豊野 生贄の原 Field for sacrifice


 豊野の椿下Tubaki-simoの池の原(田土)の八畳岩に 賊が 住み着いていました。悪党退治に 西波Sai-na-miと言う 勇士がやって来て 池の原に 賊を おびき出し戦い、賊の大半を 退治しました。この原を 人々は、生贄の原と 呼び、現在は 池の原と呼ぶようになりました。村人は 西波に 感謝し、神として 祀ったのです。それが 今の椿の「西波神Saipa-sin」だと 言います。さいぱ紳と 読む人も  居ります。「椿下の村人より口伝」  「北緯34度52分47秒東経133度43分49秒辺り 池の原は 昔は 大変寂しい所で 人が 寄り付かない所でした。介護制度の無い昔 寝たきりの人が いると、精いっぱいの生活の中で 介護する事は 大変な苦痛であり、農作業等に 難儀したであろう と想像します。そのため、姥捨てUbasute 爺捨てJijisuteすることが 有ったと言われます。この地に 昔 姥捨てされた との伝説が 有ります。そのような野原を 遺棄埋めの原 遺棄埋ヶ原 生き埋めの原だとか 生けの原 等と 呼んでいたらしく、それが 訛って 各地に池の原と 呼ばれる地名が 残るのであると言われます。この地の地名の由来は 遺棄埋めの原だそうです。」 「やまびこ会」

 

西波の意味絵を考察する A Study of the Meaning Picture of Nishinam

田土椿下の 西波神は 下の神で、以前は 男根など セクシャルな物が 奉納されていたとされます。前述の伝説によると 村に侵入する賊を 退治したとされる 神です。この神格は 村に侵入する賊や 病気のを防ぐ 才ノ神塞ノ神の神格に 似ています。才の神は 杉谷の才の神のように耳の病の神 上竹田中才ノ1796番地の西隣地の金精神社と名の付けられた 才の神と思われる神社の様に下の神の神徳を 持つ場合が しばしばあります。また 椿下の西波神社は 新町の西波神社を 分霊したとされます。新町の隅々まで 探しましたが 新町に 西波神社が あった痕跡は ありませんでした。高梁御津線(31号線)黒土北線(305号線)の交差点小桜バス停黒土寺ノ鼻1351番地の道 向いに  黒土的場の才の神が 祀られます。そこより西へ  即ち 賀陽町舎方向に少し進むと  蜂谷に向かう分岐が あります。その南道路脇の豊野蜂谷と 竹荘新町 の境 竹荘信藤地i706番地の東 北緯34度51分45秒東経133度41分57秒に 才の神らしき護符が 祀られています。これ等の状況を考慮すると、西波神は 才の神(塞ノ神)で あろうと 推測します。才の神Siai--no-kamiは 強引ですが、才の神Sai-no-miと読め.、更に変化を 加えると Sai-na-miとも読め。Sai-na-maiに 西波の字が 当てられ、更に それが 音読みとなり、Saipa saibaとなったのでしょう。

 

塞の神 Sai-na-mi

豊野の椿下Tubaki-simoの田土池の原の八畳岩に凶暴な性格の山賊が住み付きました。

大切な食べ物や家財道具 等の村の物を盗んだり、壊したりしました。時には 若い娘を攫ったりもしました。この山賊は 不思議な 病気を持っていました。山賊には 免疫が有るらしく 発病しないのですが 山賊の血や 分泌 糞用 等に触ると 村人が 罹り 時間をかけて発病し 稀に死ぬのです。発病した者は 近くの原に 隔離し 治るのを 待って村に 返しましたが 死ぬ人もいたので 生贄の原と 呼びました。山賊が 村に現れ続けるので 病気を移されないためには 逃げるしかありません。困った村人は 村を 山賊に明け渡し どこかに 避難しようと 相談していると、そこへ光り輝きながら白馬 に乗って 新町の武者夫婦がやって来ました。

村人が 見た武者の顔は 目が大きく 見開き、頭に 2本の角が 有り口は 大きく裂けて 大きな牙が ありました。村人は「新たな鬼が 現れた」 と 怖れ 家々に 隠れ 様子を 伺うと 鬼のような姿をした武者は 穏やかな声で「我等は 塞の神Sai-na-miと 申す 正義の戦士なり  この先の新町に 祀られしに うかつにも 賊の八畳岩の蚕食を 許し 民に 苦難を 被らせり  これは 我等の恥なれば 賊や病を 苛みsainami これ等を 悉く 必ずや 退治せん」と名乗りました。神々しいその口上を 信じ村人は 仔細を話し「賊は 鯨飲を好み 馬肉を肴にする」と 教えてくれました。それを聞いて 武者は 美酒を手に入れ 己の細馬を 見通しの利く 広場の生贄の原に 繋いtunaiで 置きました。手下を引き連れ 鬼の大将が 現れ 一団は 酒と細馬を 見付けると 我先に 酒に群がり 細馬を捌きsabaki 酒宴を 始めました。そこへ 武者夫婦が 前にも 増した美酒の八醸酒を 携え現れ「お仲間に入れて下され」と 言うと、既に 酔が回っていて警戒心を 希薄にしていた 鬼達は 塞の神の鬼然とした 風貌と 仕草を見て 仲間に 入れてくれました。

 塞の神が 挨拶代わりに 胸をはだけ 腰紐を 緩め 絡み合いながら 官能的 な踊りを披露すると 鬼達は 大歓声を 上げ 八醸酒を 奪い合うようにして飲みました。体の痺れに気付いた鬼の大将が「毒酒だ」と 叫び 切り掛かってくると 酔いつぶれるとは言え 鬼達は 強く激しい乱闘に なりました。それでも それは 後の祭りで 鬼達は 次々に 退治されました。それでも村人は 賊の血塗られた地に 入ろうとせずにいたので 武者夫婦は「伊邪那美神Izana-mo-no-kami伊弉諾神Izana-gi-no-kamiの八醸酒は 全ての病を 治す妙薬である  賊の病の元は 消滅した」と 諭し 賊の血の付いた剣を 舐めて見せまた。村人達は 賊と流行り病から 村を救ってくれた 塞の神を、旅や航海の守護神 賊や病気の侵入阻止の神 下の病 婦人病 縁結びの神 安産の神 子孫繁栄の神としても祀りました。だから 西波神社には 男性のシンボルが 納められているのです。生贄の原の地名は あまりにも快くないので 現在は池の原と 呼んでいます。「椿下の村人より口伝」「やまびこ会」を基にした物語

  西波大神:いかなる神か 村人達は 語りませんでした。侵入した山賊と闘い、身体の下の部に関する(夫婦和合、泌尿器疾患等)神は 猿田彦命Saruta-hiko-no-mikoto天鈿女命Ame-no-Uzume-no-mokoto(猿女Saru-me)夫婦と習合した 道祖神を 思い出させます 中国の道祖神は 日本のさえの神(塞神 才神 妻神 斎神 性神等)と 習合しました。堂内に 鬼に似た 対の面が 掲げられています  猿田彦命は 天狗と習合する程の 強面Kowamoteです。天鈿女命は 天の岩戸の前で 裸踊りした 芸能の神です  天孫降臨の折りには 高天原の軍勢を 蹴散らかした 猿田彦命の正体を聴き出すよう 爾々杵命Ninigi-no-mikotoに 命じられていますが、その時「手弱女Taoyameだが 面勝Menkatiと 表現される程の 強面の女神で 天の岩戸で見せた姿で 猿田彦命を 魅了し 高天原に寝返りさせました  二柱の性の営みは激しく 道祖神像に その様子が表されています    西波神社:豊野 北緯34度52分53秒東経133度43分53秒    八畳岩なる大岩:山の頂上付近 北緯34度53分16秒東経133度43分45秒に大岩があります  この岩が八畳岩かどうかは 解りません    八疉岩:豊野6536・6537・6540番地    椿池の原:北緯34度52分47秒東経133度43分49秒辺り 伊邪那美・伊弉諾の唾:「https://ja.wikipedia.org/wiki/神産み」  塞の神:サルタヒコ - Wikipedia」「天孫降臨 - Wikipedia」 道祖神・猿田彦命:nihonsinwa.com/page/157.html」「塞之神神社 - 安岐郷誌 (agimura.net)」 病の元:梅毒を想定した架空の病原体「https://ja.wikipedia.org/wiki/梅毒 

埋葬の歴史 History of burial in Jsapan

墓は 縄文時代から 立てられています。平安時代には 貴族や 豪族は 薄葬令により 縛られておりました。その他の者の葬の場は 高貴の者も庶民も 定められた葬の場に差別なく 葬送され 貴族 等は 盛土塚(土葬) 石積塚(火葬墓)に 葬られました。多くの死体は 木棺に納められたり蓆Musiroの上に置かれたり 放棄されたり(風葬 鳥葬)しました。亡骸を 穢たもの(伝染病の懼れ)として 触るべきでないと されました。葬送場所に 放置し死者と 餓鬼の世界でる葬送地に 生きている者は 殆ど近付きませんでした。www.sougiya.biz/kiji_detail.php?cid=408」「japanese.hix05.com/Folklore/Burial/burial09.gaki.html 江戸時代前迄は「喪葬令Souspou-ryou(大化の改新の翌年 646年)に よって 民衆の墓は 禁止されました。www.sol.dti.ne.jp/hiromi/kansei/yoro26.html しかし 喪葬令による縛りは 次第に守られなくなり 庶民の一部が 大型の墓を立てられるようになると「墓石制限令 天保2年(1831年) 「https://uguisu.skr.jp/history/haka3.html」「www.hakaishi.jp/books/index.html」が  発せられ 庶民の墓の大きさが 制限されましたが、庶民が 墓を作る事が 解禁されました。しかし 実際には 墓石を立てたり 墓地所有できたのは 支配階級や 権力者や 蓄財者に限られ、百姓等 一般庶民の多くは 屍は 放棄され 一部の者が 川辺 海岸 山の中に埋葬 或いは 放置され 運が良ければ 土饅頭に 卒塔婆Sotobaの墓標を立てられていましたが 次第に 庶民の者達も 墓を 建てるようになって行きました。百姓町人に対する墓石制限令は 明治時代になって 廃止されるまで 続いています。detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1248317062」 仏教思想では 死後は「無」即ち 遺体は抜け殻ですので 遺体投棄場所 が各地にありました。okwave.jp/qa/q7939170.html」 戦国時代 等の敗戦者戦死者等は 関係者や 地域の住民が 供養塔を 建てました。合戦後 数十年程過ぎた頃に 遺族 等が建立する場合もありました。okwave.jp/qa/q7939170.html 江戸時代初期迄の埋葬法は 土葬 火葬 水葬 野葬(投げ打ち鳥葬) 林葬(樹上)岩窟葬でしたが、江戸時代には 多くは土葬で 一部で火葬されました。japanese.hix05.com/Folklore/Burial/burial02.cremation.html」 江戸時代の江戸では 溺死体は 沖に向け 突き流す事が 定められていましたが、地方では 遺体回収する事が 一般で あったようです。www.sougiya.biz/kiji_detail.php?cid=488」 江戸時代の死刑は下手人 斬首 打ち首 火あぶり 鋸引きでした。下手人以上の罪の者は 成仏できないとされました。首と胴体とが離れていると 成仏しないと信じられていましたので 下手人の胴と首は 繋がれ 遺族に 引き渡され、下手人以外の死刑囚の遺体は 供養が 禁止されていて 試し切り等に 供されました。巡礼には 死に装束を 身に着け「死後は その地の作法で 葬って下さい  連絡は 不要」としたためた 手形を 懐に携 え旅立ち、遺体が 発見場所に その地の作法で 埋葬されました。巡礼者の接待や 弔る事は「功徳を積むと 地獄の裁判 で罪一等が減じられる」と され 町役人や 庄屋 等が 埋葬しました。okwave.jp/qa/q7939170.html」    江戸時代の墓には「埋め墓 :ミハカ サンマイ ボチヒキバカ」と「参り墓:ラントウバ ラントウ タッチョウバ サンマイ」に 別れている 場合がありました。埋め墓は 山奥等に 遺体を葬りました。遺体は 悪臭を伴うほか 死因が 流行病である可能性が あるので 多くの場合 お参りはしませんでした。https://ja.wikipedia.org/wiki/両墓制」    京都音羽山清水寺の舞台は 寛永10年(1633年)に 徳川家光よって 再建されました。昔 清水寺辺りを 鳥野辺Tori-no-beと呼ばれ 化野Adasi-no 蓮台野Rendai-noと 共に 京都3大葬送地でした。多くの死体が この舞台から 放棄されたと されました。悪臭を 避けるために 高い舞台に なっていると 言われます。kyotohotelsearch.com/blog/2011/06/01/kiyomizunobutai/」 江戸中期以前の墓地を持たない人達の埋葬地や鳥葬地(共同墓地)については「吉備中央町の伝説 歴史伝説 共同墓地」を参照ください。