御崎神社 Misaki-jinjya


御前神社には種々の神を祀ります。宮崎県串間市大字大納58番地-丙 北緯31度21分44秒東経131度20分33秒の御崎神社Misaki-jinjyaの祭神は 上津綿津見神 中津綿津見神 底津綿津見神 で ご利益は 航海安全等です。 和歌山県日高郡美浜町和田1788-1番地 北緯33度53分47秒東経135度7分12秒 の御崎神社Misaki-jinjyaの祭神は 天照坐大神Ama-terasimasu-oomikami 事代主大神 猿田彦大神 豊玉彦大神 雷大神Ikaduti-no-ookami 天忍穂耳尊Ame-no-Osihomimi-no-mikoto 天瓊々尊Ame-no-Ninigi-no-mikoto 速玉男神Hayatama-o-no-kami で ご利益は五穀豊穣等です。   宮城県気仙沼市唐桑町浜崎7番地 北緯38度51分39秒東経141度40分17秒の御崎神社Onzaki-jinjyaの 祭神は 大海津見大神Oo-Watatumi-no-kamiで ご 利益は航海安全等です。   岡山県岡山市辛川市場160番地 北緯34度40分57秒東経133度51分59秒の艮御崎神社Usitora-Misaki-jinjyaの祭神は 吉備津彦命 温羅命Onra-no-mikotoで ご 利益は 祟り除け等です。敷市真備町宮後川辺208番地 北緯34度38分33秒東経133度43分8秒 の艮御崎神社Usitra-Misaki-jinjyaの祭神は  須佐之男命Susa-no-o-no-mikoto 大国主命Oo-kuni-nusi-no-mikoto 建御名方神Take-Minakata-no-kami 保食神Ukemoti-no-kami 宇迦御魂命Uka-no-Miitama-no-mikto 少彦名命Sukuna-bikona-no-mikoto 八衢比古命Yatimata-hiko-no-mikoto 天之御中主神Ame-no-Minaka-nusi-no-mikoto 大物主命Oomono-nusi-no-mikoyoで ご利益は 祟り除け等    島根県出雲市大社町日御碕445番地 北緯35度25分46秒東経132度37分46秒の日御碕神社Hi-no-Misaki-jinjyaの 祭神は 天照大御神Ama-terasu-oo-mikami 神素盞嗚尊Kamu-Susa-no-o-no-mikotoで ご 利益は 国家安泰 厄除け 良縁等です。    御崎とは 不慮の事故や 恨みを持って死んだ人の 霊魂 縁者により 死後祀られる事のない人(行倒れ等)あるいは 人達(家族全員が死亡等)の霊の事で 或いは 「岬」の転訛です。 御先とは 高位の神霊が 人間界に現れる時、その予兆や 使いのような役割を 果たす 神霊の事です。      ㊟御鋒神社Misaki-jinjya 火護鋒社Hi-n-omisaki-jinjya 御峰神社Misaki-jinjyaは 火鋒神社Hi-no-hoko-jinjyaに分類しました。神社の前に付された地名は他の神社と区別する為に付けられていて、神社の正式名称でない場合があります


案田 案田稲荷神社の御崎宮 惣御崎神社 六助御崎大明神 Misaki-guu, Sou-Misaki-jinjya and Rokusuke-Misaki-daimyoujin of Inari-jinjya in Anda

429号線が  広域農道(奥吉備街道 吉備高原北部広域農道)と 交わる辺りから 大きく曲がり 東北に登ると 案田隠居下タInkyo-sita228-2-2番地の東 北緯34度54分20秒東経133度49分2秒に 稲荷神社が 建ちます。その拝殿に 御崎宮 惣御崎神社 六助御崎大明神等が 祀られています。案田地区にあった荒神社は 全てこに集められました。   平賀祐継Hiraga-Suketugi平賀六助):関ヶ原合戦に関わり 慶長7年(1602年)清武城(宮崎市清武町加納甲776・777番地 北緯31度52分2秒東経131度23分4秒)稲津掃部助Inazu-Kamon-no-sukeの乱の時、掃部助と共に 切腹しています  それとも 地元の六助と言う人が 恨みを以て死んだのでしょうか    小本宮:案田343・380番地等 青木谷:案田349・374番地等   稲荷:案田353・358番地     平成25年(2013年)5月23日

 

 

井原 天神堂の御崎宮 Misaki-guu of Tenjin-dou in Ihara

井原出シ上Dasi-ue943番地より西に 墓場を 幾つか越え 登ると 頂上付近倉木池の東 北緯34度53分50秒東経133度45分26秒に 地神搭と共に 井原天神堂が 建ちます。五宮社の両脇に 一宮社が祀られます。五宮社の左より2番目の厨子が 八百万神社で、その厨子の中に 御崎宮が 祀られていますです。 祭神は 御崎大明神である 水象女命Mizuhanome-no-mikoto)鳴雷神Naru-Ikaduti-no-kamiです。  地蔵前:井原924番地 天地ノ山:井原939-940番地 出シ上:井原943-945番地 倉木:井原1008・1052番地等    天神山:井原1024-1032番地    平成25年(2013年)10月4日

 

上田西 皿井野の御崎神社 Misaki-jinjya in Saraino

皿井野上組荒神社は 新しく建て換えられました。旧荒神社は上田西坂ノ奥1641番地の北 北緯34度52分49秒東経133度47分57秒に建ち、御崎様と併設されます。当然ながら 古い荒神社の荒神は お留守です。御崎神社は 石で組まれた祠で御幣が 納められていますが、神名を書かれた木札等は 祀られていません。地元の神社研究者も 祭神を知りません。    坂ノ奥・坂奥:1600・1648番地等    皿井野・更井野:1665・1823番地等     平成25年(2013年)3月9日

  

上田東 松尾神社の御崎大神社 Misaki-ookami-sya of Matuo-jinjya

下土井下加茂線(372号線)沿いの上田東i御崎山506番地 北緯34度53分33秒東経133度47分44秒に 松尾神社が建ちます。松尾神社の境内の西に 末摂社が並んでいます。その1番左の新しい小さい社に御崎社大神が 祀られています。松尾神社は 御崎様とも呼ばれ、大山咋命Ooyama-kui-no-mikoto 市杵嶋姫命Itikisima-hime-no-mikotoを祀ります。    崎社大神:上田東松尾神社を、御崎宮・御崎神社とも呼びます    御崎・御嵜:上田東501‐504・506番地(松尾神社)御崎山・御嵜山:上田東505・506番地  平成26年(2014年)7月6日

 

上田東 松尾神社の田口荒神社 Taguti-koujin-sya of Matuo-jinjya in Ueda-higasi

上田東御前山506番地の 松尾神社の境内の西側に、末摂社が 並んでいます。その1番左の新しい小さい社に 御崎社大神が 祀られています。その右の2番目に 大きい社は 田口荒神社です。集落の中の林の中 北緯34度53分38秒東経133度47分54秒の近くに 祀ってありましたが、参詣に不便なので 3年前に この地に 遷宮senguuされました。村人は 八大三宝荒神社であると語りました。八大三宝荒神社は 御崎社で 素戔嗚大神Susa-no-o-no-ookami 天御中主神Ae-no-minakanusi-no-kami 罔象女神Mizuha-no-me-no-kami 五帝龍神 武器を持った多面多臂Tamen-tapiの忿怒Hunnu姿の荒神像と 一面二臂の穏やかな顔の 女性的姿の 粗末な衣を着た荒神像が 祀られています。その右の社は 宮荒神で 三宝荒神が祀られています。その右の四宮社は 山神社で 左端の厨子は 大山神社 次の厨子は 八幡神社 次の右端の厨子は いかなる神社かわかりません。一番大きい社は 稲荷神社でしょう。右端の社は 正建宮ですが、祭神を知りません。  ちなみに 鹿児島県鹿児島市下荒田Simo-arata1-12-13番地の 正建寺の本尊は 本門八品上行伝南無妙法蓮華経です。  平成26年(2014年)7月6日

 

上田東  柏尾八坂神社の七宮社 Siti-no-miya-sya of Yasaka-jinjya in Kasiwao 

北緯34度53分59秒東経133度48分1秒に 八坂神社が 建ち、その境内に 七社宮の石碑が 祀られます。左端の石碑が 七宮社で、二つ並ぶ左の石碑は 金神Konjin-hiで、大きい石碑は 艮金神Usitora-no-Konjin-hiと 思われます。右の石碑も 金神碑です。 天正の頃と思われる時期に、この地で 戦が起こり 七人の犠牲者があって 彼らを悼み 七宮社が 建てられ、毎年村人が集まり お祭りをしていましたが 数年前から その恒例事業は絶えたそうです。 ちなみに 兵庫県神戸市兵庫区七宮町2丁目3-21番地 北緯34度40分19秒東経135度10分3秒の七宮Siti-no-miya-jinjyaの祭神は 大巳貴命Oonamu-ti-no-mikoto 大日霊貴命Oohirume-no-muti-no-mikoto 天児屋根命Ame-no-Koyane-no-mikotoで、福岡県宗像市石丸2丁目8番地の 七社宮Nanasya-guuの祭神は 国常立尊Kuni-no-tokotati-no-mikoto(大地形成の根源神国土の守護神水徳の神) 惶根尊Kasiko-ne-no-mikoto(大地身体の保全の女神美容の神芸能の神) 大己貴尊Oonamu-ti-no-mikoto大国主命Ookuni-nusi-no-mikoto 大物主神Oomononusi-no-mikoto 葦原醜男Asihara-no-siko-o 八千矛神Yatihoko-no-kami 大国玉神 Ookuni-tam-a-no-kami 顧国王神Utusikuni-tama-no-kami:計7神名国造神農業神商業神医療神) 伊弉諾尊Izana-gi-no-mikoto(体化の神形があるものの生みの神結婚式の神) 国狭槌尊Kuni-satuti-no-mikoto(低い山の守護神) 忍穂耳尊Osihomimi-no-mikoto(鍛錬と勝利の神稲穂の神農業の神))  瓊々杆尊Ninigi-no-mikoto(忍穂耳命Osihomimi-no-mikotoの息子天孫降臨の主役農業の神)です。    柏尾:上田東1057・1282番地等    貝尾墓前:上田東1063番地 墓東大段:上田東1065番地     平成25年(2013年)5月20日

  

円城 円城東の御崎宮 Misaki-guu in Enjyou-higasi

429号線沿いの道の駅かもがわ円城の北から 下土井に向かい  医王院を右に見て進むと、左手に石の門が 立っていて 道路寄りの斜面に 歯痛地蔵が 祀られています。歯痛地蔵の上の道の 歯痛地蔵側円城田畑120番地の西 北緯34度53分24秒東経133度48分16秒に 御崎宮の石の祠と 何やら解らない金属板製の小さい祠が 建っています。金属製の祠の中には 神がお留守の小社と 三宝荒神 が祀られています。石の祠は 平成11年7月に 造られたと聞くので、恐らく金属製の祠の中の神様の留守の社は 御崎宮の遷宮前の社でしょう。 田畑:円城42・156 番地等    倉ヶ一・倉ヶ市:円城43・116番地等    堂後:70・71 番地 地蔵乢:円城64・160 番地等 寺向:円城133・235 番地等 金比羅後:円城152・168 番地等 平成25年(2013年)3月6日

 

 円城  横倉の御崎神社 Misaki-jinjya in Yokokura

下土井下加茂線 (372号線) の青木池から 北に向かうと  円城横倉久具利1056番への取り合い道が有ります。その取り合い道の右手 北緯34度53分39秒東経133度48分36秒に 一宮社が建ちます。平成19年頃に火災が有って 子供を含め2名の者が 犠牲になったので 建てられたそうです。   横倉:866・1085番地等    小丸山:円城893・905番地等 番原:円城990・1046番地等    魔利支天:円城1013-1015番地    久具利:円城1056・1087番地等    池ノドウ・池堂・池ノ堂・池のどふ・池ノドウ・池ノトウ:円城1098・1122番地等 膳棚:円城1102番地     平成29年(2017年)3月25日

 

円城 横倉の剱御崎神社 Turugi-Misaki-jinjya in Yokokura

429号線 土井橋から 土井横倉方向に入ると 円城横倉960番地の隣 北緯34度53分45秒東経133度48分32秒に加茂88ヶ所巡礼76番横倉霊場(本尊子安観音菩薩 横倉集会場)と 併設され 三宝荒神Sanpou-koujin-syaが 祀られます。境内に 地蔵菩薩像 石像 石碑 地神石碑 一番奥に 小社が祀られています。地蔵には「念仏講中」と刻まれます。次の石碑の 刻字は 崩し字の知識が 浅く読み取れませんでした。一番奥の小社は 剱御崎神社です。荒神社に 祀られる荒神は ひげを蓄えていますので 男性神のようですが、頭部に 玉等多くの飾り物を付け インドの装束を 思わせる衣装を着、右手に 折れた剣状の持ち物を 持ちます。左手は 折れていますが、杖上の物を握って反転しています。   横倉:上田東732・828番地等    横倉:円城866・935(北緯34度53分44秒東経133度48分31秒)・1085番地等    魔利支天前:円城1012・1025番地等    魔利支天:円城1013-1015番地     平成25年(2013年)5月18日

 

上加茂 鴨神社の御前神社 Misaki-jinjya of Kamo-jinjya in Kamigamo

北緯34度51分6秒東経133度49分22秒 上加茂宮坂Miyazako471番に鴨神社が 建っています。通称加茂大明神と呼び 旧郷社です。氏子地域は 平岡の一部 上賀茂 広面の一部です。本殿へ続く 左手の階段の上に 荒神社 御崎神社の境内社があり、境内の右手に 金刀比羅宮が有ります。金比毘羅宮は かつて稲荷神社でしたが、明治末年に 金刀比羅宮に変わりました。木山神社 地神社 川上神社 素盞嗚神社 番神社 今宮社 系普神社 御玉神社 幸神社sai-no-kami-sya 祇園神社 山神社 加茂神社 水神 武甕槌神社 大山社 愛宕神社 厄神 森神社 龍神社 神納社が 合祀されています。米:上加茂408・491番地等 宮ヶ市:上加茂683・715番地等    宮坂:上加茂443・471(鴨神社)・481番地等    仮屋:上加茂861・875(北緯34度50分54秒東経133度48分15秒)・876(北緯34度50分55秒東経133度48分15秒)・902番地等    大鼓町:上加茂2139-2141番地    神納:上加茂2339・2379番地等    上加茂神納:上加茂2378番地 大明神屋敷:上加茂2834-2841番地(北緯34度50分53秒東経133度48分44秒)    大蔵殿:広面341・430番地     平成25年(2013年)1月13日

 

加茂市場 加茂総社宮の火御崎神社 Hi-ho-Misaki-jinjya of Kamo-Soujya-guu

北緯34度51分51秒東経133度45分30秒 加茂市場惣社1567番地に 加茂総社宮が建ちます。本殿奥の左手に 地神碑8社の小祠が 立ちます。一番左と次の祠の祭神は 不明で、3番目の社は 宮荒神社です。4番目の社の祭神は 不明で、次の社は 森神社です。右から2番目の社は 火御崎神社、右端の社は 火鋒神社です。    御崎免:加茂市場43・128番地等 馬場免:加茂市場348・356番地等    西谷御崎免:加茂市場127番地 父御崎:加茂市場352番地    惣社:加茂市場1567番地 宮ノ西下:加茂市場1584番地 墓ノ段:加茂市場1590・1591番地 天神前:加茂市場1594・1608番地等     平成24年(2012年)6月12日

 

加茂市場 日御崎神社 Hi-no-misaki-jinjya in Kamoitiba-Soujya

北緯34度51分51秒東経133度45分30秒 加茂市場惣社1567番地に 加茂総社宮が建ちます。その宮司宅 加茂市場町1545番地 北緯34度52分0秒東経133度45分28秒に 日御崎神社が建ちます。総社神社の宮司は「総社は貴船神社Kihune-jinjyaを 勧請したのが始まりです」と語られました。高祖山Takazou-yamaに 祀られていた素社So-jya(素戔嗚社Susano-o-no-sya)が  総社の元宮とする人もいます。  ちなみに 島根県出雲市大社町日御碕 北緯35度25分46秒東経132度37分46秒の日御碕神社Hi-no-Misaki-jinjyaの 祭神は 天照大御神Ama-terasu-oo-mikami 神素盞嗚尊Kamu-Susa-no-o-no-mikotoで ご 利益は 国家安泰 厄除け 良縁等です。     日之御崎橋:北緯34度52分5秒東経133度45分22秒 札場:加茂市場1495・1496番地 町:加茂市場1500・1558番地等    町:加茂市場2307-2308番地 町寺川:加茂市場1503番地    能登面東:加茂市場1507番地 祝祠免:加茂市場1509・1513番地等 町禰宜屋敷:加茂市場1524番地     平成24年(2012年)8月25日

 

下加茂 河原法印の祀る御崎様 Misaki-sama managed by Kawara-houin

高梁御津線(31号線)宗林寺から 東に進み 下加茂田中1888番地の南 高梁御津線(31号線)の南側法面Norimenに 殆ど 道とは思えないような山道があるので 南に少し登ると 短い石垣が組んであります。石垣の下の山道を 右に進むと 東 右手上方 北緯34度51分27秒東経133度48分58秒に 2基の石組みの祠があり、陶器製の社が 転がっていました。河原文太郎が 昭和9年(1934年)室戸台風に伴う大洪水の折りに ここに流れ着いた身元の解らない死者の御霊2柱を 祀ったとされます。    田中:下加茂1864・2046番地等 田中高尾荒神:下加茂1876番地 湯奥:下加茂1941-1946番地 堂ノ前:下加茂126・130番地等    堂ノマヘ:下加茂1899-1901番地 久西神社:下加茂2004番地  平成28年(2016年)11月22日

 

下加茂 田中の御崎神社 Misaki-jinjya in Simogamo-Tanaka

宗林寺の南の高梁御津線(31号線)を 東に御津に向かうと 直ぐに南側 即ち 右に 墓場が並びます。墓場の東側の南の山道を ジグザグに登ると 北緯34度51分26秒東経133度48分59秒に 一宮社が 3社祀られています。左の社が 大倉神社(大倉社)で 中の社が 貴舟神社(貴舟社)で 右の神社が 御崎神社(御崎様)です。御崎神社には 昭和9年(1934年)の 室戸台風に伴う 大洪水の折りに 流れ着いた 身元の解らない死者の人々の御霊を祀っています。この時の下加茂は 全域で浸水し、多くの家が水没したと伝えられています。    田中:下加茂1864・2046番地等    田中高尾荒神:下加茂1876番地 湯奥:下加茂1941-1946番地 堂ノ前:下加茂126・130番地等    堂ノマヘ:下加茂1899-1901番地    久西神社:下加茂2004番地  平成28年(2016年)11月22日

 

高富 柿山中西荒神社の御崎社 Misaki-sya of Kakiyama-Tyuusei-Koujin-sha

高富中曽根2108番地の庭から 北に登ると 北緯34度55分34秒東経133度49分40秒に 中西荒神社が建っています。祇園社 御崎社と 共に祀られます。    中曽根:高富2088・2138番地等  案面荒神:高富2051番地コウジンマヘ:高富2100・2130番地等 ドウメン:高富2145-2148 番地    牛王:高富2149・2150番地  平成25年(2013年)9月12日

 

高富 柿山の御崎神社 Ozaki-jinjya in Kakiyama 

高富公民館から 北西に進み 柿山減圧弁のある地点に登り、次の変則的なT字路を 左即ち 南西に曲がると 高富坂道1945番地の南の 変則的T字の交叉点に出ます。南に 約100m程の地点の右手 北緯34度55分30秒東経133度49分27秒に 二宮社が 建ちます。山之神神社と御崎神社Ozaki-syaです。それぞれ 山之神大神Yamsano-kami-no-ookami 御崎社大神Ozaki-sya-no-ookamiが 祀られます。山之神神社は かつてこの地より北西の遠い山の中に祀っていて、御崎神社は 南西西の山の中に祀られていましたが、参詣に不便なのでこの地に 遷宮されたそうです。    サカミチ:高富1945・1654番地等    坂道:1958・1966番地等    高富坂道1945番地:北緯34度55分32秒・東経133度49分27秒    コウジンマエ:高富2100・2112(北緯34度55分33秒 東経133度49分42秒)番地等    山ノ神二シクボ:高富1915番地(北緯34度55分32秒 東経133度49分26秒の隣地)    山ノ神:高富1931・2293番地等 案面荒神:高富2051番地  平成25年(2013年)9月12日

 

竹部 乗木素戔嗚神社・御崎神社 Misaki-jinjya (Susa-no-o-no-jinjya) in Noriki

北緯34度50分41秒東経133度47分24秒  竹部美民城761番地に 天神社が 建ちます。境内摂社に 管后神社嗚神社 御崎神社が あります。    美民城:竹部747-769番地 ノリキ・ノリ木:竹部844・906番地等 荒神:竹部860-868番地    荒神ノ前:竹部869-870番地 石塔:竹部918・957番地等     平成24年(2012年)8月28日

 

竹部 杉神社の火御崎神社 Hi-no-Misaki-jinjya of Sugi-jinjya 

竹部馬場1090-1-1番地の左(南)の田 北緯34度49分58秒東経133度47分31秒に 天神社の摂社である 杉神社が 建ちます。南手の右に 火御崎神と〇想社大明神が 祀られる小さ目の社と、左に摩利支天社と田中大明神を 祀る大き目の社が建ちます。〇想社には天鈿女命Ame-no-Uzume-no-mikoto 猿田彦大神Saruta-hiko-no-mikoto 大己貴命Oonamu-ti-no-mikoto 天目一箇命Ame-no-Mahitotune-no-mikoto 前玉命Sakitama-no-mikoto 建皆方命Take-Minakata-no-mikoto 罔象女神Mizuha-no-me-no-kami 瀬織津姫命Seoritu-hime-no-mikotoが 祀られています。近くに 鳴滝公園が有り、神変大菩薩Sinben-daibosatu(役小角)が祀られています。    天神社:北緯34度50分4秒東経133度47分34秒 鳴滝:北緯34度49分21秒・東経133度46分32秒 何回か旱魃の折り 雨乞いが行われたそうです    役行者像‣神変大菩薩:北緯34度49分27秒・東経133度46分26秒近く    乗木山:竹部1009-1010番地 寺前・寺ノ前:竹部1012-1034番地    馬場:竹部1035・1107番地等    宮ノ前:竹部1039-1058番地 杦ノ免:竹部1070・1089番地等  平成25年(2013年)4月9日

 

豊岡上 地神社の御崎社 Misaki-sya of Tijin-sya

豊岡上中須賀290番地の隣 北緯34度53分58秒東経133度45分512秒 豊岡地区農村公園内地神社が 建ちます。5つの厨子が有り、愛宕神社 天神社 鎮守神社(鎮守宮) 鎮火神社 御崎社が 祀られています。    鎮ヶ乢・鎭ヶ乢・鎭ヶ溺:豊岡上219・302番地等 供養石西:豊岡上224番地 地頭原:豊岡上238番地 鍛冶屋:豊岡上252・267番地等    上光寺:豊岡上289・411番地等    上中須賀:豊岡上290番地 犬免:豊岡上309・527-534番地等 常光寺:豊岡上324番地 上人:豊岡上330番地     平成25年(2013年)1月25日

 

豐岡下 江与味八幡神社の七人御崎 Nananin-Misaki-of Eyomi-Hatiman-guu

加茂大祭では 江与美八幡宮の祭列が 加茂大祭の為に 加茂総社に向かう途中、豊岡と江与美の境 真地乢Maji-tawで 大勝宮Ookati-guu(現在の天計神社Amahakari-jinjya)の祭列と 待ち合わせ 同行する慣わし がありました。ある年、江与美神社の神輿の出発が 遅れたので 止む無く 大勝宮の神輿は 先に総社宮へ向かいました。延引Eninの責任を 氏子同士で 責め合い 或いは 加茂大祭の役員と 責め合い 7人が 斬殺されました。その人達の墓を 七人御崎と呼びます。七人御崎の1つ目の金属製の祠Hokoraは 真地の豊岡下庄行1824-2番地 光森将一家の裏、引撫hHikinadeに 通じる道にあり、2~3個目は豊岡下三角1377番の遠藤千代家の裏の五輪墓と 遠藤家の畑の5輪塔です。「加茂川町史」  湯の瀬温泉の近くに  引撫 双六方面への分岐があります。真地公会堂を 右に見て登る と豊岡下三角1377番地の 廃屋状態の遠藤千代宅があります。七人御崎の一つかどうか分かりませんが 墓石状の供養塔の他に 御崎神社が 祀られています。その北の遠藤家の墓を見て 更に登ると 右手に光森家の墓とその上に光森家があり、そのやや上の 右回りの手前に 七人御崎の1柱のブリキ製の一宮社があります。

豊岡下三角1377番地(遠藤家・空き家)の裏手に 配電施設らしき建物との間に 供養塔が立ちます。喧嘩の最中に 頭を切られた人の 供養塔で 頭の病の神様として 信仰され 多くの人が 引っ切り無しに 参詣していたそうですが  現在は 訪れる者はおりません。豊岡下三角1377番地の下の畑跡の2枚目か3枚目かの畦に 五輪塔が 破壊された3個の石群 が有ります。これも 七人御崎の2柱です。 

豊岡上小森線(371号線)湯の瀬温泉郷キャンプ場の南西の大曲辺りに 豊岡下妙見1517-5番と 豊岡下妙見1517-1-1番地が有ります。両家の間を 北に登ると 右に一宮社が建ち、グロの上に陶器製の祠があり、その中間に 五輪塔の一部と思われる 石が有ります。墓仕舞いされた跡に 見えます。加茂大祭八幡宮遅延騒動の折りの 犠牲者を弔った 七人御崎の一柱を供養したものでしょう。

遠藤家に祀られる御崎神社:豐岡下三角1377番地の遠藤家庭の東 北緯34度55分7秒東経133度47分13秒 遠藤家 裏の五輪塔・頭の病の神様:北緯34度55分10秒東経133度47分11秒 遠藤家畑の壊れた五輪塔:北緯34度55分10秒東経133度47分10秒0秒 光森家裏の御崎神社:北緯34度55分25秒東経133度47分10秒 湯の瀬の御崎神社:北緯34度54分48秒東経133度47分20秒 江与味八幡宮:北緯34度56分48秒東経133度47分43秒 天計神社:北緯34度55分30秒東経133度46分31秒 加茂総社宮:北緯34度51分54秒東経133度45分30秒 血洗いの池:北緯34度55分34秒東経133度47分19秒 腰打:豊岡下1437・1464番地等 真地:豊岡下1443・1814番地等 サノノウ:豊岡下1446番地 西納:豊岡下1467番地 妙見:豊岡下1483・1532番地等 真地乢:豊岡下1495番地 真地溺:豊岡下1496番地 湯ノ瀬・湯ノセ:豊岡下1508・1616番地等 ハテノ場:豊岡下1555・1586番地等 薬師堂:豊岡下1558番地  平成29年(2017年)4月29日

  

平岡 平岡の千人塚Sennin-duka in Hiraoka・平岡の千日塚Senniti-duka

竹部加茂市場線(366号線)を 高谷集落から 南東に上野と高谷の境界線に 沿って進むと上野八十原83番地にグリーンユ―キがあります。そこより 90m程 南にY字路があり 平岡の千人塚が 建っています。南に230m程 進むと 平岡毛宗毛尻Kesouge-siri648番地があります。上加茂合戦(天正8年 1580年)の毛利方兵の犠牲者の供養塔です。当時、毛利軍の山陽地方の担当責任者は 小早川隆景だったので、隆景が建てたのでしょう。

案内板委には「平岡にある大理石の五輪塔群は、天正二年 一五七四 に当町 元兼 高谷上加茂地域で行われた上加茂合戦(虎倉合戦)において戦死した安芸毛利軍の人々の墓と伝えられている。上加茂合戦は四月十三日の未明 上加茂清経に進軍した毛利輝元軍と 眼下に流れる加茂川を挟んで 上加茂三宅坂へ布陣した虎倉城主伊賀久隆軍が  激突した戦いである。土地に不案内な毛利軍は 地の利を得た伊賀軍攻撃の前に、大将 粟屋与十郎が戦死し 多くの死傷者も続出し ついになだれを打って臼井谷 高谷(おぎ坂)方面に敗走した。このことは 毛利家資料にも「加茂崩れkamo-kuzure」と記されている。戦後 毛利氏は 備中より墓守を派遣して 戦死者の霊を供養した。大正初年頃まで 千人塚にお堂があり、墓守も住んでいたという。そして 縁日には近郷の多の人が参拝し、露店も並んだと言う。吉備中央町教育委員会」 案内板には 上加茂合戦は天正2年となっていますが、この年は備中兵乱の始まった年で、伊賀久隆は宇喜多氏配下にあり毛利氏と同盟していて、久隆の配下の者が敵の大将の三村元親の息子の三村法師丸を捕え 毛利氏にの小早川隆景に渡しています。上加茂合戦は 虎倉合戦の最終決戦で、天正8年(1580年)に 起ったとするのが妥当であると考えます。 藍苅:平岡456-468番地 毛宗化:469・652番地等 毛宗化尻:平岡479・648番地等 千日:平岡654・865番地等 長丸:高谷1289・1513番地等    荻坂:高谷613・871番地等    清常:上加茂872・1011番地等    清経:上加茂915・944番地等 三宅:上加茂2166・2353番地等 臼井:上加茂1326・1577番地等 関谷:上加茂1885・1953番地等 平成30年(2018年)4月9日

 

細田 高平マヘの御崎神社 Misaki-jinjya in

下土井下加茂線(372号線)の高平バス停から 北東に向かい 高平集落に入り 道なりに 350m程進むと 細田マヘ 1767番地が あります。その裏手 北緯34度53分57秒東経133度47分20秒に 御崎神社祀られています。何時の頃か解りませんが、この地の者が 嫁に行って、嫁ぎ先で苦しめられ 絶えられず 自ら命を断ったので 御崎神社を建て 悼んだそうです。    マヘ:細田1739・1913番地   荒神マヘ:細田1778・・1785番地等 荒神前:細田1786・1899番地等  岩目:細田1725・1951番地等 狐岩:細田1720・1763番地位等 高平:細田1665・1906番地等 高ヒラ:細田1904番地  平成30年(2018年)3月27日

 

細田 荒神乢御崎の御崎社 Misaki-sya in Koujin-tawa

吉備高原北部広域農道(奥吉備街道)沿いの細田田ノ口816番地と 細田ドフノ上Dou-no-ue272番地の間にある 旧道のほぼ中央 北緯34度53分43秒東経133度46分30秒の細田仲屋前255番地付近に 円福寺建ちます。近接地に 仏像 荒神社 御崎社が 祀られています。    荒神乢:北緯34度53分43秒・東経133度46分30秒(円福寺) ドフノ上:細田272番地 墓廻リ:細田299・302番地 ホフノ乢・坊ノ乢・ボウノタワ・坊ノタワ:細田276・353番地等 阿彌陀・アミ田:細田320・396番地等 祇園:細田340・348番地等 タイセフクンウシロ:細田425 タイショウクンウシロ:細田437番地 大将軍:細田444-453番地 将軍:細田773・789番地等 徳入墓:細田454番地 仁王:細田514・627番地等 蓮池:細田606・607番地 荒神前:細田1786・1899番地等 墓之下:細田1246番地 三王:細田716・805番地等 墓ノ西:細田728番地  氏社・氏ヤシロ:905・939番地  平成25年(2013年)1月13日

 

細田 細田天津神社の御崎神社 Misaki-jinjya of Hosoda-Amatu-jinjya 

北緯34度53分39秒東経133度47分6秒 細田明見1372番地に細田天津神社(久保田神社)が 建ちます。その境内に 一宮社が 3社祀られています。左の社は 御崎神社で、中の社は 天津神社で 右の社は 龍王神社です。     鐘突堂:細田1318・1319番地 ボランシ:細田1320-1324番地 木蘭寺:細田1340番地 妙見:細田1362・1396番地等 明見:細田1372番地 妙見山:細田1391・1647番地等 矢柄:1397・1549番地等 矢カラ:細田1413・1486番地等 屋カラ:細田1434・1468番地等  平成31年(2019年)3月1日

 

溝部 溝部下の御崎神社 Misaki-jinjya in Mizobe-simo

落合加茂川線(66号線)を 尾原から 溝部に入り 豊岡川に沿って Y字路を 左折し 恩木ダムOngi-damu方向に 向かう と直ぐに 中渡橋があり、その西の溝部中田299番地と 溝部屋敷341番地の間の 細い道を 西に行くと 北緯34度56分17秒東経133度44分29秒に 加茂八十八霊場巡礼40番溝部下札所聖観音堂が 建ちます。更に その西奥 右手に金刀比羅神社と 五角地神塔 奥正面に 五社が建っています。奥正面の右端の社は 大歳神社、2番目の最も大きい社は 荒神社、中央の社は 御崎神社、左から2番目の社は 摩利志天王社、左端の最も小さい社は 愛宕神社です。    中田:溝部290・306番地等    湯カミ:溝部304・307番地等    丸山:溝部313・326番地等    堂マヘ・宮ノ前:溝部328・345番地等    三寶山・三宝山:溝部346番     平成29年(2017年)6月23日

 

三納谷 火雷神社摂末社の大御前神社 Oo-Misaki-jinjya of Ho-no-Ikasuti-jinjya

 下土井下加茂線(372号線)の大畑バス停から 西に向かう分岐を 道なりに久保田神社 案田池や矢柄池を過ぎ 南に1000m程の道のりを進むと 細田と三納谷の境 三納谷大地久保216番地の北西の黒杭口に出ます。南東に向かう分岐を120m程進む と南向きの火雷神社の参道があります。参道を270m程 進むと 北緯34度53分9秒東経133度47分1秒に建つ 火雷神社Ho-no-ikaduti-jinjya/Karai -jinjyaに 辿り着きます。拝殿の左に 常夜燈 一宮社2社と円柱状の碑が祀られ、その右奥に 大きな石の記念碑が 2基立ち、石碑の右後ろに 屋根に三日月形の錆びのある一宮社の大御前社が 建っています。更に奥に 青い屋根の一宮社が建ち、その近くに 石塔等の石碑が立ち、本殿の裏手には 朽ちかけた社があります、その社の左脇に陶器製の社があります。    目黒:三納谷166-171番地 魔法松:三納谷183・186番地 神納:三納谷227・235番地等 黒杭:上田西31・905番地    摩法松:上田西80・167番地     平成30年(2018年)3月27日

  

三納谷 奥集会場の御崎神社 Misaki-jinjya in Minoutani-oku-assembly  hale

三納谷明見735番地の北東 北緯34度53分7秒東経133度46分38秒に 三納谷奥集会場が建ちます。三納谷城の出城とされている場所ですが 単なる平地です。地神宮の石碑等が 構内の入り口の岸に 祀られます。集会場内に 祀られる 向かって最右の宮は、荒神社で 妙見様 素戔嗚Susa-no-o-sama様 御崎様が 合祀され、右から2番目の宮には 妙見宮が祀られており、右から3番目の宮は 三宝荒神社三宝荒神が祀られており、中央の宮は 祇園社です。左から2番目の大き宮には いかなる神が祀られているか解りませんが、御崎神社と思われます。最も左の宮は 愛宕宮です。三納谷に点在していた神社が 管理上の理由で集められているのでしょう。    才門:三納谷319・368番地等 大師古屋敷:三納谷807番地 明見:三納谷710・735(北緯34度53分5秒東経133度46分36秒)・828番地等 大師:三納谷792・806(北緯34度53分0秒東経133度46分32秒)・808番地等  平成25年(2013年)3月13日

 

和田 素嗚神社の御崎神社  Misaki-jinjya of Susa-no-o-jinjya in wada

吉備中央町和田青木山129 番地林道宮の谷線の終点 北緯34度53分31 秒東経133度44分 50秒付近に 素盞嗚神社 が建ちます。その摂末社の中に 御崎神社があります。聖神Hijiri-no-kamiが祀られており 屋船久々之知命Yahune-Kuku-no-ti-no-mikoto  屋船豊受神Yahune-Toyouke-no-kami 手置帆負神Taoki-Hooi-no-kami  彦狭知神Hiko-Sasiri-no-kamiの札が 納められています。  聖神:大年神Ootosi-no-kamiと伊怒比売Ino-himeの子の内の1柱「日知り」の神 暦の神とされますnihonsinwa.com/page/2305.html」    青木山:和田127-129番地 宗林寺:和田144-159番地     平成25年(2014年)3月25日 

 

和田 天神日の日之御崎神社 Hi-no-Misaki-jinjya in Wada-Tenjin

和田集落の東北部和田天神1251番地 北緯34度53分31秒東経133度44分46秒に 和田天神社が 建ちます。その直ぐ南に 南西に下る山道が 分岐するので 30m程進むと和田宮本1250番地の東の山の中に 日之御崎神社が建ちます。    宮本:和田1250番地 天神:和田1251・1252番地    花屋:和田1260・1261番地 天満鼻:和田1273番地 燈明田:和田1297番地 寺高下:和田1304・1305番地    寺高下:1364・1365番地 天馬:和田1323・1325番地  平成30年(2018年)1月12日

 

上竹 離小屋城の火之御崎神社 Hi-*no-Misaki-jinjya in Hanare-goya-jyou

 高梁御津線(31号線)から入り 賀陽総合スポーツ公園の手前の変則5叉路を カヨー中央観光バスサンデーツアーズ(賀陽自動車教習所前)を西に下り 上竹小ヤ5718番地の南の山を登ると 北緯34度49分25秒東経133度39分32秒に 6社を祀る建物が あります。最左の一宮社は 火之御崎神社、次の大きな一宮社は 天神社菅原道真の石像神が 祀られ 絵馬が2枚奉納されています。正面の小さい社は 荒神社で 丸い自然石が 祀られていて、潤雨jyunuの祈願が叶った事が 感謝されています。右手の次の一宮社は 稲荷神社で 保食大神Ukemoti-no-ookamiと 豊受大神Toyouke-no-ookamiが 祀られ、その右の隠れて見えない一宮社には 如何なる神が祀られているか解りません。その隣左から2番目の二宮社は 伊豆那神社と その末社で、右端の二宮社は 稲荷神社とその末社です。    ヤクシ山:上竹5611番地 大坊ジリ・大坊シリ:上竹5615-5618番地 般若坊・ハンニャ坊:上竹5629-5633番地 キョウノマヘ:上竹5634番地 小ヤ:上竹5645・5752番地等  平成25年(2013年)12月8日

 

上竹 立七人御崎・七人御鋒塚 Nananin-Misaki-duka/Nansanin-misaki in Kamitake-Tati

高梁御津線(31号線)沿いのコメリの西の道を 北西に登り 十字路の辺り 多地(立)上竹Tati801番地の北東 竹荘1915番地の南西 北緯34度51分23秒東経133度40分39秒 に有ります。矢倉畦城落城時に 7人の兵士が有漢に逃れようとして失敗し 殺されました。村人が 悼んで七人御鋒塚に葬りました。

案内板には「この塚(祠)は七人御鋒塚と言われ、戦国時代この地において討死した七人の武士の霊をまつったものである。 いまから四〇〇年程前の天正二年(一五七四)年、備中松山城主、三村元親毛利宇喜田両軍の攻撃を受けた備中兵乱の時、当時竹荘の土豪として三村氏に従属していた 田中直重は、一族地侍等数千人を率い、矢倉畦城に於いて毛利の大軍を迎え討ち、良く戦ったが、天正二年十二月二十七日落城した。この時矢倉畦城より落ちのびた守兵の内の七人は、この土地において軍につかまり、乱戦の中に討死したと言う。土地の人々は悲運の武士の為に塚を立て、霊を祀ったと伝えられている。  元 塚は 現在より南約五十メートルの処にあったがこの度、圃場整備により塚を移し新たに祠を立て無名非〇〇〇まつられる事になった」と 記されています。 田中直重:1500年代の人で、 三村家臣でした 天正2年(1574年)矢倉畦城は 毛利の攻撃を受け、松山城へ逃げ込みました    備中矢倉城跡:納地Nouti矢倉の北 北緯34度50分38秒東経133度41分37秒に有ります  吉備中央町指定史跡の山城(587m/97m)で、築城時期は不明ですが、田中盛兼が鎌倉時代後期に建てたとされています  天正2年(1574年)の頃の城主は 田中直重で、その後、毛利氏に奪われ、毛利氏の武将難波親俊が 入城します  城地には立て札と 大山Daisenの地蔵即ち 牛馬供養碑 建築物残骸の集積が有ります  矢倉山頂 単郭 二段で 曲輪は い土塁で囲まれます   虎口は 西側に設けられ、南の尾根は 曲げられています   東の虎口の下に 直径3m程の井戸跡が あります    備中兵乱:宇喜多直家は 永禄12年(1569年)織田信長と結び 主君の浦上宗景に 反旗を翻しひるがえしました  しかしながら、信長が 軍の一部を引くひくと、浦上家に敗れ 降伏するのですが、なぜか 言い逃れに成功し 助命されました  宇喜多直家は 天正2年(1574年)に 再び 浦上宗景の兄の浦上政宗と手を結び 策謀を巡ぐららし 入念に根回し、宗景の配下を 離反させ、宗景と毛利氏の犬猿の仲を利用し、天正3年(1575年)毛利氏三村氏戦に参戦、協力し、浦上宗景に背いたのです  天正2年~3年に掛けて行われた戦いがいわゆる備中兵乱で、備中全土で織田氏毛利氏の代理戦争でした  同年9月に浦上宗景を 播磨国へ退け、備前のみならず 備中の一部と美作の一部に 進出しました  中国地方に 勢力を伸ばした織田信長足利将軍を天正元年(1573年)毛利氏へ 足利義昭将軍を 毛利氏へ追いやると、将軍は 毛利氏宇喜多氏を 同盟させました 困ったのは 宇喜多氏に 三村家親を暗殺され 敵意を露わあらわにする三村氏です  毛利方に残るべきか 織田方に付くか 意見が対立し、三村氏は2分に分裂し、元親の叔父の三村親成竹井直定 等は 毛利方に残り、三村氏本家の三村元親 等は 織田方に付きました。天正2年(1574年)毛利元就の3男 小早川隆景が 松山城を取り囲みました  多勢に無勢の他、日本一険しく高い位置に 松山城は有ったため、食料等のの補給路が 断たれ、兵糧攻めには脆く、又竹井直定や 大月七郎左衛門尉信通 等の 城内の裏切り者があって、天正3年(1575年)落城しました  その後 元親の子の勝法師丸Katu-Housi-maruは 山手と清音の境都窪郡幸山城で 元親の妹の婿の城主石川久式Hisanoriと 一緒に松山城から 備前天神山城へ 落ち延びようとしましたが、伊賀左衛門尉久隆に 捕えられ、井尻野の毛利本陣の井山宝福寺に届けられました  その途中 勝法師丸は扇を取り出し「夢の世に、幻の身の生まれ来て、露に宿るか宵のいかづち」と ススッスラと書いたのです  この有能振りに触れた 中島大炊介や久隆は 勝法師丸の助命嘆願を 願い出ましたが、小早川隆景は「有能さ故に、生かして置けば いつかは 毛利家に 刃を向けられる」と 考え、井山の谷で殺害を命じました トフメン・ドフメン・ドフメン:上竹790・959番地等番地等 タチ・立:上竹792・854番地等 三塚・ミツカ:上竹814・826・827番地等 道通:上竹816番地 ミコメン:上竹824番地 ゴリン畑・ゴリンハタ:上竹828・829番地 サイメン:上竹843番地 湯木・ユノキ:上竹841・845番地     平成26年(2014年)8月15日

 

上竹 水砂の武者墓 Musya-baka in Mizako

長屋賀陽線(78号線) 栗の木峠の南で  岡山自動車道を潜り 西に曲がると上竹猿目橋の南の川向こうの原上竹下タ屋敷Sita-yasiki6096-1番地の南東 約270m  北緯34度49分26秒東経133度40分17秒に 武者墓が立ちます。水砂橋を渡り 河原に向かいます案内板には「備中兵乱竹之荘合戦記 天正三年)一五七五)鶏足山Keisoku-zan(高梁)に陣を張っていた毛利の軍将、宍戸豊前守隆家は 蠢動する竹之荘方面の三村勢を 鎮圧するため 一万の軍兵を 進出させた。大月源内を 主軸として 離小屋城を護っていた 三村軍(竹之荘勢)は 対岸の水迫に渡り ゲリラ戦に移った。当時の佐与谷渓谷は 曲がりくねった一本道のみであった。毛利軍の鶏足山引上げは 峻嶮な渓谷を超え 川を渡って岩石や 苔に足を取られて 難渋を極めた。そこをねらって 三村軍(竹之荘勢)は 山上より 夜襲をしたのである。一万の毛利軍は 各所で 右往左往し 多くの将士を失った。この宝篋印塔は その戦の際に 戦死した 中村城主 布寄内蔵助正則の墓の墓塔であると 伝えられる。この合戦を「四月四日の竹之荘合戦」としょうする」と記されています。    鶏足山:高梁市松山字鶏足山 北緯34度45分48秒東経133度37分44秒 宍戸隆家:弥三郎 左衛門 雅楽頭 安芸守を務めた安芸国人で 準毛利一門です  妻は毛利元就の娘で1533年から 毛利元就と同盟し 備後北部支配し、主に 吉川元春を 補佐しました  1540と1541年の「吉田郡山城の攻防戦」で 尼子晴久を 撃破しました  1543年「月山富田城Gassan-tida-jyou包囲攻撃戦」に 従軍しました  1570年には 尼子勝久の蜂起に 備中衆を率いて出雲に 出陣し「布部山Hube-yamaの合戦」に 勝利しました 1571年義父元就の死去し、1575年小早川勢として上月尼子攻め、1582年には 備中高松城の後詰に 参陣しました  文禄元年(1592年)に死亡しました 宍戸備前守:備中兵乱に 登場する毛利の将です   天正2年12月23日  猿掛城を 中島大炊介Ooi-no-dsukeに 案内させ 攻め 三村兵部松山城に 追いやり 斉田城三村親成 等に 案内させ攻め 三村左京を 松山城に追いやり、国吉城を攻め 三村左馬Mimura-Sama-no-jyouを 松山城に 追いやりました  その後の消息は分 かりません    離小屋城:上竹小ヤ 北緯34度49分48秒東経133度39分31秒 大月源内:離小屋城には 庄為資Syou-Tamesukeが 城に来て その子の大槻源内信繁が 跡を継ぎました  三村氏に 代々仕える 竹井宗左衛門直定の下で働きました  備中兵乱では 竹井氏に従い 三村氏を 裏切り 備中高松城陥落に 効をなしました「上房郡史」    中村城:兵庫県豊岡市出石町中村 北緯35度26分59秒東経134度51分55秒 猿目橋:北緯34度49分28秒東経133度40分18秒 水砂橋:北緯34度49分25秒東経133度40分19秒 栗の木峠:北緯34度49分44秒東経133度39分59秒  平成30年(20187年)3月15日

 

黒山 御崎神社 天理御崎神太魂社 Tenri-Misaki-no-kami-Hutodama-sya of Misaki-jinjya in Kuroyama

金毘羅神社の北の山の中腹 黒山グイビ谷1034番地や 黒山親屋1037番地の北 北緯34度47分29秒東経133度45分28秒に 三宮社と一宮社と御崎神社が 祀られる石組みの祠が 並び、境内の南側に 一宮社を納める石組みの厨子が有ります。三宮社の左の厨子は 御崎神社で 天理御崎神太魂Tenri-Misaki-no-kami-no-Hutodamaが祀られており、中の社は寶王神社で、右の厨子は 護王神社で護王神魂Goousin-no-mitamaが祀られています。一宮社は 五社神社で五社神魂が 祀られています。南の石室に収まる社は 御崎神社で、住民が梯子Hasigoから落ちて 大怪我をする事件が 有ったので、再発を恐れ祀られたそうです。    天理御崎神太魂:天理御崎は いかなる神か解りません  天理とは「天地自然の原理 人の正しい道理等」を意味しますので 自然や人為的脅威から守護される事を 祈ったのでしょうか 天理市の楢神社Nara-jinjya(北緯34度37分24秒東経135度49分47秒)に祀られる 吉備津彦命(五十狹芹彦命Isaseri-hiko-no-mikoto)鬼子母神Kisimo-jinの事でしょうか   寶王神社:熊本県熊本市北区龍田町弓削489番地(北緯32度50分48秒・東経130度47分8秒)弓削神社Yuge-jinjya(寶王大明神Houou-daimyoujin)の祭神は 孝謙天皇(お藤姫・宝王大明神・法皇大明神)で 浮気封じ 夫婦和合 子授けの他 五穀豊饒に 神徳があるとされ、木彫りの男女の性器を 奉納して祈願します  それ故 境内に男根等の御神体が 多く奉納されています  山口県周防大島町森819番地の北緯33度54分48秒東経132度21分22秒の神山神社Kou-no-yama-jinjyaの祭神は 寶王大明神 則ち天照皇大神Tensyou-kou-daijin 岩吾彦命Iware-hiko-no-mikoto 大鹿嶋命Ookasima-no-mikoto(天児屋根命の十代目後裔) 天児屋根命Ame-no-Koyane-no-mikoto 天種子命Ame-noTaneko-no-mikoto(天児屋根命の孫) 奥津彦命Okutu-hiko-no-mikoto 奥津姫命Okutu-hime-no-mikoto 大己貴命Oonamu-ti-no-mikoto 蛭子命Hitruko-no-mikotoでした「天保期(1830~1844)に 編集された 防長風土注進案」現在の祭神は 大山津見神Ooyama-tumi-no-kami 五社神社:五社神社は 太玉命Hutodama-no-mikoto 武雷命Take-Ikaduti-no-mikoto 斎主命Ituki-nusi-no-mikoto 天児屋根命Ame-no-Koyane-no-mikoto 姫大神Hime-no-ookamiの五柱の神を祀る神社でしょう    護王神社:多くの護王神社は 和気清麻呂を祀ります  豊岡の亀山八幡宮の御王神社の祭神は天児屋根命です    グイビ谷:黒山1033・1068番地等 梅屋敷:黒山1034番地    金庭:黒山1073番地 金ノ庭:黒山1074-1078番地     平成26年(2014年)10月5日

 

黒山 寶王神社 Houou-jinjya in Kuroyama

「黒山 御崎神社,天理御崎神太魂社」の項目を参照してください。

平成26年(2014年)10月5日

 

黒山 多木神社の庄五郎御崎神社 Syou-gotrou-Misaki-jinjya of  Taki-jinjya

黒山後谷364-5番地の西隣の山を 妙見山と呼びます。かつて 妙見宮が建っていましたが 現在は完全に破壊され 鳥居の残骸と手水鉢(ちょうずばち)2個が 妙見山の東の麓に 放置されています。妙見宮には 天御中主命Ame-no-Minakanusi-no-mikotoが祀られていました。現在 妙見山には 多木神社が祀られています。トタンぶきの 三宮社が祀られています。左の社は 提婆宮Daiba-guuです。中の社は 稲荷宮祇園天宮と提婆宮です。右の社は 今宮不動山王宮です。滝宮Taki-no-miya(瀧神社|岡山県神社検索|岡山県神社庁 (okayama-jinjacho.or.jp)や 石動社 庄五郎御崎神社もかつて祀られていました。    後谷:黒山363・373番地等 妙見:黒山357・359番地等     平成26年(2014年)9月19日

 

竹荘 岩牟良神社の和霊神社 Warei-jinjy in Iwamura-jinjya

竹荘馬場1074番地 岩牟良神社の境内末社の和霊神社には 山家清兵衛命(Yanbe-Seibei-no-mikotoを 祀ります。神徳は 大漁祈願 武運長久 五穀豊穣 商売繁昌等です。山家清兵衛(山家公頼Yanbe-Kinyori) 元和6年6月29日(1620年7月28日)に発生した 宇和島藩のお家騒動 和霊騒動については「https://ja.wikipedia.org/wiki/和霊騒動」を参照ください。  荒神前:竹荘812・876番地等 權現ノ後:竹荘861番地\    ハカソネ:竹荘916・919番地 墓ノソ子:竹荘917番地 墓そ祢:竹荘918番地    馬場:竹荘969・1135番地等 加大田サイ砂:竹荘1004番地    ババ:竹荘1014・1076番地等 サイ砂:竹荘1004-1006番地    サイ迫:竹荘1007番地 鳥居:竹荘1278番地 鳥井:竹荘1280・1301番地等 宮脇:竹荘1284・1297番地等 墓後:竹荘1080・1081番地 地頭久:竹荘1083・1091番地    地トウ久:竹荘3381-3383番地   平成24年(2012年)8月11日

 

 

豊野 紙屋の地の御崎様 Ti-no-misaki-sama in Kamiya

高梁御津線(31号線)から 天田橋を渡り 北西に 180m程 登り 大きなヘアピンカーブを 東に曲がり 120m程 進むと 北に折れる分岐があります。北に分岐を120m程 進み東に道なりに回り(分岐から150m程)進むと 道は突当り 変則的な五叉路になるので 豊野オカ4756番地と 豊野馬場4750番地に挟まれた北に向かう道を進み 右手に 即ち 豊野天田Tenda殿畑4731番地の南の道向かい  北緯34度51分58秒133度42分22秒に、この地の聖地であると思われる 善覚社や地の御崎様(地元の婦人は Ti-no-Misaki-samaとよんでいます)を含む施設群があります。左に供養碑と地蔵菩薩像が建ち、次に赤い小い祠が2社立ち、更に地神碑が立ち 石製の祠と大きい赤い屋根の祠が立ちます。一番左の赤い祠と石製の祠は 善覚様で他の2祠は 地の御前様Di-no-Gozen-samaです。 地の御前は 美保神社の末社とされる海上の島の名で 航海安全の地蔵菩薩が祀られていたそうです。  沖の御前と言う末社の島は 事代主命釣りをしていた島とされます。  美保神社の祭神は 事代主命と美保津姫命です。  美保津姫命は 大物 主神あるいは大国主神の后です。  高天原から稲穂を地上にもたらし普及させた神様で 五穀豊穣 夫婦和合等の神です。広島県廿日市地御前5-17番地 北緯34度20分10秒東経東経132度19分8秒 地御前神社Di-no-Gozen-jinjyaの祭神は 宗像三女神市杵島姫命 田心姫命 湍津姫命です。 善覚:小山善覚坊なる修験者が寺に伏見稲荷から勧請しましたが、稲荷神の神の力が 善覚坊の力より勝り「善覚神社」を立て稲荷神を祀りました 本光寺:豊野4606・4767 番地等 天田坂:豊野4620・4665番地等 鳥井まえ:豊野4628番地 定地免・定冶免:豊野4643・4702番地等 善光坊山:豊野4673番地 頭免:豊野4686・4710番地等 荒神田:豊野4687・7115番地等 京免:豊野4715番地 ネキ・禰宜:豊野4724-4728番地 殿畑:豊野4730・4736番地等 ババ・馬場:豊野4747・4795番地等 宮ノ西:豊野4773番地 御崎山:豊野4774・4797番地等 鳥居場:豊野4775・4782番地等  平成28年(2016年)11月27日

 

豊野 東豊野神社の御崎神社 Misaki-jinjya of Higasi-Toyono-jinjya

豊野北屋1408番地 東豊野神社は天慶年中に備中国吉備津神社の分霊を勧請しました。吉備津彦命(五十狄芹彦命)は 四道将軍の1人です。村社御前神社 中山神社の起源で起源であり、村社天満神社 高靈神社(祭神から推測して 高龗神社Taka-Okami-jinjyaの間違いかも知れません)も 覚弘年中に勧請奉祀されました。大正3年(1914年)に 村社御前神社 中山神社 村社天満神社 高靈神社(龍王神社)の4社の外 無格社24社を合祀し 現在の地に移転して 東豊野神社と 改称しました。https://www.okayama-jinjacho.or.jp/search/18591/  東豊野神社:豊野1408番地 北緯34度52分14秒・東経133度41分55秒 地蔵田:豊野1349・1350番地 才ハナ・才はな:豊野1351-1354番地 北屋:豊野1359・1410番地等  平成24年(2012年)7月15日

 

豊野 御崎様 ソウギン様 Sougin-sama inToyono

高梁御津線(31号線)から 賀陽有漢線を北に約800m程進み そして道なりに 尾原賀陽線に入り 豊野小学校の東を通過し、更に50m程進むと 豊野上ヶ市4327番地の西に四叉路があるので 北西に向う道を選び 進むと 豊野オクビ206番地に出ます。その裏手を 北東に進むと 左手に 聖観音堂が 建ちます。豊野北屋234-2番地方向即ち 北東に少し進むと 北に向かう山道が 有るので入ると 直ぐ、御幣Goheiが 祀られる大岩(御崎様)の向こう、北緯34度52分7秒東経133度41分52秒に 一宮社の荒神社が建ちます。その荒神社と並んで祀られている岩が 御崎様Onzaki-samaです。元、天田に有った御崎様を 何時の頃か 解りませんが この地に移されたと言われます。    才の元:豊野158・282番地等    丸山:豊野167番地 古宮:豊野181203番地等 北屋・北ヤ:豊野191・277番地等 墓ノ段:豊野231-233番地

此の地には ソウギン様ゲンギン様の言い伝えがあります。蜂谷という大金持ちの酒屋があり、財産を蓄えていました。蜂谷と言う分限者は 家族に蓄財を知られたくなくて、人知れぬ天田の山中に 6つの瓶に 財産を入れ 運び出し埋めました。それを目撃した女中のお銀に 「お前を神様にして祀る」と言い含め 秘密を守る為に お銀を殺すと、主人は体調を失いました。お銀の祟りTatariとされ、天田に塚を作り お銀を殺した短刀を 屋敷近くに 埋め 祠を造り お銀を祀った処、主人の病が 治ったと 言うものです。ソウギン様の碑は豊野小学校の向かいの墓場の34度52分152分133度41分5241分52秒に立ちます。 そうぎん・ソフギン:豊野170・172番地 天田:豊野3173・4604(北緯34度51分52秒東経133度42分21秒)・5981番地等  平成25年(2013年)8月28日

  

西 大向ふる里の御崎宮 Misaki-guus of Hurusato in Oomukou

484号線岡山自動車道を潜った後直ぐに 西西南の道沿い右手に 西大向1603番地 北緯34度48分19秒東経133度40分43秒に お食事所 ふる里が 焼き肉店を 営業しています。その店の東の階段を上った高台に 一宮社が2社建ちます。個人で祀る 御崎神社Misaki-jinjya御筆御崎とは関係ないそうです。北緯34度48分32秒東経133度41分9秒近くに 御筆御崎が 祀られていましたが、遠藤さんあるいは 難波さんと言う女性が いずれかに遷宮しました。 お筆御崎伝説:賀陽町史に「お筆と言う女がいました  小金を貯めていいましたが、有る時 何者かが お筆を殺し 金を奪いました 死んだお筆の顔は 無念のため、恐ろしい表情をしていました 村人は 恐れをなして、お筆を弔い 祠を建て祀りました   時が過ぎ その地に耕作する者が 現れましたが、収穫できませんでした それで ここで誰も耕作する者がいなくなり 荒れ果てました」と 伝えられます    お筆御崎:岡山道賀陽インターの東 北緯34度48分32秒東経133度41分9秒にかつて建っていました    お筆御崎と仮称大向ふる里御崎宮とは関係ありません    寺ノ前:西8934度48分32秒・東経133度41分905番地等 大向:西1028-1041番地 チャヤ・茶屋:西1051-1106番地 神田:西1277・1302番地等    天王山:西1303-1318番地     平成27年(2015年)11月13日

 

宮地 大和神社の御崎神社 御前神社 Misaki-jinjyas  and Onzaki-jinjya  of Yamato-jinjya

 宮地宮谷445番地 北緯34度47分47秒東経133度45分7秒に 大和神社が建ちます。明治43年(1910年)に 大和村北 西 岨谷 宮地にあった35の小社が 村社八幡宮に合祀され、一村一神社となし、大和神社と改名されました。その合祀された小神社に大和村大字北の古和田の古和田神社Kowada-jinjya(祭神不詳)   大字岨谷野山の吉竹の御崎神社Misaki-jinjya(素戔嗚命 田ノ口の御崎神社Misaki-jinjya(吉備武彦命  実光の御崎神社Onzaki-jinjya(吉備武彦命) が含まれています。「賀陽町史追補版」  岡山神社庁の示す由緒によると「建久年間(一一九〇年―一一九八年)の創建と伝える。明治四十三年四月十四日大和村大字宮地字宮谷鎮座八幡神社に同村大字宮地字東ヶ市鎮座御前神社(祭神 吉備武彦命)、同村大字西字湯原鎮座(龍王山の市杵島神社でしょうか)、同村大字岨谷字岩山、岩山神社吉備津神社の岩山宮の祭神 建日方別Takehikatawakeを勧請)と同村内無格社三十一社を合祀して大和神社と改称し、一村一社とした。」と されます。  御崎之前・和泉寺:宮地137番地(北緯34度48分1秒東経133度41分58秒)    宮乢:宮地432・481番地等    黒田:宮地274・446番地等     古和田「小和田」:北244・362番地等 野山の吉竹「吉竹」:岨谷2836・2842番地等    若宮:岨谷2817番地    御崎道ノ上:岨谷2838・2858番地 田ノ口「田之口」:宮地1853・1980番地等 東ヶ市:宮地140・222番地等 御崎之前:宮地137番地 湯原:西2886・2956番地等 龍王山:西2935・2949番地等 実光:西611・907番地等 山神:西670・728番地等 岩山:岨谷182・232番地等 才ノ元:岨谷185・188番地等  平成16年(2004年)8月24日

 

湯山 行森の日御崎神社 Hi-npo-Misaki-jinjya in Yukimori

総社賀陽線(57号線)から 484号線の湯山橋を 渡り 湯山川に沿い 南西に進むと 湯山寺内84-1が有ります。その北484号線の西 北緯34度51分8秒東経133度44分5秒に 三宮社が建ちます。左の厨子が 三社神社で、中の厨子が 荒神社で、右の厨子が 日御崎神社です。社の右手の急坂を登ると燈明用の石組み石グロが有ります。    荒山:湯山95・98番地 寺内:湯山74・131番地    行森:湯山99・176番地等  平成29年(2017年)8月24日

 

湯山 川合神社の住吉三前神社 Sumiyosi-Mimae-jinjy34度51分2851分28秒東経133度44分17秒 田土川合3113番地 及び 湯山川合山2番地の川合神社の境内に 摂末社が 3社祀られます。右の社が 住吉三前神社です。祭神は 底筒男尊Soko-Tutuo-no-mikoto 中筒男尊Naka-Tutuo-no-mikoto 上筒男尊Ùwa-Tutuo-no-mikotoです。 墨江之三前大神Sumie-no-mimae-no-ookami/Sumiyosi-no-kami/筒男三神Tutuo-sansin/住吉大神Sumiyosi-no-ookami底筒男尊 中筒男尊 上筒男尊の総称 海の神 航海の神等https://日本の神社.asia/shinto4/shrine24.html」 川合山:湯山1・43番地等  平成24年(2012年)7月17日 

 

吉川 千木の火御崎神社 Hi-no-Misaki-jinjya in Sengi

千木集落の北端吉川屋敷7086番地と 吉川7170番地の中間点辺りに 北に向かう山道が有るので 道なりに 竹藪の中を東に進むと 手水鉢が有り、次いで 摩利支天社が 建ち、更に西に 火の御崎神社が 建ちます。摩利支天社内には 摩利支天王が祀られ、古い社が左手に置かれております。

火の御崎神社の右奥には 石塔のような 石が転んでいます。東から藪に近付くと 低い石垣があるので、石垣に添って 東に移動すると 石垣が 北に曲がる辺りの北側に 火の御崎神社が 見えます。手水鉢で 手を浄め 摩利支天社 火の御崎神社を 参詣するのが作法であったと 言われます。吉川史に「光林山神護寺の末寺の金福寺は 千木に有りましたが、文政年間に全焼しました。1人の信者が火に入り2体の木像仏像を持ち帰りましたが、死亡しました。その者を火の御崎として祀りました」と 伝えられます。    火の御崎神社、摩利支天社:北緯34度50分10秒東経133度44分54秒    仙久山金福寺:北緯34度50分1秒東経133度44分55秒    火の御崎らしい墓:偉い人のお付の女性が 旅の途中死んだために 葬られたとされる墓が 有ります  かつて金福寺の近くに有ったと されますので、この墓かも知れません  吉川屋敷7049番地の南 北緯34度50分7秒東経133度45分4秒    光林山神護寺:北緯34度49分6秒東経133度45分2秒付近 吉川苅尾1188番地    屋敷・屋シキ:吉川6904・7145番地等 水野御女:吉川7016・7061番地等    寺ノ鼻・寺ノハナ:吉川6914・7111番地等    堂ノ元:吉川7057・7125番地等    薬師堂:吉川7120-7122番地     平成26年(2014年)8月9日

 

 吉川 西庄田の座頭神宮 Zatou-jinguu in Nissyouda

 吉備新線(72号線・岡山賀陽線)吉備中央公園に沿って 東賀陽インタ-チェンジ方向に廻り、2つ目の大きな十字路を 左に曲がります。左側 2軒目の家 吉川中倉前3756番地の北の小道を進むと 左手に小さい社の座頭神宮が 有ります。その社の前を通り過ぎた小高い丘  北緯34度49分37秒東経133度45分1秒に 魔利支天社が 祀られます。    西庄田:吉川3686・3702番地等 若宮:吉川3720番地 神ノ木ハナ・ハナ:吉川3697・3715番地等 中倉前:吉川3753-3776番地    塚ノ元:吉川3726・3741番地等 稲納屋:吉川3807・3869番地等    座頭神宮・吉野宮神社:南川地区諸塚村 北緯32度31分16秒東経131度23分55秒に建ちます  紀州 吉野の南朝方の密事を 肥後の菊池氏に届けるため、光を失った僧侶が 宮崎県の諸塚山の峠に 差し掛かりました  大金を所持していた事を知った通り縋りの商人が、その座頭を殺し お金を奪いました  すると村に災難が続いたので「座頭の祟りだ」と信じて、吉野宮を建立し 座頭を祀ると、災難は 亡くなりました  座頭神は 村の守護神の眼の神様となりました 山村での殺人強盗事件は 村人に大きな衝撃を与えたのでしょう吉野宮神社 (vill.morotsuka.miyazaki.jp)」「吉野宮物語 (vill.morotsuka.miyazaki.jp)」「legend.main.jp/50-izumiku-002-kingyokujinja-00-a.htm金玉神社:宮城県仙台市泉区大沢3丁目4番地 北緯38度21分29秒・東経140度52分30秒に 建つ 金玉神社Kingyoku-jinjyaの祭は 葉\金玉明神(座頭様)です。昔の事 南部の金玉と 名乗る座頭(盲人)が、勾当Koutou(検校Kengyou)の位を得る事になったので 京都へ 出向こうと 旅に出ました。ところが 大沢の山中で、大金を持っている事を 聞き付けた ならずが 金玉を捕まえ 殺して 金を奪おうとしました。殺される時、金玉は 「殺されるのは 止むを得ない が 名も知らなうい者に 理不尽に殺されるのでは 死んでも死にきれない。必ずや お前に祟るだろう。名前を教えてくれたなら、見事に成仏しよう。」と 相手の名前を 聞きました。するとならず者は 「どうせ殺すのだから 死人に無しだ」と 思って「わしの名は 鈴木甚八」と答えました。金玉は 甚八に「お前のしようとしている事は 神仏が許さない罪悪である。必ずや 神仏によって 罰せられる。わしは 検校になる身なので 高い法力を持っている。お前の罪が  神仏によって罰せられない お経を お前に授ける  毎日 朝夕 唱えれば  お前は 決して神仏の罰を 受ける事は無い.」と言うと 甚八は 喜んで そのお経を 教えてくれるよう頼みました。金玉は 快く「こがねだまだいたくさんにせつがいす ぬしは れいぼくはなはだしいやつ」という お経を 教えました。何時まで経っても 帰って来ない師匠 金玉を 探しに 弟子達が奔走していると 不思議なお教を唱える 男を見つけ出しました。こがねたまを 糸口にして 師匠の金玉のメッサージと 直感した弟子達は  不思議なお経を「金玉大沢山に 殺害す主は 鈴木甚八」と判読し 当局に申し出ました。鈴木甚八は 捕らえられ処刑されました。金玉神社の地は、金玉が葬られた地とされ、別名「 南部の国の座頭の塚」とも言われます。また 金玉神社では 参拝する時には、金玉の厳しい旅を思って 彼を支えた杖を 奉納するとされますhttps://jinjajin.jp/modules/newdb/detail.php?id=7205」  平成25年(2013年)6月12日

 

吉川 引地の御崎神社 Misaki-jinjya in Hikiti

西庄田公会堂西庄田生活センターの南の吉川橋ノ元3527番地の東側の山道を 北に登り 吉川3527番地を回り込むように西に曲がると 吉川3527番地と 吉川屋敷3522番地の間の北側の茂みの中に 御崎神社が建ちます。社は完全に 破壊されており、西の小丘(鼻)の脇に 石組みの祠が有ります。大正の頃か 昭和の初め頃 旅の者が疲労困憊hirou-konpaiし、空腹に耐えられなくなって 西庄田に辿り着きました。旅人は 家々を尋ねて物乞いをしましたが、髪や髭は伸び放題 衣服は汚物で汚れ 余りの異様さと 不潔さの故に 食べ物を与える者もなく、一夜の宿を貸す者もいませんでした。その者が 行き倒れましたが、屍Sikabaneは 乱暴に裏山に 埋めました。処がその年 周囲の集落は豊作でしたが、西庄田は 何故か水不足し 虫の害で 大変な凶作と なりました。翌年は 洪水が起こり 又もや不作となり 病が流行り 特段の危険も無い寺子屋の脇の小川に 子供が嵌り 死にました。村人は「あの旅人は、ぼっこう粗末に 扱われたので成仏できずに、祟って 飢えの苦しみ 不健康の悲しみ 死の恐怖をわし等に教えようとしている  ならば供養してやらないといけない」と 話し合って、御崎神社を建て 燈明し 御祓いをすると、西庄田に 平和が戻ったそうです。「村人口伝」 近在の村に残る異説には この旅人はいずれかの山奥に住み付き、村々の作物を荒し 窃盗を繰り返したため、困った村人が 西庄田の人と相談し御崎神社を建て 豊富な作物を供えると、栗等の山の幸が 返され 悪行が 収まったとされます。「村人口伝」    西庄田公会堂:北緯34度49分25秒・東経133度45分0秒    引地御崎神社:北緯34度49分24秒東経133度45分0秒    屋敷:吉川3519・3536番地等 橋ノ元:吉川3523・3535番地等    神主:吉川3539・3606番地等 西庄田:3557番地    神主乢:吉川3582番地 山ノ神:吉川3583・3623番地等     平成26年(2014年)8月8日

 

吉川 吉川八幡宮の36社の藤田才ノ谷御前神社 Hujita-Sai-no-tani-Misaki-jinjya of Yosikawa-Hatiman-guu

 北緯34度49分11秒東経133度45分7秒 吉川苅尾3932番地に 吉川八幡宮が 建ちます。吉川八幡36社と総称される摂末社があり、その中に 藤田才ノ谷御前神社があります。 千谷・専谷:吉川2589・2722・2768番地 畑成:吉川2978番地 藤田:吉川2628・2974番地等 才ノ乢:吉川6332・6362番地  平成26年(2014年)9月15日