尾原 シュメール石 Sumerian stone


加茂川町町報に 基き村人に尋ねると「尾原新山の山にシュメール文字が刻まれた石碑が見つかったので大  騒ぎになった  地主の方は 昔からそこにあることを知っていて、石仏(Isi-botokeと呼んでいました」と 教えてもらえました。

岩狭哲六等 学者達は このニュース に色めき立ち 学会に 発表したくて 山の持ち主に 許可を迫ったのですが、地主は「シュメール文字でない可能性の方が高いので、後に 変に騒がれるのが嫌だ」として 学会発表を 許可しなかったそうです。石碑の上部に 神を表すと言う〇で囲まれたX それを支えるように 空を表すとする 小さい○模様が2個(○○) その下に 上方に2本辺が延長し突き抜けた△、ナの線対称模様が 意味ありげに彫られ、W、Ⅹ F □ キ レ Ⅴ 井、鰓Eraの張った← 右に倒れたA T 0 フ ▵▵ ― 二 梯子Hasigo模様 格子模様 波模様 等 様々な文字らしい模様が 意味を持たない様相で アトランダムに 散らばっています。左の一番大きい石碑の上に丸に 一  あるいは  丸に十の家紋らしき模様は 細く浅く見え、その下に 太く深い文字が 3文字刻まれます。最初の文字は 二水偏(あるいはさんずい偏)に丁に見える文字で、次の文字は 右手で 作る 影絵の狐に似た模様で、3文字目は 2つの同形の田の字に 見える線の塊に ハの形の脚が 付いたように見える字です。その下には 料理用ボール状のザルのような籠型の模様から 左に傾く 八木アンテナ状の模様と 右に傾く ハシゴ状の模様が 浅く細く 刻んであります。右側面に 上部に 10cm程の円形が 深く彫られ、その下に 何やら刻まれているようないないような 文字らしい凹みが並びます。その右の小さい石碑には 花型の家紋らしき模様の下に さんずい偏に 右の旁の頁が読めますが、中の旁は 読めません。しかし、恐らく瀬でしょう。即ち黒瀬と読めそうです。尾原には黒瀬姓の住人がおります。次の碑には 日に脚旁らしき字と文 字列らしき不明な模様が 続きます。次の碑には 花模様らしきも模様の下に 漢字らしき文字が 並びます。右下に 仏でも刻んであるらしい砲弾型の膨らみが有ります。右端の碑には 何も刻まれていません。「加茂川地区新山シュメール文字」

石仏の印字 刻模様等をトレースしました。この碑を見た時の第一印象は 描かれた不思議な模様は 地図、即ちこの碑は道標であると思いました。石碑の中央あたりにある十字架模様(▲)が 現在地を示しており、北に進むと重岡神社に出、南に進むと 当時栄えていたと思われる 和田や富永集落に出、西に進むと 開発され始めた 豊岡上常光寺(現在の上光寺)に出る事を示しているように思えたのです。上光寺は、池田光政の頃 代官榎並茂兵衛が 土動地池を改修し 金子水道を作り、常光寺のススキの原を水田に変えました。石碑の最上部の〇に十字が刻まれた模様は 北に輝く 北極星を 意味する判じ絵を連想させ、その下の太い3字に見える第一の模様は、冫・丁の組み合わせで ニスイは 小川を表し ・は  目標地あるいは現在地を表し 丁は  辻や町を表し、全体として「地図」の判じ絵を 連想させ、中に位置する 指で作った狐の影絵の様な模様は 右手の中指を伸ばした様子を表しているようで 「方向」を意味する判じ絵を連想させ、3番目の模様の 頭に胴体を付けた人らしき物が 背中合わせに立っている模様は 中国王朝と北方民族が 背き合う様子を表した「 北」の字の判じ絵を連想させます。4模様を 総合すると、「この地図は 北向きに描かれている」 という意味を示す判じ絵ではないでしょうか。

落合加茂川線(66号線)を 左に折れ、宮坂のバス停を 左折、竹石橋を渡り 尾原城ノタワ1691-2番地の手前の左の山道を登り、左に 谷を見て進むと 小川に沿って大きくUターンし 九十九に登ると Y字に分岐します。左に尾根を進むと 北緯34度54分22秒東経133度44分46秒と思う付近に「石仏」があります。山道は 流れで寸断されていたので 途中から 頂上目指して強硬に 登山しました。シキミが 供えてありましたので 登りやすい 砂田中から登る道が有るようです。尾原と井原の境界線の峠に当たり、南の山道を900m程(途中まで尾原戸井原の境界線に沿って)下ると和田大原池に出、北の山道稲荷坂を 1100m程下ると 尾原空1573番地に出、西に尾原と井原の境界線に沿って進むと落合加茂川線の尾原道の下モ7番地の550m程南井原89番地の600m程北の落合加茂川線に出ます。かつては交通の要所だったのでしょう。いはゆる峠の仏様才の神ではないでしょうか。この不思議な石碑の真実を 知る人はおりません。 平成23年(.2011年)10月22日

 

シュメールと日本 Relation between Sumer and Japan

シュメール民族は 何処どこからやって来たか解らないらしいのですが、BC3500年頃、メソポタミア地方に 突然に 都市文明を建設しました。この民族は「黒い頭」と自称していました。高い文明を 持ちながら 帝国主義を 選択せず、BC2004年頃 忽然と消え失せました。インドアーリア民族) ポリネシアやマレーシアやマライマライ民族) インドネシア(太平洋海洋民族) 中央アジア(コタン民族)へ移動したと言われます。釈迦の先祖に須彌Sumeruと名乗る王がいたと 言われます。スメルとは シュメールの事です。伊勢地方の護符に「蘇民将来之子孫也」があります。弓月の君Yuduki-no-kimiなる将軍が 率い、コタンから 秦民族が  日本に移住したと言うのです。シュメール人の国を ギエンギ(葦の主の地)と言い、古代日本は 豊葦原瑞穂国Toyo-Asihara-Mizuho-no-kuni 葦原中国Asihara-no-nakatukuniと言います。日本皇室の模様の16菊花紋に似た文様が、シュメール分化が 強く残っている BC2300年頃のナラムシン戦勝碑に 描かれているそうです。太陽か あるいは 輝く月を 表しているのだと 言われます。シュメールはSumerと書き スメルとも発音します。日本では 天皇のことを「すめらみこと」「すめろき」「みかど」と呼び、神を「Mikoto」と言います。シュメール語で「天から下りた開拓者」を「Migutみぐと」と言うそうです。シュメールの神話を 紐解いた事がなく、確認できていませんが、両文化の神話 に共通点が多いと 言います。例えば、太陽神「Ut」が火の神として 地に降りたと言う 神話があると言います。シュメール人の住居は、天岩戸Ama-no-iwato 似ていたとも言われます。シュメール文明を強く受けた古代バビロニアの3種の神器は 太陽神鏡 月神の首飾りと剣です。日本の皇室の3種の神器は 鏡 勾玉 剣ですので、両3種の紳器はほぼ一致しています。人種的には「大きい眼と鼻 低い部類の身長 円らつぶらな瞳ひとみ 黒い髪かみ 」の点で 一致します。しかし、弥生人(寒冷地系モンゴロイド)より縄文人(温暖地系アラブ)の民族に似ます。またシュメールと日本、両民族に 道祖紳の信仰があり、男女神を  祀るまつる習慣があります。シュメールの船を 復元、実験し、アジア大陸から 日本への渡航が 可能である事が 確かめられています。日本語の文法と シュメール語の文法が 似ていると言われます。「てにをは」等で 言葉を 膠のように 張り付けると言う意味で 膠着語Koutyakugoと言います。縄文時代の 謎の絵文字 ペトログラフ(岩絵 線刻 岩面彫刻1 岩石線画 岩面陰刻)が 全国の神社で 百数点見つかっています。下関彦島のペトログラフを 強引に読み解くと「猛々しく行動し、昼夜を問わず戦い続ける太陽の子等が、太陽を祀り、天と地を力で覆う。戦い続ける 太陽の子孫の日々の生活の安寧Anneiを祈る。千代の 子々孫々が 栄えるのを 祈る」と、読めるそうです。天孫降臨を思い浮かばせます。広島の厳島神社のペトログラフも シュメール文字に似た文字 が含まれるそうです。これらの文字は 鮮明で 日本のぺトログラフの殆どは シュメール文字として 読めると言う者もいる程です。fushigi-chikara.jp/sonota/3577/」「hexagon.inri.client.jp/floorA3F_hb/a3fhb301.html