吉川 西庄田 馬の首 Head of Horse


 昔 昔 西庄田上厩Umawariに 馬引(馬子 馬方)が 住んでいました。伯耆大山Houki-Daisenの牛馬市から 馬を買って来て 吉川八幡宮に 神馬を 奉納する役目を 担っていました。ある時 賢く美しく力強い馬を 手に入れ、大変気に入ったので 奉納せず 大切に育てていました。しかし 馬は年を重ね 年取り 歩けなくなり 寝たきりとなりました。床擦れができ その痛さに苦しむ愛馬を 見るに 耐えられなくなり、泣く泣く首を切り 手厚く葬り小社を 建て 祀りました。村人は 小字 寺屋敷の馬の首の葬られた 一角を「馬の首」と 呼びました。寺屋敷の直ぐ近くに 寺子屋があり、寺子屋の庭は 子供達にとって 格好の遊び場でした。夜遊びが 過ぎる 子供達の躾Situkeに 困っていた寺子屋の師範は、ある夜 竹藪Takeyabuに 馬の首の様な 馬魂が 立ち上る 要に仕組み、次の日 子供達に「夜 馬の首に 近付くと 妖怪が出て 追い駆けてきて 噛み付き 病気をうつす  だから夜遊びは 止めよう」と 諭しsatosiました。

この話を 馬鹿にして 師範の嘘Usoを 暴いてやろうと 思った少年が  夜遅く馬の首に出かけると、意に反し 側に有る竹藪の竹に 馬の首が 巻き付いていて 少年の前に 転がり落ちました。少年が 驚いて 逃げ出すと 馬の首は遊んで欲しいのか 嬉しそうに追い駆けて来ました。少年は 咬まれると 思って慌てると 足が縺れて 転び 溝に嵌り 不幸にも 死んでしまいました。両親は 悲しみ 地蔵を立て供養しました。これからは 夜遊びする子供はいなくなりましたが、時が過ぎ 寺も滅び 馬の供養塔と 少年を悼む地蔵菩薩を 残すだけになると 馬の首の妖怪はでなくなり、昭和の頃には 再び子供達が 夜遊びするようになりました。「吉川 西庄田の村人よ」  伯耆大山:鳥取県大山町 琴浦町 江府町等に跨る山(北緯35度22分16秒東経133度32分24秒)で、博労座Bakurozaと言う牛馬市が有りました  西庄田の高台から見晴らせます。  上厩Uamari・上馬屋 下厩Sitsamari・下馬屋:伊賀氏伊賀家久の子孫)が 吉川八幡宮の祭に 神馬を育てていた事に 由来します。現在は 西庄田に上前(北緯34度49分33秒東経133度45分2秒) 下前(中倉屋敷 北緯34度49分34秒東経133度45分3秒)の屋号として 名を残します 。 

馬の褥瘡Jyukusou馬は体重が大きいので 寝たきりになると 人の力では 寝ている向きを 変えられず 床と 接する部分は 直ぐに 床擦れ(褥瘡)が でき 皮膚組織が 崩れ 化膿し 肉蠅の蛆が湧き 馬は苦しみます  治療したくても 褥瘡面を 表にできないので、苦しみから 救ってやる方法は 安楽死しかありません。競馬馬等の大型動物が 脚 等を骨折すると  殆どの場合殺処分されます 馬の首:馬引きの馬が 東の寺子屋後の藪の中に 埋められたとされます  その薮を 馬の首と 呼ぶそうですが 小字を含め 馬の首の行政地名は ありません  吉川ソ子3578番地の東(寺山 北緯34度49分29秒東経133度45分1秒)と 道を挟んだ 寺子屋跡で、馬の首の祠と  川べりから移された 地蔵があります

寺子屋後: 吉川ソ子3578番地の北(北緯34度49分29秒東経133度45分0秒)と道を挟んだ 東の地域を 寺子屋跡と 呼ばれます。北側は 石垣で 仕切られた3段の平坦地があり、池の跡が 有ります。 馬魂:動物が死んで 腐敗が進み 骨が剥き出しになると、骨に含まれる燐と 空気中の酸素が 結合し 淡い青色に光ります  骨が光っている場合を 狐火と言います  ガスとなって 空中を 浮遊する場合を 魂Tamaと言います  魂は 無風であれば 打ち上げ花火のように ポッポ ポッポと 大小の火の玉として 立ち上ります。土葬されていた時代  墓場から人魂が しばしば 立ち上りました。  珍しい現象でないので 著者は 何度も 狐火や 人魂を観察しました。        平成26年(2014年)8月6日

 

平成31年(2019年)3月31日に【岡山「へその町」の民話 追補版-岡山県吉備中央町の採訪記録 立石憲利 吉備中央町図書館 吉備中央町教育委員会】が発行されました。p57の「古庵坊主」の中で「馬の首」が紹介されています。