居秀也 左:奉納 前田竹雄 岡崎幸 山本金一 山本秀子 小川スガコ」が 立ちます。階段を登り切ると 左手に手水鉢があり 対の燈篭 「右:施主福泉七右衛門 石燈◉一本  本願大月加右衛門 田宮介兵衛 元禄五年申天十二月吉日 左:奉寄進石燈◉施主〇〇〇〇 〇〇〇〇 元禄六元年申壬十二月吉日〈◉は恐らくrouと読むのでしょう〉」があり そのすぐ奥に 対の低い石柱「左:奉寄進施主田土原儀八歩寄進延 享五年戌〇五月八日 右:奉寄進石壇かも前切入 本願 大月七平次 延享元年子五月吉日」が立ちます。左側奥に 寄附者名碑と 備前焼の狛犬が 立ちます。拝殿前に 対の燈篭「右:奉燈 結婚五十五年記念 宮井昇 幸 平成二十三年八月吉日 左:奉燈 結婚六十年記念 難波義章 幸 平成二十三年八月吉日」があります。拝殿は奥の本殿 及び右の社務所に通じます。拝殿の左に 神輿置床舎があり その左に便所があります。便所の前や横に 寄附者名碑等 沢山の石碑が 並びます。神輿置所舎の奥には 創庫と小社が 建ち 社務所の奥に 小社が 2社建ちます。  神子廻:黒土241・266番地等 才ノタワ:黒土259・260番地    前:黒土273・297番地等 千防:黒土341・438番地等    高免:黒土346・348番地 地蔵堂:黒土762・763番地 ババノ前:黒土770番地 宮ノ前:黒土779・782番地等    森屋:黒土789・833番地等     平成24年(2012年)8月20日

 

黒山 松原八幡宮・黒山八幡宮 Matubara-Hatiman-guu in Kuroyama

黒山464番地の東黒山kuroyama高下kouge364-5の東 北緯34度49分49秒東経133度46分7秒に 松原八幡宮が 建ちます。伝説によると 応神天皇がこの地に 行幸され「この地は4神が 鎮座するのに相応の地です  私は身を隠し幸魂を移してここに留める]と言って、鋒を地に突き立て 松を記念として植えました。松は 繁殖し  辺りが 松原になりました。それで 松原八幡と呼ばれます。刈尾へ 奉還され 再び松原八幡神社後に祀られました。後に  平安時代清和天皇の頃貞観3年(861年)に藤原堅物Hujiwara-no-Kenmotuが 社殿を奉斎しました。永長元年(1096年)に  現在の吉川八幡宮に 奉還されたとされていますが、現在の社殿は 安政4年(1857年)に 建築されました。男女一対の神像が 祀られています。「賀陽町史追補版」  祭神は応神天皇が4神を祀るのに相応しいと言ったと伝えられるので、八幡三神日本武尊Yamato-takeru-no-mikotoあるいは仲哀天皇でしょう。 吉川史に〔15代 応神天皇は 吉備国葉田葦守宮(足守)に行幸され「この地は4神に相応しい地である  わが身を隠し、幸魂を遷し留めたい」と 言って持っていた鋒を 突き立て 末永くこの地が栄える様 祈り、1本の松を植えた所、数百年すると 松は成長し 松原になりました  55代 文徳天皇Montoku-tennouの頃天安元年夏に松原八幡森に  八色の光が輝いたので  村人が 祈祷師を招き 占うと、八幡宮の神霊が 鎮座していたのです  そこで 小社を築き 56代清和天皇の頃 松原八幡宮としました  73代 堀河天王の頃 吉河保Yosikawa-ho苅覆山Kario-yamaに 社地を得て 社殿を建て、黒山八幡宮より 八幡宮に神体を遷宮しました 松原八幡宮神像 黒山阿弥陀如来像は 昭和31年(1956年)4月 町重要文化財に指定されました 境内に 木野山神社が 建ちます  木野山神社と 松原八幡宮を合せ、山の神正八幡宮と 総称します  かつては 吉川八幡神社の頂盃を行っていました〕と 記されています。「吉川史」    吉河保苅覆山・金毘羅山:北緯34度48分46秒東経133度454分6秒の山で西刈尾金毘羅神社は 崇徳天皇Sutoku-tennouが 施主とされ、大物主命が 祀られていました  金毘羅山は 仮尾山とか 出城と呼ばれます  吉川八幡宮を 黒山八幡宮を遷宮する時、榊(常緑樹を意味します  松や杉かも知れません  吉川八幡宮の当番祭では 杉で仮屋を作ります)を刈ったとされる山です    葦守宮:葦守八幡宮 岡山県岡山市北区下足468番地 北緯34度43分27秒東経133度48分28秒    輿休めの岩:黒山牛王倉119番地に かつて有りましたが、現在は谷の底に落ちていると されます  河内田から黒山の讓乢Yuzuri-tawaを通り、その南のY字路を右に進むと 谷川を渡りながら  道は大きく曲ります。黒山高下464番地の北 北緯34度47分51秒東経133度46分3秒に 竹藪が 谷添いに有ります。その辺りの谷底に有るようですが、危険を感じるので  谷に降りて 調査しませんでした。落ちているのではなく、旧道沿いにあるのでしょう

吉川八幡神社例祭の旗立て場:黒山高下479番地と黒山前498番地の間 北緯34度47分45秒東経133度46分3秒に かつて火の見櫓Hinomi-yaguraが有りました。常夜灯が 現在も立っています。吉川八幡宮の祭日には ここに8本の旗を立て 燈明するそうです。吉川八幡宮が 正行Masayukiに 遷宮される時に この近くで 輿を休め、ここに八本の旗を立てたとされます。そのため  この地を幡と 呼びます。この集落を 王倉と呼びます。地名の由来は解りませんが 牛王倉の地名があり大倉姓の人が多く住んでいます 応神天皇が松を植えた場所:山神の地の北方、鳥見山岩間寺 北緯34度50分30秒東経133度41分24秒とする村人の意見もありましたが、吉川八幡宮の伝説と異なると思います 再び山神に遷宮された場所:山神の村人は 吉川八幡宮(黒山八幡宮の間違いでしょう)が 再び山神の黒山八幡宮に遷宮されたと言います 遷宮されたのは 黒山八幡宮の事でなく大宅八幡大菩薩宮(山神野呂八幡神社)の事でしょう  素戔嗚大神Susa-no-o-no-ookamiも 祀られています 素戔嗚神社は 鳥見山岩間寺付近に 有ったとされ、それ故に この地を山神と呼ぶのだそうです   山神:北緯34度50分55秒東経133度40分49秒付近を山神と言います  黒山松原森の八幡宮を遷宮(勧請の間違いでしょう)し 祀られていた地 を山之神(山神・北緯34度50分55秒東経133度40分48秒付近の地名)と呼びました  一度黒山八幡宮に戻され 現在は 山神の麓に祀られ、山の神と共に 上竹山神オクノハナ2286番地と 上竹オク2292番地の中間地点の北側 北緯34度50分46秒東経133度41分6秒に 建ちます  堂内には二宮社があり左の厨子には 大宅荒神 大宅八幡大菩薩が祀られ、右の厨子には 山神野呂八幡神社のお札 が納められています    牛王倉:黒山112・124番地等 番木:黒山129・145番地等    譲乢:黒山151・156番地等 五王倉:黒山169番地    焼御堂:黒山188・192番地等    平成24年(2012年)8月20日

 

湯山 川合神社・川合八幡宮Kawai-jinjya

川合神社は 通称 川合八幡宮と言い、旧社格は 村社です。北緯34度51分28秒東経133度44分17秒 田土川合3113番地 及び 湯山川合山番地・57号線総社賀陽線と県道31合繊号線高梁御津線の交わる所に 川合神社が建ちます。氏子地域は 田土 湯山の者達で、主な祭典は4月17日の祈年祭 8月23日の献燈祭 10月18日の例祭です。献燈祭は  岡山県の民俗資料無形文化財に 指定されています。祭神は 足仲彦尊Tarasi-Nakatuhiko-no-mikoto 氣長足姫尊Okinaga-tarasi-hime-no-mikoto 譽田別尊Homuda-wake-no-mikotoです。上房郡誌によると「往古は 川合 山の峰に 石の宝殿を造り 鎮座していたとされるものを、正徳5年(1715年)12月、今の地に奉遷したり」と  記されているそうで、この時の祭主は 藤森紀衛門満綱が祭主とされています。宝殿の遺跡を 発掘したところ、弥生時代の土器 石器が 出土したので、草創は 古代であろうと されています。古代においては、神の「依りしろ」は 山や森や池等であったり、大木や 巨岩でした。川合山は 吉川川と宇甘川の合流点に屹立kiturituし、神の「依りしろ」らしい神々しい山の姿をしています。古代の人はこの山に  この地の地主神を祀ったのでしょう。川合山を 中心に 神社の前の原を 神原と言い、付近に御神山 巫子山 巫子岩(現在は有りません)があり、向かいの高祖の山の段からは  寛保元年に 土中から 古墳時代のものと思われる 古刀2振り 古鏡1面 古銅器1個 瓦器数個 銅製品 焼物の鈴等が 出土しました。古代より川合山が この地方の信仰の中心であったのでしょう。川合神社に 八幡神を勧請されたのは いつ頃か解りません。ただ川合神社と 龍角山清水寺Seisui-jiとは 非常に関係が深かったらしく、備中誌よると 社僧は清水寺から任じられました。「賀陽町史追補版」「川合神社由緒の石碑」 境内には 摂社の若宮神社(祭神:大雀命Oo- Sasagi-no-mikoto) 末社の御王神社(祭神:天児屋根命Ame-no-Koyane-no-mikoyo) 住吉三前神社(祭神:底筒男尊Soko-Tutuo-no-mikoto 中筒男尊 上筒男尊Uwa-Tutuo-no-mikoto  御前神社(祭神:櫛石窓命Kusi-Iwamado-no-mikoto 豊石窓命Toyo-Iwamado-n-mikoto)が 祀られています。夏祭山車Dasiは 昭和30年(1955年)3月に 県無形民俗文化財に指定されました。 鳥居脇に「川合神社夏祭りだしの石碑」が 立っています。

川合神社の南東の山に 川合神社と民家の間神輿(庫付近の山道を登ると 北緯34度51分10秒東経133度43分55秒付近で 頂上をなし、頂上は 平坦に切り取られています。一部 曲輪状の平坦地が囲み、空堀を思わせる構造も有ります。石の宝殿跡を思わせる構造物は 見つかりませんでしたが、この地に 石の宝殿が有ったのでしょう。平坦地の南側に 小石が並びます。南西の斜面は 頂上から麓まで石で覆われます。南西以外の斜面には  殆ど石はありません。南西の麓は 墓場になっています。

藤森紀衛門満綱:伊賀久隆が死亡し、虎倉城(岡山市北区御津虎倉 北緯34度50分10秒東経133度50分4秒)を失った後、その幼弟太郎次郎は 神原の地に移り 神原太郎右衛門久良と名乗り住みました  2代目の神原守伊賀冶左衛門吉益は 川合山の石の宝殿を現在の川合神社の地に移したとされます  この時の川合神社の宮司が 藤森紀衛門満綱とされます    龍角山清水寺:北緯34度51分4秒東経133度43分35秒付近 湯山寺ノ前458番地湯山清水194番地 高祖の山の段・神の段:高祖山Takazou-yama 北緯34度51分14秒東経133度45分45秒 田土3113番地:北緯34度51分29秒東経・東経133度44分19秒 神子岩:湯山1044番地 宮ノ後:田土3109番地 川合:田土3112-3114番地 室ヶ谷:田土3131・3156番地等 川合山:湯山1(・43番地等 寺内荒神:湯山129番地 高祖:湯山1291・1301番地  平成24年(2012年)7月17日

 

吉川 吉川八幡宮

社格:旧県社    鎮座地:北緯34度49分11秒東経133度45分7秒 吉川苅尾k3932番地   祭神:応神天皇Oujin-tennou 仲哀天皇Tyuuai-tennou 神功皇后Jinguu-kougou 楽楽森彦命Sasara-Mori-hiko-no-mikoto 猿田彦命Saruta-hiko-no-mikoto    紳徳:商売繁盛 学業成就 交通安    祭事:4月5日の祈年祭勧学祭 8月16日の献燈祭 11月28日の新嘗祭niiname--sa10月1日から10月29日までの約1か月間続く吉川八幡宮當番祭(10月1日の迎え當 則ち當指し 10月20日か10月21日の垢離取りkoritori 則ち口開祭10月25日の刈屋打 10月27日の宵宮祭 10月28日の例大祭(當番行列:走り競べ) 10月29日のハクケあげ祭)です。氏子地域:吉川(黒山 河内田 刈尾 藤田 正行 西庄田 小茂田 干木 布郡) 吉備高原都市南部北部東地区  神社の電話番号:0866-56-7419です。

由緒:永長元年(1096年)に京都の石清水八幡宮の別宮として創建されました。石清水八幡宮文書に「備仲国吉川保に御調別宮Miduki-betuguu・椙原別宮Sugihara-betuguu」と記されています。平安時代末期の頃は吉川は石清水八幡宮の荘園でしたので、両神社の関係は特別深かったそうです。鎌倉時代に書かれた「古事談」によると「石清水八幡宮の楽人gakuninの元正が吉川八幡宮に下向し、大祭に秘楽を奉納した」と言われます。岡山県神社庁によると応神天皇 仲哀天皇 神功皇后 楽楽森彦命 猿田彦命が祀られています。賀陽町史追補版では祭神は応神天皇 仲哀天皇 神功皇后とされています。本殿は国指定重要文化財で平成9年から平成10年8月まで、全面解体修理が行われました。解体の際に応永2年(1395年)再建当時の建築工具としては縦引き鋸nokogiriが無く、縦一列にノミを打ち込んで割る工法の部材が全国で初めて発見され、町指定文化財となりました。吉川八幡宮|岡山県神社検索|岡山県神社庁 (okayama-jinjacho.or.jp)

大願成就の碑が北緯34度49分2秒・東経133度45分10秒の開山塚(Kaizan-dukaに祀られています。吉川八幡宮改修の成功を祝って大工が寄進したと伝えられます。當番祭は岡山県無形民俗資料に指定されています。拝殿 随神門は岡山県指定文化財です。 現在の垢離取り場は鳴滝ダム湖の畔に15個の岩が並べられている所の北の西に進む取り合い道の奥 北緯34度49分15秒東経133度45分43秒にあり、大岩が積み重ねられています。吉備中央町町の指定した重要民俗文化財です。吉川八幡宮|岡山県神社検索|岡山県神社庁 (okayama-jinjacho.or.jp)」「賀陽町史追補版」「吉川史」 もっと、詳細を知りたい人は、賀陽町史追補版 吉川史を参考にしてください。

境内の西隣には重森三玲記念館と彼が設計した茶室天籟庵Tenrai-anがあります。県道を挟んで境内東側にある忠霊社の奥には古墳時代の後期のものと思われる、帆立貝式古墳の高塚古墳があります。この古墳は吉備津彦命の臣下の楽々森彦の墓と言う伝承があります。 当番祭は昭和30年(1955年)3月に県無形民俗文化財に指定されました。打ち割り法の部材は平成12年(2000年)11月に町重要文化財に指定されました。

 吉川八幡36社

河内田坂上荒神社猿田彦命 河内田向山天神社菅原道真    河内田岩崎・岩崎大明神 河内田大明神・塩垢離大明神:祓戸四神 正行森屋王子権現社 正行森屋・荒神社:猿田彦命 千木サコ・荒神社:猿田彦命 千木小坂・荒神社:猿田彦命 藤田向・荒神社:猿田彦命 藤田才ノ谷・御前神社 西吉川苅尾辻堂・荒神社:猿田彦命 苅尾長福・荒神社:猿田彦命 苅尾・監物神社 苅尾椎の木・大歳神社大歳神 苅尾御内野呂・荒神社:猿田彦命    苅尾坂の上・瑜伽社Yuka-sya   苅尾久保・祇園社:素戔嗚尊  西庄田引地・荒神社・猿田彦命 小茂田柳・荒神社:猿田彦命 小茂田松尾・荒神社:猿田彦命 小茂田丸山・7社権現社 布郡兼久・古郡神社 布郡福山・荒神社:猿田彦命 布郡小禰宜・荒神社:猿田彦命 布郡下カヂヤ・荒神社:猿田彦命 布郡辻・龍王社 黒山妙見・妙見社天御中主命 黒山山の神・山神社大山祇命 山の神山神社境内・正八幡宮譽田別命 黒山多木・滝宮社:多気之神 武内宿禰命 八幡神社境内・若宮神社:大鷦鷯命Oo-Sazaki-no-mikoto 八幡神社境内・稲荷神社稲倉魂命Uka-no-mitama-no-.mikoto 八幡神社境内・龍王社 吉川村中堂社内・本地堂 吉川村中堂社内・弥勒堂 河内田・大日堂 正行・観音堂 千木・弥陀堂 千木・薬師堂 布郡・観音堂 西庄田引地・弥陀堂 苅尾中屋・薬師堂 藤田・薬師堂 二十岩・大師堂 小茂田・地蔵堂 吉川松田・荒神社:猿田彦命 西庄田・生田神社:稚田姫命 西庄田・小坂神社:素戔嗚尊 猿田彦命 正行・疫淸神社・素戔嗚尊 河内田・沼淸神社:素戔嗚尊 稲田姫命 布郡兼久・鋒神社八千矛命Yatihok-no-mikoto 猿田彦命 黒山堂の辻・荒神社:猿田彦命 正行・守屋神社屋船久々廼馳命 屋船豊受姫命 苅尾・窪凊神社:素戔嗚尊 苅尾・吉河神社:楽々森彦命 苅尾定金・金比羅神社大物主命 祟徳天皇 その他多数

吉川八幡宮の改修のおり、開かずの扉の伝説を残しました。吉備中央町の伝説(1)を参照ください。

河内田:吉川434・739番地等 向山:吉川251・252番地 岩崎:吉川532・542番地等 正行:吉川4251・4840番地等 森屋:吉川4163・4164・4245番地 千木芝下:吉川7227・7336番地等 長坂:吉川7328・7536番地等 小長坂:吉川7310-7343番地等 藤田:吉川2628・2909番地等 向:吉川2911-2914・2918番地 才の谷:吉川2391・2454番地等 西庄田:吉川3686・3702番地等 苅尾:吉川1470・1581・1582番地 刈尾:吉川3924・3937番地等 苅尾:吉川3932番地 長福寺:吉川1218・1360番地等 釼持・剣持、堅物・ケンモツ・堅モツ:吉川1914・2052番地等 椎木:吉川1377・1453番地等 椎来:吉川1457番地 御内野呂:吉川2032・2328番地等  坂:吉川3870・3895番地等  東苅尾・東刈尾:吉川938・1191番地等  久保・窪:吉川924・948番地等  引地:吉川3812・3835番地等    小茂田:吉川5325-5345・5714番地等 柳:吉川5511・5569番地等  松尾:吉川6876・6895番地等  疫神ノ前:吉川6880番地等 丸山:吉川4914-4943番地等 城:吉川4940・4972番地等 布郡:吉川5918・6200番地等 兼久前:吉川6057・6160番地等  福仙:吉川6504-6507番地等 古祢キ:吉川6354番地等 カシヤ・カジヤ・鍛冶屋:吉川6134・6488番地等 妙見:黒山357・358・359番地等 山ノ神:黒山419・420番地等 多木:黒山526・527番地   辻:吉川6326・6346番地等  森屋:吉川4163・4164・4245番地等 定兼:1445・1453-1455番地 天王山:吉川433・444・446番地 若宮:吉川3720番地 宮坂:吉川3870・3895番地等 吉川:3932番地:北緯34度49分11秒東経133度45分6秒 宮ノ前:吉川3933・3934番地(北緯34度49分10秒東経133度45分9秒) 荒神マヘ:田土4161番地  平成24年(2012年)7月7日

 

塩垢離大明神

村人の示した出所不明の文に「藤田の山狭、かり尾の南端、東方に流れる小川、吉南川の下流に至り津賀村境の近く、河内田大明神の淵に祓戸大神(Haraedo-no-ookamiHaraedo-no-ookami 即ち 瀬織津比売神Seorituhime-no-kami 速開比売神Haya-akituhime-no-kami 気吹戸主神Ibukidonusi-no-kami 速佐須良比売神Haya-sasuraihime-no-kamiを祀る。神霊を呼び迎え祀るために塩を用い浄めた。10月19日午前9時、大明神に集合、大渕で両当主は両太刀持ちなどをしたがえ、供物を捧げ、神功より身を浄め大明神前に集まり、5つの片木膳に、玄米,籾などの神饌供えを供え、向山山麓の定められた座にして、御直会ヲ頂きます.直会半ばで宮司は神籤を告げ、3方に籤kujiを乗せ両太刀持ちの前に打し、太刀持ちは敬い、当屋の口開け日を決定する」と記されています。「村人の示した出所不明の文」    吉川八幡神社の祭の中で行われる垢離取り場でした。かつては、牛渕橋を渡って道なりに鳴滝に向って進む途中の天神後の山から突き出し、北緯34度49分6秒東経133度45分50秒付近に祀れていた大石の祠垢離取(こりとり)大明神koritori-daimyoujin河内田大明神岩崎大明神でしたが、大洪水で流され 現在は鳴滝湖の砂の湖底(北緯34度49分18秒東経133度45分56秒付近と想像します)に沈んでしまいました。水が澄んでいる時は見えると聞きましたが、見つける事ができませんでした。その後の垢離取垢離取り場は 鳴滝ダム湖の畔に15個の岩が並べられている所が有り、その中でも一段と大きい岩が重なっている所 北緯34度49分15秒東経133度45分46秒付近で垢離取りが行われていると示唆する人がおりますが、現在は その旧垢離取場とされる所からの取り合い道の奥 北緯34度49分15秒東経133度45分43秒に移されています。 大明神:吉川4394-4399・4402-4405番地  平成26年(2014年)9月15日

 

吉川 吉川八幡宮の36社の山の神山の神社の正八幡宮 Kuroyama-Syou-Hatimanguu of Yama-no-kami-Yama-jinjya of Yosikawa-hatiman-guu

 北緯34度49分11秒・東経133度45分7秒 吉川苅尾3932番地に 吉川八幡宮が建ちます。吉川八幡36社と総称される摂末社があり、その中に黒山山ノ神山神社があります。山神社には 正八幡が合祀されていて、譽田別命Homudawake-no-mikotoが祀られます。  正八幡宮:もと、大隅 (Oosumi一の宮 鹿児島神宮の異称のですが、後には宇佐神宮 石清水八幡宮等も正八幡宮Syou-Hatiman-guuと呼ぶようになりました  山の神:黒山419・420番地    阿せび谷:黒山442-1445番地    陣ヶ野呂:黒山446・453番地等 勝負坂:黒山449番地     平成26年(2014年)9月15日