上竹 立の七人御崎 Hitinin-misaki at Tati


31号線高梁御津線沿いのコメリの西の道を 北西に登り 十字路の辺り、多地(立)、北緯34度51分23秒東経133度40分39秒に 七人御崎塚が 有ります。備中兵乱のおり 矢倉畦城落城時、7人の兵士が 有漢 に逃れようとして 失敗しました。「賀陽町史追補版p794」

案内板には「この塚(祠)は7人御鋒塚と言われ、戦国時代のこの地において 討死(した七人の武士の霊を まつったものである。今から四〇〇年程前の天正二(一五七四)年、備中松山城主、三村元親Mimura-Mototika毛利宇喜多両軍の攻撃を受けた 備中兵乱の時、当時竹荘の土豪として 三村氏に 従属していた 田中直重は 一族地侍 等数千人を 率い、矢倉畦城に 於いて 毛利の大軍を 迎え討ちよく 戦ったが、天正二年十二月二十七日 落城した。この時 矢倉畦城より 落ちのびた 守兵の内七人は、この土地において 攻撃軍に つかまり、乱戦の中に 討死したという。上地の人々は 悲運の武士の為に 塚を立て、霊をまつった と伝えられている。元の塚は 現在より 南約五〇メートルの処にあったが この度、圃場整備により 塚を移 し新たに 祠を立て 無名非○○○まつられる事になった」と 記されています。

田中直重:1500年代の人で、三村家臣でした。天正2年(1574年) 毛利軍の攻撃を 受け、松山城へ 逃げ込みました。    備中矢倉城跡:上竹納地矢倉の北 北緯34度50分38秒東経133度41分37秒 吉備中央町指定史跡の山城(587m/97m)で、築城時期は 不明ですが、田中盛兼が 鎌倉時代後期に 建てたとされています。天正2年(1574年)の頃の城主は 田中直重で、その後、毛利氏に 奪われ、毛利氏の武将 難波親俊が 入城します。    備中兵乱:宇喜多直家は永禄12年(1569年)織田信長と 結び 主君の浦上宗景に  反旗を翻しHirugaesiました。しかしながら、信長が軍の一部を引くと 浦上家に 敗れ降伏するのですが、なぜか 言い逃れに成功し 助命されました。宇喜多直家は 天正2年(1574年)に 浦上宗景の兄の浦上政宗と 手を結び 策謀を巡らし、入念に根 回し 宗景の配下を 離反させました。宗景と 毛利氏の犬猿の仲を 利用し、天正3年(1575年)年の毛利氏対三村氏戦に毛利氏方として 参戦し 浦上宗景を 再び背きました。天正2年~3年に 掛けて行われた戦いがいわゆる 備中兵乱で、備中全土で 織田氏対毛利氏の代理戦争が 起こりました。同年9月に 浦上宗景を播磨国へ 退け、宇喜多氏は 備前のみならず 備中の一部と 美作の一部に 進出しました。中国地方に勢力を伸ばした 織田信長が 足利将軍を 天正元年(1573年)毛利氏へ追いやると、将軍は 毛利氏と 宇喜多氏を 同盟させました。困ったのは 宇喜多氏に 三村親成を 暗殺され 敵意を露わarawaにする 三村氏です。毛利方に残るべき か織田方に付くか 意見は対立し、三村氏は 2分に分裂し、元親の叔父の三村親成や 竹井直定 等は 毛利方に残り、三村氏本家の三村元親 等は 織田方に付きました。天正2年(1574年)毛利元就の3男 小早川隆景が 備中松山城を 取り囲みました。多勢に 無勢の他  日本一険しく高い位置に 松山城は 有ったため 兵糧攻めには 脆くmoroku 又 竹井直定や 大月七郎左衛門尉信通 等の城内の裏切り者があって 天正3年(1575年)に 落城しました。その後 元親の子の勝法師丸は 山手と 清音の境都窪郡幸山城で 元親の妹の婿の城主 石川久式Isikawa-Hisanoriと 一緒に松山城か ら備前天神山城へ 落ち延びようと しましたが、伊賀左衛門尉久隆の配下の者に 捕えられ 井尻野の毛利本陣の井山宝福寺に 届けられました。その途中勝法師丸は 扇を取り出し「夢の世に 幻の身の生まれ来て 露に宿るか宵のいかづち」と ススッスラと 書いたのです。この有能振りに 触れた久隆は 勝法師丸の助命嘆願を 願い出ましたが、小早川隆景は「有能さ故に 生かして置けば いつかは 毛利家に 刃を 向けられる」と 考え、井山の谷で 殺害を命じました。これ等の戦いを 備中兵乱と総称します。    平成26年(2014年)8月15日