行倒れ Dead by the roadside 安井堂 Yasuidou hall    ひな Ms.Hina etc


嘉永3年(1850年)4月22日「ご注進書」が「上津高郡下加茂の安井に 旅僧の恰好をした 行倒れが 有った」と して下加茂名主台蔵と 朝太郎が 認めSitatame、上加茂の大庄屋の泰冶が 奥書き(文書の保証  承認)して 郡奉行 斎木三之丞に 宛て 提出されました。安井谷辻堂に小祠を 建て祀られています。「加茂川町史」

津高郡下加茂の安井谷辻堂に、旅僧の恰好を した 行倒れ有りました。尤mottomoも まだ 死に絶えておりませんでしたが、声を 掛けても 返事は 有りませんでした。大変な 腹痛で、腹を抱え身悶えmiomodaeて おりました。薬を 与え、食事を 勧めましたが、聢々sikajika(長い話になるので省略)食べる事が なく、次第に 衰え 昨日9ツ半(午後8時)ruiniに 亡くなりました。所持品を 調べましたので、別紙を 用いまして ご報告します。何処Dokoの国の者か解らないので死体に 番人を付けて 置き、ご注進(急いで申し上げる)いたします。 「加茂川町史」   戒名Kaimyou書一枚 小倉古紙入れ一つ その中に 数珠一連 袈裟Kataho-kesa一つ 煙草入れ 一つ、箸入れ一つ 蓑一つ 着用の品 古破れ衣料袷Awase木綿衣 へとり帯一つ 但し きわめて古く 切れ切れ 古股引右の通り 改めました。相違ありません。戌4月。「加茂川町史」    一先に ご注進した 津高郡下加茂の安井谷辻堂で 果てました 旅僧の死骸を 片付けるよう 仰せられましたので、24日村方の墓地脇に 仮埋葬し 札を建てて 置きました。ご注進いたします。「加茂川町史」   嘉永4年(1851年)4月、讃岐国(讃州)高松領鵜足郡造田村Uta-gun-Zota-muraの百姓の金兵衛が 円城の村の役人に「仕上げるsiageru(後始末)書物の事」を 提出し、家族の行倒れを 報告しました。「加茂川町史」  私共、妻子 5人が 一緒に去る酉2月、国元を出て 四国を 順拝するほか、所々の神社仏閣を 拝み詣でて おりましたが、私ども 夫婦が 4月16日 当地円城を 詣で 一宿いたしました所、その日の夕方から 夫婦とも 発熱し、病を 患いました。食事や お薬を 与えて頂きましたが 妻の「ひな」は 特別に重く、21日 あい果てました。早速 御上様にも ご注進申し上げ、ご当地の作法で 埋葬して頂き 有り難く思います。以上。「加茂川町史」    ひなの死因は 病気でしたので、国元の者も 私も なにも異犠を 申し出る事は 有りません。私は 回復に向かいましたので、当地円成を 離れ、諸国を 参詣Sankeiして 国元に 帰ります。大変 御厄介を おかけいたし、有り難く 感謝いたします。今後につきましても ご迷惑 をおかけしません。後日問題にならないよう、往来手形の写しを 添えて、お手紙を 差し上げました。以上。「加茂川町史」

大年の行き倒れ Dead by the roadside at new years eve

昔下加茂の明神山は、モリブデンや 水晶や 雲母が 採れました。山師が 鉱脈を 探しに 押しかけて来ました。明神山は 険しいので 屈強な男でさえも 良く遭難しました。とても 貧乏な夫婦が 来年の豊作を願い 大歳を迎えようとした時、家の戸を トントンと叩いて 行倒れ寸前の女が 訪ねて来て 食べ物を 求めました。夫婦は 訳を尋ね その女が 山師である事に 驚きました。元気の残る男の山師であれば「滅多な事で 当たりもしない 宝探 し等トットと 止めて まめに働きねぇ やれん」と 叱咤Sittaしてきたのですが、女子Onagoで あれば 看過する訳には 行かず、行倒れ寸前の女に 僅かしかない食べ物を 全部与えようとしました。しかし、女は もう食べる力さえ 残っていなくて、間もなく 亡くなってしまいました。夫婦は 夜を徹して 丁寧に葬り、供養塔を 立ててやりました。お正月の朝 夫婦は 女が食べられず残した食べ物を しまっていたお櫃Ohituを 開けて見ると、種籾Tanemomiが 詰まっていました。夫婦は「大宜都比売神Oogetu-hime-no-kamiが 僅かのご飯を 種籾に 変えてくれたのだ」と 感謝し、これを大切にして 植えて増やすと、毎年豊作に 恵まれました。「下加茂久西の村のより人口伝」

安井谷辻堂:下加茂 北緯34度51分41秒東経133度48分46秒 行倒れ供養碑:下加茂 北緯34度51分25秒東経133度49分23秒 下加茂明神山南面の墓場の大年の行倒れ供養塔:北緯34度51分16秒東経133度49分17秒 

川東の供養塔:北緯34度51分57秒・東経133度43分59秒に、供養塔が建っています。 近くに金精様が 祀られています。 

加茂川88ヶ所巡礼霊場を巡礼していた人の43番刈山札所の行倒れ地蔵:尾原苅山 北緯34度55分13秒・東経133度44分59秒に 行倒れの供養塔が あります。

小森湯所243番地の東・行倒れの供養碑:湯所は 円城寺等から 北旭川の小森の川戸に 向かう途中の交通の要所です北緯34度55分1秒・東経133度48分9秒に 行倒れの供養塔が 立ちます。

大山参りの犠牲者の供養の碑:荻坂の途中、加茂総社の坂上 北緯34度51分53秒・東経133度45分33秒 南無阿弥陀仏と読めます

与之介の供養碑:竹部加茂市場線・津賀西小学校の手前の大きく曲がった直ぐ後、北緯34度51分23秒・東経133度46分30秒近に  世之介と 記された供養塔が あります。

305号線が的場起点・宇甘川の的場川の川岸供養委:北緯34度51分46秒・東経133度42分0秒に供養塔が立っています。他に多くの供養塔が ありますが 省略します。


平成24年(2012年)11月17日

 行倒れが 有るとその地域の者が 病気の治療 体力回復のための 衣食住をする 等の世話をする慣わしが あったようです。それを 嫌い そっと 隣の集落区域に 移したらしい。

 

平成29年(2017年)3月31日に【岡山「へその町」の民話-岡山県吉備中央町の採訪記録 立石憲利 吉備中央町図書館 吉備人出版】が発行されまし。P315~p316に「行倒れ」の民話が、p297に「死者の霊の宿る乢」の民話が 載せてあります。