吉川藤田    高賎平等一致 No difference between the noble and the common in all human

吉川藤田集落の西の地域、吉川奥2791-3番地の南 北緯34度48分46秒東経133度44分分3秒に「法妙 高賎平等一致」の碑が立ちます。台座には「有縁無縁」と刻まれ、左側面には施主の名が刻まれているようです。反対側 側面には 安永6年丁酉と 刻まれているように 見えます。藤田集落の者が「村の者は 全て日蓮宗不受不施派の信者なので 注連縄を張る等の神事は 一切行わない  江戸時代に  徳川将軍家や 岡山藩の池田光政に 厳重に監視され弾圧された   その時 この碑は 地中に埋める等して 隠したのではないかと 思う  弾圧下では 五輪塔が 有る辺りに  妙仙寺の説教場を 隠して立て  説教を受け 妙仙寺に 通った  安永の頃 池田光政は 藤田村の宗教指導者3名を 捕縛したので 椎木村の沼田庄屋が 岡山藩に対し「3人がいないと 藤田村の営農が成り立たないので 赦免して欲しい〕と 願い出たが、処刑された」と 語りました。

妙本寺境内の供養塔 Memorial tower in the precincts of Myohonji Temple

妙本寺境内には 供養塔が有ります。信者達の永代供養塔だそうです。 日蓮宗不受不施派:宗祖を 日蓮とし、派祖を 日奥とする 日蓮門下の一派です。幕府は 不受不施派寺請禁止令を出したので 教団は非合法とされ 信徒を 寺請 出来なくなりましたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/日蓮宗不受不施派

鋒の乢の供養塔: 藤田集落の藤田上橋で 東に 加茂川を渡り、吉川阪2572番地の北に回る道を 東に進むと 三叉路となります。北に 向かうと 左手奥に 墓場が見えます  この道は そのあたりで 舗装が途切れ 山道になります  右手を 見ながら登ると 峠になる 手前 北緯34度49分0秒東経133度44分22秒と 想像するあたりに 首塚石碑が 見つかります  何妙法蓮華経二人○首塚 七月十三日と 読み取れますが、他の刻字は 風化していて読み取れません  この藤田から 西山に登る坂が くらみ坂であろうと 想像します    寺請制度・檀家制度・寺檀制度:江戸幕府は 慶弔7年(1612年)に キリスト教禁止令を出し, 身分を問わず特定の寺院に所属させ檀家寺院の住職は 寺請証文を 発行しました  国民全員が 実質的に 仏教徒となり、寺請を 受けられないと 無宿人とされました  後に 国家の存在を否定する 不施不受派も 寺請制度から外され、仏教徒であっても 弾圧されました。https://ja.wikipedia.org/wiki/寺請制度」    池田光政の神社 合祀・寺院整理政策:寛文6年(1666年)に 藩内の神社仏閣を淘汰し、神社の10527神社を 廃止し 601神社に 合祀しました  寛文7年(1667年)時点での寺院の統廃合の実施状況は598寺を 廃止し 437寺としました  日蓮宗の寺に至っては 348寺を廃し 49寺を残し、廃止率は 88%でした「岡山藩の寺院整理 圭室文雄」    不受不施主義:法華経を 信仰しない者から 施し(布施)を 受けたり、法施等を したりしないという教義です    森原山妙仙寺:北緯34度48分53秒東経133度42分25秒付近 新屋乢sinyatawa1785番地に 建ちます 北緯34度49分5秒東経133度42分9秒付近に 同名の寺が あります  移転前の寺でしょうか   宗派は 日蓮宗 本像は 三宝脇立釈迦如来と 多宝如来です   かつては 天台宗の寺で 霊洞山晴雲寺 と言っていました 五輪塔:藤田土橋の南南西の墓場の隣地の茂みの中 北緯34度48分6秒東経133度44分8秒 沼田庄屋屋敷跡:吉川中刈尾椎木1417-1番地の東 北緯34度48分46秒東経133度44分55        平成29年(2017年)3月18日