尾原 子宝観音 Child givinng Kannon-bosatu


寺屋敷の太鼓丸付近で 開墾中に 1.8寸の銅製の 観音菩薩像が 掘り出されました。最初 金製でしたが 何度か 法院が 拝する内に いつの間にか 仏像は 銅製に なってしまいました。それでも 近所の子宝に 恵まれないご婦人が  試しに 拝んで見ると 子宝に恵まれ、更に 不妊女性3人が 拝むと 2人に 子宝が恵まれました。子宝に 恵まれるご利益があるとは知らず 拝んでいたこの屋の祖母に 双子を生ぬ等して 計12人の母と なりました。長年 子供が生まれなかったお孫様も ご利益が 有りました。「尾原 苅山の村人の経験談」

 

子宝観音物語 story of CHILD GIVINNG KANNON-BOSATU

昔 苅山に〔茂]と 言う男がおりました。働き者だったので もっと畑が欲しいと思って 畑を増やす事にしました。大ガッソになっていた 苅山城跡の寺屋敷の辺りを お父さんと 一緒に 開墾しました。ガツンと鍬が 何か堅い物に 触れました。「又 癖の悪り 石ころじゃ」と 思って 掘り出してみると なんと 金の観音菩薩像でした。「有り難や 有り難や」と 言って「掘り出し観音」と 呼んで 仏壇にお祀りしました。この観音様に どんなご利益があるか知りたくて 法院様に 頼んで 拝んでもらいました。法院は「一度じゃ解らん」と 言うので 何回も拝んでもらっていると、法院は「照見様が見える  ご利益は 子宝に恵まれる事じゃ」と 言いました。茂は「なんじゃ その照見様とは」と 尋ねると、法院は「備中守藤原実高と言うお方が おって 寝屋の長者と呼ばれていたんじゃが、もんげぇ教養のある照見様と言う奥方を もろうたんじゃ  お似合いの二人の夫婦仲ぁ ぼっこう良うて、何不自由無く幸せな毎日ぅ 送っていたんじゃ じゃが 子が おらんのだけが 不満じゃたんじゃ  ある年 奥方ぁ 大和の国の初瀬寺Hase-deraの長谷Haseの観音様に 詣でたら ひょっこり子を 授かったんじゃ  その照見様じゃが」と 答えました。それを聞いて喜んだ茂は 沢山のお布施を上げました。

すると お父さんが観音様を見て「茂ぅ  どねぇになっとるんじゃ  観音が銅に化けとる  緑青がふいとる」と 言うので、法院を 呼び付け 訳を聞きました。法院は「観音様ぁその人の願いぃ その者に合ぅた姿で 聞いてくださり、その者に合ぅた姿で 叶えてくださるんじゃ  じゃけぇ この姿に 変化されたんじゃ  これが庶民の者が 子宝ぁ授かる ご利益ぅ 頂ける 有り難ぇ姿じゃ」と 堂々と言うのです。茂は「なるほど  まぁ仏ぁ仏じゃ  あたら疎かにゃぁできまぁ」と 思って大切に仏壇に 祀りました。茂の友人に 鴛鴦夫婦の名を 地で行く者が居りました。しかし 何故か10年間 添い通しているのに 奥方に 子供が出来ず、跡取りの心配をする歳に 成っていました。茂が 掘り出し観音の変化の話をすると、その夫婦は「そりゃぁ 上手げに 騙されたんじゃなかろうか  じゃが物ぁ 試しじゃ  拝まして頂戴ぇ」と 言って 拝んで 帰りました。すると 夫婦に 子が 恵まれました。それを聞き付けた 不妊に悩む者が次々と 3人やって来て 拝むと この人達 も 目出度く ご利益を 得ました。その上 毎日観音様に お供物を上げていた茂の母が 産気付き 双子を産みました。次の年も 身籠り 双子が 生まれました。次の年には 三つ子が 生まれました。そしてついにに 12人の母親に成りました。驚いた茂は「恐てぇKyoutee 事じゃ  また婆さんに もっと子が できちゃ困ろうもん  秘仏にせにゃぁおえるまぁ」 と 言って観音様の厨子を 封印しました。時に 男が訪ねて来て「有り難ぇ観音様ぁ祀られておられるそうじゃ  わしぁ男じゃけぇ 妊娠は せんけぇ 物の話の種にするけぇ 拝ませてぇ」と 言っても 茂は「おえん  あんたみてぇな上男Jyoutoko(色男)にゃぁ 拝ませられん  あちこちに 父無子Tetenasigoう 生まれたらどねぇする」と 言って 断りました。時代が変わり 日本の合計特殊出生率(一人の女性が一生に産む子供の平均数)が 極端に低くなったので 子供が増えて欲しいと願う茂は 自由に参詣してもらうようにしたそうです。現在8名の不妊に悩むご婦人の7人に 子宝に恵まれました。心配された 父無子は 増える事は 無いように見えます。「尾原苅山の村人より口伝」「鉢かづき姫のお話 (murata35.chicappa.jp)」を基にした物語    大屋敷・寺屋敷:尾原刈山 北緯34度55分13秒東経133度44分51秒    観音堂:尾原1401-1403・1413-1415番地    観音堂跡:尾原前地1427番地の北道の東 北緯34度55分14秒東経133度44分58秒    太鼓丸:尾原1417-1418・1421・1516・1519番地 仮山1507番地の東・馬乗り場の南東 北緯34度55分9秒東経133度44分53秒    仮山:尾原1419・2017番地等   原仮山1447番地:北緯34度55分9秒東経133度44文47秒 尾原仮山1507番地:北緯34度55分8秒東経133度44分54秒等 馬乗場:尾原1473・1474・1510番地 仮山1507番地の北東の鼻 北緯34度55分10秒東経133度44分51秒  おおがっそ:化け物が住んでいるような深い繁み どねぇ:どんな具合に できまぁ:できない筈だ うまげ:うまい具合に おえるまぁ:しないとダメでしょう おえん:だめ     平成28年(2016年)5月11日

 

粋な観音様物語 story of wonderful mr.Kannon


昔 観音様を信じていた 結婚願望の強い 可愛らしい女の子がいました。ある夜 夢枕に 観音様が現われ「あした拝みに来られぇ  最初に合うた男と 結婚せられぇ  幸せになれらぁ」と お告げになりました。娘は 心をときめかしながら 観音堂で待っていると 貧乏くさい男がやって来ました。「なんと すばろうしい男じゃ  あねぇな男に 嫁がせるTotu-gaseruたぁ 観音様もいけずじゃ」と 思っていると、みすぼらしい男が 石に躓いてTumadui-te転んだ所へ 突然馬を走らせ 凛々しい若武者が やって来ました。娘は「流石sasugeぁ観音様じゃ  なさる事が 粋Ikiじゃ」と 言って若武者と 結婚しました。「早く子供が欲しい」と 願うのですが、夫は 摩利支天を信じ 妻にも 拝ませ武芸に励むばかりで 大して見向いて ももらえず 3年経っても 子供ができません。「kaして3年 子無きは去れ」と ばかりに「三行半Mikudarihan」を 書かれ  郷に追い返されました。娘は 意地悪な観音様に「お告げ通りにしたのに 不幸になった」と 文句を言うと、その夜 観音様が 再び 夢に現れ「まさか あの男が ひょろどうてかやるたぁ 思わんかった  明日 も一度お参られぇ 上男Jyoutokoぅ 待たしておくけぇ」と お告げになりました。母親と連れ立って 出掛けると、あのみすぼらしい男が 観音堂の掃除をし 終わり「わしにゃぁ どぎゃぁして 嫁が来んのじゃ  こぎゃぁに お守りしとるんじゃ  観音様 早うお告げの通り嫁を 世話してつかぁせぇ」と お願いして居ました。母親は 信 心深いその男の独り言を 聞いて、娘の事情を 男に話し「観音様のお告げじゃ  娘の婿mukoになっておくれぇ」と 頼みました。娘は「あねぇな男じゃ 嫌Yaじゃ  本に 観音様は いけずじゃ」と 嫌がりましたが、母親に「出戻りの癖ぇして 贅沢ぅこくもんじゃぁねぇ  観音様を信じねぇ」と 言われて、娘は 渋々 結婚しました。娘は みすぼらしい夫との子供を 生みたくなかったので「観音様  子供を授けんでくせぇ」と 頼みました。

しかし 夫は 観音様に感謝し、妻よりはるかに熱心に 毎夜 観音様を 拝みましたので 間もなく子宝に 恵まれました。「いけずな観音様じゃ  なして うちを ひょうたくるんじゃ」と 始めの内は 言っていましたが、自分の子供は 可愛いkawaii)もので 父親似の子供が 笑う姿に 幸福を感じ 嬉しくなりました。子供が 好きになると 疎ましかったはずの夫が 上男に見えて来て、好きになりました。夫は 相変わらず 粋な計らいをする 観音様を熱心に拝み、妻も 積極的になったものですから 二人には 大勢の子供が 生まれ家は栄えました。「馬には乗って見よ 人には添うて見よ」です。「尾原苅山の村人より口伝」を基にした物語    じょうとこ・上男:色男 美男子    すばろうしい:貧乏くさい  みすぼらしい いけず:「いじわる」を意味する女性言葉 ひょろどう:フラフラする ふら付く   かやる:ひっくり返る なして:なんで ひょうたくる:いじわるする からかう     平成24年(2012年)4月22日

 

和の碑物語 story of Ston monumennto of Wa "Harmony"


 茂の家の近くに 観音様と一緒に 観音様に護られた仏達と 行倒れの地蔵様が 仲良く住んでおりました。東の丘の上に 住んでいた仏達は 彼らの微笑ましい仲良しぶりを見ている事が 好きで堪りませんでしたし、村人も 毎日のように参詣する事が 楽しみでした。処が 自動車が使われるようになると 観音堂の前の道は 自動車が通るためには 狭く不便でしたので 広げる事になりました。観音様と 観音様に護られていた仏達は 手狭となった境内から 寺屋敷に新しいお堂を建てそこに引っ越させられる事になり、お地蔵さんは 崖上に 移されました。仲良し達が 人間の都合だけで 離れ離れにされるのを見ていた丘の上の仏達は 一人ぼっちになった地蔵様が 寂しがるので、自分達だけは 絶対にここに留まり 遠くから地蔵様を励まそうと相談し「行かん 行かん」と 踏ん張りまし。寺屋敷に移された仲良しの二尊の仏(供養碑)は 「地蔵様に 合いたい 合いたい」と 夜な夜な泣きました。踏みとどまっていた 丘の上の仏達も 道路拡幅工事に合わせ 現在の刈山札所に 墓石ごと 移転させられました。仲間が増えても 2基の墓が「地蔵様に 合いたい 合いたい 帰りたい 帰りたい」と 夜泣きし続けたのです。うるさく騒ぐ仏達に 村人達の足が遠のき 仏様と人間との和が 乱れました。すると村には 土地の所有を廻って いざこざが 起こったのです。いざこざを 経験した茂は この仏達の友情を見ていて 人間の身勝手が 悲しくなり、村人と相談 し 夜泣している2尊の仏と 2基の墓を 元の地に戻してやる事にしました。これを切っ掛けにして 村人の話し合いも進み、土地の売り買いの話も 決着が付き 平和が取り戻されました。茂は 和の重要性を感じ、人 自然 仏の和を願って 和の碑を立て、十数年に渡り 広大な敷地 に 躑躅tutujiや皐月Satukiの木や 花々を植え、人の心 仏の霊を和ませnagomaseました。花の咲く季節には 街道を行く旅人や 村人が 脚を止め、刈山の山を 愛でます。「尾原 苅山の村人より口伝」を基にした物語

帰りたいの墓・行倒れの地蔵:落合加茂川線の塚原橋で 刈山に向かうと Y字路となるので 南東に道なりに進むと 左手北緯34度55分15秒東経133度44分58秒に小さい平坦地があり 3基の墓と、1基の台石が 有ります  2基は 並んで立ち、その内の一基は 石製の厨子に囲まれた 輪塔であり、1基は 石塔で、この2基が「帰りたい 帰りたい」の墓です  かつて ここに 観音堂が 建 っておりましたが、現在の寺屋敷に 移されました   観音堂の南西 尾原1427番地の北東 北緯34度55分13秒東経133度44分59秒に 行き倒れの巡礼者を悼んで祀った 地蔵が立っています

行かん行かんの墓和の碑: 尾原1427番地の東の山裾に 墓場がありました。誰かが ご利益高いと 時々参拝していました。観音堂移設に伴い管理主の不明なこの墓を 新設の観音堂に移そうとすると「行かれん 行かれん」と 夜泣きするので ここに残されました。和の碑は 尾原前地1427番地の裏手に 立ちます。加茂川園:尾原obara前地i1427番地 北緯34度55分13秒東東経133度44分57秒 個人のお庭ですが、良識を持って行動するならば 自由に 散策させていただけま。  平成26年(2014年)9月11日