大山祇神社 Ooyamatumi-jinjya


大山祇命は 山の神  武神 酒神として信仰されます。


納地 大和山神社 Oowasan-jinjya

大和山神社は 通称大和明神Oowa-myoujinで 旧社格は村社です。道の駅かようから 北方 約850m程の所の 黒土北線(305号線)に沿った納地舞地MaidiKanmuriの丘 北緯34度49分22秒東経133度42分31秒 納地nouti南ノ風呂minami-no-huro130番地に建ちます。連絡先は電話番号は0866-54-1410です。祭神は大山祇命です。43代元明天皇の頃 出雲国の浪人の頼盛が 大和山に移り住んで 龍王を山頂に祀り、大和山竜王と呼びました。頂上の泉は4季を通じて涸れ(かれ)る事がないので、この泉を「竜王の噴水」と言いました。ここには大和山城が建っていて、城主の土井頼母備中守の庇護を受け、この地を大和村と呼びました。長禄2年寅年(1458年)に右太夫に 伊予国の大三島大明神の分霊の勘請を2夜3日、神宝を添えて祈祷し 乞いました。城主は 遣いを出して大明神を出迎え、村境の矢方原で 邪鬼の悪霊を祓うため 廃除矢を放ちました。大和山の冠(地名)で衣冠装束を改め、ここから5町余 乾(地名)に 登り、宝谷に神霊と宝剣を一時祀り、同年9月18日大和山の峯に 勘請し、大和山大明神と 呼び 崇めました。その頃には 田畑は僅かで 原には 小山や沼が 沢山あって 耕作に不適であったため 瀬戸(狭い水路)を掘り廻らし 悪水を除き(排水を良くし)、開墾を進めました。それによって氏子は 大いに繁盛しました。大和山は 険し過ぎるので 大永元年(1521年)9月18日 大和山城主の土井頼秀は 舞地に社を建て、神子に舞わせ 宮本勤吉に遷霊しました。この時に大和山大明神は讃岐国の塩飽Siwakiの両見渡沿岸で船の遭難を救護し感謝され、社の建立のための材木を 多く寄進されました。大和山大明神の 御供田として土肥頼秀は ひしや田しゅり田を永禄5年(1562年)戌6月に寄付しています。「賀陽町史追補版」  摂末社として境内に 大和山宮 荒神社らしき3社 丸支天社 経津主命地神碑4基が有ります。    大三島大明神大山祇命和多志大神Watasi-no-ookami:山の神ですが、大山祇神社 が瀬戸内海の要所要所にあるので海の神としての性格も持ちます    土井頼母備中守:大和山城(納地大和山 北緯34度49分28秒・東経133度41分35秒)主で、源頼朝挙兵の協力者である土肥実平の末裔とされます    冠・宮本勤吉:北緯34度49分22秒東きょう133度42分31秒 納地130番地付近    矢形原:北1713-1716(北緯34度48分50秒東経133度42分21秒)-1728番地 乾・けん・いぬい:北西の方角    舞地:北緯34度49分57秒東経133度42分20秒付近    ひしや田:納地ヒシャデン637・638番地    しゅり田:シュリ田・上竹1229・1672・2650・2652・2653番地    宮ノ乢:納地128・129(130番地が大和山神社)・211番地等    宮畝:納地133(北緯34度49分20秒東経133度42分34秒)・153番地    冠:納地606・707・887番地等    荒神ノマヘ:納地739番地    室谷:納地803・1195番地等 寶谷:納地808・1188番地等    荒神後:納地838番地 荒神ノ後口:納地842-844番地     平成24年(2012年)8月19日

 

大和山宮

大和山神社の拝殿の左に建ちます。

堂内には巻物らしきものが奉納され、更に一宮社が納められ数柱の神が祀られています。周囲には祭神がお留守の社が3社あります。 平成24年(2012年)8月19日