豊岡上 上光寺 上人墓 Tomb of Shonin who was Minamoto-no-Yoritomo's uncle


大鶴山常光寺の四方に 五体といわれ は地 水 火 風 空の五輪塔が ありました。鎌倉右大将源頼朝Minammoto-no-yoritomoの叔父であるらしい人が 諸国を廻り 修行し、この地が 気に入り 寂静安楽Jyakujyou-Anrakuな 霊地であると 表現し、死に場所に 選び 住みつき入滅しました。上人は この地に辿り着いた時、金の鶏と 金の鶉を鋳造して、泉の下に 埋めたと 言い伝えられました。強欲な 田夫の九郎兵衛与七が、上人の 御廟甕Gobyou-no-kameを 掘り出し その中に 鉦と鼓を 見つけました。妻も 強欲でしたので 未だ 他に 宝物があると思い 甕の底のに 手を差し入れると、見る見る内に 手から腐り初め 終には 死んでしまいました。甕から 夜な夜な 青い光が 立ち上るので、与七も 恐れをなし  石塔を建てて 甕を供養しました。石塔の銘は 元禄十四年◉と ありますが あとは読めません「加茂川町史」

九郎兵衛与七物語 Tale of Kurou-bei Yohiti

 常光寺に 強欲な百姓が いました。名前を 九郎兵衛与七と 言いました。常光寺に来て 大師堂を参詣すると、5輪の搭5体が 魔法陣を作るように立っていました。そこに 立つと 不思議な力を得たような気がしました。遠くにいる村人達が「五輪塔の前の墓は 源頼朝の叔父の物じゃ この上人は 金の鶏と 鶉を どこかに 埋めたそうじゃ」と 話しているのが 手に取るように 聞こえました。成る程、近くに 祠が有り 2基の墓石が 立っています。

それを聞いて「ははぁ この墓に 上人が葬られ 墓の下に宝物を 埋めたのか」と 思って、もったいなくも 御廟(墳墓)を 掘り返し 大きな 甕を見つけました。中を 覗いてみると 鉦と 鼓が 入っているだけに見えました。家に持って帰り、妻に 鉦と鼓を見せました。与七の妻は もっと強欲でしたので「そんな筈はねぇ  必ず言い伝えのお宝の金の鳥と 金の鶉が 甕の底に有る筈じゃ  溜まっている泥水の中じゃろう」と 手を差し入れ かき回すと、生温い滑り気が 手を包み ピリピリと 針で刺すような痛みが 有りました。手を引き抜くと 手は見る見る内に 腐り始めました。慌てて水で 手を洗い 手当てをしましたが、腐る部分はどんどん広がり、痛みと苦しみで ぬたうち回りながら ついに死んでしまいました。妻の惨たらし過ぎる不幸を見ても 与七は 欲を張り、その甕を 大事に据え置くと、夜な夜な 青い光が ポッポ ポッポと 怪しげに立ち上りました。これには 流石Sasugaの与七も恐れをなし、元の墓へ急いで 持ち帰り 埋め戻しました。乱暴な 埋戻しでしたので、青い光が立ち続けました。これを 伝え聞いた 信心深い村人は、青い炎を 恐れ石塔を立て 直 し 供養しました。「加茂川町史」を基にした物語

岩手県西磐井郡の平泉金鶏山: 北緯38度59分36秒東経141度06分33秒 上光寺大師堂:北緯34度54分4秒東経133度45分47秒 常光寺城:豊岡上別曽669番地の西の山 北緯34度54分6秒東経133度45分38秒付近に「常光寺城跡」が有りました 現在は更地になっています   五体四つ堂跡石の有る空地:豊岡上聖岩下203番地の北北緯34度54分0秒東経133度45分46秒に所有者不明の空地があります。ここに4つ堂と言う大師堂があり、その前に 五輪塔が5基あったと 言われます よく見ると 草の中に 基礎石と 一個の小さい五輪塔の一部と思われる 擬宝珠状の石が 乗せられていました  上光寺公会堂の北側の大師堂の前に 五輪塔を壊した石と思われる石が 番線で 縛られ積み上げられていて、その量も、5から6基分の五輪塔に 相当すします  大師堂が 東に 移された時、五輪塔の石も 移されたのでしょう  五大gadai:全てと言う意味です。『仏教において地(大地) 水 火(太陽)(空気)(虚空)は万物を構成する5大要素であるとされます 地輪Tirin 水輪 火輪 風輪 空輪を 重ねた物が 五輪塔であり 大日如来とされます しかし 後世の五輪塔は、供養碑等として 建てられる事が 多くなりましたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/五大

上人墓:北緯34度54分1秒東経133度45分44秒秒 四つ堂跡の北の崖下に 築山状の切り残された小山が あります  圃場基盤構造改革のおり 邪魔になる墓を 取り払おうとして 掘り起しましたが、石塔の下に 蓋をされた甕が 出てきたので、慌てて 埋戻して保存する事にしたと 言われます  この墓には 直径40cm位の銅製の鐘が 吊るされていて、正月の行事や、お葬式に使われていたと言います  いつの日か 誰かが 鐘が盗んでいったのだそうです  朽ちた 祠のトタン製の屋根の下には、墓石が雑然と 積まれていいます  この墓のかつての姿は、最後の写真(航空写真を引き伸ばしましiた)のようで、伝説の上人墓と 源頼朝の姉の墓と 思われます  すると この周辺に 常光寺があった事になります 常光寺は大変規模の大きい寺だったと言い伝えられています     源頼朝の伯父 叔父達https://ameblo.jp/manhattan1980/entry-12119820368.html」    源義賢源為義の次男です 久寿2年(1155年甥の源義平に 大蔵館を襲撃され 義父の源重隆とともに 討たれました    源義広志田三郎:源為義の三男で、頼朝に従わず 足利忠綱と 与しますが、負け戦になると 甥の木曽義仲に 助けを求めました  義仲も 敗れると 行方を晦ませました  義賢と仲が良く 長男の義朝とは 対立しました  源頼朝が 源氏の党首となるのを嫌がり「野木宮の戦い」を 起こしました   源頼賢次兄の義賢と 仲がよく、義賢が義平に討たれると 仇を取ろうと 信濃国鳥羽法皇領を 侵しました  法皇は 義平の父の頼賢の長兄の義朝に 頼賢追討の院宣を下しました  義朝は 頼賢追討を思い止まりました  保元の乱では 為義に従い 崇徳上皇や 藤原頼長方と与しました  崇徳上皇方が 敗北すると 義朝により 京都市北区の船岡山で 斬首されました 源頼仲保元の乱では 父 為義に従い、崇徳上皇 藤原頼長方に 与しました。敗北し 義朝に 父や 兄弟達とともに 斬首されました。    源為宗:保元の乱で 崇徳上皇 藤原頼長方として参戦したため 父や 兄弟達と共に斬られました。    源為成:保元の乱で 崇徳上皇 藤原頼長方として参戦したため  父や兄弟達と共に 斬られました   源為朝鎮西八郎筑紫八郎:為義の八男  弓の名人の大男で 尋常でない 暴れん坊でした  保元の乱では 父の敵となり、伊豆に流され素行が悪いため 朝廷の軍に 討ち取られました  沖縄の王となったと いう伝説もあります    源為仲保元の乱では 父 為義に従い、崇徳上皇 藤原頼長方に与し 敗北し  義朝に 父や 兄弟達とともに 斬首されました    源行家新宮十郎陸奥十郎十郎蔵人行家源義盛:為義の十男で、平治の乱後 紀州の新宮に隠れ、以仁王挙兵の報を各地の源氏に届けて、源氏旗揚げに 功が有りました  義仲に与しますが 義仲とも不仲となり、義仲亡き後は 義経に与し、頼朝への謀反を 説得しました  和泉国に 潜伏中 北条時政に 捕らえられ処刑されました    記録に残らない頼朝の伯父 叔父の者5名以上:これらの内の一人が 豊岡上にやって来たのでしょうか    頼朝に類似した人物伊賀頼氏伊賀河内兼隆:長田荘の地頭として 豊岡上大鶴山に 城を築き、元兼 十力に 移りました  即ち 上加茂合戦の頃の虎倉城伊賀久隆の直系の曽祖父とされます  第2代鎌倉幕府の執権 北条義時の後妻は 伊賀の変を 画策した伊賀光宗の妹の伊賀の方です  従って伊賀氏は 源家の親戚筋に 当たります  頼朝に 類似した名である頼氏を この物語では 頼朝の叔父と誤認して 伝説されたのではないでしょうか  金の鶏伝説:奥州の藤原清衡Hujiwara-no-Kiyohira あるいは 藤原秀衡Hujiwara-no-Hidehiraが 先祖の霊を 慰めるために、天に住み 世の鶏に 朝を告げる金鶏Kinkei天下に号令を下すシンボル)を 基礎にし、富士山(日本一としてのシンボル)を 真似た山を 築いた事にあるようです「金鶏山・奥州平泉観光新聞」  藤原の上人の金鶏の在り処Arika:「朝日射し 夕日輝く木の元に 漆万杯黄金億置くUrusi-manpai-Ougon-oku-oku」と歌に詠んだそうです「平泉・世界遺産:岩手日報」      平成23年(2011年)7月23日