加茂市場 加茂大祭 kamo grand festival


岡山市・吉備津神社「七十五膳祭」 吉備中央町賀陽吉川地区の吉川八幡宮当番祭と並び加茂大祭は 岡山県三大祭りの一つです。 開催日は10月20日でしたが 平成元年より 社会生活の変化を考慮して 10月の第3日曜日になりました。雨天でも 決行します。この大祭の歴史は 社伝によると 悪質な伝染病を鎮めるため天喜年間(1053-1058年)に 始まりました。 戦国時代は 途絶えましたが、池田光政が 再興してから 今日迄続いています。加茂川地区の八社の寄宮祭です。各社は 前夜祭として例祭御旅所神行の後、行列を整えて 加茂総社宮に集合し、総社を 交えて 大祭が 行われます。伝統的な厳格な規則が 遵守され、総社へ集まる道中の神社間の挨拶の仕方、総社境内に入る行列の順番、参観者の決まり、鎮座地へ帰る時出立等に細かい規則が 定まっています。それらの規則は 毎年9月29日に9社の宮司及び総代の代表者会議で 現実に見合った 変更が 加えられます。又、当日は 総社社殿で 今年の祭執行の奉告祭も併せて行われます。道中では 神社同士の出合い前に 使者がやりとりし、酒迎えの行事等が 行われます。昔 は はるばる 祭行列を作り 鎮座地から 神輿を担いで 総社迄来ました。祭の歴史、道中については加茂大祭 - 吉備中央町ホームページ (kibichuo.lg.jp)を参考にしてください。


各社で 多少の異なりがありますが 社名旗を先頭に幟  鉾 鉄砲 弓矢 槍 警固 薙刀 傘 鳥毛 大鳥毛 獅子頭 笛 太鼓 手拍子 大傘 真榊 高張 大榊 奉幣 宮司 台傘 神輿の行列が 総社の社頭へ行進します。横笛 太鼓 手拍子で奏で棒使いと獅子が舞います。行列の先頭は 軍隊の行進の要です。町のお歴々と 各社総代に 挨拶し行列は 境内に入り、行列は 定められた位置に移動し、棒使い 太刀振り 獅子舞が随身門前等で舞を奉納し、最後に神輿が入御します。入場は 午前7時から 午後0次0分までに 鴨神社  毛気神松 尾神社 日吉神社 素盞鳴神社 八幡宮 天計神社 三所神社の順で 入場します。

待機場所から 行列が境内に入ると、神輿は走って鳥居前に来、立ち姿で 神輿は練った後 一気に指先で 差し上げられます。そして  態勢を低くし 持ち上げるように 神輿を練りながら 鳥居を 潜り、随身門前等で 神輿は 再び差し上げられます。ここで 加茂総社の宮司と 各社の宮司は ここで挨拶を交わします。その間 棒使い 獅子舞等は 広場でお囃子に合わせ 次々に 其々の演技します。演技が終わると ゆるゆると進み 神輿は 長床に移動し、長床に納められます。1社が 神輿を 納め終わると 次の社の行列が 同様の入場儀式を行います。

全ての行列が 長床に納められるまで、儀式を妨げる者や 本殿前は 殿聖域やと 行列の進路を汚す者は、物々しく威厳を示しながら 青竹を持った警固の者が排除します。本殿や 拝殿の警護は 氏子で構成する本宮警固が司り、鳥居前は 芸能保存会員で構成する 八社警固が警護します。加茂総社境内には 貴船神社があり,その近くに 盤座があり、普段から 注連縄を張ってある 特別な聖域が ありますが、ここには 警備員は 配置されません。また、ここに立ち入る 不埒物を 子供の頃から 一回も見たことがありません。

 本殿左の長床には 神社Kamo-jinjya 化気神社Kegi-jinjya 松尾神社Matuo-jinjya 日吉神社Hiyosi-jinjyaの神輿が納められます。この4社を上社と総称します。本殿右に神輿が納められる三所神社Sansyo-jinjya 天計神社Amahakari-jinjya 八幡Hatiman-jguu i 素盞嗚神社Susa-no-o-jinjyaを 総称して下社と呼びます。神輿に寄り添うように、各社の神主が控えます。話しかければ、気さくに応じてくれます。天計神社や化気神社の社名の由来。化気神社の神輿の榊葺きの屋根 祭の歴史や 各社の祭神や 例祭御利益等を訪ねてはいかがでしょうか。

 かつては  神主は神馬にまたがり 入御しましたが馬を飼う人がいなくなり、現在は  徒歩で入御します。長床に 全社の神輿がそろうと 信者達は 次々とお賽銭を差し上げ、お祓いを受け、護符を頂きます。拝殿にも 信者が集まります。総社宮の宮司は 祭当初から 拝殿に控え 神事を行います。この時には神饌の整理をしている様子でした。八社の宮司を 持て成す用意なのでしょうか。神社を参詣する時は 服装を正しましょう。神社の境内に入る前に 鳥居の前で一礼し(境内を出る時は社殿に向い一礼) 参道の中央を避け(参道を横切る時も一礼)入手水舎に進み 心身を清めます(手水をとる)。右手で 柄杓を取り 水を汲み 左手を清め(水を掛ける)、柄杓を 左手に持ち替え 右手を清め、再び右手に 柄杓を持ち替え 左手で水を受け 口を清め、再度 左手を清め、最後に 柄杓を 立て 柄杓の柄を清め、柄杓を基の位置に戻します。

手水を取り終わると、社殿に進み、賽銭箱の前で会釈し、感謝の気持ちでお賽銭を投じ、鈴を鳴らして 神前にいる事を神様に知らせます。 そして深くお辞儀を 2回礼をし2回し 両手を胸の高さで合わしお祈りをし、最後に一礼します(二礼二拍手一礼)。神様に 願い事をしても 叶えてくれません。国土安全(惣社) 五穀豊穣(惣社 化気神社 鴨神社) 家内安全(惣社 素盞嗚神社 三所神社) 良縁離縁(三所神社)武運長久(八幡宮) 勝負競争(八幡宮)夫婦和合素盞嗚神社 悪霊退散(素盞嗚神社) 病気平癒(素盞嗚神社)道中安全(鴨神社) 地鎮上棟安全(天計神社) 災難除け(鴨神社 日吉神社) 良縁(日吉神社 素盞嗚神社) 方位除け(日吉神社)等について、感謝を 報告します。

休み時間になると、河原 田の中 境内の桟敷に 参観者は 散らばり、祭弁当 を広げます。著者が 少年の頃の弁当の 主流は 「サバの押し鮨」でした。鮨は腐敗しにくく、食中毒を防げるからです。昼食が終わると、「お遊びO-asobi」と 呼ばれる演技が 奉納されます。名前とは裏腹に 祭の楽しみの クライマックスとなります。昭和の中期迄は 馬「馬飛ばしUma-tobasi」「流鏑馬Yabusame」と言う 馬武術が 奉納されました。境内を 曲乗りして駆け回る様は 勇壮でしたが 現在は 馬が飼われなくなったので、行いたくても行えず、技術も絶えています。

お遊びの時間になると「太刀振Tati-huri」「 獅子舞い」「 継ぎ獅子Tugi-zisi」「棒使いBou-tukai」が 舞われます。太刀振りは 薙刀Naginataを 操る演技です。太刀回しの速さが 絶頂に達すると どよめきと拍手が 起こります。薙刀は 戦国時代前後の時代の 最有力な 武器でした。継ぎ獅子は 獅子の「身体」役の肩に「 獅子頭持Sisigasira-moti」が 立ち 各社の獅子が 競り上げ 獅子頭の高さを競います。氏子衆は自社の獅子の高さに 声援を送ります。高い塀や 崖を乗り越える技を 連想させます。獅子舞は「虎の舞」で 各社工夫した演技 を繰り広げられます。子供獅子も 舞われます。棒使いは 天狗の面を付けた舞子が 特殊な衣装を着て 鬣を振り乱しながら 演技を奉納します。刀等の武器の無い時の 切迫的戦法を 模倣したのでしょう。


待ちに待ったご神幸は 神主と社旗に 導かれ 八社の神輿が 長床から揃って 広場にでる事で始まります。上四社は下四社の待つ広場に 移ります。鳥居付近の築地に 集まると 担ぎ手や お囃子達で ひしめきます。号砲を合図に 八社の神輿は 目印として埋められた石の位置に従い 横一列に並び、一斉に「ウォー」と 声を合わせ 指の上に 競り上げます。総社宮の宮司の合図で お神輿を担ぎ直し「ワッショイ ワッショイ」の掛け声で 神輿を練りながら長床に戻します。


 お祭り会館のロビーでは 加茂大祭の様子 町内の観光名所 文化財が映像として紹介されています。 展示場の中央には 過去に加茂大祭で使用された 化気神社の榊の葉で葺いた鮮やかな緑の屋根を持つ神輿が 展示されています。大祭のクライマックス「御神幸」の姿が 紹介されています。 展示室の左右の壁には 加茂大祭に 参加する町内鎮座八社と 総社宮の 由緒沿革等が 紹介されています。公開は 土曜 日曜 祝日 (但し 12月28日~1月4日は休館)の午前10時から午後4時迄です。休業は月火水木金 年末年始ですが 平日の団体に限り前もって教育委員会へ連絡すれば 入館できます。入場料は 成人310円 学生210円 生徒・児童110円でが、20人以上の団体では それぞれ260円 160円 70円に 割引されます。加茂大祭の日は 無料で入館できます、

ご紳幸が終わると各社の宮司は 拝殿前に集合し 拝殿に座る 総社宮の宮司に還御お立ちの挨拶を 交わします。幟を先頭に 祭り行列は鳥居を潜って行きます。棒使いは 広場で舞を奉納し、獅子は 拝殿前と鳥居前で 舞を奉納します。神輿は拝殿前で 差し上げ 身を低くして鳥居をくぐり 鳥居の前で再び差し上げ 帰路に 静々と付きます。退場は 午後1時から 午後3時半にかけ、三所神社 鴨神社 天計神社 八幡宮 毛気神社 松尾神社 日吉神社 素盞嗚神社の順です。

かつては 江与味八幡宮も 参加していましたが、出立が遅れ 大勝宮(現在の天計神社)との待ち合わせに 遅延し、真地乢で 責任を追及し合い 切り合いとなり 7人の死者を出した事で 以後加茂大祭から 脱退しました。     平成28年(2016年)10月23日

「馬飛ばし」

著者が豊岡小学校の小学生の頃は 加茂大祭で「馬飛ばし」と 言う神馬行事が 行われていました。総社宮が「神馬の用意願います」と 言うと 総社宮を 先頭に二人が 馬を引き、一人が鞭を持って 神輿の前に集まって お祓いをします。鴨神社の神馬から 境内を走り出し 7社がそれに 続きます。各社の騎手は 馬から飛び降り 飛び乗ったり、馬の腹にさばり付き元に戻ったり、馬の横腹に へばり付き 反対側から見ていると 騎手が見えず 突然に馬上に 騎手が現れたりする技 を見せます。騎手は 時々変わるようだったと 記憶します。周回の途中 鞭打ちが 馬の尻を叩きます。勇敢な観客もいて 手で馬の尻を叩き 警護の者に叱られていました。3周の疾走が終わると 各社の馬は 鳥居を潜り 環貫橋目がけて 参道を駆け抜け 「馬飛ばし」の行事を終わりました。「乗り落とし」と言います。流鏑馬行事も 行っていました。小学校を 著者は 卒業すると東京の豪徳寺に引っ越したので その後の事は知りませんが、和田素盞鳴神社の宮司のお話によると「加茂川町で飼われる馬は 年々少なくなって神馬を揃える事ができなくなったので 豊野の椿等から 馬を借りて「馬飛ばし」や「流鏑馬」をしていた。それでも神馬を 揃えられなくなって 昭和43年(1968年)から 馬飛ばしや 流鏑馬をしなくなった」そうです。馬飛ばしは、忍者のアクションを見ているようでした。机上からの弓の射撃は、戦国時代初期までの重要な戦法でした。 平成29年(2017年)10月23日


ぼけ老人の独り言

 加茂大祭の氏子域天台宗を  支配していた虎倉城伊賀久隆(藤原伊賀伊賀の守左衛門尉久隆Hujiwara-no-Iga-Iga-no-kami-Saemon-no-jyou-Hisatakaは、金川城主の松田元輝(松田左近将監元堅Matude-Sakon-no-syougen-Motokata 日蓮宗の家老職でした。元輝は 久隆に 日蓮宗に改宗するよう 迫りましたが、天台宗信者の強い反対にあって 不安定な立場に立たされました。その頃の元輝は 領内の寺院に日蓮宗への改宗を強要するばかりか 城内道林寺丸内に 日蓮宗道場を建立する程の狂信ぶりで 家臣や領内の百姓 等からも 嫌がられていました。

 その時 明善寺合戦三村家親vs浦上宗景が 起こりました。三村氏に 直接狙われた 松田元輝は 自己保全のため 出陣せず、久隆に代行させました。龍の口の戦いでは 浦上氏配下の宇喜多直家と 松田氏配下の伊賀久隆が 城を 包囲すると 兵糧攻めに苦しむ城兵は (何者かに唆され城に火を放ち 逃走する予定でしたが、古和田城宮内少輔Kunai-syouyuu 等による奇襲に 助けられ 兵糧を手にしました。浦上方(宇喜多氏の主君)である龍ノ口城の松田氏家老穝所元常(職経Mototune)は 弟の魔谷院を 人質に出差し出す条件で、毛利方への内応を 中島加賀守輝行へ密通して来ました。職経が 毛利の使者を 龍ノ口城からのの脱出用抜け道を 案内いる途中に 酒津城主高橋右馬允Takahasi-Ume-no-jyouに 厳重に見張られ 脱走等できない筈の魔谷院が (何者かの意図による助けによって)脱走しました。その知らせを受けた毛利兵は 職経を 滝へ突き落とし暗殺(物語では宇喜多直家の男妾の岡剛介に 色ボケして 寝首を掻かれた事になっています)し 城中の穝所氏配下に「職経が 岩を踏み外して 滑落死したと」報告し、毛利氏の配下に組み入れました。三村家家親等が 軍議をしていた興善寺(久米南町)に 忍び込んだ 宇喜田直家配下の遠藤又二郎喜三郎兄弟は 家親を見事に射殺し、極めて困難な状況を(何者かの助けを借りて)超えて見事に 逃げ帰り、後の上加茂合戦毛利輝元vs伊賀久隆)に参戦しました。この時 宇喜多直家は 三村家親に 追い落とされた 岡山城金光崇高船山城須々木豊前守を 味方に引き入れています。この戦いで  宇喜多直家は 鉄砲鍛冶場の長船福岡を 手に入れました。この事で 鉄炮戦術を重視した伊賀久隆は 銀山 銅山から得た資金で 鉄砲隊を整備する為に、以後 宇喜多直家に更に接近する事になります。

この後 宇喜多直家は 明善寺合戦に参加しなかった理由で、松田元輝と 宗教対立していた伊賀久隆に 松田氏を討つ話を持ち掛けたとされます。松田氏が軍議を城内で行っている時 松田氏は伊賀久隆に城門の警固を命じました。すると 久隆は 城の通路に角張った石を敷き 自軍の兵には草履を2重に履かせ、城内に乱入し 足の痛みに苦しむ城兵を討ち、梟雄と評判高い宇喜多軍と松田軍に挟み撃ちされる危険を避けるため宇喜田の軍勢が 駆けつける前に 大方の戦術を 終えていました。宇喜多軍が 到着すると 元輝は 敵から丸見えの松の木に登り、宇喜多軍に何かを訴えるように 久隆の悪口を言ったのです。勿論 伊賀方の射手によって あっさりと 射殺されました。宇喜田 伊賀軍に 総攻撃され金川城 が落ちると、城から逃げ出した松田元賢も 久隆の落武者狩りの伏兵に 討ち殺されました。

宿敵同士であった 毛利一族毛利両川と宇喜田直家の仲を、織田信長に京都から追われた足利義昭Asikaga-yosiaki将軍が 仲介して 同盟させました。これに困惑したのは 宇喜多直家に父家親を 暗殺され 宇喜多氏に恨みを持っていた 三村元親で 叔父の三村親成の反対を聞き入れず 毛利氏の手を離れ、毛利氏と仲が悪く また 直家が独立したがっていた 浦上宗景と手を結び、三村氏の血で血を洗う 備中兵乱が勃発しました。直家は 宗景との戦いに専念したので、久隆は 小早川隆景毛利元就の三男 毛利輝元の叔父)と 備中松山城(三村元親)を攻めました。すると 竹井直定 河原六郎右衛門等は、松山城天神丸石川久弐Isikawa-Hisanori(三村家親の娘の夫 元親の義兄弟)を騙し 天神丸をのっとり、松山城の落城の主因としました。河原六郎右衛門は かつて伊賀久隆の主要配下(鍋谷城)にありましたが、同僚の出世争いをする者達に 毛利氏のスパイと懺悔され、久隆に「振る舞い事があると」呼び出され 常光寺で成敗された とされる人物ですが 生きていて  三村方に加わっていたのです。常光寺城の郭には 人が弓矢鉄砲を以て構えられるほどの大きさの穴が 弧状に約20数個 掘られていました(現在は作平されています)。饗宴に酔いしれる 河原配下の者は この穴から土遁の術)一斉射撃されたものと 考えられます。この状況で  河原はいかにして逃げ出し 隣国に亡命できたのでしょうか。松山城が 落城すると 元親に子の 勝法師丸は 城を抜け出しますが 伊賀久隆の手の者に捕まり、小早川隆景により処刑されました。この場でも、久隆は 落武者狩に 成功しています。

毛利氏と宇喜田氏の共通の敵である 三村元親 浦上宗景 倒れると、織田信長は 毛利家討伐に 羽柴秀吉豊臣秀吉に命じました。これに不満を持った 別所長治は 織田氏と 袂を分かち 毛利方に着きました。羽柴秀吉は 長治を討つべく 三木城を攻めますが、敗戦の危機に直面し 援軍を得るも 佐久間信盛 滝川一益 丹羽長秀 明智光秀は 不思議にも秀吉の指示に従わず 三木城攻略に参加しませんでした。この時 小早川隆景(毛利輝元の叔父)宇喜多忠家(直家の義弟)軍は 尼子軍の再興軍の籠る上月城を包囲し 秀吉を討つ 絶好のテャンスにもかかわらず、「貸し」を作るように 上月城との決着を伸ばすばかりで 長治を援助しませんでした。上月城と長治は 破れ、(潜入者のささやきで )飢えと渇きに苦しむ者の敵前逃亡者を次々に出した上月城が陥落すると、風邪で伏していて参戦できなかった筈の 宇喜多直家は 途端に元気になり 小早川隆景 吉川元春岡山城に招き 饗応しようと誘いましたが、直家の梟漢ぶり(梟雄 敵と狙った者は 毒殺 射殺 言いがかり 騙しで必殺を警戒し応じませんでした。

すると羽柴秀吉は 織田信長に 宇喜多直家を織田方に加える事を勧め 信長が嫌がるのを説き伏せ 直家を織田方に 引き込みました。毛利輝元は 直家の裏切に怒り、まず直家の最大勢力である虎倉城(伊賀久隆)を攻めるべく 一手は美作から下加茂に向け、一手は松山から 有漢を経て竹荘に向い 一手は岩田から日応寺に向わせました。辛川城を経て 日応寺に向おうとした 小早川隆景は 不意討ちされ「辛川崩れ」を 起こします。吉川元春 毛利元秋(椙森元秋 富田元昭 毛利元就の五男)は 美作の諸城を落とし円城から 下加茂に迫りました。本体の輝元軍は 中津井 有漢の緒城を落とし 竹荘 吉川 下竹 藤沢 大畑の諸城を落とし 藤沢城に 入りました。穂井田元清(毛利元就の四男)の軍は 福山 岩田方面から 攻撃し 馬屋Maya 日応寺の緒城を 攻め落としました。虎倉城方(伊賀久隆)は 鼓田城を除き、諸城を戦わず明け渡し 退き、下加茂 上加茂を囲み 白坂 三宅 広面の山々に軍を配備しました。毛利方の軍は 河原六郎右衛(前述)の道案内で 敵味方も解らない程の霧の中 誤って上加茂に出て 清常山に陣を張りました。道を誤った理由は 上加茂の西 宝福寺(日蓮宗)本堂に火の手が上がり、本堂を上加茂と間違えさせたからと 竹部辺りで伝説されます。  また この時 久隆は 毛利軍の占領地の本堂に 一人で出かけ 竹部 河内田の村人と 本堂を焼く交渉をしたとされます。(陰の軍団の警固がなければ 成功しなかったでしょう)。開戦の初戦で 加茂川を渡り 土井等の陣に向おうとした 毛利方の粟屋与十郎(元信)軍に向い 鉄炮攻撃が始まると 粟屋の一隊は にわかに 河童にでも襲われたように想像以上に 混乱、上加茂合戦の総大将であった粟屋与十郎は 毛利軍の最初の犠牲者になったとされます。毛利軍は 次々に 狭い谷に追い込まれ 敗戦を重ねました。世に言う「加茂崩れ」です。輝元は 余りに酷い「負けっぷり」に 呆れて 軍を引いたとされます。

この頃 直家は 尻蓮で命を落とす事を 覚悟していました。直家は 軍事 知略に優れた 久隆が 自分の死後、下克上する事を恐れ 妹(久隆の妻)等に協力させ 久隆を毒殺し 間もなく 病死にました。名だたる梟漢の中でもその第一とされる直家でしたが 配下の者だけは 大切にしていましたが、久隆が左程に恐ろしかったのでしょう。久隆は 直家に岡山城に招かれ、饗宴を受けている時 酒に毒が仕込まれていると察知し 子の与三郎(家久)に用を言いつけ退城させ、わざと少量づつ酒を飲み 子の安全となった頃に 厠に行き 坪から城外に脱出し 虎倉に逃げ帰ったとされます。虎倉に帰った後 体調を悪化するばかりで 闘病の末 栄養補給のため貉の肉を食べた後  死んだと伝説されます。久隆の子 家久は 直家が死んだ事を知らず 備前加茂川の配下達を置き去りにして、吉川に逃れ 小早川隆景の配下となったので 備前に残された者は 宇喜多忠家が後見する秀家の配下に加わりました。

伊賀家久が 虎倉城から退去すると、黒田官兵衛小寺官兵衛蜂須賀彦右衛門が 接収し宇喜多家の譜代長船越中長船越中守詮光Osahune-Ettyuu-no-kami-Akimitu 長船貞親Osahune-sadatikaが 城に入りました。長船越中は幼い宇喜多秀家を支えるため岡山城に構りきりだったので、虎倉城の在番に 広面にすむ妹婿石原新太郎を付けました。ところが1588年になると、石原夫婦は 長船越中等を 正月の席に迎え、突然城に火をつけ 長船一族を 殺しました。何が原因か さっぱりわかりませんが、石原氏が 長船氏に 不満を抱いていたらしく 長船は 鉄砲で狙撃されたともされます。この怪奇な事件現場から 不思議にもその時 同席していた上田東へ逃れた武将は 逃げ失せています。この事件は 正月の餅の祝った膳の時間帯に 起きたので、この武将の後裔は 正月を餅で祝わないそうです。

毛利氏と 織田氏の最終決戦が迫ると 毛利氏は 備前と備中の境の境目七城を固めました。「松山城水攻め」が計画される中、最難関の冠山城攻撃を 宇喜田忠家が 名乗りを上げました。冠山城を 宇喜多軍1万が取り囲むと、林重真Hayasi-Sigezane(林三郎左衛門)は 鉄砲で応戦し 宇喜多軍に 想定以上の被害を与えました。加藤虎之介(清正)は 宇喜田忠家と軍議し サッと一気に軍を引くと、何らかの作戦があると思ったのか 冠山城軍は 追う事をしませんでした。宇喜多軍が 遠ざかっている間に 冠山城の水の手が切られ 喉の渇きに城兵は 苦しみました。すると 城に火が放たれ 強風に押され 冠山城内は大混乱を起こしました。宇喜多軍が 再び攻め掛ろうとすると、黒崎段右衛門が 放火を手柄に降参し 城門を内から開けました。その隙を見て 加藤虎之介が 一番乗りしました。すると弾薬庫が爆発し、敗戦を覚悟した 城内の93名の大将格の侍は自刃 或いは 突撃し討たれました。一連の事件は 伊賀忍者の仕業と 噂されました。こうして高松城戦の前哨戦の一番の激戦は 勝負あって、冠山城は 落城し 宇喜田忠家が入りました。しかし 城の損傷が激しく 忠家は 城を捨てました。不思議な事に 勲功を上げたはずの 黒崎段右衛門は 羽柴秀吉に成敗されました。

以上を総括すると、金川城合戦や上加茂合戦で見せたように 高い戦闘力を持つ伊賀久隆軍が 上月城戦 備中兵乱 明善寺合戦等多くの戦いでは、不思議にも歴史書にその名を残していないので、伊賀軍団の戦いの現場での主な役割は戦闘でなく、その裏方を担う事だったのだろうと 邪推させます。伊賀久隆や 伊賀久隆亡き後の伊賀家配下加茂十三流の係る戦いは 伊賀久隆を含め 奇抜で特異な作戦を立てられ、巧みな交渉術 あるいは 騙し術を持ち 敵陣に忍び込み 敵兵を味方に付け 火付け 水供給場の破壊 暗殺等の目的を果たし 巧みに逃げ帰られる能力を持った者が係るように 即ち著者 等の先祖は忍者で 歴史の表舞台に出ない生活をしていたのかもしれないと思う次第です。加茂大祭の行列や お遊びはこれ等の技術や 武器を 祭りと言う場を 隠れ蓑とし 継承する行事だったのかもしれません。なお 伊賀久隆は 総社宮に36丁 和田天王宮素盞嗚神社に7丁8反 豊岡八幡宮7反に 平岡天満宮7 領内各神社に神領地を寄進し 其の他10社に刀 槍等を奉献しており、また官位は「伊賀守」で 伊賀忍者の郷と関わりを持ちます。これ等の戦いの詳細は「吉備中央町の山城 伊賀久隆の戦い」 を参照ください。伊賀十三流(加茂十三流)とは 葛原氏(上田西 小森 下土井 福沢等) 片山氏(平岡 下加茂等) 菱川氏(豊岡下 加茂市場等) 河本氏 入沢氏(福沢 笹目等) 土井氏(下土井等) 河原氏(下加茂等) 小林氏(小森 大木 三谷等) 鶴旨氏(高谷 上田東等) 津島氏(上加茂 福沢等) 瀬尾氏 能勢氏(上田西等) 楢崎氏(上田西 三納谷等)の事で、これに続く加茂川の豪族は 福島(下土井 細田等)黒瀬(尾原 三谷) 小枝 富田 近藤(小森 三納谷等)で、いずれも加茂大祭の氏子域の住人達です。 令和3年(2021年)10月13日

 

祭寿司

祭寿司は「ばらずし」の一種であり 岡山県の祭りや祝い事等で食される 郷土料理で、即ち「ハレの日」の食べ物です。現在では 酢飯の上に錦糸卵を敷き詰め、瀬戸内海産の新鮮な海産物(サワラ アナゴ ママカリ イカ エビ 海藻 貝等)と 温暖な気候で育まれた 旬の農産物(レンコン エンドウ ゴボウ タケノコ カンピョウ シイタケ ニンジン等)を 「日本一豪華」とか「すし一升 金一両」と 称えられる程に ふんだんに 盛り込まれた ちらし寿司で 「岡山ずし」とも呼ばれます。作る家庭や 季節によって 食材や 味付けが 異なります。初代岡山藩池田光政は 困窮した藩財政を立て直すために、閑谷学校 紙工手習い所等200校以上の藩校を造り、行政指導者を育成し、神社仏閣を統廃合し、倹約令を施行しました。豪華な祭事や特別な日以外は 禁酒とし、食事は「一汁一菜」を 原則としました。庶民は 制約しながらも 美味しい物を食べたいと思い 食材を 一か所に塊めて 詰め込み  或いは 酢飯に 具を混ぜ込み「一菜」と 主張しました。名目としては 一汁一菜の面目は立ちましたが、更に豪華さをごまかすために 豪華な具を下に敷き 酢飯やカンピョウ シイタケ等を その上に載き 素朴な寿司に 見せかけましたかくし寿司。役人の目の無い時は ひっくり返し 豪華な食事を楽しんだのです。加茂大祭の時は 役人も 見て見ぬふりだったそうです。 令和3年(2021年)10月14日