案田 化気神社の鬼退治 Exterminating ogres in Kegijinnjya shrine


加茂川町史の毛気神社の妖怪退治 Defeating the monster in Kegi-jinjya shrine written in the history of Kamogawa-tou/Town

 皇紀300年(推定で西暦130年頃)吉備津彦命が 加茂の地に 御食津大神Miketu-no-ookami(気比神宮Kehi-jinguu・案田のに勧請された気比神宮は 化気神社Kegi-jinjyaと 呼びます)を お祀りになった頃、妖怪変化が 出て 住民を恐れさせました。化気宮の西の方に 火柱が現れたので、吉備津彦命は 弓を 取ってこれを 松の大樹を 盾にして 覗いました。この松を「覘いの松」と 言います。矢を 放たれましたが、矢は 松の枝に 掛かりました。その矢の掛かった松を 「矢懸かりの松」と言います。馬上から岩を 足係りにして 乗り上げ、二の矢を 放たちましたその足掛かりにした 約6畳位の大きさの岩を 駒石Komaisiと 言います。矢は 怪物に命中し、一大音響を 発し 石となり 飛び散りました。上体であった部分の落ちた所を「立 石」(上田西)と言い、その場に残った部分の石を「的石Matoisi(松尾神社近く)」と言います。 矢は破片となって  空高く ヒラヒラと 飛んだ所を 高平Takahira(細田)といい、細田の辺りで その様子を 見られなかった所を 目無Menasiと言い、矢の落ちた所を矢柄Yagara細田)と言い、遠くても音の聞こえた所を大鳴Oonaru(上田東)と呼ぶようになりました。これらの地名は 現在 小字名として 残っています。「加茂川町史」

覘いの松も 矢懸かりの松も 現在は 枯れてなくなっています。駒石には 蹄型の模様が4 から5個ありましたが、現在は 目立ちません。

 

細田野呂の村人の語る化気神社の妖怪退治 Defeating the monster Kegi-jinjya shrine told by Hosoda-Nooro villagers

 吉備津彦命が 祟神天皇四道将軍の一人として 西国平定を 命じられました。その過程で 後の加夜国Kaya-no-kuniに 攻めて来ました。化気宮の辺りに 鬼と言う 妖怪だか 山賊だか 解らない者が 住み付いて村人に 災難を齎していると聞いた 吉備津彦命は、軍勢を 引き連れ 鬼退治にやって来ました。鬼の大将は、神出鬼没の不思議な 術を使い、兵を 惑わすので兵 は怯え 戦おうとしません。吉備津彦命は、馬に乗り鬼の正体を 松の木陰から 窺い、その結果 術はまやかしであると 知ると、近くの大岩に 馬の片足を 乗せ キリリと弓を引き 放つと 矢は 鬼に届かず ,的石の側の松の枝に 掛かってしまいました。聖の馬でしたので その大岩に 馬の蹄の跡が付き、駒石と呼ばれるように なりました。普通の弓で は効果ないと解ると 千鈞の強弓Senkin-no-goukyuuを 取り出し、再び 引き絞り 矢を 放ちました。鬼は 射抜かれまいと 大岩に 変身し 矢を 弾き飛ばそうとしましたが、矢は 鬼の想定以上に 強力だったので 大矢は 見事に鬼を 射貫きました。岩となった鬼は 大爆発を起こし2組 計4つに 分かれて 飛んで行きました。一つは 松尾神社近くに 残り的石と言われ、1つはつは 立石に落ち 立石と呼びます。1つは 城山裾の細田公民館近くに落ち、1つは 大畑の近くの旧街道沿の植松に 落ちました。今 植松には才の神と習合した地蔵菩薩が 祀られています。大岩と 衝突した矢は 大畑Oobataでは 壊れて バタバタと 大きな音を 立てながら、高平の上空高くを ヒラヒラと 飛んで行き、細田の矢原に 落ちました。目無しで は山に遮られ 飛んで行く矢は 見えませんでした。的岩が松尾神社近くにあると言う事は 毛気神社から 松尾神社に 向け 矢を射た事になります。的石の近くの大松は 昭和中期に枯れました。現在朽ちた株を残します。「細田野呂の村人より口伝」

駒石:化気神社は 北緯34度54分19秒東経133度49分22秒に建っています。旧参道石鳥居から 細道を下り、左に 普賢堂が 祀られる分岐の左の坂道を 下ると、右手 北緯34度54分19秒東経133度49分26秒近に2個の岩があります。大きい方が 駒石です。昭和29年(1954年)頃には 4~5個の馬蹄状のヒビ割れが ありますが平 成24年(2012年)の頃には目立たなくなっていました。

 立石:上田西黒ハケ1043番地付近の畑 北緯34度52分44秒東経133度47分15秒に 地神Jijinの文字が 彫られている石が 立っています。下竹荘郵便局の配達人は「この石が 伝説の立石で この地の名の由来だ」と 言います。扁平で いびつな形状をしているので 割れた岩を 連想させますが  小さい事から推測して やや無理な解説です。立石に 突き刺さるように 立つ大岩を 探しましたが 見つかりませんでしたし、立石の村人に尋ねても 過去に それと思われるような大岩は 無かったと言います。              

的石:松尾神社(旧円城寺小学校の隣)より やや円城側に 左に入る山道が 分岐します。山道を 左に入り、民家の横の道標のある分岐の右手を 見ながら 坂を下る途中 2m程奥の 藪の中 北緯34度53分46秒東経133度47分45秒の近くにあります。地頭として野山(北地区等)に赴任してきた 伊達弾正朝義が 馬に跨り ここから、化気神社に向かい 矢を 放ったとも 言われます。矢を 射たのは 西国平定をなした 嵯峨皇子だと 言う人もいます。

飛石:細田公民館の隣の北緯34度53分48秒東経133度47分7秒の細田1193-1番地の水道蛇口の脇にありコンクリートに半分埋まります    塞石:細田公民館から 細田高平に 向かう途中に 左下に向かう 旧道の山道が 有り、新道に 沿って大きくカーブして 新道と出会います  奥吉備街道(吉備高原北部広域農道)の旧道の中間地点の右上 つまり 新道が 右カーブする辺りの 道下北緯34度53分51秒東経133度46分56秒に ありました。才の神だったのでしょうか  細田野呂の村人は「野仏の近く岩がある」と言いますが 見つかりませんでした 覗いの松:駒石の近くに あったらしのですが 枯れてしまい どこにあったか解りません 目無:北緯34度53分47秒東経133度47分22秒を 囲む道の 内側で 4軒の民家が 有ります 細田2011・2199番地等です  地名の由来はわかりません  女無の転訛であれば 窪地の無い地となりますが、目無しは むしろ盆地状の 地形です  女無の佳語なのでしょうか 高平:目無より 下土井側に進むと 細田高平に向かう案内が あります。右に入れば 北緯34度 53分54秒東経133度47分20秒付近が 十数軒からなる 高平集落です。細田 1665・1904番地 等です。三谷にも 高平の地名は ありますが 民家は立ちません  三谷737・757番地 等です 高平地名で住宅の建ってい るのは 細田1903番地だけです 平とは 山間の平地  あるいは 突き出た地形の端を表します    大鳴:上田西204番地 222番地 223番地をびびノ木と呼び、上田西1934番 地と1936番地を大鳴(大成 大成)と呼びます 住宅は 建っていません 鳴の付く地名の多くは「なだらか」に 関わります。    矢柄:上田西182・188番地等 細田1397・1549番地 等に 及ぶ 広大な地域です が、住宅は 建ちません   矢柄池は 下土井下加茂線(372号線) の大畑交差点を 西に向かい、久保田神社 の取り合い道を 過ぎた 次のY字路を 南(左)に向かうと 鋭角な Y字路があるので ほぼ 戻る方向の道 に進み、又 次のY字路の右の道を 選び進むと 眼下 北緯34度53分28秒東経 133度47分5秒に見つかります  矢柄とは矢のNo矢竹の異称です  箆の生産地だったのでしょう  大畑:北緯34度53分29秒東経133度47分22秒辺りが 数軒からなる大畑集落で す  下土井下加茂線の大畑交差点に 大畑バス停があり1490・2119・2119番地 等 です  大畑地名で 住宅が建つのは 細田1607番地だけです  大きな畑も無く、広くもありません  広い地でありたいと言う 願望から生まれた 小畑の佳語でしょうか  矢原:細田公民館から 三谷に 下る交差点の右手 細田1116・1165番地ですが、住宅 は建っていません 北緯34度53分56秒東経133度46分58秒付近です 矢は 急峻な地に付けられる事が多く、原は 山に対する語として用いられます 急峻と言っても 規模が小さいので 矢原は 鏃Yaziriの生産地だったのでしょうか      平成28年(2016年)4月1日