鉱山と杯状穴 RElation of mine setween cup mark


小森 大師山トンネル Daishi-yama Tunnel

 

429号線を 二川から北北東に 江与味に向かって進むと 名梅集落の西の交叉点 緯34度55分21秒東経133度48分12秒に 小さい社が 2社祀られています。左が 荒神社で、右が 摩利師天大神社です。 2社の西側即ち左手に 地神碑が祀られ、その東側に 左上に穴の開いた石が 祀られています。平成17年( 2005年)の大師山トンネルの竣工式に用いられた神事ようの石だそうです。発破の爆裂から見物者を 護ったとされます。特別な意味を持つ岩ではなく  小森トンネルの掘削の記念に 祀られていると言う村人もおりました。小森トンネルから140000m程 北に向かうと 緯34度56分27秒東経133度48分22秒に大師山ンネルの入り口が有ります。

平成25年(2013年)7月24日

 

下加茂 明神山 加茂鉱山 Kamo Mine in Myoujin-yama mountain

 下加茂プレーパークのゲートボール場の東 下加茂simogamo大下oosita1616番地と大下1653番地の間のコンクリートで舗装された道を 東に向かい100m程登ると 荒神社が建っています。荒神社の西の南に向かう山道を 50m程進むとズリ石が捨てられた谷が 有ります。その谷の手前 北緯34度51分25秒東経133度49分21秒に坑道が開いており 坑道は西に進んでいます。ズリ石の谷を下ると穴の開けられた岩が有るそうです。 雲母等の採掘穴: 明神山の北の岸壁の上辺り北緯34度51分19秒東経133度49分27秒と 予測する辺りに 有ります。此谷川に架かる古野谷橋を 渡り 工場の北を西に進み T字路を南に進み 直ぐに西に曲ると道は途切れます。その手前に 西に向う山道があります、山道は 三叉路を形成するので南東に向う 山道をひたすらズリ石の転がる急峻な坂道を 登り切ると 明神山の頂上 北緯34度51分16秒東経133度49分29秒 に着きます。

加茂鉱山跡:古野谷橋で此谷川を南東に向け渡ると 下加茂臺新町1597番地満栄工業(株)があります。工場の北の道を190m程東に進み字路を右(南)に折れ道なりに東に曲ると舗装堂は山道に移行します。ずんずん山道を沢に沿って登ると 北緯34度51分27秒東経133度49分31秒に大きなコンクリートの槽があります。加茂鉱山に係る施設かどうか解りません。上台古墳 | 日本ロマン100年 古墳 (gicz.tokyo)に載せられる加茂鉱山跡は、この槽の田に向いの東北の山向うにあるようです。

しかし 谷向うの山肌は、登るには 危険を感じる程 急峻なので    止む無く 登って来た山道を 引きし 北緯34度51分29秒東経133度49分19秒と推測する所で、沢の対岸に渡り 北側の尾根に沿う あるかないかのような山道を 登り始めると 直ぐに右手の谷筋に 元あった丸い穴を 乱暴な方法で 割り広げ 内部から鉱物が 採取されたように見える 白い岩があります。鉱物マニアの悪戯でしょう。ずんずん登ると、北緯34度51分29秒東経133度49分19秒と推測する所で 左手が深い谷になった所に出ます。この谷下に 径3m程の炭焼き釜があるようです。この谷も 危険を感じる程の急峻さなので 探索を諦めました。

そこで、下加茂大寺1354の山王橋で此谷川を渡り東に 90m程進んだ所で 沢(此谷川の支流)を南に向いて渡り、沢に沿い山道を120m程東に向うと、山道は南東に向きを変えます。北緯34度51分36秒東経133度49分24秒と推測する所に、何かを試掘したような 径3m程野穴があります。石で補強等されておらず、ぽっかりと空いているだけです。近くにズリ石や瓦礫が積まれています。

沢に沿って南東に 曲がり30m程登ると 山道は沢を渡ります。その所の左手 北緯34度51分34秒東経133度49分30秒と推測する所に  径3m程の炭焼き釜跡のような穴が あります。手前側は 石組みで 補強されていますが、山側は 土が剝き出しになっています。石で補強された部分は2分されています。しかし 炭焼き釜跡にしては 焦げた跡がありませんし、近くにズリ石も少ないので、この穴が 炭焼き釜跡なのか、何かの採掘跡 あるいは 試掘跡なのか 残念ながら 区別がつきませんでした。

更に ズリ石に満ちた沢に沿って 180m程 南東に進むと、北緯34度51分31秒東経133度49分33秒と推測する所に 径3m程の炭焼き釜跡のような穴があります。穴の全周は 石で囲まれ 一か所だけ 石組は 途切れています。上台古墳 | 日本ロマン100年 古墳 (gicz.tokyo)に 載せられる加茂鉱山跡の地図上の位置は この穴の位置と ほぼ 一致します。周囲に ズリ石が 散乱しています。

更にズリ石をたどって、沢に沿い 南東に180m程進むと、北緯34度51分31秒東経133度49分33秒と推測する所に 径3m程の穴があります。穴の手前に 細長い岩が 並んでいます。周囲にズリ石が 散乱しています。この穴の上にもズリ石は沢に沿ってありますが、山肌が険しくなって、滑落の危険を感じたので、下山しました。岡山いろいろ情報 県内鉱山跡 (hp-ez.com)には「吉備中央町に存在します。昭和中期頃にモリブデンを採掘していた鉱山ですズリ中で最もよく見られる鉱物は輝水鉛鉱であり,その他鉄マンガン重石,自然蒼鉛,方鉛鉱などがよく見られますそれに伴い鉄水鉛華,蒼鉛の二次鉱物も見られるようです 山頂付近やズリの上部の緻密な石英塊中に見られ蒼鉛の二次鉱物が付いた石英を割ると3mm以下のものがしばしば見られます、大きいもので7mmくらいのものや石英中に点々と付いているものもあるそうです。」と記されています。加茂鉱山 | 岡山県の真ん中の町、吉備中央町から自分の好きな事を書いてみる。 (ameblo.jp)きは「加茂鉱山は、1933年(昭和8年)頃に、モリブデン(水鉛)の鉱脈が現在の赤磐市の人により発見され、神戸の人が買受け採掘が始まりました。最盛期には80人ばかり労務者が働いていたようです。銀屏風を立てたような立派な鉱脈で戦争中であり兵器にも使い人気があった。一時はもの凄く採掘したようで、1日に4回発破をかけて下加茂地域は地響きがした。しかし、鉱脈は切れたようです。ガラスの原料となる硅石を採掘していたが、結局駄目になり、買受け人の死去により自然消滅となりました。(昭和20年代の終わり頃?)昭和30年の地図には、下加茂に鉱山の記号が記してありましたね。今回訪問した坑道は、1ヶ所のみでしたが、明神山山頂付近にもあるようです。また搬出口が多数あると言われてます。そう言えば、2016年12月に地獄乢から文覚屋敷に潜入した時、地獄乢側の西斜面に、やたらと拳大くらいの石がゴロゴロしてたが、あれはズリだったのかもね。明神山と地獄乢は尾根伝いで行けるし。あと坑道は長いものは宇甘渓近くまで伸びてると言われてます。参考文 広報かもがわ縮刷版 吉備中央町の民話〈1〉 吉備中央町における製鐵に関する地名」と記されています。

その他の採掘場:下加茂1659番地の南から創庫の北を回り、南に進むと 北緯34度51分23秒東経133度49分16秒と思う所に 墓場があります。そこより 少し 南東に登る谷が有るので ズリ石だらけの谷を登ると 北緯34度51分21秒東経133度49分18秒と思う所に、岩が積まれた所に出ます。採掘跡のような物は見つかりませんが、ここから 上にズリ石が 無いので、ここで 何かを 採掘したのでしょう。

谷の前述の谷の麓に 戻り、少し 南に 進むと 南東に向う谷があり、北緯34度51分21秒東経133度48分16秒と思う所に大きな採掘穴があります。その谷を登ると、北緯34度51分19秒東経133度48分17秒と思う所に、径3m程の採掘穴があります。いずれも 何を採掘したのか わかりません。 令和令和元年(2019年))10月10日

 

下土井 龍王谷 大蔵家敷 銅鉱山 Ryuuou-dani Copper Mine

落合加茂川の高尾橋の西の分岐を北に進み 高谷橋を渡り、下土井郵便局に向かわず和田川に沿って400m程進むと和田川を渡ります。右手に戻るように旧道が東に向き分岐ます。旧道に作業小屋が建てられており小屋の奥は織田川になっています。旧道の分岐度北西に6m程進むと右手の崖 緯34度52分39秒東経133度45分21秒に 金網が張られた崖に竪穴が有ります。銅採掘跡です。穴の開けられた岩を探しましたが付近に見つかりませんでした。この付近は道路の拡幅工事と斜面の土砂崩れ防止工事で著しく変形させられています。令和元年(2019年)12月23日

 

細田 三谷原    鐘の穴とコソコソ岩  Kan-no-ana Bell Hole and Koso-koso-Iwa "Rock that makes a noise" in Mitani-hara 

 

三谷日名集落から見て三谷川の対岸 北緯34度54分3秒東経133度47分10秒の近くに 鐘の穴Kan-no-anaが有ります。銅採掘の試掘穴です。縦坑約100m 横坑約200mが こそこそ岩に向けて掘られているそうです。銅は発見されませんでしたが、蝋石が採掘されました。昭和の中頃迄には子供達は蝋石で、地面に絵やケンパの円やS会戦の陣地を書いたりして遊びました。旱魃Kanbatuの時には 鐘の穴に溜まった水で、辺りの田を潤したそうです。とても冷たい水が 尽きる事がなかったそうです。こそこそ岩は 広域農道の細田公民館下 三谷に下る旧道の分岐点と三谷集落西端の民家との中間辺りの山側の窪んだ所 道より2m程山側 北緯34度54分3秒東経133度47分4秒の近くに有ります。昭和初期迄の静まりかえった夜間には 採掘の複雑な音や 時には話し声が聞こえたと伝えられます。鐘の穴を掘る音  或いは こそこそ岩に盃状穴を掘る音だったのでしょう。昭和の軍事的事情によって コソコソ岩の杯状穴の完成を見ないままに 神事が行われ 鐘の穴が掘られたそうです。日本広しと言えど 本当に音のした「夜泣き石」は このこそこそ岩しかないでしょう。水木茂さんのゲゲゲの鬼太郎漫画「こそこそ岩」が題材になりました。水木しげるさんは三谷686・736番地等

と細田(1725・1951番地等)と広面(1612・2853番地等)の岩目、三谷岩目の隣地の阿津井田(亜世田・あの世でもこの世でもない処 三谷570-575番地)を 訪れています。日本妖怪大事典(角川書店)Wikipedia(「夜泣き石」のページ)

ピクシブ百科事典     平成27年(2015年)5月28日

 

竹部 金山と鬼突岩 Kana-yama "Copper mine" and Oni-tuki-iwa "rock with the mark of an Ogre‘s glans"

竹部36~40番地を金山Kanayamaと呼び、昭和の大戦の頃迄 銅鉱山としてした銅鉱が採掘されていました。竹部1番地・28番地を鬼突と言います。484号線の竹部田内の投打川と加茂川の合流点の東の田内橋(北緯34度49分56秒東経133度47分299秒)を渡り 南東に進むと Y字路(北緯34度49分24秒東経133度47分28秒)が有ります。Y字路の右の細い山道を進むと 岡山賀陽線(72号線)の下の隧道(北緯34度49分15秒東経133度47分30秒)を潜ります。この隧道は 鬼突き岩の西の2番目の路傍の駐車場の中央付近に 当たります。沢が南より下っているので、沢に沿って進むと 沢の源流に 竹部金山の銅鉱山坑道入口の一つと思われる 人がやっと潜り込めそうな横穴(北緯34度48分58秒東経133度47分29秒付近と想像します)が有ります。更に南東に伸びる沢を進むと 大きな岩肌が剥き出した露天掘りされたと思われる人工的な窪み穴(北五34度49分0秒東経133度47分25秒付近でしょうか)が有ります。更に沢に沿って登るよ深い谷(北緯34度48分58秒東経133度47分21秒)になっており、この谷も人工的に掘られています。そこより急斜面を登ると山の頂上に達します。頂上より北に両側が深い谷になっている尾根を下ると、72号線の北緯34度49分5秒東経133度47分11秒付近に出ます。もう少し調査が必要と思います。吉備津彦命が製鐵施設を奪いに 吉備国に来た頃、敵役である鬼の城Ki-no-jyou)の鬼が 竹部に迷い込んで、偶然出会った村娘に一目惚れし、娘と見誤り岩に抱き付いた時、一物で思わず突いて穴を空けたと伝説される鬼突き岩が、国道72号線から竹部田内に向かう道と72号線との丁字路脇 北緯34度49分18秒東経133度47分44秒に立ちます。鬼は剛の者でしょうが、穴は随分と低い所に位置しています。さぞ足が短かったのでしょう。  平成27年(2015年)6月28日

 

広面 雨坪 風穴と雨坪岩 Kaza-ana "Air hole" and Amatubo-iwa

雨坪地名は広面782番地等・892番地・895番地等・914番地に残ります。 雨坪岩は 吉備新線を429号線の交差点を越え 岡山市に向かうと、最初の峠の右手は 岡山市古川で、そのやや手前を 左に入る山道があります。その山道を登ると、国土地理院の標準点の向こうに、タンクがあり、右に下ります。休耕田に沿い九十九に上方に進むと 北緯34度48分34秒東経133度48分48秒辺りに雨坪岩が見付かります。南西面左に拳大の径を持つ深い穴が 風穴に向けて 掘られています。かつてここに 雨坪神社が 建っていましたが、現在は、風神社に遷宮されています。広面に風穴があり、女夫岩(溶鉱炉の功績投入口をホト”女陰”と呼び、投入器具をマラ”男根”と呼びます・広面467番地等) 勝負坂(勝負はソブの訛りとされます  広面3365番地等)が有るので、岩に穴を空ける信仰は、製鐵 或いは 銅鉱山に関わるものであろうと想像します。崇神天皇の御代、吉備国の製鉄業を奪うための四道将軍吉備津彦命の中国平定の際、その臣 鼓彦命が雨坪山(鼓山)の山嶺に小社を建立して、風の神である志那津比古命 志那津比女命を勧請した。後 朱雀天皇の承平5年(935年)9月9日現地に奉遷(鎮斎)して風倉大明神と称え奉った。明治2年風神社と改め、明治45年6月境外末社八幡宮を相殿として合祀しました。「岡山県神社庁風神社 https://www.okayama-jinjacho.or.jp    風穴は岡山賀陽線(72号線)と429号線の交叉点の千升から上加茂に向い、道標のあるT字路を右に岩目に向い、風神社を右手に見て ドンド口Dondo-gutiを北に登ると、切り取られた山肌に添う東(右)に向かうT字路があり、その奥に 広面砂防ダムがあります。ダム湖の中間点位 右湖岸の岩の目立つ所が有るので、湖水側から岩を見ると北緯34度49分8秒東経133度48分42秒辺りに 人がやっと入れる程の風穴の入り口があります。この山際、広面1277番地・1278番地をドンドと呼び、岡の上で跳ねると ドンドンと音がしたとされます。現在、音は響きません。銅鉱脈を求めた試掘口であろうと推測します。昔、この岩から風が起こり、耕作地を荒しましたので,この風を鎮めようとして、小社を麓に作り、朱雀天皇の頃 承平5年(935年)6月8日に雨坪山の御霊を移転し勧進したとされます。末社に若宮を設け速水神日本武尊でしょうか)を祀ると、霊験あらたかで、速やかに風災は収まり五穀豊穣を得ました。社号を風倉大明神と言います。「手作り ひろも今昔物語」  平成27年(2015年)5月2日

 

三納谷 高見山銅山と久保田神社

Takami-yama Copper Mine and Kubota-jinjya shrine

三納谷大師39番地の東南東の山 北緯34度52分54秒東経133度46分56秒付近が「三納谷城跡」で三納谷銅鉱山跡です。火雷神社の拝殿から 鳥居に向かうと 左手に駐車場に向かう道があるので、駐車場の左奥から 南に下る山道を120m程進むと 山道は 耕作放棄地を挟んで 北西に向かう分岐がありますが、道なりに 南南西に45m程進むと  北緯34度53分3秒東経133度46分57秒に 摩利支天社が祀られていた岩組があります。尾根に沿って 南に180m程下ると 先程北西に分岐した山道と合流し 山道は北緯34度52分57秒東経133度46分55秒で五叉路となり 輪塔が祀られてます。その南の高見山が 三納谷城山です。頂上には 数段の平坦地があり、空堀らしい跡が 堆積物で埋められています。更に下ると 鉱洞跡と思われる穴が 埋められた所に着きます。東側の一個の坑洞の前には 掘り出された石が 積まれています。北緯34度53分39秒東経133度47分6秒 細田明見1372番地に久保田神社が建ちます。本殿の石組みの台座に 何のためにあるのか解らない穴が 高見山鉱山に向いて開けられています。時々 油揚げがお供えされます。 平成28年(2016年)4月20日

 

吉川 河内田 金集山銅山 Kinsyuu-zai-Copper Mine in Kawatida

金集山は 北緯34度48分9秒東経133度46分3秒を頂点(標高406.2m)とする山で、河内田の村人の話しでは  北緯34度48分47秒東経133度45分59秒付近 或いは 北緯34度48分37秒東経東経133度45分7秒付近に 銅鉱山があり。竪穴や 横穴の鉱道が 多数あり、近くに 精錬所跡があり 石が 集積されていると 言われます。

岡山賀陽線(72号線)吉備高原大橋の南東で 街道は 東向きに カーブします、北緯34度48分51秒東経133度45分59秒付近の尾根を ほぼ南に 120m程 登ると 北緯34度48分47秒東経133度45分59秒と 推測する所で 尾根の片側が 巨大なスプーンで アイスクリームの表面を 漉くった様に 大きく 削られ 深い谷になっています。更に 90m程 登ると 北緯34度48分41秒東経133度45分59秒と 推測する所の尾根の両側に 前述したと同じような形状の 窪みが あります。土砂 或いは 鉱物を 露天で 採掘した跡を 連想させます。

河内田集落の左側 加茂川の川向うの 吉川山本227番地の南南東に 山道を挟んで 墓場が 両側にあります。この山道を 南東に 約420m程登ると、東経34度48分36秒東経133度46分0秒と 推測する所で 十字路(実際にはT字路の見えます)となります。この辺りには 鉱道のような構造は 見られません、左(東)に 60m程 進むと 北に向く尾根が有るので 240m程 登ると、金集山の三角点がある 山頂に 着きます。その途中の右手(東)の谷に 鉱動や 精錬所跡が あるとされます。村人は 下り道にそれ等が あると 言うのですが、著者は 下り道を 見つけられませんでした。従って、鉱山遺跡を 発見できませんでした。 令和5年(2023年)5月12日

 

弁蔵銅山

笹目銅山

江与味銅山

河内田水晶山

細田雲母

下土井大蔵家敷銅鉱山

未調査