火鋒神社 (仮称) Hi-no-hoko-jinjya/Hino-saki-jinjya

この項目では 鋒 剱に係りそうな神社について取り上げます。 火鋒神社Hi-no-hoku-jinjya/Hi-no-saki-jinjya:祭神をしりません。よく似た名の神社は徳島県小松島市中田町西山92番地北緯34度1分19秒東経134度34分54秒に建つ 日峰神社Hi-no-mine-jinjyaで 主祭神は 大日霊貴神(天照大神)です。毎年「十八山火焚祭」が 行われています。 御鋒神社Misaki-jinjya/Mihoko-jinjya高梁市高倉町飯部3493番地 北緯34度51分36秒東経133度34分1秒に建つ御鋒神社Mihoko-jinjyaの祭神は 岩裂神Iwa-saku-no-kami 根裂神Ne-saku-no-kami 磐筒之男神Iwatutu-no-o-no-kami 経津主神Hutu-nusi-no-kamiです。   鋒神社Hoko-jinjya:布郡の北緯34度49分59秒東経133度44分12秒の古郡神社(布郡神社Hugouri-jinjya)は 鋒神社の異称を持ちます。 ㊟火御鋒神社Hi-no-misaki-jinjya 御鋒神社Misaki-jinjya 御峰神社Misaki-jinjyaは火鋒神社Hi-no-hoko-jinjyaの項目に分類しました神社等の前に付された地名は他の神社等と区別する為に付けられていて、神社等の正式名称でない場合があります


円城 横倉の剱御崎神社 Turugi-Misaki-jinjya in Yokokura

429号線沿いの土井橋から 土井横倉方向に入ると 円城横倉960番地の隣 北緯34度53分45秒東経133度48分32秒に加茂88ヶ所巡礼76番横倉霊場(本尊子安観音菩薩 横倉集会場)と 併設され 三宝荒神社Sanpou-koujin-syaが 祀られます。境内に 地蔵菩薩像 石像 石碑 地神石碑 一番奥に 小社が祀られています。地蔵にはには「念仏講中」と 刻まれます。次の石碑の 刻字は 崩し字の知識が 浅く読み取れませんでした。一番奥の小社は 剱御崎神社です。荒神社に祀られる荒神は ひげを蓄えていますので 男性神のようですが、頭部に 玉等多くの飾り物を付け インドの装束を 思わせる衣装を着、右手に 折れた剣状の持ち物を 持ちます。左手は 折れていますが、杖上の物を握ってnigitte反転しています。   横倉:上田東732・828番地等    横倉:円城866・935(北緯34度53分44秒東経133度48分31秒)・1085番地等    魔利支天前:円城1012・1025番地等    魔利支天:円城1013-1015番地     平成25年(2013年)5月18日

 

加茂市場 加茂総社宮の火鋒神社 Hinosaki-jinjya of Kamo-Soujya-guu

北緯34度51分51秒東経133度45分30秒 加茂市場惣社1567番地に 加茂総社宮が建ちます。本殿奥 左手に地神碑と8社の小祠が立ちます。右端の社が火鋒神社で、火難を治めるための御崎神社でしょうか。    宮ノ前:加茂市場1560・1577番地等 惣社:加茂市場1567番地 墓ノ段:加茂市場1590・1591番地 天神前:加茂市場1594・1608番地等  平成24年(2012年)6月12

 

福沢 寶剣宮 Houken-guu

落合加茂川線(66号線)を 福沢口で北西に曲がり 道なりに進むと 猪木川と 道が接する辺りに 鉄工場があります。鉄工場福沢殿家敷898番地)福沢地頭903番地の間の北緯34度55分50秒東経133度43分5秒に 寳剱宮寳剱神社Houken-guu/Houken-jinjya/Treasured sword shrineが 建ちます。堂内の天井に沢山の絵が 書かれています。神社脇に 由緒書の石碑があります。石碑の文を要約すると「坪田村の入澤勝姫が 宮中に呼ばれ、後奈良天皇「在位:大永6年4月29日( 1526年6月9日)~ 弘治3年9月5日(15 57年9月27日)」に可愛がれて、子供を身籠った。お腹が大きいまま、備中松山城主の三村家親の妻になった。天皇は別れの形見に宝剣を呉れた。姫は松山城で子供を産み 入澤勝寶子丸と名付けた。天正3年(157 5年)に松山城が陥落した時、忠臣の山縣新介に守られ、母と共に、美作国の篠吹城に逃れた。10年後に篠吹城も落城したので、天正15年(1587年)宸翰Sinkan(天皇直筆の書)と 宝剣を持って、山縣新介に守られてこの地に来て、住み付いた。」とあります。   Katu-hime Irisawa became pregnant with emperor Gonara's son in Daiei time( around 1526 year) She get married in pregnancy with Ietika Mimura who is the lord of Matuyama-jyou/castle  She had a baby and named the son Hous-imaru Katu in the castle In1575, Matuyama-jyou was reduced by Mouri Clan, he escaped to Sinohuki-jyou together with his mother under the protection by the loyal retainer,

 Sinsuke Yamagata,  In 10years after the fall of the castle, Sinohuki-jyou fell too, in 1587, he moved to here with the emperor's autograph and treasured sword under the protection by Sinsuke Yamagata  福沢口:福沢 北緯34度55分37秒東経133度44分52秒 入澤勝姫:天文年中に後奈良天皇の子を身籠もり、身重のまま備中松山城主三村家親の妻となり勝法師丸を産んだとされます  謎の多い人物です 後奈良天皇:在位大永6年(1526年)~弘治3年(1557年)の第105代天皇です  不正な献金を断る等、清廉潔白な責任感が強く、疾病終息を願う等 慈悲深い天皇でした  明応5年12月23日(1497年1月26日)産まれの天皇が天正2年(1574年 備中兵乱時に幼少であった勝法師丸の父とすると 90歳の頃の子と推定されます 山縣新介:三村氏家臣のようですが いかなる人物か解りません 篠吹城・篠葺城・篠向城・笹向城跡:真庭市三崎笹向35度3分513分51秒秒東経133度46分27秒   入沢家:伊賀家加茂13流荘官の家系です  江戸時代 備前藩池田光政は 初期 万治2年(1659年)と寛文8年(1668年)の2度に渡り、旧 伊賀氏所縁の庄官達が浪人して 権力を失っている筈なのに 実際には 家系 旧職に自尊心を以て 権勢を持ち続けていて  神仏分離策等に 反抗する等しました。そこで、各豪族の過去の履歴を 称賛し 各家系の 感状等の古文書を 添えて 代官所に差出させ、民事上の理由をでっちあげ 家系図を 焼き払いました  kibi2011.blog81.fc2.com/blog-category-8.html」    勝法師丸:三村家親の子ではありません 三村元親の義理の子です   容貌に優れ 8歳ながら歌を詠み(辞世の句:夢の世に 幻の身の生れ来て 露に宿かる宵の雷Ikaduti達筆であったとされます。備中松山城が  備中兵乱の結果落城すると 父である三村元親(逃亡に失敗し、自分の刃を足に落し大怪我をし 城内で切腹しなかった事を悔やみ 毛利側に見分を要請し切腹)とは 別に 勝法師丸等十人余りは、備前天神山城に 逃れようと試みましたが、備前虎倉城主の伊賀左衛門久隆の手の者によって捕らえられ、毛利の本陣小早川隆景へ渡されました。勝法師丸等を 預っかった中島大炊助は 勝法師丸の出家を条件に 助命を 隆景に願い出ましたが 勝法師丸の並々ならぬ利発さを恐れ「助ければ 後々の戦の種になる」と 井山谷(現在の総社市にある井山宝福寺)で 殺しました  かくして 鎌倉以来の名門三村氏の嫡流は 滅亡したはずです 勝法師丸等の墓:源樹寺の境内の北東側の墓地の一角に 三村家親と三村元親の墓碑があります 三村家親 元親 勝法師丸の墓が 高梁市の頼久寺にあります 殿屋敷:福沢898(北緯34度55分50秒東経133度43分54秒)・ 902番地    地頭:福沢903(北緯34度55分50秒東経133度43分50秒)・9086番地等        平成24年(2012年)1月17日

 

上竹   陰地の御峰神社 Misaki-jinjya in Kamitake-Onji

高梁御津線(31号線)長屋賀陽線(78号線)の交差点正力交差点から西に向かうと 上竹古ヤ4684番地の東北で Y字路となります。北側(左)に進むと 直近にY字路があり、Y字に挟まれるように北緯34度50分17秒東経133度40分25秒に 陶器製の一宮社御峰神社が建ちます。いかなる神が祀られているか不明です。北に上竹中ヤ4701番地があります。ちなみに 高梁市高倉町飯部3493番地の御鋒神社Misaki-jinjyaの祭神は 岩裂神Iwa-saku-no-kami 根裂神Ne-saku-no-kami 磐筒之男神Iwa-Tutu-o-no-kami 経津主神Hutu-nusi-no-kamiです。埼玉県秩父市三峰298-1番地 北緯35度55分32秒東経138度55分49秒の三峰神社の祭神は 伊弉諾尊Izana-gi-no-mikoto 伊弉册尊Izana-mi-no-mikotoです。    中ヤ・ナカヤ:上竹4701・5103番地等 フルヤ・古ヤ:上竹4682・4809番地等   丸山前・丸山ノマヘ:上竹4716-4718番地 荒神ノハナ:上竹4672番地 平成29年(2017年)11月3日 

 

上竹 月原山上堂の御鋒神社 Misaki-jinjya of Sanjyou-dou

高梁御津線(31号線)の正田橋を 南に上り 2つ目の十字路を 西(左)に折れると、上竹サ子ソフマヘ426番地の北西 北緯34度51分11秒東経133度41分8秒に 月原山上堂が 建ちます。竹荘八十八霊場第52奥の院札所神変大菩薩Sinben-daibosatuを 祀りますが、堂内の祭壇は 3つに仕切られており 左の厨子zusiには 善徳大士の木札が、右の厨子には 御鋒神社の木札が 奉納され、中央の厨子には 仏の座像が 祀られています。堂内の高い所に 何枚もの絵馬や写真が 掲げられており、床には 鬼瓦が収納されています。    善徳大士:徳の高い菩薩の意味ですので、神変大菩薩の事でしょうか    月原公会堂:上竹サ子ソフマヘ426番地(北緯34度51分14秒・東経133度42分0秒)    馬場:上竹413・420番地 サ子ソフマヘ:上竹424・515番地等    ドウドウ・堂頭:上竹441・442番地 トフトフ:上竹444番地 才免:上竹450・451番地  平成26年(2014年)5月2日

 

上竹 管野御峰神社 Sugano-Misaki-jinjya in Kamitake

ケサカケから 俵原集落に向い 長屋賀陽線(78号線)が 岡山自動車道を潜った所より36m程進むと 上竹新デン3473番地があり、その北の崖 北緯34度50分48秒東経133度39分32秒に 御峰神社Misaki-jinjya or Omine-jinjyaが 祀ってあります。 ちなみに 埼玉県秩父市三峰298-1番地 北緯35度55分32秒東経東経138度55分49秒 の三峯神社の祭神は 伊弉諾尊Izana-gi-no-mikoto 伊弉册尊Izana-mi-no-mikotoです。   聖坊西:上竹3549番地 キツ子イワ・狐岩:上竹3541・3571番地等    サイノカミ・サイノ神:上竹3551・3555番地等     平成30年(2018年)11月14日

 

上竹 明釼神社 Meiken-jinjysa

高梁御津線(31号線)の北の上竹荘小学校の前の31号線から分岐した道を 西に進み 最初の交叉点を右に登ると 大日如来の石仏が祀られ、その北に 名釼神社の由来「名釼神社の由来  日本誕生と大自然の恵みを受けて、人々の営みと 村づくり 国造りがなされ 豊葦原瑞穂国が 建国されました。私たちの先祖は、自然 驚異 霊魂 死 大雨 干ばつなど 人間の力では どうにもならない事象を 大きな岩 高い山 大樹 雷などに 神が宿り、その力で 願いを 叶えてくれるものとして 聖坊山のふもと、この地に いつの頃から 神が宿るものとして、現在地に 地域の人々に 信仰されるようになりました。当神社の御祭神は 経津主命 武甕槌神 岩裂神 根裂神で 武神、農耕の神として 明治 大正 昭和三十年代頃までは、にぎやかな祭礼も その後徐々に廃れていましたが、昭和六十年二月から七月にかけて 当社氏子 青年有志の力により ここに社殿が 再建されました。今後は、この地域の守護神として 五穀豊穣 地域安全 交通安全 大願成就の神として 信仰されることを 願っています。昭和六十年七月吉日」が 書かれた立札が立っています。

そこから細くなった道を登ると 上竹マヘ1991番地の西 北緯34度50分55秒東経133度40分3秒の近くに 明釼神社が 建っています。経津主命Hutu-nusi-no-mikoto 建甕槌神Take-Mikaduti-no-kami 磐裂神Iwa-saku-no-kami 根裂神Ne-saku-no-kamiが 祀られています。堂の右手に 絵馬が係り、左側には 石組み燈明用と思われる御幣を 伴った祠が有ります。隣接する田には 田の神らしきお札が 祀られています。    妙見ソ子:上竹1955番地 宮地:上竹2000・2071番地等    ヒロトウ・ヒロドウ・廣堂:上竹1958・1977番地等    マヘ廣堂・マエヒロドウ:上竹1961・1963番地  平成25年(2013年)8月1日 

 

竹荘 新谷荒神の御鋒祭の塚 Grave monument for Misaki-sai in Sintani

高梁御津線(31号線)沿いの竹荘中学校(平成26年 2014年に閉校 葡萄畑 )の前から 納地方向に曲がり、直ぐに NTT賀陽電話交換所を 右に折れ進むと 墓場があり 向かいに 杜が見えます。杜の北側より入ると 北緯34度51分34秒東経133度41分26秒に 八大荒神新谷荒神を祀る広場があます。入り口左手に  石組みの上に 御鋒祭の札が 奉納されています。この石組みを 御崎様と村人は呼びます。杜の脇を通り3叉路を右に回ると 31号線の石橋バス停に出ます。

天平Tenpyouの頃は 酷い冷害 旱魃kanbatu洪水が 繰り返し 新谷村を 襲いました。新谷宗高Sintani-Munetaka)の妻は 氏神の神子神社の神子をしていました。宗孝は 妻の社会的責任を看破Kanpa\する訳にゆかず 社に籠ら(こも)せて  雨乞いをさせました。断食し 13日間 鈴は鳴り続けると パタリと 鈴の音が止まったのです。村人 と宗孝は 櫓に登って見ると 神子が 何者かに食い殺されていて 櫓の下に 満腹した大蛇が とぐろを巻いていました。宗高は 真っ向から切りかかると 大蛇は 宗高を大岩に 巻きつけ締め上げました。それでも 宗高は剣を 振るい続け、ついに両者は 疲れ果て相討ちして 果てました。村人は  宗高を悼み 荒神社に祭りました。「村人口伝」 大蛇が 崇高を締め付けた岩を 鳴る岩と呼び、戦争が迫ると 唸り声を上げるとされます。   神子神社・巫女神社:神子山の頂上(北緯34度52分13秒東経133度40分15秒)にかつて神子神社がありました  つい最近まで鳥居が有りましたが、現在は朽ちて無くなり 祠と小さい無名の墓らしい物があるだけです    神子山の鳴る岩:北緯34度52分11秒東経133度40分14秒    御子免:竹荘34・35番地 ミコメン:451・452・458番地    泉:竹荘76・77(北緯34度51分29秒東経133度41分27秒)・94番地等 荒神前:竹荘812・876番地等 荒神ノ脇:竹荘862・863番地    平成25年(2013年)3月31日

 

竹荘 板屋の火御鋒神 Hi-no-misaki-no-kami

竹荘恋田に 岩泉池があります。池より北に進み 竹荘尾花2723番地のクランク状の道を過ぎると 南東に向かう広い分岐と 細い分岐があります。坂高山の南麓の竹荘為重2508番地の西で 2本の分岐が合流しますが、合流点の近くに 墓場があり その墓場の東 北緯34度52分3秒東経133度40分34秒に才の神が 祀られています。板屋奥の東側の村外れに位置します。「板屋荒神社氏子安全守護」と記されています。その道向かいの 竹荘八十八カ所霊場板屋84番札所に 登る坂の起点に「火御鋒神祭大諄辞守護」の札が 立ちます。 地蔵免:竹荘2397番地 タメシケ:竹荘2473・2522番地等 為重:竹荘2487・2520番地等    板屋:竹荘2474・3264番地等 板ヤ:竹荘3193番地 尾花:竹荘2523・2736番地等  平成29年(2017年)11月24日

 

豊野 岩村江下荒神社の火御鋒社 Hi-no-Misaki-sya of Ege-Koujin-sya in Iwamura

豊野小学校の南を走る賀陽有漢線が 下市川を渡る所の東側に T字路が有るので 北に向かい登ると 江下地神碑が立っており、その北の十字路を 西に向かうと 豊野寺脇1046番地や 豊野屋シキ976番地が 有り 道は長宗池に続きます。豊野屋シキ976番地の西に 墓場があり 鋭角に戻る方向に 山道が分岐するので 暫く 道なりに登ると 途中右に折れる分岐があり、分岐を少し進むと 朽ちかけた鳥居があり その奥 北緯34度52分58秒東経133度41分27秒と想像する辺りに 一宮社が3社建っています。鳥居の正面に向く木製の社は 荒神社です。荒神社の右方のやや離れた所の石グロに囲まれたコンクリート製の社は 火御鋒社で、その右隣りの木製の社が 吉備津社吉備津神社です。江下:豊野973・1023番地等 屋シキ:豊野976-980番地等 塚本・塚ノ元:豊野991・1003番地等 祭田・祭リ田:豊野998・1112番地等 行田:豊野1006・1128番地等 寺脇・寺ワキ:豊野1032・1047番地等  平成29年(2017年)8月11日

 

西 野伏の御鋒大神社 Misaki-no-ookami-sya in Nobuse

長屋賀陽線(78号線)484号線の交差点から 南向きより南東に曲がり 600m程進むと 西茶屋1097番地に出ます。そこより山道を 北に6m程登ると 北緯34度48分6秒東経133度40分38秒に 御鋒大神社が祀られています。 御鋒神社:高梁市高倉町飯部3493番地の御鋒神社の愛称はみほこ神社で、祭神は剱の神々である石裂神Iwa-saku-no-kami 根裂神Ne-saku-no-kami 磐筒之男神Iwa-Tutu-o-no-kami 経津主神Hutu-nusi-no-kamiです。https://www.okayama-jinjacho.or.jp/search/list/page/58/」 古坊:西791-800番地 寺ノ前:西895・905番地等 野伏:西945・1010番地等 兎川内:西1011-1019番地 チャヤ・茶屋:西1051-1106番地     平成30年(20187年)3月15日

 

吉川 吉川八幡神社の監物神社 布郡兼久古郡神社 布郡兼久鋒神社

北緯34度49分11秒東経133度45分07秒の吉川苅尾3932番地に吉川八幡宮が建ち、多くの社が合祀されています。その中 に苅尾監物神社Kenmotu-jinjya  布郡兼久古郡神社Hugouri-Kanehisa-Hugouri-jinjya /布郡兼久鋒神社Hugouri-Kanehisa-Hoko-jinjya祭神:八千矛命 猿田彦命が 有ります。 釼持・剣持、堅物・ケンモツ・堅モツ:吉川1914・2052番地等吉川八幡宮の遷宮の折り、剣を持った人の住んでいた地とされます    兼久田:吉川3280・3395番地等 兼久乢:吉川5951番地

古郡神社Hugouri-jinjyaは 千年程の昔より有った神社で かつての八田部村、或いはかつての吉川村に有ったとされます。吉川村の古郡神社は 鋒御前Hoko-no-goze  鋒振社Hokohuri-sya 布古里社Hugouri-sya 鋒権現Hoko-gongenと 呼ばれた時代も有りました。鋒権現と 古郡神社は 別々の神社でしたが、いずれかの時代に 合祀されたとされる説も 有ります。御友別命の中子の中津彦命を 祀ります。吉川八幡宮の境内外末社です。御神体6体は 昭和45年(1970年)4月町重要文化財に指定されました。近くに八田部村 西山 宮山の地名が有りました。吉川6117-4-4番地の南側が 古郡神社跡ですが、実際には 社が建ち 現在も祀られています。竹藪に下る山道に入ると3段の平坦地が重なり2段目の平坦地が途切れた北側に 小さい平坦地(北緯34度49分59秒東経133度44分12秒)が有り 巨木(恐らく神木)が枯れて大きく折れていて、傍に大きな手水鉢が横転しています。その南側に 一宮社の古郡神社が建っています。かつての社は 近くに住んでいた者が 自宅に放火した折り、社も焼け落ちたのだそうです。    八田部村:現在の総社市総社辺りに有った村です    総社市古郡神社:総社市総社字西山(旧2405番地)北緯34度41分26秒東経133度46分5秒に建ち、吉備武彦を祀ります 吉川布郡・ 八反分:吉川7522(北緯34度50分36秒東経133度45分49秒)・7531(ももたろう会吉備高原総合福祉センター:北緯34度50分40秒東経133度45分47秒)・7571番地等 吉備中央町吉川西山:北緯34度49分15秒東経133度44分9秒付近 宮山:調査中です 深山:吉川6236番地 西山:吉川3012・3410番地 布郡:吉川5918・6117番地等 古郡神社:北緯34度49分59秒・北緯133度44分12秒 コオロキ:吉川6201・6336番地等 神主:吉川3539・3606番地等    兼久田:吉川3280・3359番地等 平成26年(2014年)7月29日