吉川 手作り公園・癒しの散歩道裕園 handmade park-comfort walking route・yuuen


吉川河内田1005-1番地の北の山 五輪山 北緯34度48分46秒東経133度45分31に 手作り公園・癒しの散歩道 裕園が 開かれています。72号線岡山賀陽線吉備高原大橋で 東側にある側道に入り、ぐるりと大橋を潜ります。牛淵橋を渡り 加茂川と並行して800m程南下し 大きく右(西)にカーブするあたりの右手に 裕園があります。あるいは 吉川槇谷線吉川八幡宮の東から南に 約270m進み 吉川小学校の西を 南南東に 600m進み 沼本組の南を 東南東に中国園力賀陽変電所の南を通過し 500m程進むと 遊園の入り口に至ります。

平成11年(1999年)から 平成25年(2013年)にかけ 人生に手助けされた郷土の人々に  恩返しする目的で、一人の村民が 手造りで開いた公園です。開園 直前 開園後直ぐに見学した折 園長の小林裕さんは、親切に園内を案内し 建設資材の調達 建築技術の習得 資金問題 人生等の苦労話をしてくれました。平成28年4月10日は 花見祭で 名高達男さんが 招かれていて 一緒に写真撮影させていただけました。今回 訪ねて行くと一部展示等が 変わっていましたので、内容紹介については 令和3年(2021年)9月20日に 合わせました。

昭和28年4月の桜祭りでは 園内には多くの屋台が 立ち並んでいました。和洋の彫刻仏 焼き物 映画関係ポスター俳優達の写真等の資料等が 沢山展示されていました。舞台が 備えられていて、芸能が 披露されていました。観客席は 露天ですので 雨の日の講演は 中止されるそうです。

所在地:岡山県加賀郡吉備中央町吉川西648番地 電話番号:0866-56-8840 入園料:無料 営業時間:午前10時から午後3時半まで 休園日:火・水・木曜 ※天気予報で降水確率が50%以の時 12月から3月は休園 HP:https://ameblo.jp/kibiyuen」です。公道から私道に入ると 石畳の小径が始まり 順路が示されています。門の横には 青い女性像の横に「ここは故郷癒しの公園 ここは故郷心の小道」と 書かれています。

左の壁の「園長夫婦」「イベント」「遊園ガイド」等の掲示を 見ながら進み、最初の分岐を 左に向うと、右手高所に 仏の頭像が2点祀られて、由来が説明されています。次に「俊藤浩滋」の碑が 左手にあり、仏の祀られる処の麓には「体験から生まれた詩」8句が 掲げられています。少し進むと  左手に「壽」の石碑が立ちます。『冬を耐え春を待つと花が咲く』と記された、お人形象も 目を引きます。その先で 道は急カーブし 「大黒天」が 墓場の隣地に 祀られています。更に進むと 右手に「記念写真撮影コーナー」があり 俊藤浩滋資料館に 向かいます。資料館の手前で フクロウの人形象を見ながら 左に向うと 左手に 「弘法大師像」が 立ちます。その右手奥が 「大師広場」で 「大師堂」が 建ち 左側部分に「地蔵さま」が 祀られています。地図をクリックすると大きくなります。


地蔵さまの道向かいには 「おみくじ売り場」と 休憩場が あります。大師堂の右奥に 赤い涎掛けを付けた「地蔵菩薩像」が 祀られています。大師堂の北に回ると 「龍王さま」が 祀られています。その隣地が「トイレ」です。

龍王様の左道向かいに「地蔵さま」が 祀られています。龍王さまの道を挟んだ左側に「五輪さま」が 祀られています。龍王さまと五輪さまの間を登ると 画廊の小径に 入ります。その右脇奧に「布袋像」が 祀られています。画廊の小径を 抜けると 直ぐ左に向う分岐があり、この山の頂上に 出ます。辺りの田園風景を眺望できます。分岐に入らず 進むと「茂美荘」(休憩場)や「四季の花園」のある「茂美広場」に出ます。裏門があり 茂美荘の左下を下ると 城ヶ鳴に(公道)に 出ます。順路に従い登ると 右手に 仏が祀られ「仏様の言葉 私はインドネシア(バリ島)より 平成16年に 裕園にやって来ました。云々」と 説明されています。ここから 帰り道となり 鋭く右に折れ、下り始めると 小池があり 龍の像あります。「登龍」と名付けられていて、 園長作の着色されていない 胴が うねっています。

すると 左手に 休憩場 お土産売り場等の売店 即ち 吉備の都(一部はリサイクル店)があり 眺望の良い休憩棟も あります。道の左側(山側)の壁には 更に 富司順子 人見絹枝 有森裕子 高橋佳子 斉藤慶子 加山美子等を 紹介するパネルが 嵌め込まれています。

さらに進むと 右手に調理場兼売店「食事所菜の花」があります。そのまま下ると「おみやげ下野」の前を通り過ぎ 大師広場の右に出ます。「菜の花」の下から 左に鋭い角度の分岐があります。分岐を進むと「俳句の展示場」とされる建物があり「映画の小径」に 進みます。

映画の小径の奧側を「ゆたか館」と呼ぶらしく 改修中です。建物を抜けると、急な角度で 右に曲がり 下ると 右に分岐があり 左手に「 涙の湖畔」が あります。

 階段を登ると「俊藤浩滋資料館」に入ります。分岐を進まず 道なりに進むと、左に引き込み道があり イベントの広場に出ます、入口左手に 対の仁王像が 立ちます。広場は150人収容っできるベンチがあり 正面に「ステージ」が建ち その奥に 「鶴の宿」が建ちます。「売り場」「トイレ」があります。


大黒天 大黒天仏教の天部の守護神達の一尊で、軍神 戦闘神 富貴爵禄の神 食堂の神 厨房の神とされましたが、財福を強調して祀られた大黒天が、日本に伝えられました。最澄が 毘沙門天弁才天と合体させた三面大黒を 比叡山延暦寺の台所の守護神として祀りました。後に大国主神と習合し「大黒さん」として親しまれています。案内板には『大黒天 寄贈されたものです  お客様にご利役(ご利益)がありますように  平成31年3年 建物作り 梶〇古弘 岡山市玉〇1789-25」「施工協力者 大黒天:::大:::文字書:河内とし子  居酒屋「とりよし」上瀬博  左官仕事 森延さん』と 記されています。

龍王さま 龍王は 公園中心部の頂上、現在手水鉢が2個置かれている 北緯34度48分43秒東経133度45分33秒に 八大龍王として祀られていましたが ここに移設されました。案内板には『龍王様「雨乞いの神」長い日照りが続き 作物や生活に雨が大変欲しい時 雨乞いをするために 祀られました。この山から南西の田、川を隔てて対面に見える かつて銅の採掘をしていた 通称 きんしゅうざん(金山)の頂で火を焚き、遥か北の伯耆大山に向い雨乞いの儀式を行いました。その後に2キロほど北西にある神護寺(天台宗)内の龍王様にお祈りし 祈願しておりました。たちまちお湿りがあったと言われております。』と 記されています。

おでっさま 弘法大師が 祀られています。大師像の前には「人生とは心の修行の場である」との碑が立ちます。弘法大師は 空海Kuukaiの事で 真言宗の開祖です。俗名は佐伯眞魚Saeki-no-Maoで、中国より真言密教を日本に伝えました。能書家としても有名で、嵯峨天皇 橘逸勢と共に三筆と 讃えられます。 この大師堂は 公園工事が始まる前から「竹之荘霊場 第十八番札所」として この場に建っていて、小路に伴い園長が お堂を建て替えたそうです。

お地蔵さま 4尊の仏像が 祀られています。これらの供養石像群は 河内田橋に祀られていたものが 移設されました。しばしば 氾濫した加茂川や 吉南川の水の犠牲者が 出ないことを祈ったのでしょう。近くに 銅鉱山(金集山)水晶鉱山(水晶山)が有ります。この地域は 残されている地名から推測して  「鉄穴流し」も行われたようです。これ等の採掘作業によって、生じた廃砂は 川に流され、河内田(「川に挟まれた所」の意味を持つ地名と思われます)を 流れる加茂川や 吉南川は 荒れ しばしば氾濫したのでしょう。左の大きい地蔵菩薩像には「台座前:法界 左:橋施主 沼本仁左衛門 右:宝永六年 一月八日吉日」と 記されています。次の地蔵菩薩像には「心石:南無阿弥陀佛 台座:法界」とだけ 記されていて、水の犠牲者の供養塔と思われます。右側の2尊の舟形仏像の大きい仏像の縁には「左:矢野村 右:おとよ」と 刻まれ 小さい仏像には「左:うちの〇〇と〇〇 右:よノなつ 」と 刻まれています。案内版には『お地蔵様「人柱地蔵」その昔眼下に流れる吉南川には橋がありませんでした  人々は川を渡る不自由な往来をしておりました  明治の頃 河内田橋のもとに人々の安全 川の静に人柱の代わりとして土地の沼本庄屋によってお地蔵さまがまつられました  長い間 橋の元にいて 人々の往来の安全を 見守ってきました その後 橋の改修に伴って ここに移転安置されました」と 記されています。 流田:吉川281・617番地等(鉄穴流しを連想) 槙ヶ坪:吉川349・399番地等(たたら製鉄の燃料・薪を連想) 牛淵:吉川363・386番地等(石がゴロゴロしている淵を連想・垢離取り大明神との関連を連想) 川内田:吉川385番地 槙ヶ平:吉川401・425番地等(たたら製鉄の燃料・薪を連想) 河内田:吉川434・435番地 北砂:吉川448・451番地等(砂鉄を・開墾地を連想) 輝砂:吉川452・453番地(雲母あるいは砂鉄を連想) 古泉:吉川455・525番地(鉄穴流しの調整池を連想) 梅ノ木:吉川463番地(川の氾濫による土砂の堆積あるいは廃砂の捨て場を連想) 梅木:4吉川77・478番地 丸金東:吉川501・502番地(金属を連想) 桶ノ誥:吉川544・545番地(鉄穴流しを連想) 三十田:吉川567・571番地等(たたら製鉄が30代行われた事を連想) 扇田:吉川574・690番地等(土砂の堆積を連想) 河内田:吉川577・739番地等 水廻し:吉川579番地(鉄穴流しを連想) 通ノ下:吉川586番地(鉄穴流しを連想) 水通し:吉川590・591番地(鉄穴流しを連想) 城ヶ鳴:吉川625番地(不毛な平地を連想) サコダ:吉川650-652番(砂鉄産地を連想) 黒喰:吉川756・841番地等(鉱山を連想)

五輪様 五輪山の最高峰 北緯34度48分46秒東経133度45分31秒に 五輪塔等の供養塔が 祀られていましたが、公園を作る時 公園内の現在の場所に 移されました。元有った場所の山頂付近は3段の狭い作平地の上に 更に狭い作平地が有り 頂上付近は塚状に高まり(小山塚) その東側が 掘り取られ作平されています。そこには 岩が5個程雑然と並んでいます。この五輪塔が 建てられたので、五輪山の名が付いています。公園内の五輪搭の横に建てられる案内札には『五輪様「戦国武将の供養塔」戦国時代に毛利の軍勢が備中松山城を攻め、続いて備前の虎倉城(旧御津町)攻めに向かう時、軍勢の一隊は 上竹から下竹(旧賀陽町)を経由し、もう一隊は 大和(旧賀陽町)から この河内田を通り 虎倉城へと進撃しました。その時、砦として この地にあった辻堂の兵士と戦いとなり、亡くなった その武将たち を供養するために 地元の人達により 五輪塔が 建てられました。それが この五輪さまです。それ故 いつしかこの山は五輪山と呼ばれるようになりました」と 記されています。備中松山城合戦(毛利3軍・宇喜多直家伊賀久隆三村親成連合vs三村元親は 天正2~3年に展開した備中兵乱の主合戦で、虎倉合戦(毛利3軍vs伊賀久隆)は 天正8年(1580年)に展開された戦いで、上加茂川合戦(加茂崩)を以て 終結しました。毛利3軍(毛利両川Mouri-ryousen)とは、毛利輝元 小早川隆景 吉川元春の軍の事です。備中松山城戦で 積極的でなかった 宇喜田直家を 木下藤吉郎は 織田信長方に引き入れました。直家の裏切に怒った 毛利輝元は 宇喜多直家を討つべく まず 宇喜多氏の最大勢力であった 伊賀久隆を排除するために 精鋭軍3万を以て、伊賀方の支城を次々に落し、虎倉城を丸裸状態にしました。処が 虎倉城で決戦すべく進軍していた時 深い霧に巻かれ 上加茂で 完膚なきまでの加茂崩れを 起こしました。宇喜多直家は 伊賀久隆の強さ 故に 反逆浦上村宗赤松義村に 直家が浦上宗景に仕掛けた下剋上のように)を恐れ、死の直前に 妹(久隆の妻)等に命じ 久隆を毒殺させ、秀家を守ろうとしました。

画廊の小道 「ようこそ 絵の展示」の展示棟から「画廊の小径」に入ると「金魚が泳ぐ鉢」「中国洛陽展」「河内としこ  絵手紙」「名高達男 版画  現在無し」「何これ珍百景 ビデオ案内」「ベンチの上の何これ珍百景の座布団」「俊道浩治展」「孤独に堪える者 」「横山大観の絵画」「龍の像」 「ウミガメの剥製」「小林廣子 折り紙」「 花野幸子と仲間たちさんのパッチワーク現在無し」「お客様の絵画展」「ビデオ案内」等の作品が 沢山 展示されています。名高達男さんは 園長が 平成9年(1997年)頃 隠岐の島「フィツシグハウス ゆたか」で ダイビングしたり 魚釣りを一緒して以来の友人で「裕園」開園 以来「4月のべント 桜祭」にはしばしば応援に来て下さるそうです。

茂美の広場 この公園の最高所に当たります。左に向う分岐に休息棟「茂美荘」が立ちます。広場は花壇になっています。裏門があり、公道から道が登っています。休息場もあり、丸いテーブルや、屋根付きベンチがあります。花壇には この季節(9月)には 花が咲いていませんでした。

 

食事処 吉備の都   帰り道から向うと「休憩場」「陶器売り場リサイクル売り場」和式風の卓と座布団のある「屋内食堂」洋風のテーブルと 椅子のある「野外食堂」が 並びます。園長夫婦の作る 手料理が振る舞われます。見通しが良く 景色を眺めながら 飲食を楽しめます。この公園のモチーフは 京都の街並みですが、この付近で その特徴が 顕著です。

菜の花 休憩場 調理場と 食事処で成り立っています。奥様が 調理係のようです。平成3年に訪ねて行った時には 調理場では 近所の子供達がお小遣いを 手にして 寄り集まっていて、お菓子の値段交渉を 掛け合っていました。休憩場には 裕館への、道標が掲げられています。ふるさとそばふるさとうどん700円 いももち(2ヶ)400円 揚げたい焼140円等と、メニューが 示されています。

俳句の展示場 最初に「俳句の展示場」の看板のある建物があり、多数の陶器類「茂之杓松如」の木額「隠岐の島 フィッシングハウス ゆたか アルバム」の多数の写真集等、多数の展示物があります、この棟を抜けると「映画の小径」になります。「映画の小径」の案内札が示され 通路の壁には「長谷川一夫」「千守塗装」「美空ひばり 江利チエミの弥次喜多道中記等の」等のポスターが 展示されています。

石原裕次郎館 園長は石原裕次郎さんの大のファンだそうです。裕園の名は 園長の「裕Yutaka」に由来するものと思っていましたが、石原裕次郎さんの「」に 由来しているようです。全てを 丁寧に 鑑賞できない程の 非常に沢山の資料が  所狭しと 展示してあります。奥の方を「ゆたか館」と言って、園長が 大工仕事をしていました。大改造するのだそうです。

涙の湖畔 水脈がありそうなので池を作りましたが、水が溜まらなかったそうす。園長の詞「泣いた 啼いた 人生50年 おかげで 涙の湖畔が できた 今では 心に涙の湖畔が 心に勇気 を栄えてくれる  ゆたか 50歳」が添えられています。池の奧に 青色の女性像が飾られています。「願いが叶って 涙が出なくなったのかなぁ」とつぶやくと、奥様は「涙が枯れた」のだと語られました。「水が無いと 申し訳なく思う」のか、四角いプラスチック容器に水が 溜められています。

俊藤浩滋映画資料館 東映プロデュ―サーである俊藤浩滋さんと交友があり、映画に使われた台本や 小道具を 譲り受けたそうです。石原裕次郎さん 高倉健さん 藤純子さん 等 園長の心に滲みた 俳優の資料が集められています。開園時の招待者は 峻藤浩滋さんの娘さんの富司純子さんだったそうです。涙の湖畔から 階段を登ると 休憩場があり、その奥に「俊藤浩二資料館」が あります。中央部部で ビデオ案内されています。

催し広場 時々 演歌歌手等を招き、イベントを開くそうです。園長作詞のテーマソング「故郷の小道」やイメージソング「幸せの花」の」CDが 販売されています。イベントの開かれる日には 大勢の人が訪れ、お祭騒ぎのように成ります。園内にある売店が開かれます。入り口には、「協力者 中山森造 人見絹枝 有森裕子」と 記されています。

 

仁王像 催しの広場には 平成16年(2004年)寄贈の対の仁王像が 祀られています。コンクリート彫刻家の 中山森造さんが、裕園建設を聞きつけ、製作した物です。仁王像は 特徴的な顔の表情が 誇張されています。園内には「登龍」像も 寄贈されています。案内札には『登龍 世のため 人のために 作り寄贈しつづけた人 平成の「左甚五郎」と評された人 中山森造 八十七才 作 岡山県上房郡有漢町』と 記されています。中山さんは 平成17年(2005年)に 亡くなられていますので、裕園建設中は 彼の晩年に当たります。先述の「登龍」吉備津神社の「桃太郎像」、石の風車のある常山公園の入口の「豆狸像」も 中山さんの作品です。

展望台 裕園(五輪山)の頂上等は 展望台になっています。付近が一望でき、田園風景を観光できます。ここで草取りに働く人が「木陰で一休み  風が吹いてくる  なんとも言えなく気持ちいい  この一時になんとも言えない幸せを感じます  さあまた、作業開始します」と語っています。

 何これ珍百景 テレビ朝日系列で 2018年10月14日から レギュラー放送されている バラエティ番組です。吉備中央町の投稿では「新山の天然の冷蔵庫」(著者の記憶に持ちづく)、2011年 7月6日放送「竹部の年中登りづらい坂 No1017]、2013年7月31日放送「15年かけた手作り公園 No.1666 MVP 賞金 30万円獲得」が 放送されました。午後7時頃の吉備高原小学校体育館も候補でしたが  撮影班は来ましたが 何らかの理由があってか 取材できなかったようです。

河内田橋:吉川加茂川に架かる橋 北緯34度48分39秒東経133度45分37秒 牛渕橋:吉川加茂川に架かる橋 北緯34度49分1秒東経133度45分45秒 河内田公会堂:吉川 北緯34度48分42秒東経133度45分39秒 古庄屋:古庄屋は手作り公園癒しの散歩道裕園の北東隣 吉川河内田648番地の東隣 北緯34度48分45秒東経133度45分35秒 金集山:北緯34度48分44秒東経133度46分1秒 水晶山:北緯34度48分38秒東経133度45分48秒 輝砂:吉川452・453番地 辻堂:吉川629-637・641番地 城ヶ畝:吉川994番地 城ヶ鳴:吉川999番地  北緯34度48分40秒・東経133度45分3秒 扇田:吉川574・690番地等 河内田:吉川577・739番地等 水廻し:吉川579番地 西:吉川580・766番地等 黒喰:吉川756・841番地等 金鑄場:吉川940番地  平成28年(2016年)4月13日 令和3年(2021年)9月20日