宮地 中之谷    難波佐吉 Nanba-SAkiti


 浅尾騒動の時、野山口の防衛に 山田方谷Yamada-Houkokuが 本陣を 妙本寺に置き、六方坊等に 4線を 引いて 構えました。最前線の六方坊は、猪垣I-no-gakiを 盾に 武者と 農兵が 恐ろしさに震えていましたが、中之谷の難波佐吉だけは「敵が来たら 追い払ってやる」と 言い放ちました。見張りが 敵襲を報告すると、武士達は 恐ろしさに 身を震わせ 手足は固まってしまいましたが、難波佐吉は「わしに続け」と 敵方向に 突進すると、農兵は 佐吉に従いました。しかし、何時まで経っても 農兵は 陣に戻りませんでした。「吉備中央町の民話(1)」

 

浅尾騒動 Asao-Riot

松山藩農兵東組 Matsuyama Domein Agricultural Soldier East group

嘉永5年(1852年)備中松山藩は 8組の農兵隊を 組織しました。東組の守備範囲は 賀陽町の竹之荘筋、高梁市津川町の一部と 同市川面町の一部でした。慶応3年(1867年)3月中旬に 加賀郡吉備中央町上竹の上竹平原の一部で 俵原地域で 200人~300人の東組の演習を 大庄屋 大月順次を 指揮官(郷兵教導)として 行われました。山田方谷は この演習を 視察して 感想を

「 鉄砲の訓練は 軽快で且つ順調  洋鼓は 激しく高い  何度も 鍛えて 己を熟し 前進さす  一戦たたかえば 皆殺しにできる   あの農兵は 豪傑だ   豪傑は 昔から今に至るまで 尽きることはない   腰の日本刀は 威厳があり 荘厳さが 広場に溢れている  本日の連隊は 皆同胞で 萬を超す鉄砲の音は 雷鳴のごとく哉   偉大な勲功は 全てあなかがた仲間に在る 洋式演習の隊列を 観て 昨旧に 書き留めて置いた書を 郷兵教導に 與える 大月先生 慶応3年3月中旬   方谷老夫  印 」と 郷兵教導の大月順治郎に 書(訳  大月洋志)を 送りました。 大月家に 東組弾薬箱2個 備中松山藩軍旗入れ箱 鎖帷子 槍 大砲の弾が 保管されています。上竹荘村史によると、俵原地域は東組の常設訓練場であり、農兵隊が 解散した後 射撃場となったことがわかります。https://ameblo.jp/wsx-753/entry-12486859154.html」 1200名の農兵隊全員による 訓練は年1回、桔梗河原で 行われ、見学した長州藩の久坂玄瑞は「我藩の銃陣は これに及ばない」と 驚いたと されます。方谷書の隊列図が「山田方谷全集」に 載っているそうです。https://www.city.takahashi.lg.jp/soshiki/2/yamadahokokustory10.html」 野山は 松山城の隣地ですので、松山城防衛に 備え、安政4年(1857年) 20名程の在宅武士を 移住させました。宅地 住居等全経費を 藩が賄い、給与額も 保証しました。学問所が 作られ、城下と 同等の学問 武術鍛錬ができ、希望者には 周囲の農地が与えれました。当初、左遷に 反感を持った武士も 住めば、城下生活より しやすく、希望者も 加わり30名以上と なりました。https://www.city.takahashi.lg.jp/soshiki/2/yamadahokokustory10.html」 大月順治郎:当時35歳、戒名=寶玉院義孝順治大居士)誕生  天保3年(1832年)  死亡  明治37年(1905年) 亨年73歳 方谷は、弘化4年(1847年)に 三島中洲とともに、津山藩を 訪ね、西洋砲術と 銃陣を 学びました。嘉永5年(1852年)の郡奉行に 就任すると 農兵制度を 創設しました「里正隊」や「農兵隊八大隊」を 組織し、大砲 等の洋式兵術を 導入し、農閑期に 洋式銃陣の習練を 実施しました。「里正隊」は 長州藩の「奇兵隊」のモデルと なったとも 言われています。 https://www.city.takahashi.lg.jp/site/takahashi-historical-museum/yamadahokoku.html 松山藩の農兵訓練は 有能な 指導者がいず 充実していなかったと 言われます。その中で 東組は それなりの戦力を 身に付けていたようです。 里正隊:庄屋と その子弟や 若い神官を 選んで 構成した部隊で 帯刀を認め、銃剣を 与えて訓練しました 農兵隊八大隊:猟師や若者を 集めて、農閑期に 訓練しました   「吉備中央町の山城 そのほかの城 西 野山学問所」  令和3年(2021年)11月9日

 

江戸幕末 意見の対立から 奇兵隊Kihei-taiの参謀であった 楢崎剛十郎NArasaki-Goujyuurouを 殺した 長州第二奇兵隊脱走浪士の 立石孫一郎Tateisi-Magitirou 等100人程が、幕府方 倉敷代官所(現在の倉紡跡 アイビースクエア 美術館付近)の代官 桜井久之を 暗殺する目的で 襲撃した事件です。代官所の上役は 逃走、下級武士が 対戦し、米屋きよ(田中東蔵配下)等と 共に 戦死しまし。代官は この日 長州征伐の前線である広島に 兵糧を運び、その目録を 届けるため 幕府要人と 会合していました。田中東蔵が 倉敷代官所次席を 務めており、主に 兵糧調達 牛馬調達を していました。この日は 代官の帰りを待って、秣Magusaを 広島に 運ぶため 庄屋の牧柳左右衛門と 淀屋(本町5丁目の備前焼屋の「かまや」)と 言う御宿定屋で 打ち合わせをしていた。目的を 果たせなかった浪士達は、すぐ 北側の観龍寺に 押し入って 村役人に 槍で 山門を突いて 脅、軍資金と 兵糧を 出させた後に 一夜の宿とす る宝福寺に 向かい、翌日 浅尾藩屋敷を 襲撃しました。しかし、その後 幕府軍に 追われ長州へ  逃げ帰りますが、脱営の罪で 殺されました。この事件を きっかけに 第2次長州征伐が 始まり、明治維新に 世は 突っ走る事に なりました。田中東蔵は 死体検分し、記録を 残しています。なお、過去に 立石孫一郎は 下津井屋と 口論し 倉敷を 出奔しているので、田中東蔵と 顔見知りの)筈です。岡山県史 第二十六巻 諸藩文書 岡山県 1983年」「慶応二年倉敷騒擾一件書類 田中家諸留」「備中国倉敷陣屋異変之始末見分吟味御届書」「岡山県史 第二十六巻 丙寅初夏倉子城日記」

 

浅尾騒動と農兵 The Asao riot and the Agricultural Soldiers

浅尾騒動の時、野山口の防衛に 備中松山藩 財政責任者の山田方谷が、賀陽に 出張してきました。本陣を 吉備中央町北村の妙本寺 に置き、祖谷Suwataniの先の槇谷Makitani)との村境の玉買坂口の六万坊 祖谷の入り口の東村 祖谷大道乢Oudou-no-tawa 祖谷井頭乢Igarasi-tawaの4線を 引いて 構えました。最前線の六万坊では 猪の田畑侵入防止用の垣根(猪垣)を 前にして 武者も農兵も 恐ろしさに震えていました。なにしろ 敵の大将 立石孫一郎は 元倉敷藩の剣術の達人で 下津井屋や藩の大物とやり合う兵Tuwamonoです。丙寅初夏倉子城日記

おまけに 長州浪士は つい先程、倉敷代官所の兵を 皆殺しにしたと、聞かされていたからです。皆が 恐れる中、鉄砲の名手の雇い農兵の大将の中之谷の難波佐吉だけは 大岩に ドッカと 腰をかけ、悠々と 煙草Tabakoをふかしながら「敵が来たら追い払ってやるから 安心しろ  わしの鉄砲の技は 殿様に ご披露済みじゃ  地の利があるけぇ 勝算がある」と 言い放ち、屁っ放り腰の侍達を 鼓舞しました。そうは 言われても 恐ろしいものは 恐ろしいのです。武士達は 難波佐吉の豪胆ぶりに 感心し「百姓の癖に何と頼もしい  斥候に行った者も きょうとうないのか」と 讃え合いました。暫くして、見張りに 出ていた農兵が 息せき切って 駆け)戻り「来た  敵が来た  堂々の進軍じ   もうすぐここに着く」と 報告すると 佐吉「遂に来たかぁ  武者震いするなぁ  おい皆 俺に付いて来い  臆するな  臆すれば 隙ができる 負けると思うちゃぁいけん  勝とうとしても いけん  負けまいと 思うんじゃ  無理をするな  深追いも おえん」と 戦いの心得を 言い聞かせました。武士達は 猪垣に 身を伏せ 鉄砲を構え、前にも まして恐ろしさに 身を 震わせました。床几Syoukiに 座っていた指揮官(は 恐ろしくて、床几から転び落ちる 有様です。それを 尻目に 難波佐吉は 躊躇tyuutyoする事なく、小躍りして 猪垣を跨ぎ 猛然と 敵方向に 突進しました。それを見て 遅れてなるかと 農兵達が 次々に 猪垣を 軽やかに 飛び越え 従ったのです。指揮官が「猪突猛進は 危険すぎる  引き返せ」と 制止しましたが、農兵達は 聞く耳を持たず 鉄砲弓矢竹槍を 掲げ ズンズンと 進軍しました。武士達は 農民達の余りの度胸の良さに 舌を巻きました。武士は 指揮官の指揮に 従わないと 脱営の罪を科せられ 死罪になるかも知れないので、指揮官が 尻込み進軍の命令を 出せないでいる事を良い事に 援護の動きを 取りませんでした。陣からは 見えない少し向うの所で 雄叫びが 上がり 銃声が 轟き 刀のぶつかり合う音や 甲冑の擦れ合う音 等、激しく戦う様が 伝わって来た後、暫くして 静寂が戻りました。武士達は 農民が大勝したか 皆殺しにされたのであろうと想像し、成り行きの報告を 声を 潜め 今か今かと 首を長くして待っていました。しかし 何時まで経っても 農兵は 陣に戻る者はいませんでしたし、長州浪士も すぐ近くにいる筈なのに具足の音も しなかったのです。武士達は「百姓共は 敵前逃亡したんじゃろう  頭数を 揃える所までは 大したものじゃと 思うとったが 百姓は 百姓じゃ  いざ戦いになれば なんと 頼りにならんもんかのう  ぶに(わけまえ)だけ 取って逃げられたぁ  屁の突っ張りの頼りにもならん  確かに逃げるの であれば、勝つ筈もないし 負ける訳もねぇ  名言じゃ」と 言って苦虫を 咬みしました。「吉備中央町の民話(1)」と「倉敷朝の屋敷騒動」を煮基にしたに舌物語

 

立石孫十郎:兵庫県佐用郡佐用町中上月 北緯34度58分43秒東経134度19’分32秒が大谷恵吉の生家です  大谷恵吉は17才の時 庄屋見習い となり、役人と 衝突し、 立石正介を 頼り、津山に 転居します   倉敷の商人大橋家の長女 慶の婿となり、大橋敬之助と 名乗りました 下津井屋を 殺し大坂に 逃げました  新選組に 追われ長州に 逃れて、立石孫一郎と名乗りました    立石孫一郎宅大橋家 :北緯34度35分49秒・東経133度46分7秒    倉敷代官所跡アイビースクエアー:北緯34度35分41秒東経133度46分24秒    寶寿山観龍寺:北緯34度35分53秒東経133度46分18秒. 井山宝福寺:北緯34度41分29秒東経133度44分2秒 浅尾屋敷・浅尾前公園:北緯34度40分42秒東経133度44分23秒 下津井屋:北緯34度35分38秒東経133度46分16秒 淀屋・窯屋:北緯34度35分42秒東経133度46分20秒 具足山妙本寺:北緯34度48分33秒東経133度42分15秒 玉買坂口の六方坊野山口温泉:北緯34度48分58秒東経133度42分22秒 六万坊:岨谷2286・2371番地等 祖谷口の東村:北緯34度47分31秒東経133度42分33秒 谷大道:北緯34度47分22秒東経133度42分35秒 祖谷井頭:北緯34度47分52秒東経133度42分26秒 中之谷:北緯34度47分42秒東経133度41分50秒付近 山田方谷:幕末期に 財政破綻寸前の備中松山藩5万石を 救いました。たっ た8年間で 10万両(現在の価値で約300億円)の借金を 完済し、10万両の余剰金を 作りました  農兵制を 取り入れ 若手藩士と 志願農兵による イギリス式軍隊を 整えました「https://ja.wikipedia.org/wiki/山田方谷」 平成23年(2011年)7月20日