三納谷 六兵衛5人組頭となる Rokubei became the head of 5ningumi "five-family unit"


 三納谷の六兵衛が 寛政13年( 年)1月23日 五人組 組頭に なりました。郡奉行所から 大庄屋の文太郎に 書面で 許可が 伝えられました。「加茂川町史」    岡山藩 池田光政の家老 博忠は安政元年(1854年)下屋敷普請の賃金を 銀札で払い、翌日に 銀札の切り下げ安政の札潰れを 行い 貨幣価値は 1/10に なりました。一時 旧札と 新札が 流通していました。https://ja.wikipedia.org/wiki/池田博忠

三納谷の5人組の組頭を 皆の入札で決めて、庄屋を通し 郡奉行に申し出、寛政13年(1801年)1月23日に 藩に申請書が 受理されました。28日に 岡山城下の郡奉行所に大 庄屋と六兵衛が呼び出され、奉行所の者全員が見ている中で 挨拶し、五人組帳を 長々と聞かされた後、血判を押し 正式に任命され 29日に戻る事になりました。村の者は 皆で悦Etu(お祝い)を しようとしようと 下土井の荒神下の者は 68軒に 回文にしました。村八分になっていた 1軒を除き 全員が 参加を希望しました(30軒分の祝いの記録が残り、37軒分の記録は紛失)。村人は 新札(デノミネーション後の札)で 祝儀をしたいのですが 村には 使い古した札しかなかったので 前組長の利三郎に 尋ねると「使い古された札でも 問題はない  わしは雉Kijiを1羽と徳Toku(徳利・とっくり)を 一つ持って行く」と 答えました。この話を伝え聞いた者達は「下加茂の者も 悦に乗り(加り)たい者が 何ぼうか居る」「小森の者も 悦をしたい者がおる」「上田の中にも 六兵衛さんと 親しい者がおる」と 悦をしたい者達が 現れました。その中の文次郎は「わしは豊岡村の文太郎の代理の者じゃが、文太郎の言う事には お樽料Otaru-ryouとして 古札12匁Monme出すそうじゃ。ha

aせにゃぁならせにゃぁならんが、文太郎らっし(らしく)もないが そちらに 行けるのは 2月19日の晩方でなけりゃおえん(だめです)。立替ておいてぇな」と 百姓代 文次郎に 頼みました。利三郎が 組頭の給米に 興味を持つと、文次郎は「年に3から4斗じゃが、貰えん時もあるそうじゃぞ。持ち高20万迄の者は高掛物(村の諸雑費に充てる持ち高に応じて出す年貢)が免除されるんじゃぁ」と 教えました。利三郎が 六兵衛を羨むurayamuと、文次郎は「馬鹿こくもんじゃあ無ぇ 責任ばぁ大きくて 辛ぇ仕事じゃぁ  政治に 物を言われんのに、役人や 名主や 文太郎に 扱き使われる  仲間が悪さぁしたら、罰せにゃぁならん  村八分にしたり 時にゃぁ 殺したりせにゃぁならんのじゃぞ  長尾の娘や 池の原の話を読んでみぃ  わしなら良う知っとる者を 村八分にしたり 殺したりする指示ばぁできん  わしなら 成りとうないわい」と 反論しました。利三郎は「悦と言っても、慰め(会みたいなものじゃ」と 思ったそうです 。「加茂川町史」

5人組:豊臣時代には 五人組主に下級武士)とか 十人組(主に農民 町民)とか 言う組織がありました。5軒から10軒の家を 1組とする 隣保的自治組織です。豊臣秀吉が 慶長2年(1597年)に 5保制を 参考にして 京都で 作りました。政治をし易くするために 農民同士が 互いに見張り合い、問題が起こると 共同責任を 取らされました。組内のキリスト教徒を 密告させる事が 大きな目標で有ったので、組外の者が 組内の者を 密告した場合は、組の職務怠慢として 組中の者が 罰金刑を受けました。江戸時代には 農民等も五人組に 編集されました。農家の組み合わせ方は 色々で、隣同士の組 生産高の多い家と少ない家の組み合わせ 等 5~10軒で 組みました。怠け者が出ると組替しました。 組の代表者を五人組頭と言い名主 庄屋の下部に置かれましたが、村内の政治に直接参加できませんでした。五人組は連帯責任 相互監察Kansatu 相互扶助Douo-hujyoの単位であり、領主はこの組織を利用して 治安維持や 村や町の中の争議の解決 納税の確保 法令の伝達周知の徹底を 目論んだのですが、家が 潰れtubureたり、当て嵌めようのない禁令だったり、飢饉時 等では組 全員 あるいは村全体の者が納税不能になったり、五人組 等の単位で 解決できない問題も多く、また2国に 跨り 領主が 異なる組もあり、理想通りに 運営されない場合が 多かったのです。反面 五人組を 上手くumaku使い、間接的に 名主や 庄屋の権威を 高め 彼らが 富と権力を 独占的に握ら(にぎらる事で 住民の生活を制約し、町村の自治を 強化させる事に 成功しました。それ故 組内に 犯罪者が出ると 組で処罰させられ、村八分(五人組 等が行う、葬式と 消火以外の付き合いを しない私的刑罰)や時に私刑Ritiが行われました。奉行所は 申し出がない限り、例え 死人を 発見されていても 捜査しませんでした。江戸末期、日本に来た ある外国人は 日本では 悪事や殺人が あちこちで行われるのに 裁判が起こされない事を不思議に思い、本国に報告しています。また、年貢米納付の責任を 共同でとらされ、納められない者が出た時は、組内の者が 不足分を納めました。 五人組御仕置帳と言う禁令書が 安政2年からあって、五人組が 署名連判し 掟に違反しない旨の誓約をし、1部は 領主や 代官所へ提出し、1部を組内に 保管しました。五人組御仕置帳は 表紙を含めて50丁以上に上ると 言われます。 明治3年(1870年)に 五人組は廃止され、目代Mokudaiに 名を変え、明治5年(1872年)に 五保制の保長Hotyou)と 名を変えました。第二 次世界大戦中の隣組に 応用されましたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/五人組」 「加茂川町史」 村八分:村内の10の付き合い、即ち 成人の祝い 結婚の祝い 出産の祝い 家の建設の祝い 病気見舞いと 扶助 水害 等の相互扶助 消火の時の扶助 葬式の悔やみと扶助 法事の付き合い 旅の安全祈願の内の2つ、つまり「葬式 消火」以外の付き合いを しない事です。いうならば 猿蟹合戦の 猿のように 扱われる事です。    長尾の娘:長尾の娘が 行儀見習いで 岡山城に 登り 殿様の目に留まりました。殿様は許嫁がいると知ると、村に 返しました。与頭(組頭)は 城で娘が不始末を侵したと思い、許嫁に 娘を殺させました。    池の原・投げ打ち:江戸中期に一般庶民が墓を立てる事が許される迄は、死人の殆どは 簡単に葬られるか風葬にされました。そのような地はそ の後には  老人や 病人を 生贄にする場所に 使われる事がありました。死亡率の高い病気の流行時には 組長の責任で 隔離場所に 利用されたとも伝えられます。三納谷の投げ打ちの場所は 不明です。  

平成23年(2011年)12月18日