下土井 高尾    片山幸次兵衛 Koujibei Katayama


天明の頃に 大飢饉と 疫病流行が 起こりました。片山幸次兵衛が 世話役に 成り万人講を 運営し、危機を 脱しました。「下土井高尾の村のより人口伝」

 

天明の大飢饉 Great Tenmei famine

天明の大飢饉は 天明2年(1782年)から 天明8年(1788年)の日本史上最大の飢饉でした。天明2年は 冷害で 農作物は不作で、追い打ちをかけるように 天明3年3月12日(1783年4月13日)に 岩木山が噴火し、同年7月6日(8月3日)に 浅間山が爆発して 噴煙が空を覆い 日差しが 妨げられ 冷害に 拍車をかけました。最初 被害は 東北中心でしたが、田沼意次の商業を重んじる政策は 米価の上昇を招き 庶民の困窮は 全国規模に達しました。諸藩は 失政の責任を 幕府に 問われるのを恐れ、被害の実態を 隠したので 死者は2万余と 報告されていますが、一桁違うと予測されています。弘前藩だけで 8万人あるいは13万人の死者を出したとされ、飢餓は 不衛生を生み 疫病が流行60年間で 100万人弱の死者を 出したと 想像されています。農民は 田畑を捨て 都市部で難民となり、打ち壊しを 企てました。異常気象の原因 は 実は 日本にだけに有ったのではなく、1783年アイルランドのラキ火山の割れ目噴火、次いで1783年~1785年に掛けて  同国グリムスバトン火山も 噴火し 2つの大噴火による 塵灰は 空を覆い 北半球全体が 低温化したからです。おそらくその影響は 数十年程 続いたとされます。また、1789年から1793年にかけ エルニーニョが 発生した事が 解っています。https://ja.wikipedia.org/wiki/天明の大飢饉

 

万人講 confraternity for everybody

下土井高尾31番地の右手の山道を100m程登ると 加茂88ケ所霊場巡礼高尾大師堂の札所が有り、更に 北に進むと 北緯34度52分25秒東経133度45分17秒近くに 墓所が有り、左写真に示した 片山幸次兵衛の墓石が 最前に立ちます。札所より 少し下った所に 右写真の萬人講の碑が あります。片山幸次兵衛が 万人講を 立ち上げ 後世の人は 万人講の役割に 感謝し 万人講の碑を 建てたとされます。西日本に 於いて 牛の守護神として大日如来が 信仰され、大日如来の縁日に 牛と 参拝し、境内で 採取した草や 木の枝を 牛舎に供えたリ、護符を 牛舎に 祀ったりしました。農民達は 万人講(大日講)等 を結んで 金銭を集め、それを 基金にして講員の耕牛を 順次更新 毛替え(死亡した牛馬の代わりを購入)する 等しました。また 農耕期に ずれのある場合には、耕作用の牛馬を 貸借して 毛替えする牛馬小作料を 得ました。農機具の普及すると 大日講は見られなくなりました。

 昔 片山幸次兵衛と言う分限者が 下土井高尾居りました。天明の大飢饉が 10年以上も続き人々は飢え、痩せ細り、体力を失うと 衛生状態も悪くなり 疫痢や赤痢等の疫病が蔓延して 命を失う者が多く出し この世の地獄となりました。それでも 百姓達は 農耕に欠かせない牛馬を 家族同然のように護り通そうとしましたが、牛馬も 人と例外でなく 飢えて 死ぬものも有り、盗難も 相次ぎました。その頃 大日講と 言う牛馬が死ぬと 集落単位の講中の基金から融資してもらい、買い求める互助制度が 有りましたが、直ぐに基金は底を尽きました。片山幸次兵衛は この悲惨な状態を見かね 全財産を投げ打ち、集落の垣根を越え 誰でも加入できる講を 立ち上げました。僅かの資金を 払えば、病の治療が受けられ 飢餓死寸前に 成れば炊き出しを 頂け、死ねば 埋葬してくれ、牛馬の補充もできたので、広域の講員が 集まり基金も 集まりました。片山幸次兵衛の 拠出した分を少しずつ取り崩しながら 安定した講の運営が10年以上 維持され 大勢の人が助かりました。人々は 片山幸次兵衛の頌徳を 讃えて万人講の碑を 立て敬いました。。「下土井高尾の村のより人口伝」

北緯34度52分25秒東経133度45分14秒近く、加茂八十八ヶ所霊場巡礼高尾大師堂の札所に 写真のような供養塔が 併設されます。管理者によると  恐らく 天明の飢饉の時に 流行った疫痢の犠牲者達の 供養塔だそうです。 平成25年(2013年)5月21日