上加茂 奥谷 堀田勘左衛門 Kan-zaemon Hotta


春日局(天正7年:1579年-寛永20年:1643年)は その名を 斎藤福と言います。お福と 通称されていました。明智光秀の家臣 斉藤利三の三女です。斉藤道三の妹が 利三の前妻とされ、お福は 徳川家光の乳母です。稲葉一鉄の長男の 稲葉重通の養女と なり、重通の婿養子の妻が死ぬと お福は17歳で稲葉正成Inaba-masanariの後妻Atozoeとなりました。夫と共に 文禄3年(1594年 )まだ14歳の小早川秀秋の養子に なりました。その年 日本は 小早川秀秋を総大将、正成を 副将にし 朝鮮に 遠征しましたが 苦戦し、豊臣秀吉の不興を買うのですが、徳川家康が仲裁してくれました。19歳で 長男 稲葉正勝を 出産します。豊臣秀吉が 無くなると、豊臣の家臣 石田光成と徳川家康が 対立します。正成は 豊臣秀吉の養子でしたが、かつての恩と 怨があり 正成は 小早川秀秋に 徳川家康側に付くよう進言し、関ヶ原の合戦で 一端は 西軍 豊臣方に 布陣しましたが 裏切って東軍 徳川軍に味方し、東軍の勝利に 貢献しました。小早川秀秋が 死ぬと、家督を 継ぐ者が 居ず お家断絶となり、正成を 始め 家臣は 皆 浪人しました。関ヶ原の裏切りは 諸侯の不評を招き、旧家臣の再就職の妨げと なりました。それで、夫婦は 美濃で 百姓暮らしを始めました。そんな中 正成が 浮気するとすると 浮気相手を お福は 殺しました。https://ja.wikipedia.org/wiki/春日局

加茂川町史によると、お福の夫は 堀田勘左衛門定利(正吉・正利の間違いでしょう)で、堀田勘左衛門は 稲葉内匠頭正成Innaba-Takumi-no-kamiMasanariの家臣であり 備前国津高郡堀田加茂の生れであるとされます。加茂は 現在の上加茂であるらしいのです。また同時に 堀田勘兵衛は 稲葉内匠頭の妾腹の娘を 娶り、お福の腹違いの娘の婿と 記しています。「加茂川町史」 加茂川町史と史実との矛盾は さて置き、お福の義理の弟 堀田堪左衛門は 徳川家の御家人に 取り立てられ、4百万石を 賜っています。大阪の陣で 武勲を立て 七百石を 賜りました。勘左衛門の息子の堀田加賀正盛は 15万石の大名になり、正盛の子 筑前守正俊は 大老に 取り立てられました。お福の力業Tikarawazaが 物を言ったのでしょうか。奥谷の流れ柿の辺りに 野面積Nozuradumiの石垣が あります。恐らく 堀田屋敷の跡だろうと されます。野面積みとは 自然石を 組み合わせた石垣で 排水に 優れますが、手掛かりが 有り 登り易いのが 欠点です。「加茂川町史」    堀田屋敷跡:北緯34度51分16秒東経133度48分21秒    流れ柿:北緯34度51分17秒東経133度48分23秒    奥谷古墳群の内の最大の古墳:北緯34度51分17秒東経133度48分23秒      平成23年(2011年)9月8日