千人針 Senninbari "a soldier's good‐luck belt with a thousand stitches embroidered by different thousand women"


太平洋戦争の時、大勢の村の若者が 兵に採られました。戦場では 千人針を 持っていると 弾丸に当たらないと 噂されました。だから 兵隊さんの送出会には 村人が 集まり、日章旗を 振り、千人針を 持たせて 送り出しました。千人針 は唯のお守りだと 解っていても、千人もの女性が 自分の無事な帰国を 願ってくれていると 思うと、戦場に 赴いた青年達は「死んでたまるものか」と 思う気持ちを 否定する事は 出来なかったのです。腹に しっかり巻く事で 千人の女性の愛を 感じ、生きて帰る気持ちを 保ち続けられたのでしょう。しかし 戦場では そんな子供じみた な気持ち 等に お構いなく、現実的な危機と 向き合わなければならなりません。戦友が 被弾したり 怪我Kegaをしたりすれば、止血や 骨折時の圧迫包帯や 副木の装着を 前線で 行ない、軍医の居る後方へ 負傷兵を 運ばなければいけません。包帯等は 多く携帯)できませんし、ましてや 銃弾の飛び交う中で のんびりと 応急処置 等している 暇)は ありません。丈夫な布で 作られた千人針は、腰から 素早く取り出せるので 包帯代わりにするのに 重宝した。負傷兵が 手当てを 受けると、手当てをした 兵士が「俺の千人針ぅ お前にやった もうこれ以上の被弾は ねぇ 早ぅ 傷を直し 今度ぁ 俺を お前の千人針で 助けてくれ」と 励ましあったそうです。負傷兵は 友情と 更なる千人の女性の願いを 頂き 涙したでしょう。「尾原と豊岡上の村人より口伝」

 

千人針は 明治37年(1904年)から 始まった 日露戦争から、作り始められました。兵隊が 戦場で 弾丸に当たらないよう願うお守りです。その後の昭和12年(1937年)日中戦争勃発から 始まった 一連の大戦争の終るまでの 昭和20年(1945年)まで、大流行しました。政府の指導が あった訳でなく 民衆が 生み出した 信仰です。反戦 非戦を 謳うUtau物でなく、むしろ 出兵を 肯定しており 単に早く 兵士が 無事に戦場から 戻って来て 正常な家庭生活が できる事を 願う物でした。千人針は 赤い糸で 布に千個の縫い目を付ける物で、兵士は 腰に巻く 習慣がありました。千人針を 造るに当たり「女性だけが 赤い糸で 縫わねばならない」とか「寅年の女性は 歳の数だけ縫い目を 付けていいが、その他の人は 一人一目だけしか 縫い目を 付ける事しかできない」等の制約が ありました。女性でないといけないと言う制約は、女性の千人の髪は 大衆を 繋ぎ止めるという 言い伝えによる物でしょう。赤い糸に した理由は 当時 厄年には 赤い襟Eriを付けた 着物や 赤装束を 着る風習が あった事に由来するのでしょう。寅年)の人の例外的配慮は「虎は1日に千里を 走り千里を 戻る」と 言う 言い伝えから、早く戻る事を 願う心を 込め許されたのでしょう。

また 5銭や10銭を 縫い付けましたが、死線(4銭)を 越えて欲しい、苦戦(9銭)を 乗り越えて欲しいとの気持ちを 込めた語呂合わせなのでしょう。とは言っても、身内や 近所の人だけで 千本針を 縫うのは 困難を極めるので、街頭には、行き来する女性を求める姿が 溢れたそうです。https://ja.wikipedia.org/wiki/千人針」 

 

インパール作戦兵の体験談 Story of Operation Imphal-soldier 's experience

昔 著者が 独身時代、東北の浄土ヶ浜を 一人旅していた時、何故か 気が合って道連れになった父親程の年配の男が いました。二人とも話下手で 沈黙の道中でしたが、宿でビールを 飲み頬が赤くなる頃に成ると、その男は 饒舌Jyouzetuに変身し、私は 聞き上手に なりました。「昭和19年3月 中国の蒋介石Syou-Kaisekiの力を 削ぐために、インドのイギリス軍からの補給路を 寸断する作戦だったが、物資不足を 承知の無謀な 作戦だった。船で 向かったが散散に 攻撃され、沢山の船が 沈められた。インドに やっと着いても、まともに 戦えなかった。

武器の性能が 違い過ぎたのだ。攻撃にさらされ、仕方なく 山林に入り 進軍した。敵は車で 移動するので、山中は 安全に 進軍できた。しかし 徒歩の進軍で 車に対抗するには、夜も 近道を 行進し 沼や川を 横断した。

写真はhttps://ja.wikipedia.org/wiki/インパール」より 作戦泥水で 軍服は汚れ、洗いたくても 代わりの軍服は 無い。風呂に入る余裕もない。汚れて 湿った 汗まみれの 軍服の 着た切り雀の生活だった。あちこちに 皮膚炎を起こし、痒みと 痛みに堪えた。蚊 虻 蚤 虱Sirami等の吸血性の虫には、ホトホト難義した。中でも 一番体の小さい蚋Buyuは 朝方 夕方 着物に 隙間さえあると 忍び込み刺し、刺されると 大きく腫れて 激しい痒みを 生じた。それを防ぐには、糞暑い中一部の隙間なく 着衣の隙間を 無くせねばならず、蒸し風呂の中にいるような 蒸し暑さだった。いつまでも 付きまとう鬱陶しさも 耐えがたいものだ。たまに見るイギリス兵は、涼しげなルーズな 恰好をしている。良い虫除け薬や 治療薬を 持っていたのだろう。食べ物も ろくな物は なかった。イギリス軍は 落下傘を 使って、物資を 運んで来た。白い梱包は 食料だった。白い梱包が 近くに落とされると、犠牲になるかもしれないと 解っていても、奪いに出かけた。チーズ バター 肉に 野菜 砂糖 煙草Tabako等が 入っている事を 経験的に 知っていたからだ。栄養失調で 体力を失っている所に 伝染病が入り込み 発熱し、気道を 犯されたり胃腸を犯されたりして 死亡する者が続 出した。中でもマラリアは 深刻だった。貧血を起こすからだ。病人だって 休まず進軍しなければならない。足手まといになった者を 詰っていたある男は 苦痛な 進軍のストレスに 耐えられず、マラリアに罹った友軍の手榴弾を 盗ん で自爆した。婦人会 等が 送ってくれる唯一の楽しみの慰問袋が 次第に貧弱になって行った。本国の経済が 疲弊している事が 解った。「敗ける事が 解っていて 戦うのが、大和魂なのか」と 矛盾を感じたが、声にする事は 無かった。

慰問袋が 届かなくなった。補給路が 断たれたと 解かった。もう残された心の癒しは、

母が 縫い集めてくれた千人針だけと なっ

た。腹に 巻いた千人針を 撫でながら 故郷を 忍び 涙して 眠った。翌朝 顔に触れる 金属性の冷たさで目が 覚めた。目の前に 銃口が迫っていて、白人兵が 立っていた。殺させるか 捕虜にされるかも知れないが「もう戦わなくて良い 苦痛から救われた」と 感じた。私は〔百舌Mozuが 枯れ木で鳴いている〕の歌詞を思い浮かべた」と語りました。

平成23年(2011年)9月18日

 

平成29年(2017年)3月31日に【岡山「へその町」の民話-岡山県吉備中央町の採訪記録 立石憲利 吉備中央町図書館 吉備人出版】が 発行されました。P369~p397に 戦争体験が 語られています。p369に「招集霊場」「特攻隊から遺書」 p370に「戦争で ペリリュウー島に」 P377に「戦地での食料」 p378に「絶食死刑」  p379に「草競馬」 p380に「戦時中の子ども」「大和小学校校庭が さつまいも畑に」 p381に「桑の皮むき」「ススキの穂採取」「子供の遊び」 p382に「戦争中のおやつ」 p383に「運動靴の配給」 p384に「きびしかった供出」「戦争中の食べ物」 p386に「学徒動員での食べ物」p387に「農業要員」 p388~p390に「松根掘り」「松根油工場」「店の名が松根」「松油の採取」 p391に「岡山空襲を見た」p392に「戦後の暮らし」 p394に「戦後の子どもの暮らし」 p396に「松笠拾い」 P397に「ズイムシ取り」「シベリアからの帰還者」が載っています。 平成31年(2019年)3月31日に【岡山「へその町」の民話 追補版-岡山県吉備中央町の採訪記録 立石憲利 吉備中央町図書館 吉備中央町教育委員会】が 発行されましたP119~P143に 戦争に まつわる話が 語られています。P119に「マインドコントロール」 P121に「満州からビルマへ」 p122に「大蛇を食べる」 P123に「朝鮮から 戦中に帰る」「工場も 軍隊と同じ」 p126に「産業戦士で 住友通信P132132に「岡山空襲に遭う」 P133に「高射砲が 米軍機に 届かず」 P134に「空襲に 兵隊も 逃げる」「刀も 供出」P135に「竹槍で 藁人形を 突く訓練」「86歳媼が 体験した戦争と平和・学童集団疎開・Y君の優しさ・大阪大空襲・戦後の暮らし・二十八年目の卒業式・明治百五十年に思う戦争と平和」が 記されています。