北 野山    奥津善三 Okutu-zenzou


 奥津善三は 剣道修行中の試合で 相手を 討ち殺してしまい、郷土の奥津を 追われ 野山に 流れて来ました。武士を捨て 博徒\の仲間に入り、放浪の様な生活をしていました。武道に 優れていたので、博徒の仲間からは 重く扱われました。その頃  野山の農作物は 足守に 出荷されていましたが、ある時 大井の町の塩谷と 言う店先で 善三が 腰を下ろして 酒を飲んでいた時、秋柿を売りに 出かけた百姓が 大井と足守の境の橋の上で  土地の無頼の徒に 物言いを 付けられ、酷い目に 合わされていました。野山の百姓の連れの者が 塩谷に 駆け付け 善三に 助けを 求めました。善三は「野山の者が 難義しているとは 看過できぬ」と 小男ながら、両手を 袖の中に入れて、握り金玉の体Teiで 橋の上迄行くと「野郎共  野山の奥津善三を 知らないか」と 大声で 話しかけると、善三の名を 聞いただけで 相当数の地元の無頼者共は 蜘蛛の子を 散らす様に 逃げました。又 ある時 竹坂と 言う所で、博打をしていて 不正を咎めるとイザコザとなり、10人程の博徒が 善三を囲み「やっちまえ」と 言って掛って来ました。家の中なので 座ったままの姿で 見る間に7~8人を 前後左右に 投げ飛ばし 膝も崩しませんでした。明治20年頃 無籍一掃の法律が できました。戸籍係を していた野山栄一は 安藤氏の父 愛三郎から「善三は 近日 山根で 一人暮らしをしていて、ある女に 婿入りする事になった  一時 野山の戸籍に 入れてやって欲しい」と 頼まれました。しかし 日頃の乱暴が 相手方に知られ 善三は 縁談も 壊れたので 失踪しました。ある時 愛三郎に 呉市の行路者病院から 入院費の請求が 来たので 病院に支払いましたが、更なる 入院費がかさむ事を 恐れ 嫌々ながらも 善三を引きとる事にし 家に帰る事を承諾させました。羽織袴で 現れた善三郎は 病院関係者にも 厚く持成され、海兵隊の将校達が 正装して見送りに やって来ました。実は善三は 海兵隊の剣術師範をしていて 軽い怪我をした折り入院すると、治っても 退院せず 病院を 宿代わりに 使っていたのです。当時 社会経済情勢は 不安定で 種々のトラブルに 巻き込まれていた病院も 海兵隊の指南役の善三が 用心棒代わりなるので 重宝していたのです。そんな事とは 知らない愛三郎が「無法者の上、病気で 衰弱しているお前に 師範など できる筈が無い」と いぶかがると、善三は「嘘と思うなら わしの指を曲げて見ろ  曲げられなかったなら わしを信じろ」と 言うので、差し出した指を 両手で力一杯曲げようとしましたが 曲げられませんでした。「大和村史」

安達善三郎:「明治20年2月10日10月頃願済 無籍の処就籍亡祖父愛三 三男・弘化元年一八四四・二月二十五日生 明治二十二年十一月二十八日失踪 同年十一月二十八日届出」「大正8年1月21日午後4時 北484番地にて死亡 戸主安達藤一届出 同月22日受付」の書類が残っています。「大和村史」    握り金玉:懐に 手を入れ特に用が ある訳でなく、手持ち無沙汰で あるように振る 舞う様子    無籍一掃の法律:明治5年に戸籍法が 制定されました。戸籍(明治5年2月1日~明治19年10月15日)を住所地に置き 戸主 親族を 主体とし、他人で 有っても 養育者を 附籍者として載せ、登録戸籍の表示は 何番屋敷と 表示されました。明治19年に 改正され戸籍(明治19年10月16日から明治31年7月15日)は 家単位となり、戸主 直系 傍系の親族とし、住所は 地番とされました。    山根:船越家は野山家三家老で、その城跡は 船越山(山根山)北緯34度48分7秒東経133度42分25秒に 有りました。そのため 船越家の家臣の住んでいた山の麓 北緯34度48分6秒東経133度42分15秒付近を 山根と呼びます。   大井の町の塩谷・ 大井谷:岨谷1903(北緯34度46分22秒東経133度43分47秒:槙谷ダム・馬越城の東)・1905番地    竹坂:竹荘226・319・320(北緯34度51分17秒東経133度41分37秒:大岳殿講和法の会)-325・330番地等    呉市の行路者Kourosya病院:特定できませんでした。旅人や浮浪者等 金銭に 困窮する者を 担当する救済的福祉病院を 行路者病院と表現し、入院費の取り逸れを 恐れ 受診が 拒まれました。その為か 多くは 精神病病院が 担当したようですが、流言かも知れません。現在では 福祉制度が 整い、大抵の行路者は 年金や 生活保護費を 受けているので、取り逸れが 少ないとして 積極的 に受診に応じる病院も 現れて来ています。        平成26年(2014年)8月23日