共同墓地 community burial ground

投げ打ち Throwing away  姥捨て山 Mountain  abandoned old people 地獄谷 Hell valley 


 江戸時代以前、時に江戸時代には 十分な医療技術の普及が無かったので 流行病が流行ると、村々は恐怖しました。近隣の村でインフルエンザ等が流行ると 風邪送り等と言って、加茂川町の一部の集落でも 疫神(送りを行いました。インフルエンザの場合、小型の船を造り神職(例えば小森星原では天津神社の宮司)に御祓いしてもらい、村の各戸を廻り藁製の厄病神(を集め、鉦Kane太鼓Taikoを鳴らし「やれ、咳気Gaikeの神送り、ドンドドンドン送れ」等と囃し 踊りながら 隣村境(多くの場合才の神が祀られています 例えば星原では小森の川戸)迄 練り歩き 川に流しました。伝染力が強く死亡率の高い病気の流行が 村を侵すと、病人を 共同墓地近くに 小屋を建て 生活用品を近くに持ってきてもらい、病人同士 あるいは 病気が治った者が介護しました。祈祷師を呼び 厄病神を病人から追い払おうとしたり 霊験あらたかな紙札を 軒先等に張ったりしました。それでも 効果ない時に 薬師(薬屋 医者)に診せ)ました。俗に「祈れぇ 薬Kusure-e 医者気付け」と称する方法で対処したのです。それでも 死者が出る と蔓延を最小限にするため、屍(Sikabaneを 人里離れた共同墓地に遺棄しました。岩倉山や池の原は そのような屍置場で あったそうです。岩倉山の場合、林道水谷線の終点付近であったそうです。後にその辺りに火葬場が築かれましたが 現在は無くなっています。江戸時代中期迄は 庶民は墓石を立てる事が 禁じられていました。大抵の大きな集落(大字単位)には 石塔を造れない者(武士を含め殆どの庶民)が 死ぬと こうした場所に埋められ 運が良ければ饅頭塚を作られましたが、多くの場合には 放棄(投げ打ち 風葬 鳥獣葬)されました。天保2年(1831年)に 江戸幕府が庶民の墓石の設置許可すると 医学の発達もあっ て次第に屍の投げ捨てや 風葬の習慣は 減って行きました。また臭い物には蓋の例えで 共同墓地を言い伝えられる事を避けたがり、姥捨て山等の他の形の伝説にすり替えられる等して 共同埋葬地の存在は 歴史から葬り捨てられました。「上田西や円城の村人より口伝」

津恵田のかもがわ総合スポーツ公園の駐車場の周囲は 江戸時代は人の住まない森の中で、伝染病死亡者の屍の遺棄場でした。結核による死者でさえ ここに遺棄されました。勿論 葬式等しないし寝具等も遺棄されました。 遺体の引き取りの居ない者、墓を建てられない者等もこのような場所に風葬(鳥葬)されたようです。寺の管理する埋葬地 風葬地 無縁者墓地 埋め墓場 火葬場は三昧と呼ばれました。  小森の川戸:北緯34度56分38秒東経133度48分48秒に有りましたが、現在は旭川湖の湖底です 天津神社:北緯34度55分44秒東経133度48分38秒 星原・星見橋:北緯34度56分0秒東経133度48分42秒 星見岩:北緯34度55分50秒東経133度48分49秒近 岩倉山:北緯34度59分3秒東経133度48分21秒近に座し、現在は岩倉公園となっています 池の原:北緯34度55分42秒東経133度48分2秒近 林道水谷線の終点:高下田 北緯34度53分7秒東経133度48分29秒 かもがわ総合スポーツ公園の駐車場:北緯34度53分46秒東経133度49分20秒近で、屍遺棄場の多くは農地に開発されました 戸時代の成人の平均身長:男性が150㎝台半ばで、女性は140cm程で、栄養状態は現代に比較し悪く、病気の抵抗性も低かったと推測されます 祈れぇ紙札:天然痘Imogasaは赤色を嫌う疱瘡神Houspu-sinが 流行らせると考え、江戸時代の人口が集中した地域では 赤刷りの桃太郎 赤い鍾馗Syouki 宝船 鎮西八郎源為朝錦絵が 護符とされ、病気が治ると 焼かれました コレラ(ころり病 虎烈刺)の流行時は 疫病を家に入れないため瑞獣Zuijyuu(青竜 白虎 朱雀Suzaku 玄亀Genki)の絵を 家の四方を囲い結界を張りました  お染風邪(インフルエンザ)の流行の時は「久松留守」と書かれた紙札が張られました  ハンセン氏病では、さらに非人道的に扱われました https://ja.wikipedia.org/wiki/疱瘡神cleanup.jp/life/edo/23.shtml」 ハンセン氏病白癩Byakuraiしらはたけ癩病Rai-byou大風麻風癘風Reihuu漢生病Hansen-byouレプラ等:古代や中世の頃は 仏罰や神罰と考え、発症すると 非の身分にされ、都市では 重病者が各地の悲田院(貧者や孤児を救う施設)等に隔離され衣食住が与えられました  江戸時代になると 家族が患者を四国八十八ヶ所や 熊本の加藤清正公祠等の霊場巡礼に 多くは送り出され、物乞集落を形成したり、貧民集落に加わったり、乞食 勧進等して生活しました。患者の漁ではマグロが大漁となるとの迷信が産まれ、漁業に携わる者が多かったそうですhttps://ja.wikipedia.org/wiki/ハンセン病」    ハンセン氏病の方言:傍居Katai乞丐Kattaiとは四国地方の方言で 乞食とか馬鹿者の意味です 道心坊Dousin-bouは東北地方等の乞食の方言で それが訛り「どす どし どうしん どこ どぉすんぼ どすんぼ」と呼び、また極度を示す接頭語(多くは悪い言葉を強調する)の「ど(例えば、どでかい=馬鹿でかい ㊟ド級とは戦艦ドレットノート級の略で戦艦の大きさだけに使用します)が訛り「どす」等になりました  つまり馬鹿の意味だとも言われます  九州の一部では「乞食や 下さい」が訛って「こじき ふじき くんちゃー くんきゃ」と 言います  野良坊は 中部地方の方言の乞食の意味です  崩れる事を和歌山県の一部では「ぞける」と言い、ハンセン氏病を中国や九州地方の一部で「ぞけ ぞれ くされ くさり」と 言い、また癩病が訛り「だいみょう だいびょう」とも呼び「だいみょう」の呼び方は「とのさん おだいかん」の異名を生みました  屋部は 名護の屋部地区に患者居住地があったための 異名です 「あまじん じゃんか しおあま もじゃかす ちゃぶたら とって つぶれ やわら がき病み」等の方言がありますhttps://ja.wikipedia.org/wiki/ハンセン病」    埋葬の歴史:墓は 縄文時代から立てられています  平安時代には 貴族や豪族は 薄葬令により縛られておりました  高貴な者でも 貧乏であったり 占いにより穢れているとされたりした者は 庶民等の葬の場に定められた 葬の場に差別なく葬送され、貴族等は 盛土塚(土葬) 石積塚(火葬 改葬墓)に葬られました。多くの死体は 木棺に納められたり 蓆Musiroの上に置かれたり 放棄されたり(風葬 鳥葬)しました  亡骸を穢たもの(伝染病の懼れ)として触るべきでないとされ、葬送場所に放置し 死者と餓鬼の世界でる 葬送地に生きている者は殆ど近付きませんでしたwww.sougiya.biz/kiji_detail.php?cid=408」japanese.hix05.com/Folklore/Burial/burial09.gaki.html江戸時代前迄は「喪葬令Sousou-ryou(大化の改新の翌年 646年)によって民衆の墓は 禁止されましたwww.sol.dti.ne.jp/hiromi/kansei/yoro26.htmlしかし 喪葬令による縛りは 次第に守られなくなり 庶民の一部が大 型の墓を立てるようになると「墓石制限令:天保2年(1831年)」が発せられ 庶民の墓の大きさが 制限されましたが、庶民が墓を作る事が解禁されました。www.hakaishi.jp/books/index.html」 しかし 実際には 墓石を立てたり墓地所有できたのは支配階級や権力者や蓄財者に限られ、百姓等一般庶民の多くは屍は放棄され、一部の者が 川辺 海辺 山の中に土饅頭と卒塔婆Sotobaの墓標を立てました  この百姓町人に対する墓石制限令は 明治時代になって廃止されるまで続きましたdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1248317062」 仏教思想では 死後は「無」即ち遺体は抜け殻ですので 遺体投棄場所が各地にありましたokwave.jp/qa/q7939170.html

戦国時代等の敗戦 戦死者等は 関係者や地域の住民が 供養塔を建てました。合戦後に 数十年程過ぎた頃に 遺族等が 建立する場合もありました。okwave.jp/qa/q7939170.html」    江戸時代初期迄の埋葬法は 土葬 火葬 水葬 野葬(投げ打ち 鳥葬) 林葬(樹上) 岩窟葬でしたが、江戸時代には多くは土葬で一部で火葬されました。japanese.hix05.com/Folklore/Burial/burial02.cremation.html」 江戸時代の江戸では 溺死体は 沖に向け突き流す事が定められていましたが、地方では 遺体回収する事が 一般であったようです。www.sougiya.biz/kiji_detail.php?cid=488」 江戸時代の死刑は 下手人 斬首 打ち首 火あぶり 鋸引きでした。首と胴体とは離れていると 成仏しないと 信じられていましたので 下手人の胴と首を繋ぎ 遺族に引き渡され、下手人以外の死刑遺体は 供養が禁止されていて 試し切り等に供されました

巡礼には 死に装束を身に着け「死後はその地の作法で葬って下さい 連絡は不要」の手形を懐に携え 旅立ち、遺体の発見場所に その地の作法で埋葬されました。巡礼者の接待や弔る事は「功徳を積むと 地獄の裁判で罪一等が 減じられる」と され町役人や庄屋等が 埋葬しました。旅の途中等で 行倒れた場合もこれに準じましたokwave.jp/qa/q7939170.html」   江戸時代の墓には 「埋め墓 ミハカ サンマイ ボチ・ ヒキバカ」と「参り墓 ラントウバ  ラントウ タッチョウバ  サンマイ」に別れている場合がありました。埋め墓は 山奥等に遺体を葬り、遺体は 悪臭を伴い 死因が流行病である可能性がある ので 多くの場 合お参りはしませんでしたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/両墓制    京都音羽山清水寺の舞台は 寛永10年(1633年)に 徳川家光よって再建されました。昔 清水寺辺りを 鳥野辺Torino-beと呼ばれ 化野Adasino 蓮台野Rendainoと ともに京都3大葬送地でした。多くの死体が 清水の舞台から 放棄されたとされます。kyotohotelsearch.com/blog/2011/06/01/kiyomizunobutai/

吉備中央町における 江戸中期以前の 墓地を持たない人達の埋葬地や鳥葬地(共同墓地) 赤字の地名は 埋葬地としての伝説が残ります。紫字 黒字の地名については調査が必要です。

池ノ田:.納地2241番 池田:加茂市場1830番地 池田南:上田東2369番地 池ノ原:小森2196・2385番地等 池ノ原:富永574-576番地 池ノ原:田土2181・2282番地等   隠坂:上田東507・509・カクレ坂:511-520番地 隠:北2569-2571・2577・2578番地 火双場:粟井谷1130番地 烏田:富永1871・1904番地等 から須田:和田1646番地 鳥泊リ:上田西894-899・903・904・907-909・915番地 カラス泊り・烏泊:吉川2150-2152番地 鳥免:高富1472・1477等・1483・1512・1523等(酉面・酉ノ面:1485・1511番地)  大鳥山:福沢1479-1481等 狐岩:竹部514・534・535・537・538・536番地 狐岩:細田1720・1721・1763番地 狐山:三谷899-900・902・903番地(念佛免・年佛免:三谷1034・1041番地等)狐岩:和田163・164・166-169・狐岩:和田923・929-931番地(宗林寺:和田144-162番地) 狐石:和田164・165番地 キツ子イワ・狐岩:上竹3541-3545・3559・3560・3564・3566-3571番地 狐谷山:上竹3655・3656・3746-3748番地 キツ子谷・狐谷:上竹3755・3765-3767・3769-3770・3772・3776(口無谷・口ナシ谷・クチナシ谷:上竹3671・3775番地等) 狐山:岨谷3530・3532番地(墓山:岨谷3525・3536番地等 草葉谷:岨谷35603563番地等) 狐岩:豊野6588-6590・6594・6599・6618番地    草葉谷:岨谷3560・3562・3563番地    口無谷・口ナシ谷・クチナシ谷:上竹3671-3675・3677・3679-3686・3688-3693・3706・3707・3775番地    毛宗化:平岡469・652番地等(千日:平岡654-658・661・666-698・670・672-674・724-726・728・732-736・739・740・746-752・754・855・857-865番地) 小ウロキ・香路木・香路木・幸路木:湯山2087・2094・2101・:2102-2123・2125-2129・2132・2134・2135・2140-2148・2159・2160・2167-2170・2285-2286番地 カウロギ・香路木:湯山511・549-555番地 コオロキ・カウロキ・コウロキ・コウロギ:吉川6201・6202・6247-6267・6276-6279・6282-6287・:6288-6290・6291・6293・6329-6331・6336番地  サンマイ:案田65・67・75番地 三ま以:上田西2021-2031・2033・2035・2117-2119等 三昧:上田東1395・1397・1398番地 三昧:円城225・226・236-241・243・244番地・三前:242番地 三枚:加茂市場317-323・401・415-419・421番地 サンマヒ:神瀬620・621・625番地 三枚:下土井1187等 地獄谷:井原810番地 地獄谷:富永1908・1948番地等 死人曾根:高富1191番 地蔵ノ乢:吉川7542・7546-7549番地 地蔵山:吉川1469番地 地蔵:高富510・511番地 施鬼免:上竹572番地 獅子馬場・シシ馬場・獅獅馬場Si-mo-baba:835・854番地(寺田:粟井谷964-968番地) セガキメン:黒土1355・1431-1433番地 大日:加茂市場50・59・60・62・63・66-81・85-88・90-92・96番地) 大日:下土井1701-1705番地 大日:2493・2502番地    長住乢:宮地1374-1376・1959番地    露谷:上竹2416・2422・2423.2426-2428・2430-2433・2435・2437-2442・2461-2469・2471-2486・2542-2546・2548-2552・2558・2559番地(寺サコ:上竹2424・2426番地) 寺田:高富1465-1469・1474-1476・1496-1500・1502-1510・1514-1523・1528-1531・1534・1535・1553番地 寺田:尾原842-847・850-858・870-877番地 投打:竹部・2251-.2273・2408-2462番地 投打:上野2136-2266番地 念佛免・年佛免:三谷1034・1036・1038-1041番地    念仏石:田土2812・2813番地 墓山:岨谷3525・3526・3528・3536番地    ハテノ場:豊岡下1555-1557・1559-1561・1563-1567・1585・1586番地   久米郡美咲町小風呂:曽保谷橋の東 小森の旭川対岸 風呂屋:尾原1460-1465・1479-1483・1486・1489・1681・1682・2010番地 槇風呂:上加茂.2507-2509-2518・2539-2542番地 小風呂:神瀬610番地(三牧ノ花:神瀬611・622番地 サンマヒ:神瀬620・6625番地 等 墓ノ段:神瀬633・634番地) 小風呂:下土井1015・1062・1281・1283・1301-1308・1314-1331・1336・1337・1345-1347・1352-1360番地 石風呂:高富1487-1489・1494・1495・1629-1631・1633・1634番地(鳥面先キ:高富1473番地 墓ノ前:高富1481番地 寺田向:高富1482・1486番地等) 阿風路:高富1525・1554・1555-1561・1563番地 松風呂:高富2504・2517-2529・2533・2536・2538・2540・2544-2546・2560・2563-2566・2568-2585・2587・2589-5912594・2596・2567・2607番地 本風呂:富永105-108・111・420・422・423・434番地(烏田:富永1871・1904番地等 墓仁后:富永1880-1882番地b   地獄谷:富永1908・1948番地等 石トウ:富永1915番地) 大風呂・大風路:豊岡上1278-1283・1298・1299番地    石風呂:豊岡下1・2・4・16・147-150・153-154・170番地 小風呂:豊岡下478・479・481・482・484・566-5576・・580・581番地 婦路以谷:豊岡下731732・1189番地    松風呂:豊岡下1351-1354・1358・1359・1363・1364・1367-1369・1371・1372・1387・1389・1776・1780・1785番地(寺:1740・1461番地等)  風呂屋:平岡1047番地(墓ノ段:平岡104-1208番地) 堂風呂:船津360-362・365-368番地 風呂屋:福沢184番地(狐山:福沢166番地) 大風呂:細田58・59・62・81・82・96-112・114・117・118・123・133・135-137・146-・148・153番地 風呂居谷:細田1172・1173・1178-1181・1188・1675・1676・1678番地等(狐岩:細田1720・1763番地等) 柏風呂:和田1583・1584・1595-1597・1632・1633番地 コブロ・小風呂:黒土677-682・688-701番地(無量山:黒土761・775番地等) 松風呂:黒山770-776・778・779・781・784番地(狐岩:黒山803-805番地) 風呂屋乢・風呂乢・風呂ノ乢:吉川3692・3693・3695・3696・3698番地 奥風呂:吉川5535・5536-5553・5555-5558・5559-5563-65・5570・5571・5573-5588・5658-5667・2678-5682・5694-5697・5700番地      法妙:宮地1311-1326・1328-1372・1740・1758-17681904-1908・1910-1917・1944・1945.・1958・1960番地   佛乢:上田西1205・1213番地 佛溺:上田西1208・1214・1215・1238番地 佛瀧:上田東2373番地 佛ノ乢:尾原966-967・1566・1567番地 佛田:笹目429・432-443番地 佛免:高富1262・1263・1266-1273番地 佛谷:福沢967-969番地  常佛谷:和田677-682番地 仏納・佛納・物納:田土1940・2004番地等 仏尾・佛ノ尾・佛尾・仏之尾:田土1945・1977番地等 仏ヶ乢・佛ノタワ・佛ノた和:豊野3507・3510・3512・3513番地 佛供田:豊野3697・3716・3717番地 佛納:豊野6554・6754-6755・6757・7113・7118番地 大佛:納地2059・2069・2070番地 佛免:高富1262・1263・1266-1273番地    龍王谷:下土井128・137・148-160・178-183番地 龍王谷:富永141-143番地山神・山ノ神:粟井谷1012・1013・1016-1018・1066番地(墓東:粟井谷1015番地 道鎭タワ:粟井谷1027番地) 山ノ神:上田西60-63・66-72番地(本宮免:上田西2171・2197番地等) 山ノ神:上田西2173・2175番地(かがそ:上田西2195・2324番地等) 山ノ神:上田東405・407・410・411・424-428番地 山ノ神:上田東2393・2394番地(佛瀧:上田東2373番地) 山ノ神:尾原640-647・680-685・698-700番地 山ノ神:尾原2121・2124・2132-1234・2201・2760・2755・2762-2774・2776・2780・2787-2799・2803・2804・2815・2819-2870番地 山神:加茂市場1746・1748・1750…1786-1792・1794・1799-1801番地山之神1785番地 往生ノ上エ:加茂市場1823・1908番地 往生下:1849番地) 山神・山ノ神:小森1095・1096・1104・1105・1667番地 山ノ神:杉谷530・531・533-538・やまのかみ:杉谷534-537番地 山ノ神:竹部198-201・207-209番地(六地蔵:竹部170-172番地 寺坂:竹部186・192番地等) 山ノ神・山神:竹部2286-2283・2300-2359番地(風呂ノ鼻:竹部2286-2296番地  投打:竹部2408-2462番地 寺山:竹部2491・2492番地) 山ノ神:豊岡下1260・1279・1281-1284・1289・1292・1318番地 山ノ神・山神:豊岡下3095・3190・3216・3217番地 山ノ神:平岡135・137・247・248・251-254・256・257番地(経納:平岡115・153番地等 地蔵乢:平岡190・192番地 山ノ神:福沢1296・1620・1624・1626・1627番地(狐山:福沢166番地) 山神・山ノ神:岨谷832・1112-1114・1324番地(墓ノ上:岨谷818番地) 山ノ神:竹荘3581・3582・1753・1755-1759番地(寺ノ前:169-1698番地) 山ノ神:田土907・927・930-936番地 山ノ神:田土3694・3696・3701・3703番地 山ノ神・山能神:豊野2918・2919・2950-2952・2960・3000・3001・3005-3008・3010・3012・3019・3020・3030・3031・3036-30383484・3485・3496番地仏ヶ乢・佛ノタワ・佛ノた和:豊野3507・3513番地等) 山ノ神:西1699・1701-1773・1854-1866番地 山ノ神:吉川3583・3586-3588・3599・3600・3623番地 山神・山ノ神:吉川7320・7324・7326・7345-7348番地 六地蔵:竹部170-172番地 六地蔵:豊野1330-1333・1343-1346・1348番地(地蔵田:豊野1349・1350番地) 六地蔵:上竹4551・4568・4569番地 六地蔵:豊野624・625・627・683・685・687・688番地 六地蔵:湯山604・633-637番 

平成26年(2014年)8月8日

平成29年(2017年)3月31日に【岡山「へその町』の民話-岡山県吉備中央町の採訪記録】が発行されました。

p236 火葬場の狐 Fox lived in  crematory  

長住乢は 昔 露天の焼き場でした。集落から 1Km程離れた所で 木が茂って怖い程 寂しい処で、狐が出て来て化かすとされました。長住乢:宮地1374-1376・1959番地 宮地妙法1367番地の北方 北緯34度47分25秒東経133度41分50秒 隣地は法妙です。

p148 姥捨て山 江与味 小風呂 Ubasute-yama "mountain where old people were abandoned " in Ohuro Eyomi

小森から旭川ダムに向かい 弁蔵の大師山トンネルの手前から 旧道を行くと 直ぐに祖母谷橋橋が有ります。それを渡り 東に行った その突当りの岩が有る所が 小風呂と言う姥捨て山です。小風呂:北緯34度56分50秒東経133度48分32秒

p149 姥捨て山 往生瀧 仏岩 Ubasute-yama in Oujyou-taki

豊岡下の政枝の入り口に 仏岩と言う岩が 有ります。そこから少し登った所に往生瀧と言う名の地名が有ります。そこで転ぶと往生するから付いた地名です。往生瀧:豊岡下2436-2443・2450・2453・2455・2556・2482・2483番地  三﨑谷:2457・2459・2462・2466・2468・2469・2480・2481番地 王城瀧は「往生焚き」の転訛でしょうか。御崎とは霊を祀ってもらえない霊魂の意味でしょう。

p149 姥捨て山 上竹 Ubasute-yama in Kamitake

上竹粟ヶ谷より西北 狐谷 大樽谷へ向かい約1Km進むと砂防ダムが有ります。ここより北に30m程の所に2段の平坦地が有ります。石垣上に築いた壇上に自然石が墓石状に配置されています。

p150 地獄谷 富永 龍王谷 Jigoku-dani "Hell valley" in Ryuuou-dani "doragon king valley"  in Tominaga

下土井から和田に行く途中に 大曲が有ります。大曲の突出部を 地獄谷と言いま。険しい岩峡で、昔は道も狭く 欝蒼と木が茂って 人も近寄らない処でした。岩峡の谷底は 堰き止められていて龍王渕と言って 龍王が住んでいたと言います。岩狭の頂上は 狭い平坦地で ここから谷に向け死体を投げ落としたそうです。今は その影は無く淵の土手も崩れ 淵の体を成していません。淵の上に 龍王宮が祀られていて 旱魃の時は 雨乞いをしていました。明治初期に 龍王宮は 土井神社に合祀されました。井原にも 神子田の裏の谷を 地獄谷と言います。龍王谷富永141-143番地 龍王谷・竜王滝:富永大王 北緯34度52分44秒東経133度45分13秒

p151 田土 池の原 Burial field in Tado

備中田土の池の原は 備前に接した村外れでした。当時は 遺棄埋ヶ原と呼んでいました。 

池の原: 北緯34度52分47秒東経133度43分49秒 池ノ原・池原・池之原:田土2181-2204・2206・2208-2212・2215-2222・2233-2242・2245・2247-2254・2259-2269:2273・2275・2277-2282番地 

平成31年(2019年)3月31日に【岡山「へその町」の民話 追補版-岡山県吉備中央町の採訪記録 立石憲利 吉備中央町図書館 吉備中央町教育委員会】が発行されました。

p76 上田西 三昧 Zanmai /Sanma"Crematory and Burial place"

下土井下加茂線(372号線)沿いの医王院から岩倉山に向かう途中、円城松山291番地の南の右手 北緯34度53分14秒東経133度48分22秒に六地蔵石像が有ります。そこを境にして岩倉山側をサンマ(三昧)と言う所があり 墓が有ります。昔は 村に伝染病が出ると 遺体を野焼きしました。病人でない人は 土葬しました。「円城寺住職」     三昧:円城225・226・236-241・243・244番地 三前:円城242番地 京免・京面:上田東1347・1348・1358-1370・1374-1377・1388・1390-1392・1412番地 池ノ上:上田東1354・1355番地 免溺・京免の溺:上田東1379-1381番地 三昧:上田東1395・1397・1398 京免川:上田東1400・1402番地     三ま以:上田西2021-2031・2033・2035・2117-2119等 岩倉:上田西1981・1995・1997-2002・2016・2020番地

p76 案田 三ま以 Sanmai/Sanma

案田にもサンマと言う所が有り、お墓が有ります。「円城寺住職」  池ノ上ヘ:案田58番地 堂山:案田69番地 サンマイ:案田65・67・75番地 墓下:案田70・71・100・101番地