宮地 中之谷 鉄砲幸佐 Gun master-Kousa


大和の西山に「幸佐の寝床」がありました。宮地の中乃谷の住人鉄砲の名人幸佐が 猪Inosisiを 追い  狩りをする時、そこで 寝起きしていたと 言われます。藩主も 幸佐の名人ぶりは 良く知っていて、狩りに出る時には 呼び出し お供に 加えました。そんなある時、手負い(の猪が 殿様に向かい、猪突猛進して来ました。殿様は「それ 幸佐…」と 叫ぶと、すかさず幸佐が ドーンと一発  鉄砲を 撃つと 猪は 突進を止めました。しかし 未だ立っています。皆は 幸佐が 撃ち損じたと 思って「外したか」と 言いました。幸佐は「肝より1寸下ぁ 狙い撃ちしましたけぇ 、あの大きさからすりゃぁ ちぃたぁ(すこしは)抵抗しょうが もうすぐ死ぬる」と 言いました。幸佐の言う通り ほんの暫く後に、牛程もある大猪が 倒れました。「さすがは幸佐  死ぬタイミングまで 計算できとる」と 感心し 褒めたのです。また その頃 塩飽Enpou大島では 鹿が大繁殖して、農作物を食い荒らして 農民を苦しめ、時には 人にも害をなしていました。幸佐は ならば「俺が 鹿退治してくれる」と 言って、腰弁当と 草鞋掛けWaraji-gakeで 出かけようとしました。お上さんが 鉄砲を持たずに 幸佐が出かけようとするので 不思議がり「お前様  鉄砲は 要らんのかい」と 尋ねると、幸佐は「今回は 要らん」と 答えました。村に着くと 困っている村人を 集め、百本ずつの 藁結組Wara-Yuiso持たせ 繰り出し鹿を追わせました。鹿の逃げる通り道の木や 岩に 結組を 結わえさせました。幸佐は「結組を 取るな」と 告げて 帰っていきました。翌年 幸佐は 村の若い猟師を 連れて 大島に行き 鹿が村に来ているのを 確認すると、結組に 沿って若い猟師を配置し  隠れさせた。村人に 鹿を追わせると 鹿は 逃げ道を 走り抜けようとした。通り過ぎざまに 若い猟師達は 鹿を 撃ち仕留め、鹿を次の結組の方へ 追いました。こうして 鹿の殆どが 仕留められました。村人は 喜び 感謝し、幸佐達が、黄泉Yomiの旅に出た後 3つの墓を立て 祀り)ました。「賀陽町史」    

総社賀陽線(57号線)を 総社に 向かうと57号線が 直角に曲がり、暫く行くと ゴルフ場の案内版が あります。幸佐の寝床のあった西山は ゴルフ場 吉備高原カントリークラブになって、幸佐の寝床は 無くなっていました。北緯34度46分49秒東経133度40分58秒です。猪の横腹から 肝蔵より一寸下を 打ち抜けば、重要臓器では 胃腸 あるいは すい臓を 射抜く事になります。これでは直ぐには 死なないか、手負いになるだけで 死なないかも知れません。肺臓より一寸下なら、急所である心 臓に当たる 可能あります。結組を 態々 結ばなくても  獣道を 目標にして 射手を 配置すれば 1年後 を待たなくてもよいのにと 思います。  平成23年(2011年)9月25日

 

中之谷の川原幸八 Kawahara-Kouhati in Naka-no-*tani

 中之谷の川原家に 幸八と言う人がいました。鉄砲射ちが 好きで、鉛を 溶かし 一升枡一杯の弾丸を 作り 練習を 続けました。新式鉄砲が 流行りhayariましたが、買い替える費用が無いので 旧式鉄砲一つで 訓練し 百発百中 狙いを 外さない程に 上達しました。人々は 鉄砲幸佐と呼んで その腕を 讃えました。その腕前を 見たいと殿様に 乞われ、猪狩りをした伝説、塩飽大島での鹿狩りの伝説が残ります。ある時 幸佐は 唐人山に 猪を 狩に 出掛けました。猪の生息する場所を 良く知っているので、感は違わず 猪に出合いましたが、急斜面でしたので 傾斜に 足を滑らせ 討ち損じました。猪が 馬越の方向に逃げたので、まずは 長い距離を走り生ずる脱水を防ぐため走りながら「お曽代 水じゃ 水じゃ」と 怒鳴り 喉の渇きを癒そうとしました。嫁は心 得たもので 五号柄杓一杯の水を 持って、行く手の家下で  待ち受け 手渡すと、幸佐は 一気に 立ち飲みし 柄杓を 投げ捨て 西村原から 実光 堂谷を 駆け抜け 鴨が乢に 至り 足を止め 鉄砲を構えました。すると 逃げていた猪が 目の前に現れたので 一発で 仕留めました。幸佐は  猪が逃げる方向と 速さを予測し、水を飲む余裕を 見せて 近道をして 先回りし 射止めたのです。「大和村史」   河原幸八係る墓は3基あります。初代幸八は 妻を持たず、かどの分家 守久の屋敷の居候となり 一人暮らしを 楽しみました。従がって 彼の妻の墓は 有りません。墓石には 皆見道閉霊 寛政十年千七百九十七 五月十五日と 刻まれています。一段と大きい墓が 三代目で、岡山県篤志善行者表彰を 受けました。殿に 召し出されたり 猪競争に勝った幸八の墓で、仏種院顕影日恵信士 明治三九年久月六日 河原幸八 行年八十四歳と刻まれ、傍らに 仏性院妙恵日層信士 大正十二年一月七日 河原幸八妻 曽代 行都市八十七歳と刻まれた墓が 建ちます。 中の谷の川原幸八の実家:調査中    唐人山:北緯34度47分23秒東経133度44分42秒    通称の唐人山:唐人山の西の麓近くの地域 北緯34度47分24秒東経133度44分20秒付近    馬越:岨谷ダムの西 北緯34度46分32秒東経133度43分39秒付近    西村・柳原:西1448・1486(北緯34度48分14秒東経133度40分41秒)-1503(北緯34度48分19秒東経133度40分45秒)-1508番地等    實光:西611・660(北緯34度47分25秒東経133度40分54秒)・809(北緯34度47分32秒東経133度40分51秒)・906(北緯34度47分31秒東経133度41分2秒)・907(北緯34度47分32秒東経133度41分2秒)番地等    堂谷:西668・696(北緯34度47分14秒東経133度40分43秒)-700(北緯34度47分14秒東経133度40分42秒)・711(北緯34度47分19秒東経133度40分45秒)-713番地等    鴨ヶ乢:西703・704番地    西家下:岨谷255番地・西家ノ下:岨谷258番地    河原幸八の墓:調査中    かどの分家:調査中    守久の屋敷:調査中    西の西山:北緯34度47分21秒東経133度40分54秒付近    西山:宮地3323-3336(北緯34度46分24秒東経133度40分48秒:吉備高原エミエール病院番地    狩床:北3309-3326・3328-3333番地    休床:西2709-2724(北緯34度48分10秒東経133度39分52秒)-2726(北緯34度48分10秒東経133度39分53秒)・2737番地等 幸佐の寝床のあった西山はゴルフ場北緯34度46分49秒 東経133度40分58秒の吉備高原カントリークラブになって幸佐の寝床は無くなっていました 狩山:西2728・2745(北緯34度48分15秒東経133度39分57秒)-2764(北緯34度48分19秒東経133度39分53秒)・2781番地等  平成23年(2011年)9月25日