田土 田土村の三人 Three men who  helped Tadomura village out of a crisis


江戸時代中期以降 下竹荘 田土は 度々の災害  天候不順 作物害虫の被害によって 村人は 苦難を強いられました。明和6年(1768年)の春は 大雪が降り、7月には 洪水が起こりました。明和7年には 春から梅雨のように 雨が降り、夏になっても 肌寒く 綿入れを着て 田植えをする始末で、更に 作物の害虫が 大発生しました。八月だと言うのに 秋風が 吹き 大風雨と なりました。食物が不足し 村人は 蛙 蛇 イナゴ 葛 ワラビの根 野草 稲藁団子まで 食べられるものは 何でも食べて 飢えを凌ぎました。庄屋の山本嘉左衛門は 足守藩に 年貢米の免除 生計救助 を幾度となく 願い出ましたが 門前払いされました。嘉左衛門は 副頭取の山本富五郎と共に 直訴に打って出ました。藩主 木下利忠は 参勤交代で 江戸におり、家老は「田土村だけ 特別扱いできない」として 直訴の罪で 打ち首を命じました。明和7年8月6日に 足守河原で 嘉左衛門は 処刑され 富五郎は 国外に 追放されました。藩主が 帰国すると「打ち首の刑は 厳し過ぎた」と 判断し 田土村に救済の手が 差し伸べられました。その後 疲弊した村を 立て直す力のある庄屋は 無く34年の内に8人が 交代しました。文化2年(1805年)豊野の小出三津右衛門が 竹荘の大庄屋になりました。処が 文政元年(1818年)に 竹荘一帯は 大飢饉となりました。三津右衛門は 一橋代官の大草太郎右馬に 窮状ぶりを 訴えると 翌年に 現状視察され 田土村に 金一封が 施され 総社の井筒屋伊左衛門から 米百俵 倉敷の水沢富八郎から 米百俵が 送られてきました。三津右衛門も 米5百俵を寄贈しました。三津右衛門は 倹約貯蓄の模範となり 農家各戸に 夜なべをさせ 縄 ムシロ 草履 等を 作らせ 酒津の大店に 引き取らせる等 して 村の再建に 力を尽くしました。村人は この3人の徳を子孫に長く伝えるため 大草神社を 建て 小出神社 山本神社を 含め 愛称として大草神社と呼び 今日も お祭りを行なっています。「賀陽町史追補版」 本殿の右手に 参道建設記念碑(倉敷御陣屋代官大草太郎座衛門父子に田土村庄屋山本嘉左衛門更に竹 荘庄屋小出三津衛門御四片様の誠に崇高で偉大なる御道徳を偲び現生代に生を享る感激を以て添く神霊に対し奉り御霊の常に安らかに御冥福を祈り願しす現生未来永劫に万民の幸福を得せしめ賜らんと乞願い昭和四十七年より参道建設に想いたし発起人相計り田土氏子一同の協力を求め六ヶ年の歳月を経て茲に完成す小出公彦氏御一統の特別なるご支援を賜りしことを特記す 昭和五十二年四月十三日 大草神社顕彰賛会 一.道路延長七百八拾米 一.総事業費 金三百八十万円也) 義人碑(小出三津エ門ハ文政貮年元田土村窮ニ陥リ村民四方離散し庄屋交迭スルコト八回後ノ庄屋小出三津エ門ハ田土村庄屋給五ヶ年分ト自己所有巨大ナル金穀ヲ加ヘ提供スルト共ニ時ノ代官大草太郎馬ト謀リ倉敷水澤某ヨリ米貮百俵ヲ借用豪經テ持チ帰リ村民ニ倉ヲ與ヘ以テ歸村セシメ夜業及ビ農耕共ニ激励ス一方領主木下備中守ノ重税ヲ是正スルタメ多額ノ私財ヲ費ヤシ再江戸表ニ出テ御奉行ニ陳情ヲナシ領主転代田土村天領トナリ減税ノ實ヲ挙ケタリ其間卓絶セル手腕ト绻マサル努力ヲナシ其功績大ナルモノアリ仍テ後世其徳ヲ稱フ 昭和二十八年九月 下竹荘村建之)や 小出美津右衛門義秬墓文政二卯 當村庄屋役勤中 弘化二巳歳十一月廿二日 卒 行年五十)があります。拝殿や本殿の左に前から順に、寄附者碑2基(刻字省略)財産造成記念之碑(刻字省略)義人碑(山本加左衛門ハ寛保年間田土村庄屋ヲツトム田土村時二足守領タリシナリ加左衛門ハ智者トシテ領主殊遇ヲ受ケ時ニ藩ノ公儀ニモ参画セシコトアリタリタマタマ田土村疲弊シテ住民塗炭ノ苦シミニ陥リ惨状見ルニ至レリ加左衛門屡々藩府ニ情ヲ陳シニ求援ヲ仰キタルルモ其ノ甲斐ナカリキ是ニ於テ遂ニ意ヲ決シ領主ニ上訴シヌカクテ漸ク救「斎の異体字」ノ道ハ講セラレ彼ノ意途ハ達セラレタルモ其ノ身上訴の罪ニ問ワレ明和七年八月打首ニアヒテ足守磧ニ果ニケリ 嗚呼悲壮ナル哉 茲ニ加左衛門ヲ勤シ永ク後皆ニ傳フルモノ也 昭和二十八年九月 下竹荘村建之) 山本加左衛門墓(発起者「氏名省略」昭和七年八月六日 字田土湯山中)が 並んでいます。 大草太郎右馬・Tarou-Uma Ookusa文化11年(1814年)の倉敷代官で、領内の孝行な子  善行な者を奨励し、民間が貧困した時 上司に無断で 郷倉を開き 救助米を 倉敷から贈りました。その罪を問われて 切腹させられました。村人は 救助に感謝し 大草神社を 建てました。墓所は 倉敷市船倉町1666番地 北緯34度35分36秒東経133度46分29秒の吾台山長蓮寺です。「賀陽町史追補版」   小出三津右衛門Mitu-emon Koide矢野村の文政・弘化の頃の庄屋で 倉敷代官 大草太郎右馬の相談役をしており、田土村 飢饉の折り 代官に救済を 提言しました。矢野村の年貢減免 貢租の取替 借金返済の延期 高梁川水争いの調停に力を 発揮しました。「賀陽町史追補版」 山本嘉左衛門Kaza-emon Yamamoto寛保・明和の頃の足守藩田土村の庄屋で、藩の公儀 藩財政の建て直しに尽力しました。田土村 が 飢饉に瀕すると その実情を藩に 訴えましたが 救済は 得られなかったので 領主に直訴し 救済を得ました。しかし 直訴の罪は 免れず 足守磧Asimori-kawaraで 打ち首にされました。 足守藩処刑場:吉備中央町竹部と岡山市の境 北緯34度49分15秒東経133度47分54秒付近 山本家墓場:田土安楽 北緯34度51分44秒東経133度43分11秒 安楽:田土726・738番地等    平成29年(2017年)9月14日

 

 

 明和の大飢饉severe famine during the Meiwa era

異常気象の原因は 諸説あります。有力な説は 火山噴出物による 日傘効果で、1783年6月3日 アイスランドのラキ火山の巨大割れ目噴火 アイスランドのグリムスヴォトン火山の1783年から1785年にかけての噴火、日本においても 天明3年3月12日(1783年4月13日)には 岩木山が、7月6日(8月3日)には 浅間山が噴火し、火山灰を 各地の天空に 巻き上げました。日射量低下による 更なる冷害を 地球規模で ももたらすこととなりました。 田土村と 豊野村だけに 救済米が 横流しされたのでは、他の村にとって 腹立たしかったでしょう。

大草神社 Ookusa jinjya shrine

高梁御津線(31号線)の黒土と 田土の境付近の田土原橋を 渡り 北に 進み田土空84番地の北のT字路を 右に折れと 変則的 な四差路に建つ 川西公会堂に 沿う道を 北に向かうと S字に 曲がり 田土高力507番地に出ます、そこの三叉路を 西(左)に 曲がり 参道を大きく Z字状に 登ると山頂 北緯34度51分57秒東経133度42分55秒に 大草神社が建ち、大草神社幸魂Ookusa shrine sati-mitama 山本大神幸魂Yamamoto-no-ookami sati-mitama 小出大神幸魂Koide-no-ookam isati-mitamaが 祀られています。境内には 小出三右衛門墓 山本嘉左衛門の墓 等が 有ります。    

大草太郎右馬 TarouUm a Ookusa

文化11年(1814年)倉敷代官で、領内の孝行な子、善行な者を奨励し、民間が 貧困した時上司に 無断で郷倉を 開き 救助米を 倉敷から 贈りました。その罪を 問われて 切腹させられました。村人は  救助に 感謝し 大草神社を 建てました。墓所は 倉敷市船倉町1666番地 北緯34度35分36秒東経133度46分29秒の吾台山Godaisan長蓮寺です。「賀陽町史追補版」 He was a Kurasiki magistrate  At civil difficulty he discharged many rice from  the Gou-kura "a storehouse for grain stockpiling in preparation for bad harvests and famine"  without of permission his higher‐ups ”boss"   He was committed hara‐kiri ”cutting open himself's abdomen” by his sward" for the blame    Village people thanked him with great sincerity and built Ookusa-jinjya shrine 

小出三津右衛門 Koide-Mituemon

矢野村の文政弘化の頃の庄屋で 倉敷代官 大草太郎右馬の相談役を しており、田土村 飢饉の折り 代官に 救済を 提言しました。矢野村の年貢減免 貢租の取替 借金返済の延期 高梁川水争いの調停に 力を発揮しました。「賀陽町史追補版」 He is a village headman of Yano-village and an adviser of kurasiki magistrate / Ookusa-Tarou-Uma At the famine in Tado-village ,he advised the magistrate Reduction and He made  significant contribution in Annual tribute reduction. Replacement of tribute, Postpone debt repayment and Mediation of Takahashi-gawa river water dispute at Yano-village

山本嘉左衛門Kazaemon Yamamoto

寛保・明和の頃の足守藩 田土村の庄屋で、藩の公儀、藩財政の建て直しに 尽力しました。田土村が 飢饉に瀕すると、その実情を 藩に訴えましたが 救済は 得られなかったので 領主に直訴し 救済を 得ました。しかし 直訴の罪は 免れず 足守磧で 打ち首にされました。He was a Village headman  in Tado-mura village Ashimori-han domain at the time of Kanho and Meiwa, and made efforts in the field of rebuilding the feudal government and the feudal finances. When Tado-mura was on the verge of famine, he appealed to the clan about the fact.  He didn't get any relief, so He appealed directly to the Lord, and they got relief  However, the crime of direct appeal was not escaped, and he was beheaded by Asimori-han domain  足守藩処刑場:吉備中央町竹部と岡山市の境 北緯34度49分15秒東経133度47分54秒付近 詳細は「吉備中央町の神社 その他の神社 川西に建つ大草神社」を 参考にしてください。 山本家墓場:田土安楽 北緯34度51分44秒東経133度43分11秒  安楽:田土726・738番地等 高力:田土375・528番地等    空・ソラ:田土393・420番地等  平成29年(2017年)9月14日