案田 いさざ王 Isaza-ou "King of Isaza"


吉備津彦命とイサザ王 Kibitu-hi-ko-no-mikoto+ and Isaaza-ou

崇神天皇Sujintennou は 五十狭芹彦命Isaseri-hiko-no-mikoto(岡山の桃太郎を 四道将軍として 吉備国に派遣しました。異母弟 若日子武命Wakatake-hiko-no-mikoto(稚武彦命若日子建吉備津日子命若建吉備津日子命香川県の桃太郎と共に針間(播磨)国から出陣し、若日子武命は 吉備国の鬼の大将の温羅Onra/Uraを 討ち取りました。天皇は 若日子武命を 吉備津彦命に 任命しました。兄が ジロリと睨んだので、総大将の兄に あわてて 吉備津彦命の職を 譲り、兄を大吉備津彦命と 呼びました。温羅は 討たれてなお 首には生気があり、時折 目を見開いては 唸り声を 上げました。気味悪かったので、吉備津彦命は 犬飼武命Inugai-takeru-no-mikotoお供の犬)に命じて 犬に首を 食わせて 骨としました。それでも 唸り続けるので 竈の下に 地中深く埋めました が、温羅は 唸りは 止まりませんでした。余りの しつこさに とうとう 五十狭芹彦命は 頭が狂ってしまいました。備前牛窓に 仮泊をとり、病気の治療をする事に なりました。ここ 等 辺りの豪族は 心をこめて 病気の平癒Heiyu 戦勝祈願を しましたが 治りませんた。ところが ある日 長田庄本宮山 より 霊光が牛窓の海の上に 映りました。その光を 浴びると突然  不思議にも 13年も続いた 温羅の唸る声 は止んで、吉備津彦命の 脳の病気も 治りました。本宮山の加護に 感謝し、讃岐(四国)や安芸(広島)の鬼を 退治に出かけました。戦いが 終わって 吉備津彦命は 本宮山にやって来ました。本宮山は 途中 嵯峨(でこぼこしていて険しい)な道の上、茨が 茂っていていました。茨を かき分けかき分けしているうちに 道に迷ってしまいました。 すると 白鹿が現れ首を ふりふり付いて来るよう招くのです。 白鹿に 付いて行くと 無事に 山の頂に辿り着きました。 これはまた 伊奢沙和氣神の霊験Reikenであると 信じ、新しく神社を 築き 神宝として「いさざ王」と言う 丈1尺8寸4分の 鹿の角を 祀りました。 牛窓の海を思い 海神社Kai-jinjyaと 呼びました。 その後 大和漆上郡春日大明神4柱 武甕槌神 齋主神 天兒屋根神 比賣神を祀り、伊奢沙和氣神と合わせ5柱の 祭神となりました。「村人口伝」

 

温羅伝説 Onra Legend

崇神天皇(第10代天皇 紀元前97~30年)の頃、百済の皇子である温羅が 鬼神となり 吉備国に 飛んできて 新山に 居城を構え、岩屋山に 楯を構えて、西国から 都へ送る 貢船や 婦女子を 略奪しました。人民は 恐れて 居城を 鬼ノ城と呼び、朝廷に その乱暴ぶりを 訴えました。朝廷は 大いに憂い 武将を 何度も遣るも 悉く 都に追い戻された。そこで 武勇に勝る 五十狭芹命を 四道将軍の一人として 派遣した。命は 吉備の中山に 陣を布き、西は 片岡山に石楯を築きました。さて 温羅と戦うと 変幻自在の鬼神は 戦うこと 雷霆のよう にすさまじく、さすがの命も 攻めあぐみました。命の射る矢は 必ず 鬼神の投げる岩と 空中で 絡み合い海に落ちた。命は 千釣の強弓で 二矢を同時に 発射 すると そのうちの一矢が 温羅の左眼を 射抜きました。流れる血潮は 川となって 流れ、さすがの温羅もたじろぎ たちまち 雉なって 山に隠れましたが、命は 鷹となり 追詰めると 温羅は また となり 血潮の川血吸川に 潜ったのですす。命は すかさず 鵜となって これを 噛みあげた。温羅は 命Mikotoの軍門に下り  吉備冠者の名を 命に献上しました。命は 鬼の首を 刎ねて 串し刺して 曝しました。しかし この首が 何年となく 大声で唸り 止まなっかたのです。命は 部下の犬飼建に命じて 犬に喰わせっましたが 肉はつきて 髑髏は なおも 吠え止みませんでした。そこで 命は その首を 吉備津宮の釜殿の下に 埋めましたが、その後も 13年の間 唸りは 近里に 鳴り響いた。ある夜 命の夢に 温羅の霊が 現われて「吾が妻で阿曽郷の娘阿曽姫をして 釜殿神饌を 炊かせよ、もし 世に事ある時は 竈で 占い給え  幸であれば 裕かに鳴り、禍であれば 荒らかに 鳴ろう。命は 世を 捨ててのちは 霊神と 現われ 給え。吾は 艮御崎となり 一の使者となって 四民に賞罰を加えん』と告げましたた。吉備国の平定、吉備津彦、温羅、孝霊天皇 – 古代史俯瞰 by tokyoblog (sakura.ne.jp)」  温羅:穏やかな人と言う意味 あるいは 朝鮮の人と言う意味です。朝鮮の亡命皇子で 最新式の製鉄技術を 吉備国に伝えたとされます。 吉備津彦命:吉備津を 護る男の偉人(神)と言う意味を持つ 役職名です。 犬飼武命:犬を飼う職業集団(犬飼部)の頭で、桃太郎伝説の 犬に 当たる人です。 13年間の唸り:温羅が 退治されても、温羅を慕う 地元の民は 13年間 吉備津彦命に 抵抗し 現吉備中央町の加茂川地域付近を 制圧し終わると 吉備国の抵抗が 止んだ事を 意味する物語でしょう。本来 吉備津彦命が 治めた地ですから 多くの神社で 吉備津彦命を 祀るだろうと思われますが、この地域から 美作に掛けて 吉備津彦命を 祀る神社は ほんの少ししかありません「吉備中央町の神社」  平成28年(2016年)2月2日

 

嵯峨の皇子 Prince of Saga-tennou emPeror

44代 元正天皇 養老8年(724年)に 嵯峨の皇子が 牛窓で脳の病に 掛かり苦しんでいたので、地元の豪族達や 家来達 が尽力して治療に 当たりましたが 一向に 治りそうも在りませんでした。ところがある日、長田庄本宮山より 霊光が牛窓の海の上に映りました。すると 嵯峨皇子の脳の病が 治りました。本宮山の加護に 感謝し 戦いが終わって 嵯峨皇子は 本宮山にやって来ました。本宮山を 茨をかき分けかき分けして登るうちに 道に迷ってしまいました。 するとと 白鹿が現れ 道案内をしてくれ 無事に山の頂に 辿り着きました。 これは 伊奢沙和氣神の霊験であると信じ、新しく神社 を築き神宝として「いさざ王」と言う 丈1尺8寸4分の鹿の角を 祀りました。 牛窓の海を 思い海神社と 呼びました。その後  大和漆上郡春日大明神4柱 武甕槌神 齋主神 天兒屋根神 比賣神を祀り、伊奢沙和氣神と 合わせ5柱の祭神となりました。「加茂川町史」「三谷の村人より口伝」「化気神社」「化気神社の名前」   「御所」   平成28年(2016年)2月2日

 

筑紫の賊退治 busting the Bandits in Tukusi

嵯峨天皇弘化年中 賊筑紫に入寇す。皇子征伐途次 邑久邑牛窓にて御惱給ふ。供奉の人々御惱平瘡 賊徒平定の祈願なし給いしに 忽ち長田庄本宮山龍王宮の燈明海上に映ず。春日明神の加護ぞと御感あり。龍王宮  気比明神に御参拝ありて 三根結の杉を御手植えあらせられ  高山の峰に春日明神の社を建てらる。嵯峨皇子の御駐ありし処を御所が畝とて 名に残れり。奈良の春日に縁みたる地名多し。春日明神分祀の時つけたる名ならんや。奈良 水谷川 三笠山 猿澤池 新池 白藤瀧 当地 水谷川 三ッ山 申池  新池 白瀧「御津郡史p395」  平成28年(2016年)2月2日


謎のイサザ王伝説 The Mysterious Legend of Isaza-ou

 

今から1200年以上の昔、光仁天皇の宝亀四年(773年)の頃の事、安志の里(現在の姫路市安富町の山奥に 巨大な 鹿が 棲んでいました。村人達は この馬鹿でかい鹿を「伊佐々王Isaza-ou」と 呼んで恐れていました。体長は およそ6m 角は 7つに分かれ 背中には 苔だか笹だかが 生えていて 足には 水かきがあり 目は爛々と光っていました。この怪物は 既に 数百年も 生き続けていると言われます。 数千頭の鹿を 眷族にして 山々を荒らし 獣や人を 襲って 食べたのです。伊佐々王の狼藉は 年々酷くなり、獣も里人も 安志の里に 住めなくなりました。この有様を 聞いた天皇は「伊佐々王退治」の 勅令を 播磨に 発しました。勇敢な 兵士達でしたが  怒り狂った伊佐々王 はこれまで 以上に 凶暴になり 倒す事が できませんでした。止む無く  山を囲み 木を伐り  山を焼き逃げ 場をなくすと さすがの伊佐々王も 疲れ果てて ついに草の生い茂る 渓流に 追い詰められました。多勢の兵士の攻撃に 伊佐々王は 最後の力を 振り絞って 荒れ狂って 渓流の岩床に 大きな穴を 幾つも空けました。固唾を 吞む兵士達を 睨み遍し「この後消ゆることなかれ」と 言い残し、岩盤にその姿を留めて 死にました。大鹿が 横たわったように見える岩の穴は「鹿が壺」と 呼ばれるようになりました。伊佐々王が 退治されたので  人々は安心して 里へ戻りました。それでをこ の郷を「安志Anji」と 呼ぶのです。hach8.web.fc2.com/fudoki/densetsu/isasa00.html」「tyz-yokai.blog.jp/archives/1076296176.htmlを参照しました。   著者の感想:伊佐々王の正体は雪彦山Seppi-zan(兵庫県姫路市北緯35度4分0秒東経134度39分0秒)の雪解け水で、谷を下る途中で岩をえぐり 鹿が壷北緯35度3分33秒 東経134度37分59秒 鳥ノシコミ 五郎在壷 尻壷 鹿の尾 底無 駒ノ立洞 五郎田壷 雑樋壷 等の甌穴なのでしょう。大鹿退治は 大規模な治水工事を表しているのでしょう。     平成24年(2012年)6月2日