西 超仏羅様 Mr.Tyoubura-sama "man who exceeds Buddha"


旱魃Kanbatu続きの吉備中央町西に 荒行を積んだ修験者がやって来て、村人に 生きる事の大切さと 悪行をしてはならない事や 希望の本質を諭しました。村人の信頼を得ると 大きな槇の木Maki-no-kiの下に 穴を掘り 鈴を持って入り「鈴が鳴り止んだなら わしごと穴に埋めれば 雨になる」と 宣言し 29日間 水だけを頼りに 鈴を振り続けて 村人のために 人柱となって 雨乞いをしました。鈴の鳴Otoが止んだので 穴を覗くと、行者は「早う埋めろ」と 言うので 生き埋めにしました。すると 雨が降ったので 村人は 感謝し 修験者を超仏羅様と呼び、祠を建て祀りました。「賀陽町史」「西の祠を示した村人より口伝」「吉備中央町の民話(1)」 人柱の祠・超仏羅様:総社賀陽線57号線)が 左に曲がる十字路となる辺りの賀陽種緯線(306号線)を少し進み、西山神718番地付近で 右上を見ると 北緯34度47分23秒・東経133度40分49秒の竹藪の隣に 槇の大木が見えます。その根元付近に 壊れかけた祠があり 超仏羅さまと呼ばれています。

 

超仏羅様物語 Story of Tyoubura-sama

岡山は  晴れの国と 呼ばれる程に 雨が少ない地ですので 年老いた者にとって 第二の故郷とするには 持って来いなのですが、灌漑施設が 整わなかった昔のお百姓は、旱魃の被害に 苦しめられました。大和の西の集落付近も、しばしば 旱魃に襲われました。人々は 水や食べ物を奪い合い、隣同士 親戚同士でも 争う有様でしたので、人々の心は 荒びsusabi 互いに信じる事が できなくなっていました。そんな時 村に修験者が流れ着いたのです。村人達は 住人が一人でも少なくなり 分け前が増える事を 望んでいたので 警戒の目を向け、食べ物は おろか 水も 恵まず 石礫Isitubuteを投げつけました。修験者は 山奥に住み 露で喉の渇きを癒し 草木の根で腹を 満足させ、時々里に下りて 村人に語り掛けました。修験者は「あなた方は 活きたいがために 奪い合い、活きたいがために 争うのでしょう  しかし あなた方は 寝なければ生きて行けません   寝ている時も あなた方は 生きていて、夢の中では 奪い合い 憎み合い 諍うAgarau事が出来る人もいますが 、夢の中の事であって 実際には 何もできない筈です  明日と 言う日があると思うから 奪い合い争うのです  明日と言う日は 幻の時です  明日と言う希望が あるから 奪い合い争うのです 全 ての希望を 捨てなさい  そうすれば 奪う必要もなくなり 争う必要もなくなるのです  しかし「全ての希望を捨てなさい」と 言う事は 「諦めて死ね」と言うのではありません  今生きていられる事に 感謝し、今死なないで済むだけの水と食べ物がある事に感謝し、起きている時も 寝ている時と同じように 心を鎮めなさい  今ある物を 分け合い、力を合わせ 食べ物や水を得なさい  皆様もご存じのように 曼珠沙華Manjyusyageも良く水に晒せば 毒が抜けます  団栗Donguriも良く水に晒せば 渋が抜けます  食べ物を見つける工夫をしましょう  この 不快なにおいの臭木菜Kusaginaだって 食べられます  この藪の奥を掘りなさい  必ずや 水が出るでしょう  貴重な水です  汚れた水も 沸して蒸気にし 冷やして再び水に 戻せば  綺麗な水になります  諦めず、今生きている事を楽しみ 粘り強く生きるのです  あなた方は 神や仏に頼り 祈ります  お祈りする事は 心の支えになります  お祈りする事は 正しいのです  しかし 己の神や 仏 己の神や仏の教義の虜Torikoになっては いけません  己の神や 仏の虜になれば、他の神や 仏は鬼神となり 邪仏となります  己の欲望を 祈り 他人の滅亡を 願うようになるからです」と 説きました。

大変熱心でしたので、一人 また一人と 村人は 修験者に 耳を貸すようになり、ついには人垣ができるようになったのです。修験者は「ここに 村の人全てが 集まってくださり感謝します  私は荒行に耐え、栄養失調に 耐えて 今日まで生きてきましたが、もう命の限界に達しております  あなた方が 私の言う事を信じ、私に 私の指導を求めるために 私を助けようとしても無駄な試みになるでしょう  私から 死の苦しみを解き放つために 私をここに人柱として埋めてください  雨が降るようあなた方が幸せになるようこれから生まれるあなた達の子供に 健やかな未来があるよう 祈りながら あの世 旅立ちます  私の教えを守り 1日1日を 大切にして過ごしていれば、必ずや 雨は訪れます」と 息も絶え絶えに村人を説きました。説き終わると 修験者は 崩れ落ち 意識を失い、呼吸を激しく乱し 一段と深い呼吸をし始めました。

村人達は 絶えようとする命を懸け 説教してくれた 修験者に 感謝し、涙しながら 修験者の苦しみを 絶つために「わし等の惨い仕打ちを 咎めTogameず、わしらに 命の本質を 諭してくれた  仏を超えた 慈悲深い修験者じゃった」と 涙し修験者を 土に戻し、悼みながら 小さな祠(人柱の祠)を 建て祀りました。それからは 村人達は助け合って 裏山に池を掘り 僅かな水を得て 分け合い、毒草も毒抜きし 臭木菜も食料とし 飢えを凌ぎsinogi 今日も死なずに済んだ事を 祠に報告し、明日の時が 幻の時間にならないよう願ったのです。そして 待ちに待った雨が 降りました。村人達は この修験者を「神や仏を超えた人である」と 語り合い、超仏様とか 超仏羅様と呼び、昭和の終わり頃まで 崇拝していました。文明 産業が発達し 若者が街に出て 村人が少なくなると、祠をお参りする人も お守りする人もいなくなって、今は 荒れ果て 朽ちようとしています。「西の人柱の祠を示した村人より口伝」を基にした物語です。 祠の裏山に続く山道を 茨をかき分け分け入ると、井戸が 掘ってあります。更に奥へ進むと 水源らしき所に出ます。山から 水がジワジワと 浸み出しています。修験者は この辺りを掘るよう村人たちに勧めたのでしょうか。「西の祠を示した村人よりの口伝」を 基にした物語  彼岸花: 田圃の畦や川岸、お墓や農家の裏庭にもマンジュシャゲが咲くのをよく見かけます  「曼珠沙華は お墓の花で陰気だ」と言う人もいます。 昔 雨が降らないで 食べ物が取れなかった時でも、お侍達は お百姓さん達からお米や芋を手加減しながらも 年貢として取り上げました   仕方なくお百姓さんは ヒエやイヌビエ 等の草の実や、スベリヒユやツユクサ等の雑草も 食べました  マンジュシャゲは 毒があったので、絶対にお侍は 年貢として取り上げませんでした  毒を抜けば 食べられるので 飢饉に備え 彼岸花を お百姓さん達は植えました。マンジュシャゲは お彼岸の頃咲くので ヒガンバナともいいます。お彼岸にはお 墓参りするのでお墓の花と思う人がいるのですjppapin200.exblog.jp/5745482/」 クサギナ掛け飯:吉備中央町の加茂川地区の郷土料理https://zenmz.exblog.jp/13475499  平成23年(2011年)8月10日