亥の子神社(仮称) I-no-ko-jinjya


亥の子inokoは 旧暦10月・亥の月の最初の亥の日行われる年中行事です。玄猪Gentyo 亥の子の祝い  亥の子祭りともいいます。亥の子餅を作って食べ 万病除去 子孫繁栄を祈り、子供達が地区の家の前で 亥の子歌を 歌いながら 地面を搗いて回る 等します。https://ja.wikipedia.org/wiki/亥の子従って行事名ですので 種々の神社等で行われます。神社名に亥の子の名を用いるのは極めて稀です。㊟神社の前に付された地名は他の神社と区別する為に付けられていて、神社の正式名称でない場合があります


 上田西 津江田亥の子神社 I-no-ko-jinjya in Tueda

429号線沿いの品野集会場より東に進み、上田西2340-1-1番地の東の林の中ハートフル浄水場 北緯34度53分3953分39秒東経133度49分4秒に 亥の子神社が建ちます。亥の子神を祀ります。一般的な 亥の子祭は亥の月、すなわち旧暦10月の最初の亥の日に 行う年中行事です。女の子の節供と 言う時も有ります。 

囲炉裏の炉で鍋を焼き、火 鉢に火を盛り、亥の子餅を食べ 万病除去 子孫繁栄を 祈ります。子供達が 亥の子歌を歌いながら 各家の前で 地面を 亥の子石で搗いて回る等します。亥の子歌は 継承されるのではなく 子供達が その都度作詞作曲あるいは 編曲 変曲していたそうで、多くの時間を使うので 勉学に支障があったそうです。この神社の亥の子祭りは 現在では 子供がの人口が少なくなったので 大人だけで 神主の御祓いの後、飲食するだけだそうです。  本宮免:2171・2197番地等 山ノ神:上田西2173・2175番地    かがそ:上田西2195・2324番地等 ガガ背:上田西2177番地    津恵田・ツエダ:上田西2303・2318番地等    行田:上田西2325・2349番地 品野:2327・2333番地等    平成26年(2014年)6月28日

 

高谷 高盛神社 Takamori-jijjya

高盛神社の 旧社格は無社格で、通称 十力亥の子様と 言います。北緯34度51分32秒東経133度46分47秒 高谷東盛1577番地に建ちます。高盛神社の宮司は 和田盞嗚神社の宮司が兼ね、宮司宅の電話番号は0867-35-0380です。高盛神社の鳥居の側に 力石が祀られ、裏に 地神碑が祀られ、林の中に 能勢大明神 が祀られています。高森神社の祭神は 御年神Mitosi-no-kami 大歳神Oo-Tosi-no-kami,Odosi-no-kami 若年神Waka-Tosi-no-kamiです。

村人は「亥の子は 旧暦10月(亥の月)の亥の日に行われる年中行事でしたが、今頃は休日に行います。胡麻や 小豆餡を入れて 猪の子の形を真似た 亥の子餅( 猪餅Gentyo-moti)を、亥の刻に食べて 万病除去 子孫繁栄を 祈りました。かつては 十月の亥の日に餅を食し  病を祓う 中国の仕来りでしたが、平安時代の宮中で真似て行われていて、民間の文化が豊かになると 民間にも広まったと聞いています。子供達が 地区の家の前で 亥の子の歌を歌いながら、亥の子石で 地面を搗いついて回りました。亥の子石は石に 注連縄Simewnawaを結び、搗く子供の数だけ 紐を付けます。搗いた穴に 御幣を祀ります。亥の子歌は  願い事を3回唱えた後、亥の子ー 亥の子ーと 唱えます。恵比須さんおいでんせぇ 恵比須さんおいでんせぇ 恵比須さんおいでんせぇ 亥の子― 亥の子ー 等と歌います。この地域では 丁度 稲の刈入れが終わり 収穫の時期ですので 収穫祭の意味を 持ったのでしょう。地面を搗くのは、田の神を 天に  或いは 山に返すための 願いを伝えるためです。猪は 多産ですので 豊穣を願うための象徴となったのです。またこの日に 炬燵kotatu等の冬の暖房の準備をすると、火災等の難を逃れるとされます。

しかし、近年では 少子化が進み 地面を搗く子供がいず、氏子も 高齢となったので、ごく普通の どこででも見られるお祓いと 五穀豊穣を感謝するお祭りになった。」と言います。仲哀天皇9年12月に 神功皇后は  三韓征伐しました。帰途に 胎内天皇Hara-no-utini-masimasu-sumera-mikoto(大鞆和気命Ootomo-wake-no-mikoto)を生みますが、海路で大和に凱旋する途中に 皇太子の異母兄である香り坂王子Kagosaka-no-miko 忍熊王子Osikuma-no-mikoの兄弟は、胎内天皇 皇太子に即位する事を嫉み、相謀 殺害しようと 大軍で押し寄せました。上陸するのを待つ間、2皇子は 戦の勝敗を占うため 能勢大阪府)の山に入り、祈狩Ukei-gariしました。「良獣が捕れれば戦勝」の筈でしたが、大猪が現われ 香阪皇子を襲い 大樹の上に逃げた香阪皇子を 猪は大樹の根ごと倒し、香阪皇子を 殺しました。忍熊皇子は 恐れて、住吉に軍勢を退きますが、神功皇后は  武内宿禰Takenouti-no-sukuneに 忍熊王を討伐させたので、皇后と皇太子は 無事に 大和の都に 凱旋できました。その後 神功皇后が 崩御し、皇太子は応神天皇として 天皇に即位しました。応神天皇は 皇太子の頃に 猪に危難を救われた事を 吉例として 能勢の木代村 切畑村 大円村より、毎年10月の亥の日に供く 御ごを行うように 命じました。亥の子餅の献上の起源であると 言い伝えられています。https://ja.wikipedia.org/wiki/亥の子餅   平成26年(2014年)6月28日

 

上竹 陰地御王神社の御歳皇神社 Mitosi-no-sumekami-sya of Onji-Goou-jinjya

上竹丸山前4716番地 北緯34度50分22秒東経133度40分26秒に御王神社が建ちます。御王神社は かつては朝 昼 晩に鉦 太鼓を叩き、神事が行われたそうですが、現在は 守る人もいないに同然だと言います。拝殿前には 未坤金神Hituji-saru-Usi-tora-no-Konjin 御歳皇神Mitos-sume-gami 大国主命 言代主命 5柱大神 御王大神素盞嗚命 天兒屋根命 天鈿女命 高丘親王Takaoka-sinnou) 天神(土+心)祇諸神 産土産土大神Ubusuna-no-ookamiのお札 矢倉神社の木札が 納められた箱が 備え付けてあります。荒神ノマヘ:上竹4609(北緯34度50分27秒東経133度40分23秒)・4670番地    上竹丸山前4716番地・護王神社:北緯34度50分22秒東経133度40分30秒    荒神ノハナ:4672番地丸山前:4716-4718番地    上竹ヨコヒ4290番地:北緯34度50分24秒東経133度40分19秒     加門:上竹5284番地 陰地荒神社:北緯34度50分21秒133度40分26秒     平成26年(2014年)4月23日

 

吉川 河内田の亥の子様 I-no-ko-sama in Kawatida

岡山賀陽線(72号線)吉備高原大橋の北 72号線の東側に細長い駐車場があり、その北端辺りの西側に 鋭角に山道が 南に向う分岐が有ります。比較的広い山道を登ると 直ぐに西(左)に廻り、吉川河内田Kawatida輝砂453-1番地に着きます。その南側を少し進むと 吉川北砂Kitazako450番地の取り合い道の次に 3叉路が並ぶので、そこを北に向うと 比較的広い道が途切れる辺りに2本の細い山道が有ります。南東に向かうと 塚状の構造に石が並べられ、その脇に祭に用いられる仮小屋様の方形に組まれた柵が有り、河内田集落の北の端 北緯34度49分6秒東経133度45分33秒の天王山の亥の子様の社に辿り着きます。

境内にも 先程述べた物と同じような仮小屋様の施設が作られています。堂内には 神輿が 納められ、山の神神社 疫淸神社 荒神社が2社 観音菩薩らしき仏像が祀られています。道を挟んだ北側に(株)林原生物化学研究所吉備製薬工場が建ちます。    天王山:吉川433・444・446番地 北砂:吉川448・450・451番地    輝砂:吉川452・453番地 川内田:吉川385番地    河内田:吉川434・739番地   平成26年(2014年)9月13日