富永 長尾の娘の悲劇 Tragedy on the girl in nagao


富永長尾Nagaoの風呂山のケンゾウ寺と言う地の娘が 岡山城に女中奉公に 上がりました。その頃の少し名がある家では 若い娘達は 嫁入り前に「行儀作法の見習い」と言って 武家屋敷に 奉公に上がったのです。お殿様が たまたま 甲斐甲斐しく働く 美しい娘を見て 見初め嫁に欲しいと 思いました。お殿様は 家来に命じ、娘に 承諾を得ようと 努力しましたが、ガンとして 娘は応じません。お殿様 は殿様の嫁に成る事は お百姓の娘にとって、玉の輿の大出世で 贅沢も できるのに 下働き如きが 大名の申し出を 断る事に 合点が行かず、焦れに焦れて 娘に直接会い 断る訳を聞きました。娘は「長尾に好いて好かれる婚約者が おるけぇおえんのです」と答えました。聡明で 民に気を配る お殿様でしたので 娘の気持ちと 婚約者の気持ちを重んじ、自らの欲望を 捨て 娘を郷の婚約者に返す事にしました。身分の低い百姓の婚約者に 最高の身分の大名が 遠慮(したとあっては、まして 恋争い に負けたとあっては 大名としての面子が 立ちません。家来は 殿様の面子を重んじ 思案を重ね「娘が城中で 不始末をしたので 郷に返す  勝手に処分しねぇ」と 父親に 伝え、郷に 送り届けました。娘が 事情を 話しましたが、長尾の者達は 娘が 命惜しさに 嘘を言っていると 思い 娘の言う事を信じようとしなかった のです。 「処分しろ」と言う、家来の言葉を「殿様に反抗的だった罪で 殺しなさい」と言われたと 勘違いし、家来の言葉通りに 受け止めました。

五人組が 長尾神社Osao-jinjyaに集 まり 娘の死刑執行人の人選をし「殿さまの怒りを 鎮めるには 婚 約者が 適任である」 と 結論を出し、法大寺の組頭は 重い心を内に忍ばせ 婚約者に 娘を殺せと命じました。婚約者 は 娘を信じたく て 断ったのですが、侍にましてや お殿様に逆らう事は 絶対に許されません。そんな事をすれば 村全体の者の共同責任のお咎めが 有るのが 当たり前の時代でした。だから 5人組の組頭は 婚約者の申し出を 招致してくれませんでした。婚約者は 泣く泣く 愛しい娘を 殺しました。すると翌日 家来の者が「お殿様の心遣いである」と 言って 婚約の祝いの品を届けに やって来ました。村人達は 早まった行いを恥じ 不憫な娘を 悼み 長尾大師堂の近く に墓を立て 輪番でお祭しました。「加茂川町史」

長尾神社Osao-jinjya北緯34度52分47秒東経133度44分53秒 長尾大師堂Nagao-Daisi-dou北緯34度52分46秒東経133度44分58秒    法大寺:富永73・86番地 建曽寺:富永85番地   賢蔵寺五輪塔:北緯34度52分31秒東経133度44分53秒近く  長尾の娘の墓の有力候補でしたが一祐善心墓 寶暦11年辛巳7月24日建 土方氏」と 刻まれています  善心は 地頭土方衛兵衛の子で 鉄砲組の隊長格でありましたが 病死しています。次男 小三郎が 跡目相続しました。「加茂川町史」

悲劇の長尾の娘の墓:長尾公会堂より 北に向き 福谷川を 渡り 150m程進むと 左手上方 北緯34度52分45秒東経133度44分55秒富永前場268番地のみなみ90m程)に「寛延三年 午年 妙清禅定尼 位 三月二●三日」と 示された 墓石が 立っています。悲劇の長尾の娘の墓とされます。寛延三年(1751年)の時代は 桃園天皇 徳川家重の治世の頃で、岡山藩の若殿は 宝暦2年(1752年)に藩主となった池田宗政です。幼少の頃から 聡明として 名を馳せました。禅定尼(禅定門尼・禅門・禅尼)の戒名は 仏門に入って剃髪した女性を指し、武士階級や 商人等にあっては 藩に関わる仕事に 就いた女性に 付けられます。 この時代は 大名 等の特権階級の者以外 墓を立てる事が 禁止されていた時代ですので、戒名の付いた墓 しかも女性の墓は 特例です。侍や 庶民が 墓を建てられるようになったのは 天保2年(1831年)の「墓石制限令」により 庄屋や 豪商等が 法を破り 巨大な墓を 建てていたのを 取り締まるようになってからです。長尾集落には、特異な事に 何も刻まれていない墓石が 並べられた墓地が 幾つもあります。 平成23年(2011年)10月26日)