上竹 大村寺の雨乞い Rain begging by Oomura-ji Temple


 昔 高梁市出口に 茶屋が ありました。茶屋より 小夜谷川Sayotani-gawa(佐与谷川)を 一里(4Km)程上ると 祢屋が渕Neysa-ga-hutiが あります。底なしの渕だと 言われます。さらに 約4町(440m)進むと 上竹猿目橋の奥に 2間(3.6m)四方の瀑布Bakuhu(大きい滝)が あります。乙ヶ瀬の渕Oto-ga-se-no-huti(男瀬淵、根谷淵、鍋ヶ淵)です。この渕も 底なしであると 言われます。「吉備中央町の民話(1)」  干天が 続き 小夜谷川は 涸れかかりました。魚釣りの好きな 男がいて 乙ヶ瀬辺りに 釣りに出かけ 一匹の大鰻OO-Unagi 捕りました。大喜びで 帰りかかると 雨が降り始めたのです。すると 祢屋が淵より「おい  乙ヶ瀬の どけぇへ行く」と 声がするのです。すると 魚篭Biku\の中から「悲しきや 雨を 飲みし 計りて 来て、鍋が渕にて 捕まった 祢屋が淵の大鰻よ  今生の別れじ ゃぁ  名残惜しいのう」と 言うのです。男 は「鍋が淵の主を 捕まえてしまった。きっと、祟りがある」と 思い、魚篭を捨て 逃げ帰りました。男は3日程 熱に魘されunasare  寝付いたと 言います。 「吉備中央町の民話(1)」「賀陽町史」「西の村人より口伝」   それからは 旱魃の時には 乙ヶ瀬の渕を埋めると 大雨が 降ると言われます。寛政元年(1460年)大村寺の法師が 乙ヶ瀬の渕で 雨乞いし、村人が 総出で渕を埋めると、篠突く雨になり 土は流され、渕は 元通りになった と 伝えられています。この時の洪水は 玉島に 及ぶほど 激しいものだったそうで、その後は ここで 雨乞い祈願する時は、川下の人々に 予告して 行うようになったそうです。「吉備中央町の民話(1)」「賀陽町史」「西の村人より口伝」    天保10年(1839年)の旱魃のおり、乙ヶ瀬の渕を埋め 大村寺の法師が 乙ヶ瀬の渕で 雨乞いをしました。雨が 降らなかったので、村人は「金に困った法師が 教本を質に入れ、鼠Nezumiに 齧られKajirare、読めない字が あってお教を 唱え間違えた」と 噂しました。「吉備中央町の民話(1)」「賀陽町史」「西の村人より口伝伝」

 

鼠に食われた経文物語 story of Buddhist scriptures  gnawed by rat

昔 昔 猿目の奥に 男瀬淵と言う 大きな美しい滝が 流れ落ちる 底なしの淵が 有りました。そこに 何百年も生き続けた 大鰻が 住んでいました。淵の主と成り 雨を司れる不思議の力を 備えるようになっていました。この大鰻は 清潔好きで 淵の水が濁ると 大雨を降らせ 濁りを 流していました。ある年 雨が全く降らず 旱魃になりました。川は 涸れて 流れがなく、淵に水が 溜まっているだけと なりました。盛隆を 極めていた 大村寺の法師に 頼み、淵の水を 引いて  雨乞いする事に なりました。涸れかけた 淵に 土を流し込み、水嵩Mizukasaを上げないと 水を 祭場の田に 引けないので、泥を 流し込みました。大鰻は 泥で 淵の水を濁らされて 怒り狂い、大雨を 降らせ 流し込まれた土を 綺麗に 下へ流し、深くて 清い淵に 戻しました。その勢いは 凄まじかったので 下流の村々は 甚大な洪水被害を こうむりましたが、村人達は 火を焚き 田に水を引き 泥を掻き混ぜて おもむろに 法師が 読経したので、目出度く 雨乞いが 成功し 大雨が 降り 洪水になったと 思いました。それで 旱魃が起こる度に、下流の村々に 迷惑をかけないよう 対策を施し 川下の住民にその由を 知らせ、淵を埋め 法師に 雨乞いの祈祷をして貰い 水の安堵andoを 得ていました。ある年 干天が続き 佐夜谷川は、涸れかかりました。魚釣りの好きな男が いて、乙ヶ瀬辺りに 釣りに出かけ 一匹の大鰻を 針に掛けました。鰻とは思えぬ引き に苦労し 釣り上げる迄に 長い時間が掛かり 釣り上げた頃は 夕暮れが 迫る頃でした。釣られた大鰻が 怒り狂って 神通力を 使おうとしているのも知らず、大喜びで 帰りかかると 暗くなりかかった空は にわかに曇り、辺りは 見えなくなる程に雨が 降り始めました。

すると祢屋が淵より、何者かが「おい  乙ヶ瀬の どけぇへ行く」と 声を掛けると、魚篭の中から「悲しきや 雨を飲みし 計りて 来て、鍋が渕Nabe-ga-hutiにて 捕まり  祢屋が淵の大鰻よ 今生の別れなり 名残惜しや」と 答えるのです。男は「鍋が淵の主を捕まえてしまった  きっと祟りTatariがある」と 思い込み 暗闇の中 心細い恐ろしさを感じ 魚篭を 捨てて 逃げ帰りました。男は 大鰻に祟られ、3日程熱に魘されunasare 寝付きました。大鰻は「男瀬淵に このまま住んでいると、再々 人間に 泥で 淵を汚されたり 釣り上げられる  もっと 綺麗な水の淵を探そう」と 一匹言を言いながら 佐与谷川を 登って行きました。時が流れれば 盛衰は有るもので、大村寺が 寂れた頃 大村寺の法師は お金に困り お寺の調度を 質に入れ 細々と貧しく暮らしていました。とうとう 質種(sitigusaも なくなりましたが、仏具を質に入れる訳には ゆきません。「経は 暗記した  経が 無くても読経できる  経文を 質種にしよう」と 思い 質に入れました。質屋は 質屋で「又だ どうせ 大村寺の糞坊頭  質流して 請け出す事もなかろう  流れても 売れるような代物ではない」  と言って物置の隅に 放って起きました。紙魚Simiが 付いたり、鼠Nezumiに 齧られkajirare あちこちに 穴が空きました。そしてある年 旱魃が起こり 大村寺の法師が 村人に 雨乞いを 頼まれました。雨乞いの儀式では 経を広げ 読経しなければいけません。法師は 困って 質屋に泣き付き「経を貸してくれ」と 頼みました。お金を 返してもらえないなら 面子に掛けても 質種を 返す訳にもいかないので いったんは 質屋は断りました。とは言っても 村人達が 旱魃に 苦しんでいるのを 見て、見ぬ振りをする訳にもいかず「経は 既にお主が 流した  今は 鼠の持ち物になっておる  物置の隅で 仏壇を作って祀っておる  わしは 一寸出かける  鼠に 相談しなされぇ」と 言って留守にしました。法師は ハタと 手を打って 物置小屋に 行き「鼠殿  鼠殿  経を貸してくれ」と 言うと、鼠共は「チュウチュウ哀々忠々」と 鳴くばかりです。和尚は「憐れんで 忠と言ってくれたのぅ  わしに 忠義を尽くすと 言っておるのだな  では お経を 借り受けるぞ」と 言って物置の隅に放ってあった経を 持ち出しました。儀式に のっとって 淵を土で 埋め経をおもむろに広げ、男瀬淵で 雨乞いをしました。法師は 長い間、経を 唱えなかったので 経の文言を 忘れていました。ところが 経の所々が 紙魚や 鼠に 蝕まれてmusibamare-te おり、その部分が 読めなかったので たどたどしく、しかも 所々 ごまかして 読経しました。当然ながら淵 の主の鰻は 既に川上に 旅立っていましたので 雨は 降りません。次の日も 次の日も 雨乞いを 続けても 雨は 降りません。村人達は「大村寺の坊頭ときたら 経も読めん  役にたたない経なら 質種にでもすれば良ぇもんを」「横で 見とったら 経は 穴だらけじゃった  質草にでもして 鼠にかじられたんじゃろう」「本真か そねぇな 鼠に 食われたような 教じゃぁ 有難みが 無ぇ訳じゃ」等 と 話し合いました。勿論、その後 大村寺が 隆盛し 尊い法師が 派遣されて来ましたが、男瀬淵の雨乞いは 一度も 成功しませんでした。「西の村人より口伝」を基にした物語 旧祢屋が渕樋口ダム:北緯34度49分19秒東経133度39分43秒 上竹 猿目橋:北緯34度49分30秒東経133度40分20秒 旧乙ヶ瀬の渕猿目貯水池:北緯34度49分32秒東経133度40分23秒 旧鍋が渕猿目ダム:北緯34度49分44秒東経133度40分36秒 大村寺:北緯34度50分5秒東経133度39分37秒 上竹谷口5600番地  平成24年(2012年)9月25日