備前加茂総社では 毎年10月第3日曜日、岡山県下で最大級の加茂大祭を行ないます。周辺の八神社から 神輿が 集まり大祭を行い、各地に帰ってゆきます。 社殿の両脇に壁のない建物が建ち、祭当日神輿が鎮座します。お遊びと言う行事があり、棒使い 太刀振り 継ぎ獅子 等が 披露されます。
お祭りは10月の第3日曜日に 備前加茂大祭 4月15日に近い日曜日に 祈年祭 12月15日に近い 日曜日に新嘗祭Niiname-sai/Sinjyou-saiを行います。備前加茂大祭は 岡山県指定重要無形民俗文化財に指定されており、岡山三大祭りの一つです。鳥居の正面に立つと 明神鳥居 隋神門 構獅子 燈籠 拝殿 長床が 並びます。総社は 光仁天皇宝亀2年(771年)に勧請されました。備前国奥津高郡の元長田荘の崇祀総氏神で 1200余年間 皇室も 官も 民も 崇敬する社です。後冷泉天皇が 天喜年間(1053〜1058年)に 加茂郷内の式内外Sikinaigeの古社9社を相殿にして 備前加茂大祭愛宕神社を創始し、現在も 8社で行われています。 岡山県三大祭:10月1日から始まる「吉備高原・吉川八幡宮の当番祭」(24日迄続けられます) 10月第2日曜日の「吉備津神社の七十五膳祭」10月第3日曜日の「加茂川・総社宮での加茂大祭」の事ですが、吉備中央町だけで使われる言葉です 岡山三大だんじり祭り葉は 岡山県 で行う だんじり ( 山車 )が繰り出す 津山市 の 津山まつり 倉敷市 児島 の 鴻八幡宮例大祭 真庭市 の 勝山まつり ・ 久世祭り の総称で 瀬戸内市 の牛窓秋祭りを加える事もあります 9社:鴨神社・化気神社・御崎神社(松尾神社)・日吉神社・素盞鳴神社・亀山八幡宮・愛宕神社(天計神社)・三所神社・江与味八幡宮 8社:鴨神社・化気神社・松尾神社・日吉神社・素盞鳴神社・亀山八幡宮・天計神社・三所神社
弘安4年(1281年)第2回 元寇Genkouの国難の時 燈籠tourou一基が 献進され 蒙古戦勝利が 祈願されました。総社の社は 岡山県指定天然記念物で、石造地蔵菩薩立像と 八角石燈籠は 岡山県指定文化財です。この石燈籠は 県下最古の八角燈籠です。また 貞治4年 藤原経明Hujiwara-no-Tuneaki銘のある石造り地蔵菩薩立像があります。永正年間(1504~1521年)虎倉城主伊賀久隆が 社殿を 再建しましたが、伊賀氏滅亡と共に荒廃しました。寛文9年(1669年)岡山藩主 池田光政が 社殿 及び末社を造営し、更に神領の寄進し 神職任命等を行ないました。 藤原経明:吉川経兼Kikkawa-Tunekaneる人物が 南北朝時代初期の武士におります 石見吉川氏の3代代目当主です 氏は藤原 姓は工藤吉川です 時期は不明ですが、経明へ 又経兼と改名しています
明治40年(1907年)神饌幣帛料Sinsen-heihaku-ryou共進神社に 指定され、昭和14年(1939年)12郷社となりました。
平成2年(1990年)台風で 本殿が半壊しましたが、同4年5月に 復元されました。平成6年(1994年)総社宮前に「お祭り会館」が 建立されました。「ttps://higeojisan-lab.com/kamo-soja-kibi-chuo/」「総社 (吉備中央町) - Wikipedia」「加茂大祭 - 吉備中央町ホームページ (kibichuo.lg.jp)」
高梁御津線(31号線)の日之御崎橋の交叉点を南に進み、貫抜橋を越えると、加茂市場1527番地隣地の北緯34度51分54秒・東経133度45分30秒に加茂総社の社叢が見つかります。加茂総社の近くの民家に祀られていましたが、昭和の始め頃に 総社境内の貴船神社の北に 遷宮されました。 恵比寿は 大漁追福の神でしたが、後に商売繁盛 五穀豊穣神になりました。狩の身支度をし 右手に釣竿 左脇に鯛を抱える姿が一般的です。伊弉諾命を 伊弉冉命が 誤まった順に誘いざなっって生まれた不具の蛭子命、大国主命(大黒天)の長男のお告げの神の事代主神、一寸法師の異名を持つ少彦名命、山幸彦の異名を持つ彦火火出見命で あるとする諸説があります。一番支持されている説は 言代主との習合です。鯨や甚平鮫 等大型の海の動物を えびすと言い、毘沙門天を夷毘沙門天 不動明王を衣毘須不動と言います。 貫抜橋:北緯34度52分0秒・東経133度45分26秒 町:加茂市場1527番地(北緯34度52分0秒・東経133度45分227秒)等
宮荒神社・町荒神社
加茂総社境内の北側に7社の一社宮が祀られています。右端の社は火御崎社、次のやや大きい社は森神社で、次の社が疫神社です。左から三番目のやや大きい社は 宮荒神です。須佐之男神を祀ります。宮の谷 等 総社宮に最寄りの地域の荒神社です。 荒神:仏教の荒神は 仏 法 僧を守護する神です。真言 はオン ケンバヤ ケンバヤ ソワカです。礼拝作法 は一礼 三拍手 一礼です。般若心経を唱え 後に荒神御真言を七回反唱します。牛頭天王も 三宝荒神として祀られます。竈三柱神は 神道の荒神で 三宝荒神と呼ばれる時は 3本荒神を神体とします。 加茂総社の社叢:北緯34度51分54秒・東経133度45分30秒
若宮大神宮
]加茂総社境内の北側に7社の一社宮が祀られています。右端の社は火御崎社、次のやや大きい社は森神社で、次の社が疫神社です。左から三番目のやや大きい社は宮荒神です。左から二番目の社は若宮大神が祀られています。 若宮:新しく建てた社や、本殿の祭神の子神を祀ります 氏子の霊が祀られている事がしばしばあります 返却された神請札Kamiuke-hudaが祀られるのでしょうか。 天照大神の御子神:子の女神は独身で子を産んでいませんが、スサノオ命と誓約をした時 八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠から 正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命 天之菩卑能命 天津日子根命 活津日子根命 熊野久須毘命が 化生しました 大国主命の御子神:多紀理毘売命(田心姫命・奥津嶋比売命)との子の阿遅鉏高日子根神(迦毛大御神・味耜高彦根神・阿遅須枳高日子命)と娘の下照比売高比売命(下光比売命・稚国玉・下照姫命)、神屋楯比売命(多岐都比売命・高津姫神)との子の 事代主神(都味歯八重事代主神)と 娘の高照光姫命、八上比売との子の木俣神(御井神)、沼河比売(高志沼河姫・奴奈宜波比売命)との子の建御名方神、鳥取神(鳥耳神・鳥甘神)との子 鳥鳴海神です 加茂総社の社叢:北緯34度51分54秒・東経133度45分30秒
後田荒神社
加茂総社境内の北側に7社の一社宮が祀られています。一番左の社が 後田荒神です。竈三柱神 即ち火産霊命 奥津彦命 奥津姫命を祀ります。 火産霊命Ho-musubi-no-mikoto(迦遇槌命Kagututi-no-mikoyto 火之夜藝速男神Hi-no-yagihaya-o-no-kami 火之炫毘古神Hi-no-kagabiko-no-kami 火之迦具土神 加具土命 軻遇突智 等):火の神 鍛冶の神 焼き物の神 金属精錬の神 山の神であり、金運 招福 火防 等のご利益が 有ります。伊弉美尊が 最後に出産した3つ子の末っ子です 火の神でしたから 母は産道を焼かれ倒れます 暫く苦しみながらも 分泌物 等から 化成神を誕生させますが、火傷が原因で死んでしまいます。これに怒った父の伊弉諾尊は 迦遇槌命を 天尾羽張と言う十拳剣で切り殺しました。母に仇なす子でしたので、仇子Adakoと呼ばれ、愛宕Atagoの語源です 奥津日子神Okutu-hiko-no-kami(竈男Kama-otoko 火男Hi-toko 竈紳Kamado-kami 釜紳 興津彦命 奥津彦大神 奥津彦命等):風の神 竈の神 火の神 農業・家畜・家族の守護神 祖霊紳であり、家内安全 恋愛成就 縁結び成就 飲食業繁栄 等の商売安全 稲作・家・建物の守護 竈や囲炉等の火の元の安全 おき火・家畜保護 豊作成就 厄除け(除災 除病)家計費やりくり成就 金銭融通 資金調達 等のご利益が有ります 性格が激しく 粗末に扱うと 罰が当たり 人に祟ります 奥津比女命(奥津比賣命 奥津姫命 奥津姫大神):奥津日子神の双生児神で、奥津日子神と対をなす女神です。紳格 ご利益も奥津日子神と同じです
井上金神社
加茂市場公園の北東 加茂市場371番地の東 北緯34度52分0秒・東経133度45分20秒に 個人で祀る金神社が 建ちます建ちます。 金神:方位の凶神の1種で、金神の滞在する方位で土木事 移転 旅行 等をすると忌まれ、家族、隣人等が七殺されます。艮金神 夜叉の国の久遠国の巨旦大王の精魂で、眷属の精魂も金神です。巨旦の精魂の抜ぬけ屍がらは牛頭天王に5つに引き裂かれ、五節句に巨旦調伏の祭礼として祭ります 1月1日に-紅白の鏡餅(巨旦の骨肉)、3月3に草餅(巨旦の皮膚)、5月5日に粽ちまき(巨旦の髭と髪)、7月7日に素麺(巨旦の筋)、9月9日に-黄菊酒(巨旦の血)の全てを飲み 食べれば、金神の祟りを受けません。禁忌の方向の行事 等は、金神が旅をしている時 素早く行います。 加茂市場371番地:北緯34度51分59秒 ・東経133度45分20秒 浜崎・濱埼:加茂市場369-382番地
総社境内の聖地
貴船神社の手前に聖域が 有ります。貴船神社が ここに建っていたのでしょうか。かつて総社は 高祖山Takazou-yamaに祀られていて 祭神は素戔嗚命であり、一時 素社So-jya(素戔嗚神社の略称と思われます)と呼ばれていましたが、天文年間(1532―1555年)に伊賀左衛門尉久隆は 三村備中守家親や粟屋與十郎(上加茂合戦)と 戦い 虎倉城が攻められた折り、三村氏や毛利氏に 神領を奪われました。後 高祖山に有った宮を 宮の谷(元兼)と言う所に 小社を建てて祀ったとされます。その時の仮社が 祀られた場所でしょうか。この聖域の中の聖域について いかなる由来があるのかを知る者は 宮司を始め 誰もありませんでした。 馬場:加茂市場152・262番地等 馬場:加茂市場2292・2298番地等 車場:加茂市場367・368番地 神原:加茂市場912・939番地等 休床:加茂市場1062・1756番地等 大神岩:加茂市場1075・1147番地等 燈明田:加茂市場1097・1105番地等 馬乗畑:加茂市場1366・1393番地 宮ノ谷:加茂市場1411・1578番地等 町禰宜屋敷:加茂市場1524番地 宮ノ前:加茂市場1560・1577番地等 惣社:加茂市場1567番地 お祭り会館隣地 宮ノ下モ:加茂市場1569・1585番地等 宮ノ西下:加茂市場1584番地 宮本:加茂市場1597・1600番地等 又馬畑:加茂市場1642・1648番地等 平成24年(2012年)6月12日
加茂総社miya の元宮 proemial shrine of Kamo-soujya-guu
加茂総社(惣社)の元宮が高祖峰Takazou-mine/mountainに 有ると言われています。
それらしい所に行って見ました。加茂市場吉備高原都市線を吉備高原都市東住区から 加茂市場に向け 登り切ると 左右が崖になっていて、左手の崖には、岩組が壊された状態で積まれています。右の崖の上に登ってみると2段の平坦地が有ります。奥に緩やかに登る山道が有るの 登って行くと、頂上より少し手前に右に分岐する山道が有り、右に進むと直ぐに頂上に着き、平坦に 山肌が 切り取られています。先の分岐点に戻り右に曲り(最初上って来た方向から見れば直進します。先の登りよりも急ですが緩やかな登り道 少し進むと、切り取られた二段の平坦地に出ます。この平坦地が神の段と呼ばれる所なので この構えが 総社宮の元宮跡でしょうか。更に奥に進むと そこから土を積み上げて造られたと思われる道が 更に奥に続くので 進むと、もう1つの頂上に出ます。ここも 第一の頂上と類似した平坦地です。
加茂市場吉備高原都市線の峠の左崖上に 盤座があると言う 旧岡山県立吉備北陵高等学校の国只誠 笹田宏一 能勢康幸の報告書(加茂川町の遺跡)がありますが、国只等が示す写真の盤座は 左崖の上に見当たりませんでした。この道路は 左右両崖を 削り取って造られており、報告書に示されている盤座は 処分されたか 壊され右側に雑然と積み上げられたのでしょう。峠から 加茂市場に向かいやや下ると 峠の頂上との間の小さい谷を過ぎ直ぐ 右側に舗装されない道幅の広い所に出ます。
右手に大きな平坦地が有り、ここより北西に山肌を登ると、築山状に高まった場所の中央部 北緯34度51分21秒・東経133度45分36秒に 巨石群が有り屏風岩と呼ばれています。堆積物を取り除くと 大きな石組みになっていると 想像させます。周囲を囲むように 石が点在 或いは列を造ります。地権の境界線でしょうか。ここが高祖山の信仰の起源なのでしょう。この場所から、尾根に添って、右回りに回り込むように高祖池を越えた所に 組石の石が流されたような、石の配置が見られます。神の段の西側に位置しますので、下竹荘村史に示された神の磐の跡でしょうか。文化6年(1809年)頃は 素戔嗚尊を高祖山の頂上の借り宮があり 素社宮So-syaguuと 呼たばれていました。弘安10年(1280年)頃の中村 新山 下加茂は 伊賀孫衛門尉頼泰が、鶴峯 河内は 伊賀左衛門光藤が 治めていました。地頭(式部:伊賀氏)と荘園とが対立した時代、伊賀氏は、所々の神社に紳領を積極的に寄付する等妥協する形で農民の心を掴みつかみ荘園側の、支配の中に入り込んでいったと想像されます。応仁(1467~1469年)から明応中期(1469~14年頃 応仁の乱)の赤松家と毛利家の確執する頃、伊賀氏は 毛利家に与していました。赤松上総介政村が 松山の衣笠長門守村氏を攻めた折、惣社の神田を赤松家が奪い 惣社の建物を幣殿までも壊し藤沢城の建築資材に充てました。後に赤松家 は毛利家に 滅ぼされます。「加茂川町の遺跡:国只誠、笹田宏一、能勢康幸」
天文年間(1532~1555年) 伊賀左衛門尉久隆は 三村備中守家親と戦い、虎倉城が攻められた折り、三村家に神領を 取られます。その後荒廃し、宮は破壊され社跡は毛利の仮の出城となったようです。この時、宮の谷(元兼)と言う所に小社を建てて祀ったとされます。大己貴命(大国魂命)を祀り、惣社(大鳥居参照)と改名しました。この時の小社が現在の地の総社宮の磐倉の上に祀られたのではないかと想像します。宮の近くに谷があるので、この地を宮の谷と名付けられたと古老は言います。高祖山:高祖 北緯34 度 分 秒・東経 度 分 秒 虎倉城:御津虎倉 北緯31度50分13秒・東経133度50分2秒 藤沢城:田土 北緯34度51分40秒・東経133度44分57秒 峠の北東の2段の平坦地 :北緯34度51分11秒・東経133度45分42秒 神の段と思われる平坦地:北緯34度51分15秒・東経133度45分43秒 第一の頂上と推測する地点:北緯34度51分16秒・東経133度45分51秒 第二の頂上と推測する地点:北緯34度51分25秒・東経133度45分57秒 築山を思わせる小丘の上に組石:北緯34度51分20秒・東経133度45分40秒 高祖池:北緯34度51分20秒・東経133度45分43秒 平成24年(2012年)8月25日
加茂大祭
県指定重要無形民俗文化財です。いわゆる寄宮祭で 平安時 天喜年中(1053年~1058年)から始められたとされます。県下三大祭り(備前加茂大祭 備中吉川八幡宮の当番祭 吉備津神社大祭 ・七十五膳据神事)の一つであるとされますが、岡山県は この言葉を使わないで欲しいと言っているそうです。吉備中央町加茂川地区の8箇所の神社から、樹齢500年を越えるされる 杉や銀杏の飢餓育つ 加茂市場の総社宮に神輿や太鼓で行列行列を作り集い、古式ゆかしい神事を行ないます。この日は町内に笛や太鼓が鳴り響き、お祭りムード一色となります。
開催日:10月第3日曜日 総社宮(吉備中央町加茂市場) 加茂大祭が始まる前の当時、加茂郷(旧加茂川町一帯)に疫病が流行り、その悪疫が 諸神社の神威により 祓い除かれたので、それに感謝し 近隣の12社が 総社に参集し祭りをしたとされます。戦国時代に世が乱れると 前後200年の間 加茂大祭は中断されましたが、江戸時代中期に池田光政により再興され、以後毎年行われてきました。そして、昭和34年(1959)に岡山県指定重要無形民俗文化財に指定されました。この加茂大祭保存のために「備前加茂大祭芸能保存会」も結成されました。「加茂大祭 - 吉備中央町ホームページ (kibichuo.lg.jp)」 平成24年(2012年)8月25日