吉川 丸山城 槍塚の金の鳥 Goldem bird live in  memorial stone for spear

吉川の槍 の供養塔)の下に 金の鳥が 出入りします。金の鳥を見た者は 幸せになる。「吉川布郡の村人より口伝」 丸山城跡近くで、刀剣 鎗Yari 鏃Yaziriの類が 発掘されたので 供養塔を立てました。「上竹荘村史」    いつの頃か 誰が戦ったのか不明ですが、丸山城と 戦をし、矢置き石に 矢を置いて、丸山城に 矢継ぎ早に 矢を放ったとされます。「吉川千木の村人より口伝」


矢置き石物語 tale of stone for arrows rest

昔 伊賀家久の父の 伊賀久隆は 上司である宇喜多直家に 天正9年(1581年)暗殺されました。明石景親 等重臣達は「伊賀勢の勢力は 宇喜多領の3割を 占めているとは言え、とても 勝機があるとは 思えない 当面は 毛利氏を頼り 敵討ちの機会を 狙おう」と 忠告したので、家久は その忠告を 受け入れ あっさりと 虎倉城を捨て 丸山城の吉川氏を 頼り 千木の虎倉山に住み 小早川隆景の配下と なりました。処が 家久の動きは 悉く虎倉城を 通じ  岡山城の宇喜多直家に 察知されました。家久は「丸山城に 直家に通じる者がいる」と 確信し 吉川四郎と 協力してスパイを探索しましたが、どうしても 見つかりませんでした。

止む無く 家久は 虎倉山の摩利支天社と 祇園神社で 神託を受けると、摩利支天と 素戔嗚命が 夢に現れ「正義の矢と 槍を汝に与える 金福寺より丸山城に向け 矢継ぎ早に 射放てよ  されば 城内の裏切り者は 悉く 立ち去るであろう」と 告げたのです。金福寺に 参詣すると 門前の岩に 金色の破魔矢 破魔槍 破魔剣が 奉納されていました。家久と 四郎は 神の加護に感謝し 丸山城に向け 矢継ぎ早に 矢と槍を 放つと、矢や槍は 自らの意思を持つかのように、軽々と 天空に舞い上がり それぞれの方向に 飛んで行きました。すると 翌朝から何人かの侍が 村から姿を消し、しばらくして 虎倉城で 長船越中詮光に対し 妹婿の石原新太郎が 反乱を起こし 虎倉城は 焼け落ちました。それからは 丸山城の情報は 岡山城に 知られなくなり、安心して 伊賀一族は 山を下り 丸山や 西庄田に住みました。各地に 飛び散った正義の矢と 槍が集められ 丸山に埋め 地蔵を立て 祀られました。いつの頃か この供養塚を 守るように 金色の鳥が  塚を出入りするようになりました。この金の鳥を見た者は 裏切り者から守られ 豊かになるそうです。吉川布郡の村人より口伝」「吉川千木の村人より口伝」を 元にした創作物語

 

槍供養塔:緯34度49分52秒東経133度45分5秒 丸山城跡:北緯34度49分54秒東経133度45分1秒 岡山城:岡山市北区 北緯34度39分55秒東経133度5    虎倉城:岡山市御津虎倉 北緯34度50分13秒東経133度50分2秒     虎倉山摩利支天皇宮:千木 北緯34度50分16秒東経133度45分8秒    虎倉山祇園神社:千木 北緯34度50分15秒東経133度45分10

仙久山金福寺:千木 北緯34度50分1秒東経133度44分55秒 その東の旧金福寺の石垣の手前の右手に 上面が平らな岩は 矢置き石と 呼ばれています 写真の右下の大石が 矢置きの石です 丸山:吉川1250・1272番地等 小倉:吉川7344・7427番地等  平成28年(2016年)7月27日