下加茂 巫女岩 文覚上人と巫女 Saint Mongaku-syounin  and Miko/shrine maiden


下加茂明神山の麓宇甘川Ukaigawaの川中に 巫女岩 と呼ばれる大きな 花崗岩があります。明神山には 文覚屋敷Mongaku-yasiki(古墳)があって文覚上人が 住んでいたとされます。明神山の向かいに 坊主山が あります。坊主山には 巫女が 住んでいて 二人 は修業を一緒にしていたので、二つの山に 綱を張って 往来していました。ある時 巫女が 誤って 川の岩の上に落ちて 死にました。巫女は 無病を 研究していたので 村人は 病気治癒の神として崇め、憐れんで 祠を建て、幟を立て 祀りました。病気の快癒Kaiyuに 御利益Goriyakuがあるそうです。邪道で 人を騙し 神通力を得て、巫女になった 女の溺死した所とも 言われます。「加茂川町史

 

巫女岩 Shrine Meiden rock

明神山と 坊頭山の中央 北緯34度51分10秒東経133度49分10秒の 明神山側の川岸に 接しています  この岩に 参り 疣を治してもらったと言う人 3名に会いました。  下の写真で示した「白い塗料で 八の字が書かれた 女性的な姿の川中の岩が 巫女が 落ち身を 砕いたとされる岩で この写真の川岸の岩が 病気平癒の霊力を持つ岩で、川中の岩も 祭りの場でしたが  増水で 祠や 幟が流されるので 中止した」と 言われます。女性的な姿の岩は 巫女岩と 関係ないという 久西の村人もいました。川岸の岩は 大雨になる度に 川上側の岩の下の砂が 流されるので 川上に 少しづつ移動するそうです。

 

文覚上人と巫女 SAINT MONGAKU-SYOUNIN  AND MIKO/SHRINE MAIDEN

明神山の文覚上人と 坊主山の巫女は 修業を一緒にしていたので、二つの山に 綱を張って 往き来していました。巫女は 長年の研究で 人間が 病死しない霊力を 込めた大岩の作成に 成功したので、文覚上人の評価を 得ようと 明神山に その大岩を 抱えながら 渡っていました。すると 「文覚は行動力はあるが、浮気者の乱暴者で、悪口を良く言い、天狗を 祀っていた「愚管抄」と 言う噂と「巫女も 元 邪道を犯し、神を 偽り神通力を得た女だ」と 言う噂を聞いていた男は「巫女 と文覚上人は こそこそと悪さをしている」と 思っていたのです。巫女が 綱を渡っているのを見つけ 声をかけました。「文覚は人妻と 浮気し しかもその女を 殺した奴じゃぞ  お前も悪たれじゃそうな源平盛衰記」」と 嘲りAzakeriました。巫女は 毅然として見返し「私は ともかく 文覚上人様は それを悔て、荒行に 耐えた偉い人じゃ  文覚様の愚弄は 許しません」と 反論しました。

さらに、男が「何ぅ言うか  後白河法皇)を 馬鹿にし、伊豆に島流しにされているじゃろう  源頼朝の悪友じゃと聞く  お前は 文覚に 惚れとるんか  2人で こそこそ何うやっとる」と 重ねて鹹かいKarakaiました。巫女は  怒りのあまり 手足が 激しく震え、重い岩を 支え切れず 誤って 岩毎 谷底に 転落し 巨岩に 激突し 砕け死にました。激突した岩は 巫女の屍Sikabaneの形に 変形し、霊力の有る岩は 川岸に 飛んで行きました。それを 見ていた愛宕山の村人は「文覚上人は 若い頃の確かに 不徳をした  じゃが それを 恥じて 二度も死ぬ目に合いながらも 不動明王に 尊敬される程の剣と 例えられる荒行を 為し終えた 偉い方じゃ  巫女はその文覚上人の徳を 慕い、病による死を逃れる術Subeを 共同研究するために 通っていたのじゃ  病から わし 等を 救おうとしていたんじゃが」と 男に教えました。男は 巫女を 阿婆擦れ扱いし、鹹かった事を 反省し、旗を立て 巫女を その岩の上に 祀ったのです。それから 村人は、その祠に 病気の平癒祈願に お参りするようになったのです。 「下加茂創庫町の村人うより口伝」「加茂川町史」を基にした物語。 口伝者は「子供の頃 何度も 病気平癒のため お詣りし  ご利益を 貰った。特に 疣には 絶大な効果があった。」 と 話してくれました。 文覚:遠藤盛遠  平安末期から鎌倉初期の僧で 初め上西門院に 仕えていた頃 同僚の源渡(渡辺渡)の妻の袈裟御前に 横恋慕の末に 殺し、反省し 出家しました。諸国の霊場で 修行し 空海を崇敬し,後白河法皇に 神護寺興隆のための荘園の寄進を要求すると 伊豆に流され、源頼朝に出合いました。治承3年(1179年)平清盛が 後白河法皇を 幽閉すると、京に戻っていた文覚は 伊豆の頼朝に 平氏打倒を勧めました。建久1年(1190年)に 神護寺の復興 建久8年(1197年)東寺の復興を 果たしました。しかし 後白河法皇が 没し、正治1年(1199年)頼朝が没すると 内大臣 源通親に 謀られ 佐渡に 流されました。許されて 京に戻りましたが、後鳥羽上皇により 対馬に流され 没しました  吉備中央に 住んだとされる史実はありまん https://kotobank.jp/word/文覚-143127

文覚屋敷:下加茂明神山の西南側の谷筋の中腹 北緯34度51分6秒東経133度48分56秒(この地図座標は 正確でないかも知れません。)に中央に 4m×4mの古墳2基が あります。昭和4年(1767年)に 碑を建てましたが、後に愛宕山の宋林寺が、碑を 寺内に 移しました。古墳は 毎月 献灯されていましたが、平成の時代には 人が 訪れなくなりました。前方後円墳で 上部は 破壊され、壊された炭焼き釜状の形をしています「加茂川町史」    明神山頂上:北緯34度51分16秒東経133度49分29秒 坊頭山頂上:北緯34度51分6秒東経133度48分56秒 かつて 寺が 建っていたそうです 頂上には 大岩 が散乱しているそうです

文覚供養碑:北緯34度51分30秒東経133度48分49秒 文覚上人の墓標 明神山の文覚屋敷の前に 有った物を、毎年 お詣りしていたが、時間んも 労力もかかり 危険もともなうので 宗林寺(参道の左脇の斜面)に 移されました 明神山:下加茂久西の村人は、水晶や 雲母が 取れたと言います。「加茂鉱山は 昭和8年(1933年)頃に、モリブデン(輝水鉛鉱)を 採掘していた  最盛期には80人ばかりが働いていたようです  銀屏風を立てたような 立派な鉱脈で 戦争中であり 兵器生産に 利用されたようです。 鉱脈が切れると ガラスの原料として 硅石を 採掘していたが 昭和20年頃と推測されますが 買受け人の死去により  自然消滅た」たと言う人がいます。https://ameblo.jp/narivans/entry-12359742393.html」  平成263年(2014年)10月2日