吉川 仙久山金福寺 Senkkyuuzan-Konpuku-ji


吉川 仙久山金福寺 Senkyuuzan-Konpuku-ji

吉川槇谷線(307号線)吉川山崎4920-5番地の西に向く分岐に入り、千木川をノボセ橋で渡り 千木集落に進むと、吉川屋敷yasiki6905番地の変則的四差路があるので 北に進むと 金福寺が 建っています。光林山神護寺の末寺で、金福寺は 千木に有りましたが  文政年間に全焼しました。その時 一人の信者が 火に入り2体の木像仏像を 持ち帰りましたが、死亡したため それに 感謝した村人と 寺は 火の御崎として 祀りました。現在金福寺 は再建されております。本尊は薬師如来としています。

境内に 竹荘霊場三十八番の石碑と 大師堂が建っています。大師堂の堂内には3尊の弘法大師空海が祀られています。  Konpuku-ji/temple is built on the north of 6905 Yosikawa-Yasiki     The temple in Sengi was a branch temple of Kourinzan-Jingo-ji , but was completely destroyed by fire during Bunsei period    At that time, a woman adherent took out two wooden statues of Buddha from burning building but he was burned to death    As the villagers and the priests appreciated and thanked her courageous act, they enshrined her spirit in Hi-no-misaki-jinjya “shrine enshrined the spirit of a dead person in the fire”     Konpuku-ji is rebuilt at present     The principal image is Yakusi-nyorai “Bhaisajyaguru”    A stone monument of Takesyou-reijyou-sanjyuu-hatiban “the 38tth temple of the Takesyou Pilgrimage” and Daisi-dou  “hall with an enshrined statue of Kobou- Daishi” are built in the grounds

金福寺の引き込み口の西土手の上 即ち吉川屋敷6905番地の道向かい 北緯34度49分59秒東経133度44分54秒に「念佛講碑」が立っています。「享保十四年巳虎本願 南無阿弥陀佛 十月十五日 念佛講」と 記されています。付近には「千木地区圃場整備記念碑」「千木の頌徳碑」が あります。引き込み道を登り終ると 右手に手水鉢があります。「現住當路代 明治四十四三月吉日 竹荘三十八霊場 施主 正行 〇本秀三 千木 古〇〇五」と 記されているように見えます。その奥の左右に 奉燈が 建ちます。右の奉燈には「平成三年五月吉日 水舟健建之」と 記され 左の奉燈には「昭和六十一年三月吉日 古谷栄一」と 記されています。右の奉燈の奧に「竹荘三十六番」の碑が あります。

山門を過ぎると 右手に小さい石碑と 奉燈があり 左手に「本堂建立寄付者芳名 「平成十七年十二月建立」の碑と 寄付者を示した石碑が 連ねられています。社務所の正面には「番」を崩したような模様の記されている石碑があり、社務所の左前に 手水鉢を伴う奉燈が 建ちます。奉燈には「平成五年十月吉日 藤森幾大建之」と 記されています。その左にも 奉燈が建ち「平成五年五月吉日 「石原進建之」と 記されています。これら2つの奉燈の間の北側に 本堂が 建ちます。本堂の東北の山は 墓地になっています。本堂の裏手に「當山寺有財産増殖費篤志者芳名」の碑が 立ち 芳名者の碑が連なります。

金福寺の右(東)は「千木区文化センター」「千木公会堂」です。千木公会堂の東南の石垣の上に 幾つもの石碑が立ち、石垣の手前右手に 「矢置き石」と呼ばれている上面が 平らな岩が 有ります。石碑群の左端の物は 苔が生していて刻字が 良く読み取れませんが「疾病神」と 記されているように見えるので 厄病神でしょうか。2番目は「地神」です。3番目は 山上大権現像で 前鬼 後鬼を伴っています。「大峯山上大権現 願主  古谷先達栄二〇 (〇は丞に似た字)」と 記されています。 4番目は 市女笠状天蓋を持つ石組みの厨子に 蓮の蕾を持つ僧侶姿の仏像が 祀られています。「延享元年申子 」十二月吉日」と 記されています。その右 5番目の物は 台形状の石組みの厨子で 六地蔵菩薩像が 祀られています。「度天上 度人間 度飢餓 度修羅 度畜生」等と 記された碑札が 数組奉納されています。右端の石組みの厨子には 地蔵菩薩 等の5尊の石仏が 祀られています。中央の仏像には「先祖代々」と 記されています。4尊の舟形墓石の刻字は 浅く 風化が 進んでいて 良く読み取れません。右端の物には「小坂十人組 母〇〇」と その左の物には「母  秋」等と記されています。左手の前に「大日如畨あ(お)〇〇」の石碑が 立ちます。 石垣の右手前に 常夜燈が立ち「奉燈 慶應二丙寅犬 二月吉日」と 記されています。

仙久山金福寺:千木 北緯34度50分1秒東経133度44分55秒    光林山神護寺:北緯34度49分6秒東経133度45分2秒付近 吉川刈尾1188番地    火の御崎らしい墓:偉い人のお付の女性が旅の途中死んだために 葬られたとされる墓が 有ります  かつて金福寺の近くに有ったとされますので この墓かも知れません  吉川7048番地の南 北緯34度50分7秒・東経133度45分4秒に立ちます 火の御崎神社は千木集落の北端 吉川7086番地と吉川7170番地の中間点辺りの北の竹藪の中 北緯34度50分10秒東経133度44分54秒に 建ちます    吉川八幡宮:北緯34度49分11秒東経133度45分7秒 吉川苅山3932番地地 紳徳は商売繁盛 学業成就 交 等です    矢置き石:いつの頃か誰が戦ったのか不明ですが、丸山城と戦をし この岩に矢を置いて丸山城に矢継ぎ早に矢を放ったとされます 丸山城は一山越えた東南方向 約200mは有ります 和弓の射程距離の限界が200m位です    丸山城跡:吉川小茂田の館城で 北緯34度49分54秒東経133度45分1秒付近です 周囲は堀(西堀 東堀)で土塁 郭 堀 井戸跡を残します 城主は吉川刑部 吉川新右衛門 吉川四郎左衛門久直 吉川角之丞久兼で 吉川彌左衛門は 虎倉方の城主と言われます    屋敷・屋シキ:吉川6904・7145番地等 寺ノ后:吉川6912番地    山崎:吉川6913・7113番地等  寺ノ鼻:吉川6914・7111番地等    ノボシ:吉川6930・6948番地等 堂ノ前:吉川7002・7124番地等

平成26年(2014年)8月8日


高貴な女性の墓

村人は「千木の地を 後醍醐天皇が 隠岐の島に流される時に通り掛かり、従者の女性が 病気で亡くなり 金福寺の近くに葬られた」と 話し、この墓を 守る女性は「昔 旅をしていたとても偉い人のお付の女性の墓で、金福寺の近くから この地に下ろした時 立派なお棺に 遺骨が納められていた」と 話しました。

墓には〇〇宮( 国構えに ムの下に貝:圓でしょうか)禅定門

位  〇〇四年八月」と 刻まれているように見えます。右縁に刻まれる字は風化が進んでおり 苔が生しているため 読めません。吉川史に「光林山神護寺の末寺 で 金福寺は 千木に有りましたが、文政年間に全焼しました。一の信者が 火に入り 2体の木像仏像を 持ち帰りましたが 死亡しました。火の御崎として 祀りました」と 伝えられます。禅定門の字が 刻まれているので 葬られた人は男性でしょうが、近くに 水野御女の地名がありますので 後醍醐天皇の忠臣 水野良春の女性関連者が 後醍醐天皇に仕えていた 可能性も あります。長い時間 棺が保存されていた事から推測して 非腐食性の素材で作られていたのでしょう。しかし 火の御崎の祠は 北緯34度50分10秒東経133度44分54秒に建ちます。  後醍醐天皇:鎌倉時代の後期から南北朝時代初期の 第96代天皇で 南朝の初代天皇です。但し、在位途中に 二度の廃位と譲位を 経験しました その間、翌元弘2年 / 正慶元年(1332年)隠岐島に 流されました 火の御崎と思われる墓:吉川 地の南 北緯 秒東経 秒に立ちます    水野御女:吉川7016・7061番地等 堂ノ元:吉川7057・7125番地等  平成26年(2014年)8月8日