七夕をしない訳 reason for not celebrating Tanabata-festival "star festival "

七夕は、アルタイルとベガと呼ばれている 2つの星、即ち 彦星と織姫の伝説的な出会いの物語に 由来します。織姫と彦星が 結婚すると、2人は愛に溺れて 働かなくなりました。これに怒った神は 彦星と織姫を 天の川を挟んだ両岸に 引き離し 反省を求めました。しかし 神は  余りに悲しむのを見て、心動かされ 彦星と 織姫 が77日に 年に一度だけ 再会することを許しました。だから毎年その日に七夕祭りが行われ、恋人達が再会できる日と言わるようになりました。 Tanabata derives from the story of the legendary encounter between two stars, called Altair and Vega, namely Hiko-boshi and Ori-hime When Ori-hime and Hiko-boshi got married, they drowned in love and stopped working Angered by this, God pulled Hiko-boshi and Ori-hime apart on both sides of the Milky Way, and asked for reflection However, God saw that they were so sad, and he was so moved, he allowed Hiko-boshi and Or-ihime to reunite only once a year on July 7 That's why every year on that day, the Tanabata Festival is held, and it is said that it is a day when lovers can meet againhttps://foreignlang.ecc.co.jp/know/k00043d

 

加茂川地区の者に 七夕を祝わない人がいます。永禄11年(1568年)7月7日、松田氏の護る金川城が 宇喜多直家の陰謀によって 落城しました。それで 松田氏を 慕っていた土地の人達は、七夕祭りをしないのだと 言います。「上田東の村人口伝」


宇喜田直家の陰謀 Conspiracy of Ukita-Naoie

永禄5年(1562年)金川城主 松田元輝Matuda-Mototeruの子の松田元賢Matuda-Motokataと 宇喜多直家の娘が 結婚した折 松田氏の臣下であった虎倉城主の伊賀久隆も 宇喜多直家の妹と 婚儀を行い 宇喜多直家との結束が 強まりました。松田氏は 城内に 寺を建立し 読経に明け暮れ  領内他宗寺社に 改宗を迫り 断った 吉備津彦神社や 金山寺 等を 打ち壊したり 焼き払う程に 日蓮宗を 偏執的に 布教しようとしました。天台宗信者を 多く抱える 久隆は 松田氏の偏見的な日蓮宗の布教に 抵抗しました。それが 原因で 松田氏と 久隆は 仲違い状態になりました。永禄11年(1568年)金川城 鹿狩りの折り 松田氏の最重要家臣 宇垣与右衛門Ugaki-Yo-uemonが 鹿と間違えられ 何者かに 射殺されました。この日本初の銃(弓ともされる)による 狙撃事件は 宇喜多氏の仕業と 推測されましたが 元輝は 宇喜多氏との同盟関係を重視し 黙認しました。これに 激怒した 与右衛門の兄の宇垣市郎兵衛は 絶縁状を 叩きつけ 出奔しました。そこへ 宇喜多直家が 伊賀久隆に 松田氏の金川城を 乗っ取る話を 持ちかけると 伊賀久隆は 鉄炮が今後の戦いに重要と 考えていたので 鉄砲の生産地 長船を 牛耳る直家との同盟を 重視し すんなり 承諾しました。永禄11年(1568年)7月5日 松田元脩(Matuda-Motonaga 等 松田氏の親戚や 重臣が 数多集まったのに合わせ 城門警護を 預かっていた伊賀久隆 伊賀与三郎(後の家久)親子軍は 場外から 急襲しました。外出中の元輝は 横井又七郎が 集めた兵に守られ 搦め手から入城し 籠城戦を 指揮しました。 久隆の提案で 侵入者が 歩き難くするため 城の要所に 角張った石を 敷いていて 伊賀軍は 周到に 草鞋を2重に 履いていたので 軽快に 走り回れましたが その備えを怠った松田氏の兵は 足を痛め 機敏に走れず 伊賀兵に圧倒しました。伊賀久隆は 宇喜田直家の梟漢ぶりKyuukan-buriを 知っていたので 自分が 直家に騙されているかも知れないと 推測し 宇喜多軍が 到着する前に 戦の体制を整える作戦を 採ったのです。すると 敗戦を悟った松田元輝は あろう事か 敵陣近くの木に登り 久隆親子の悪口を言ったため あっさりと 鉄砲玉で仕留められました。恐らく もう直ぐ 到着するであろう 宇喜多軍に 何かを訴えようとしたのでしょう。

7月6日 宇喜田軍が 到着すると ほぼ戦いの趨勢は 定まっていたので  伊賀軍を 城内 城外から挟み撃ちにしようとしていた  宇喜多直家は 作戦を変更し 伊賀久隆軍に 合流し 金川城の本丸を 朝晩攻め立て 2日で 陥落させました。落城を 察知し 夜中の闇に紛れ 逃げ出した松田元賢 松田元脩も 伊賀忍者に追撃され 下田村で 討たれました。松田元賢の妻は 知らせを聞き 自害しました。金川城は 宇喜多直家の弟 宇喜多春家が 城代として入りました。その日が 7月7日であったので 松田氏を慕っていた土地の者は 七夕祭りを 暫くの間自粛したと 言われます。今もその時の家臣や 村人の末裔に 七夕を祭らない者がいるそうです。その一部の末裔が  吉備中央町に住んでいて やはり七夕を祝わないのだそうです。https://ja.wikipedia.org/wiki/宇喜多直家」「https://ja.wikipedia.org/wiki/伊賀久隆」「https://ja.wikipedia.org/wiki/松田元輝」「御津町のはなし」    北区御津金川城:北緯34度48分15秒東経133度55分53秒. 御津虎倉城:北緯34度50分13秒東経133度50分2秒  平成24年(2012年)11月15日

 

豊野 キュウリを栽培しない訳 Reason not to cultivate cucumber


豊野や 竹荘には キュウリを 栽培しない農家が有ります。その理由に「キュウリの匂いがすると 河童が出て来て悪さをする。」「キュウリを作ると 不幸がおこる。」「キュウリの切り口が 徳川家の紋の三つ葉葵に似ている。」「お盆のきゅうり馬は せっかく訪れた先祖を 早足で彼岸に連れて行く。」からだと 様々でした。

 

キュウリを作らない村 Village that does not cultivate cucumbers

三重県熊野市小阪の平地区では 最近まで「河童伝説」に 従って キュウリを 栽培しませんでした。現在は「かっぱの石碑」を 立てお祓いし  キュウリを 栽培しています。  江戸時代には この地域は キュウリの栽培に 適していて 盛んにキュウリを 作り 牛でさえ食べていました。  食べ終わると ヘタだけを 川流していましたが 川で 牛がおぼれる事故が 多発しました。 キュウリのヘタば かり捨てる村人に 河童が怒って 仕返しをして いたのです   それが解ると 村人が「村では きゅうりを作らないから 迷惑をかけないでくれ.」と 河童と 約束し 以来350年以上 キュウリ作りを 禁止していたそうです。https://open.mixi.jp/user/2301766/diary/1932728920 」 

 

河太郎伝説 Legend of Ga-tarou 

奈良県吉野郡川上村の枌尾Sogio地区に伝わる話が あります。中枌Naka-Sogiさんが 中奥川で 馬を洗っていた時 突然河太郎(河童)が 馬の尻子玉を取りに 来ました。馬の魂が 籠る尻子玉が取られたら 馬が気力と 精神力を失って 使い物になりません。中枌さんは 河太郎に「馬を助けてくれたら もうキュウリを作らない。」と 交渉しました。中枌家は 代々約束を守りましたが 一度約束を破ると 怪我をしたり 病気になったりしました。https://sotokoto-online.jp/274」 平成24年(2012年)11月15日

 

三谷の七夕  Tanabata-festival in mitani

昭和24年(1949年)の7月6日 竹を切って来て 飾り物と願い事 等を 書いた5色の短冊を飾りました。願い事 等は その朝 里芋の葉に溜まる露を 集めて 墨を擦り 書きます。筆の上達の願いの意味を 持ちます。7月7日に 玄関 等に 飾り 茄子牛 胡瓜馬を 供え 灯明しました。夕方になると 飾り物を 三谷川に 流しに行き また 笹船を 作り流しました。七夕に 降る雨を 催涙雨と言い 織姫と 彦星が 流す涙だと 聞きました。「著者の体験」  精霊馬syouryou-uma精霊牛syouryau-usi:飾らない宗派も 仏教宗派もありますが 多くの宗派では お盆に ナスと キュウリに 割り箸や 爪楊枝を刺して 馬や牛と 見立て 飾ります。キュウリ馬 ナス牛とも呼びます。足の速い馬に ご先祖様の霊を 一刻も早く 家に 連れて来てもらい 足の遅い牛には なるべくゆっくり 彼岸に連れて行って欲しいと 願います。逆に ゆっくり牛に 運んで来てもらい 馬に 早く仏の世界に連れて行ってもらいたいと 願う 家庭もあります。「https://shinto-bukkyo.net/koyomi/年中行事/お盆のなすときゅうり(精霊馬)の意味とは|作り方や飾り方など解説   平成24年(2012年)11月15日

 

七夕の語源 etymology of Tanabata

日本の古来では「棚機Tanabata」という神事を していました。秋の豊作と  人々の穢れ祓いを祈り 乙女が 着物を織って 供えたと 言われています。棚機は 着物を 織る機械のの事です。着物を織るために 選ばれた乙女を「棚機津女Tanabata-tume」と 呼ばれ その女性は 部屋に 籠って 着物を 織ったそうです。そして 着物のお供えを7月7日にしたので 七夕Siki-sekiと 呼びますが いつのまにか 七夕Tanabataと 呼ばれるようになったそうです。7月7日に お供えし 米の苗が 台風や 水害に合わず 丈夫な稲穂に育ち 秋の豊作を願いましたhttp://nijiblo.com/archives/2791.html

  

日本の七夕伝説  Legend of Tanabata in Japan

昔々 天の川の辺に 神様達が住んでいました。その神達の一人の娘に  機織りを 担当する織姫Ori-hime/Syoku-jyoが いて 婿に天の川の岸の牛飼いの牽牛kenn-gyuu(彦星)を 紹介すると お互いに一目惚れし 結婚しました。とても仲良しだったので 仕事を放り出して 愛し合う日々でした。そのため 神の衣は ほころび 牛は痩せ衰えました。神様は 二人の堕落に怒り 天の川の東西に 別れて暮らさせました。でも 神様は 織姫が悲しむので 7月7日だけ 会う事を許し 二人は 会える日を 楽しみに 仕事に励んでいますhttps://www.weblio.jp/wkpja/content/七夕 - 織女星と牽牛星の伝説 - Weblio辞書」 

 

天稚彦伝説 regent of Ama-no-Wakahiko

ある日三人の美しい娘をもつ長者の家に 大 蛇が現れ 手紙を届けました。手紙をには「娘を よこさなければ 親娘5人とも殺す。」と 書いてありました。長者夫婦が 娘達に頼むと 上の二人の娘は断りました。末娘は「父上 母上を見殺しにできない。」と 言うので 両親は池の傍に釣殿を立て 末娘を置き去りにし 逃げ帰りました。する と 稲光や1雷鳴が起こり 大蛇が現れ「刀で私の頭を切りなさい。」と 言いました。娘が 言われたとおりにすると 中から立派な 貴公子が現れました。娘は 貴公子と結ばれ 仲睦まじく暮らしていましたが 夫が「私は海底に住む海竜王の天稚彦Ame-no-wakahikoです。  急用で 父の住む天に 帰ります。 唐櫃Karabitu/Karoudo/Karauto/Karatを 置いて行きますが  決して開けてはいけません  開ければ ここに戻ってこれな くなります   三週間経っても帰らない時は  西の京の端に 杓を持っている女人がいますから その杓を譲って貰い  それに乗って 天に 登って来なさい、」と  言って 旅立ちました。すると 二人の姉が やって来て むりやり唐櫃を開けると 煙が立ち上りました。三週間経ったので 娘は京の女人から 杓を譲り受けると 杓は 瓜の芽になり 天まで 弦が伸び  娘を一夜の内に 天迄 運んでくれました。苦労して 道を尋ね歩いていると 明けの明星が 天稚彦の居所を 教えてくれました。こうして娘と 天稚彦は 前にも増して 仲睦まじく結ばれたのですが 天稚彦の父は 恐ろしい鬼で ある日やって来て「人間臭い。」と 探し回るのです 。天稚彦は 娘を 扇や 枕の姿に変え 守ってやりましたが ついに娘を 見つけ「息子の嫁にふさわしいか試す。千頭の牛を 野に放し 夜迄に牛小屋に 戻せ。」と 言いつけました。天稚彦は 衣の袖を 解いて 娘に与え 振らせると 牛は 牛小屋に 入りました。翌日には「倉の米を 全部別の倉に移せ。」と 鬼親父が 言いつけをしました。娘が 天稚彦の袖を振ると 無数の蟻が 一粒残づつ運んで くれました。

さすがの鬼親父も「お前を 息子の嫁と認める。 じゃが会うのは 一月に一度だけじゃぞ。」と 言いました。ところが 娘は「一年に一度だけ。」と 聞き間違いしました。鬼親父が それに気付き「一年に一度だけじゃ。」と言い直して  持っていた瓜を投げ付けると 瓜からは 水が流れ出して 天の川となり 二人の間を 隔ててしまいました。こうして 天稚彦は 彦星に 娘は織女となって 年に 一度 七月七日の七夕の夜だけ会う事になりました。https://www.about-tanabata.org/origin/」   夏の大三角:彦星は「鷲座」のアルタイルで 織姫座は 琴座のベガとされますhttps://kids.yahoo.co.jp/zukan/astro/summer/0016.html

 

漁師ミケランと天人妻伝説 Rejent oy Fisherman Mikeran and Heavenly wife

ある日 漁師のミケランが 森の池の傍を 通りかかると 羽衣を 松の木の枝にかけ 美しい天女が水浴びをしていました。ミケランは 羽衣を 盗み隠しました。天女は ミケランに 見られているのを知ると「羽衣がなくては 私はもう天に 戻れません  あなたのお嫁さんに してください」と お願いしました。そして 天女は ミケランの妻となり 二人の子供を 儲けました。ある日 天人妻は 子供達が「お蔵のお米の下に きれいなおべべが 玉虫色に光ってとってもいい匂い。」と 口ずさんでいるのを聞いて それをたよりに「飛衣Tobikin」と「舞衣Maikin」の羽衣を見つけ出すと 二人の子供を連れ 天に帰って行きました。置手紙には「あなたも 天に連れて帰りたいのですが 重過ぎて 飛べません。草鞋を 千足編んで 埋め その上に 筍を植えてください。その竹は 天に届く程 伸びるので 伝って 天迄登って来てください。」と 記されていました。ミケランが 置手紙通りにし 竹を登って行くと あと一歩の所で天に届きませんでした。草鞋が 一足たりなかったからです。するとミケランの飼い犬のシロが 登って来て 雲に前足をかけ 尻尾を垂らして「私の背中をよじ登ってください。」と 言いました。こうして 天に登る事ができたミケランは 天人妻や 子供達と 抱き合って喜び合いました。そこへ 天人妻の父の天帝が現れ「まず夫婦親子の再開の祝宴だ。その後 お前が わしの娘の夫に ふさわしいか試す。」と 言い出しました。天人女房は ミケランに「天上の食事作法では 何でも 横に切って食べます。祝宴は 父上のしかけた罠です。」と 耳打ちしました。ミケランは 出されるご馳走を 皆横に切っ  食べました。最後に 瓜が残ると天帝は「瓜位は 縦に切れ。」と 言うので 天帝の言葉に逆らえず ミケランは 瓜を 縦に切りました。すると 瓜から水が噴き出し 大河となって流れ ミケランと 天人妻や 子供達は その両岸に 引き離されました。天帝は「娘や子供達とは 別居させる。じゃが娘が わしを卑怯者扱いするので心苦しいから 年に一度だけ七月七日の夜に 会わしてやる」と 約束しました。 こうしてミケランは「彦星」に 天人妻は「織姫」になって 二人の子供を連れ 天の川を 隔てて瞬きあっているのです。https://www.about-tanabata.org/origin/

 

世界の七夕の起原 シュメールの七夕伝説 Legend of Star festival in Sumer

七夕伝説は世界中に多くあります。日本神話に関連した七夕伝説では瀬織津姫は織姫https://shinto-bukkyo.net/shinto/kamisama/瀬織津姫のモデルで 饒速日命は彦星https://shinto-bukkyo.net/shinto/kamisama/ニギハヤヒ(饒速日命)とは|その正体や瀬織津姫が妻説https://freebird-sky.com/nakatsuguu-tanabataのモデルとされます。

ユーフラテス川のほとりに ウルクのお城と ガッシュのお城が 有ありました。二つの城は 互いに嫌いだったで 何時も 戦いをしていました。ある日 ウルクの城のお姫さまが ユーフラテス川の畔で 夕涼みしていました。そこへ ラガッシュの城の皇子さまが 通り掛かり お姫さまを 見付けました。その可愛らしさ 美しさに見惚れて お友達になりたく 声を掛けました。戦争が 続いていたので 部屋の中で 退屈な生活をしていたお姫さまも この日は久しぶりに 開けた川原に来て 自由を楽しんでいたので 気持ちが 解放されていました。しかも 声を掛けてくれた人が 頼もしげな 凛々しい若者だったので 恋心をくすぐられました。二人は 恋人同士になり 7回 誰にも知られないままに 川の中の島で デートをし 続けましましたが これ知ったお城の王様達は 二人合を 合わせたくなくて 両岸の橋を 壊しました。そのため 二人は 逢う事ができなくなりました。処が  不思議な事に 7が重なる奇跡の日に 両岸の竹が スルスルと伸びて来て  川の中の島に 二人を導いてくれました。しかし 雨の日は 水嵩増してが増して 渡れないので 二人にとって 悲しい日になるそうですwave.ap.teacup.com/renaissancejapan/719.html

 

平成31年(2019年)3月31日に【岡山「へその町」の民話 追補版-岡山県吉備中央町の採訪記録 立石憲利 吉備中央町図書館 吉備中央町教育委員会】が発行されました。P83

~P86に「子供の年中行事」「七夕」の題名の昔話が載っています。